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子規・漱石 断想 №1 [文芸美術の森]

ウクライナ侵攻から読み返した子規随筆 ―400年後の 「東京湾」
(シリーズ再開にあたって・お詫びとお報せ) 松山子規会 栗田博行(八荒) 

 ためらいもある世相ですが、「明けましておめでとうございます」と申し上げます。合わせて「正岡常規と夏目金之」欄を、3年間も休載のままに過ごしましたことを、お詫び申し上げます。脊髄系の手術を、80歳をまたぐ年齢で2度にわたって受けることの影響の大きさを、予想できていませんでした。手術そのものは名医の執刀で大成功だったのですが、術後の回復が高齢者の身の上では遅々として進んでくれません。
 もっと予想できていなかったのは、「子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承」という主題を設定し、二人の知の巨人の成長過程に沿いながらそれを述べることの大変さでした。一種の大河ドキュメンタリーとでも言うべき人格形成の物語になってしまうのです。私くらいの執筆能力からすれば、おそらく現役を退いてすぐに着手し、100歳くらいまでの健康に恵まれてやっと可能なことだったのだと、ここに来て気づいた次第です。
代わって次のような全体見出しで再開いたしたく、お付き合い下されば幸いです。
            「子規・漱石 断想」
 これにより、物語的な連続性に縛られることなく、ふたりの明治男子の生き方についての随時・単発的な感想を並べてゆく内容に改めたいと思うのです。回をあらためるのは、次回が執筆出来た時という、結果任せになると予想されますがお許し下さい。
 体調からもうあきらめようともしていたのですが、たまたま郷里・松山の子規会の方から、会員参加の誘いと「自由に主題を設けて執筆…それを寄稿せよ」とのお求めを戴き、試みてみたところ、ともかくもいくつか執筆できました。そこで当欄もそのようにして書いたものを、子規会誌と並行して取り組んでみようと考えなおした次第です。その第一回を、〈ウクライナ侵攻から読み返した子規随筆 ―400年後の 「東京湾」〉と致します。
 なお、中断に際して予告した、「子規は自殺を思いとどまった明治34年10月13日の仰臥漫録の記述の結びを、なぜ候文にしたのか?」という謎の解きあかしは、当シリーズのいつの日か取り組みます。お待ちください。それでは、以下お付き合いください。

「子規・漱石 断想」No1.
ウクライナ侵攻から読み返した子規随筆 ―400年後の 「東京湾」

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日清戦争従軍前夜の正岡子規

 明治28年、子規は日本新聞記者として、周囲の反対を押し切って日清戦争に従軍したのでした。結核の病身でのこの行為は、身の回りの人々にはもちろん反対され、後世の子規文学の愛好者にも、肯定的には受け止められない行為とされてきました。しかし論者(八荒)は、子規の文学の深化と巨大な達成は、この日清戦争従軍という行為が大きく関与したと思えてなりません。大きな主題であり、時間をかけて述べていきますが、今回はその入り口として掲題の随筆「400年後の 「東京湾」から考えていきます。
 
