SSブログ

論語 №146 [心の小径]

四六二 楚(そ)の狂、接輿(せつよ)歌いて孔子の門を過ぐ。いわく、鳳(ほう)や鳳や、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諌(いさ)むべからず、来る者は猶(なお)追うべし。やみなん、やみなん。今の政に従う者は殆(あやう)しと。孔子下りてこれと言わんと欲す。趨(わし)りてこれを辟(き)く。これと貫っを得ざりき。

          法学者  穂積重遠

「之門」の二字がなくて、「孔子を過ぐ」とよめる本もある。それだと孔子様が道を車で通られた時の話になり、後の「下りて」は車からおりることになる。そして「接輿」は固有名詞ではなく、「輿に接する者」の意だという人もある。

 楚の国で狂人といわれる接輿なる者が、歌をうたいながら孔子の家の門前を通り過ぎた。その歌は孔子様を鳳凰にたとえたものでその意味は、「鳳風よ、鳳凰よ、汝は霊烏であるというのに、この乱れた世に出るとは、何とその霊徳の衰えたることよ。今までのことは致し方がないが、今後としては改めるにまだおそくない。やめなさい、やめなさい。今日の政治の当局者たるはあぶないことじゃ。」というのであった。孔子様はこれを聞きつけ、道をもって天下を救う志のやみ解きを告げようと思われ、堂を下って門外へ出て見られたが、接輿は小走りに避けて通り過ぎてしまったので、これと梱ることができなかった。

 当時の隠者仲間に、前にも「簣(き)を荷(にな)う者」(三七一)があったが、孔子の政治運動を非難し、冷笑し、または心配する者があり、孔子様としても「道なければすなわち隠る」(一九七)という理論と自身の行動との矛盾を多少感じておられるだけに、外間の批判を気にして弁解したがっておられた様子が見える。次の二章においても同様。

四六三 長沮(ちょうそ)・桀溺(けつでき)ナラびて耕す。孔子これを過ぎ、子路をして津(わたし)を間わしむ。長沮いわく、かの輿(よ)を執る者は誰とか為す。子路いわく、孔丘と為す。いわく、これ魯(ろ)の孔丘が。いわく、これなり。いわく、これならば律を知らんと。桀溺に問う。桀溺いわく、予は誰とか為す。いわく、仲由(ちゅうゆ)と為すと。これ魯の孔丘の徒か。対(こた)えていわく、然り。いわく、滔々たる者天下皆これなり。而して誰とともにかこれを易えん。且(か)つなんじその人を辟(き)くるの士に従わんよりは、あに世を辟くるの士に従うに若かんやと。穫(ゆう)して輟(や)まず。子路行きて以て告ぐ。夫子憮然としてのたまわく、鳥獣は与(とも)に雲を同じくすべからず。われこの人の徒(ともがら)と与にするにあらずして誰と与にかせん。天下道有らば丘(きゅう)は与に易(か)えざるなり。

 川ぞいの畑で長狙・桀溺という二人の隠者がならんで、土をすいていた。たまたま楚から蔡(さい)への旅行中の孔子様が馬車でそこを通りかかられたが、子路に命じて渡し場を問わせた。馬を御していた子路は手綱を車上の孔子様に預けて車からおり、両人に近づいて問いかけた。すると長狙が言うよう、「あの手綱を執っているのは誰か。」子路が答えて、「孔丘です。」「それは魯の孔丘か。」「そうです。」「魯の孔丘ならば、あちこちあるきまわる男だから、渡し場ぐらい知っているはずじゃ。」こう言って教えてくれない。しかたがないから今度は桀溺にたずねた。桀溺が言うよう、「お前さんは誰か。」「仲由であります。」「それでは魯の孔丘の門徒か。」「そうです。」「今日の有様を見るに、あの川水のドンドン下に流れてかえらざるごとく、道義碩廃して救うべからざること、天下の人例外なしだ。お前さんの師匠はいったい誰といっしょにての乱世を変えて太平の世にしようとするのか、孔丘はしきりに己を用いる明君賢大夫をさがして東奔西走するが、今時そんな人のあろうはずがない。お前さんも、孔丘のようなあの人もいけないこの人もだめだと一人一人の人を避ける者に附いてあるくよりも、超然と世を避けて隠れ耕すわれわれの仲間入りする方がよいではないか。」桀溺はかく言い捨てて、長狙とふたりセッセと蒔いた種にかぶせる土ならし、見かえりもしない。子路は取りつく島もなく、車に帰って仔細を申し上げたところ、孔子様は本意なげ嘆息しておっしゃるよう、「いかに冊を避ければとて、まさか鳥獣の仲間入りもできまい。人と生れた以上は、天下衆人の仲間入りせずして誰と事を共にしようぞ。もし天下に道があれば、わしは何も世直しをしようと骨を折りはしない。天下に道がなければこそ、どうかして世を安んじ人を救わんものと東奔西走もするのじゃ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。