 従軍の帰途、二度目の大喀血をして死にかけた子規でしたが、ともかく命を取り留めて筆を振るい始めて3年以上経った明治32年元旦の日本新聞に、升(ノボル)の筆名で「四百年後の東京―東京湾」と題して、戦争と平和に言及する一文を執筆しています。明治32年は西暦で言えば1899年、その400年後とは、2299年という、今からでも3世紀近くも先ということになります。
 「隅田河口は年々陸地を拡げて品川沖は殆ど埋れ盡さんとす。」と述べ始めて、400年後の東京湾は「最早単一なる船舶碇繋場にあらずして寧ろ海上の市街なり。」と、まずその発展ぶりを概観。そして、その景観の中心に、「日本が数箇の強國を打ち倒し第十四回平和会議の紀念として建てられたる萬國平和の肖像」が建てられており、「吃然として天に聳え、日々月々出入する幾多の船舶の上に慈愛の露を灑(そそ)ぎ居れり。」とします。その銅像=「平和の肖像」は、「世界第一の大軍艦豊葦原号の帆檣が満潮の際に於て猶此肖像の台石に及ばざる事数尺なりといふ」ほどの巨大さ。そして日本は、すでに「数箇の強國を打ち倒し」た戦勝国と想定されています。
その上で、文は一旦その東京湾の街の繁盛ぶりを描きます。
 「水船、酒船、料理船、青物船、小間物船、裁縫船、洗濯船、見世物船、蒸気風呂船、内科医舶、外科医船、其外日常の事物坐ながらに用を弁ずべし。汽笛には符号ありて、何船にても必要ある者は汽笛を鳴らして之を呼ぶ。呼ばれたる移動商店は其呼び主を尋ねて其需要を満たす。」
 ところがそんな繁盛の一方、
「されば便利なるだけそれだけ混雑も亦甚だしく警察船の常に往来するに拘らず、掬摸(すり)船の災難に罹る者少からず。平和肖像の下に置かれたる港湾裁判船は日々三十件以上の新訴訟事件を取扱はざる事無しといふ。」と文意を転じます。
 初めてこの一文に接した時、
〈なんだかエコノミックアニマルと呼ばれたころのニッポンの戯画?…それなら100年後のニッポンでよいではないか。東京湾に「平和の肖像」は立っていなくても、9条憲法の国とはなっているのだし…〉などと、妙に戸惑ったのでした。
 ところが明治32年という日清戦争4年後・臥薪嘗胆の時代の日本にあって、子規の空想はこのあと、こう飛躍するのです。
 「東邦平和雑誌記者は此東京湾の未来を論じて世界の大勢に論及し、最後に放言して」と、今風に言えば一人のジャーナリストの発言のように仕立てて、
 「吾人(われら)が同胞幾百萬の血を以て得たる彼萬國平和の慈仁なる肖像に再び不潔の血を塗る時あらば、 其時は第十一回( 十五回の誤植か?筆者推定)平和会議の結果として之より十倍大の平和肖像を建設するの時なり」と述べ、結論につなげます。
「然れども世人は猶平和の夢を貪るに余念無く、宝舟と称する美術船にて今年正月二日に売り捌きたる七福神の画は未だ曾て有らざるの多額に上りたり
1-2.jpg     よのなかにわろきいくさをあらせじと
       たたせるみかみみればたふとし」

 この一文に、筆者(八荒)は長らくチグハグとした違和感のようなものを払拭できずに来たのでした。結核の病身をおして、初めての近代戦争・日清戦争に従軍。命をさらに縮めてしまった明治の日本男子・子規が、戦争と平和に言及した点での重要さを感じつつではあるのですが…。
昭和の敗戦後最初の小学校一年生世代で、親や兄世代の「同胞幾百萬の血を以て得たる」平和憲法を基礎感覚にしてきた者として、〈今こそがそれではないか〉という感覚が付きまとい、400年後というのは、〈あまりにも遠い先…子規にしては謎めいた妙な文章…〉といった印象がぬぐえなかったのでした。
 子規の知り得なかった敗戦日本の〈今〉とは、人類初の原爆被爆体験、ポツダム宣言受諾、極東軍事裁判、日本國憲法の発布、国際連合の発足を経て、サンフランシスコ平和条約あり、北朝鮮は残したままでもアジア諸国との国交回復はなんとか果たし、冷戦終了・東西対立解消……ともかくも戦後世界の大事な諸々のエポックに合わせ、平和の方向に前進を重ねた〈今〉ではあった。それらのことから 〈400年後は言いすぎだよ、ノボさん。漢詩漢文的誇張が過ぎないかい?〉とでも言いたい感覚がつきまとったのでした。それに〈日本は痛烈な敗戦国だったんだよ、ノボさん〉とも言い足したい気分も……。
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 ところがです。子規がこの一文を草してから123年後の去年、プーチンロシアのウクライナ侵攻が起り、世界は未だこの戦争の終結が望めない〈今〉になってしまったのです。
 一転、この一文に、三国干渉を経た臥薪嘗胆の時局の中で〈戦争と平和〉という巨大なテーマを考え始めた子規の、視野の広さと発想の深さを想うようになり始めたのです。そして、この一文の底に、周りには愚行としか見えかねなかった、あの病身を押しての従軍強行があったからこそ生じた、真剣で切実な心動きがあったのではないかと感じ始めたのでした。(写真はウイキペディアより)
 ニューヨーク湾に自由の女神像が建てられたのが明治19年。それは既に日本にも伝わっており、それを知ったことから、この一文を発想したと考えられなくもありません。しかし、400年後の東京湾に「萬國平和の慈仁なる肖像」が立つとまで想像するこの文章表現には、書き進める心の一番底の方で、ひとりの明治男子が自らの従軍体験を通して獲得したもの=「萬國平和」=〈世界平和〉を目指す国家の在り方を希求する精神の本能のようなもの¬=が動いていたのではないか、と思えてきたのでした。

 実は子規は、明治28年4月日清戦争従軍出発前に、旧藩主・久松公から拝領した太刀に気持ちを昂らせて、一種の妄想詩とも言うべき漢詩「古刀行」を詠んでいました。
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「…此の刃五百年 人未だ鈍利(切れ味)を識らず 我の楡関(山海関)に到るを待ちて 将に胡虜(北方の蛮人)に向かって試みんとす」(古刀行書き下し文)
〈山海関に着けば、現地の蛮人で、この太刀の切れ味を試してみよう〉というのです。もちろん一瞬浮かんだ幻想で、志士的な決行声明などではありません。新聞に載せるということもしておらず、内心の一瞬の動きを書きとめたメモのようなものだったと推察されます。
しかし、〈文学者もまた、従軍すべし!〉と激しく揺れ動いた心象の片隅には、こんな猛々しい幻想を生むものも潜んでいた……従軍行出発直前のこの時点では、子規もまた益荒男的志士的気分で猛り立つこともある、明治日本男子のひとりだったと思えてなりません。
しかし、大連湾を経て戦地・柳樹屯に上陸した翌々日には、日清講和条約締結。志士的行動どころか、戦争報道のジャーナリストとしても、はた目には大空振りに終わった従軍行となってしまいました。帰途の船中では再度の大喀血、瀕死の重体で神戸病院に担架で運び込まれる始末…。表面的にはそんな風にしか見えない、正岡常規(従軍志願書に記入した本名)の従軍行でした。
 ところがそんな結果に終わった従軍行から一年半後、雑誌「日本人」に明治29年10月20日に発表した新体詩「金州雑詩・若菜」では、あの「古刀行」に表れた「猛り立つ益荒男」とは、およそ対照的な心象風景が詩われているのです。
 従軍時、金州の城郭の外で道すがら話しかけた「若菜摘むうなゐおとめ」を想い返して、
1-5.jpg「…代ほしくばかへてとらせん。日暮るるに母こそ待ため。とく帰れ、家路をさして。あはれこの子、國滅びしとなれは知らずよ。」と詩い上げているのです。一年半を経たこの時点では、摘んでいた菜を売ろうとした敵国のおさない少女の身の上に、日清戦争の結果が落とす翳が想像できる日本男子になっていたのでした。
 実は、その前年に従軍現地報告として日本新聞に発表している「陣中日記」では、明治28年4月27日の経験として、たまたま見かけた菜を摘む幼子に声をかけたところ、「籃(かご)をさし出して菜を買はんやといふ。不要(いらない)といへば又うつむきて菜を摘む手のみいそがはし。」というやりとりとなったことを記し、「この國の人は天性商買(ママ)にさかしきものなるべし。」という感想しか記し得ていなかった日本新聞派遣記者=「子規子」でした。戦場にされた現地民族の幼子を、その時点ではそんな風にしか捉えていなかった日本男子は、それ以後痛烈な体験を潜った一年半余りの年月経て、
     「…代ほしくばかへてとらせん。
           日暮るるに母こそ待ため。
                とく帰れ、家路をさして。
              あはれこの子、國滅びしとなれは知らずよ。」
と詩いあげる人になっていたのでした。
 この心情の変化こそが、もう少しして東京湾にそそり立ち、ひとびとに「慈愛の露」を注ぐ巨大な「萬國平和の肖像」というイメージを生む元となったのではないでしょうか。
「古刀行」から「若菜」へ、そして「萬國平和の肖像」への、心象風景の変貌……。日清戦争従軍の中で重ねた痛烈な体験の内省が、猛々しい益荒男幻想に囚われることもあった明治男子の中に、たおやめぶりの心を蘇生させる源泉になったのだと思えてなりません。
 昭和の戦後世代の感覚からは、兵器を持って他国へ入って行った側の一員としての〈自責の念〉の感覚が未だ生れていない点、気がかりなポイントとして残るものの…。

 子規随筆〈400年後の 「東京湾」〉。三国干渉を経た臥薪嘗胆、日本が日露戦争に向かうの時代の中で書かれた一文でした。〈謎めいた妙な文章…〉とするわけにはゆかない重さを感じるようになって、前後に書かれた文章と合わせ、何度も読み返しています。
 人類が、「わろきいくさ」の極致=核戦争を起し得る文明段階に来てしまった〈今〉です。コロナ禍、異常気象、食糧危機の切迫も重なった〈今〉でもあります。起こってしまったウクライナの戦争の終結を、〈何世紀も先〉に延ばすわけにはゆかない。世界は、「…平和会議の結果として之より十倍大の平和肖像を建設するの時」を、喫緊の大事として既に迎えている…一文からそんな想いに駆られている次第です。

※2022.11.11記。松山子規会誌177号(令和5年1月刊)への寄稿文をもとに作成したものです。
※次回は3月1日 「子規はなぜ従軍を強行したのか」といった内容を予定しています。


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