SSブログ

論語 №148 [心の小径]

四六五.逸民(いつみん)は伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)・虞仲(ぐちゅう)・夷逸(いいつ)・朱張(しゅちょう)・柳下恵(りゅうかけい)・少連(しょうれん)なり。子のたまわく、その志を降(くだ)さず、その身を辱(はずか)しめざるは、伯夷・叔斉かと。柳下恵・少連を謂う、志を降し身を辱む。言(ことば)は倫に中(あた)り行いは虜(りょ)に中る、それこれのみと。虞仲・夷逸を謂う、隠居して言を放(ほしいま)まにし、身清(せい)に中り、廃権に中る。われはすなわちこれに異なり。可も無く不可も無し。

           法学者  穂積重遠

 古来の「超越人」とでもいうべき非凡の賢人は、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連である。孔子様が評して言わるるよう、「志を立つること高尚にして降し曲ぐることなく、身を守ること廉潔(れんけつ)にして辱しめ汚さるることなき者は、伯夷・叔斉であるかな。」次に柳下恵・少連を評して、「伯夷・叔斉とちがって志を降し身を辱しめるけれども、言葉は義理にかない、行いは常識にあたる。」更に虞仲・夷逸を評して、「隠居して仕えず、一身の清浄を守り、言いたい放題を言うようだが、しかし言って善いこと悪いことを隊みはずさない。」さてご自身のことを言わるるよう、「わしは、これらの『超越人』とはちがって、可もなく不可もない平凡人じゃ。」

 伯夷・叔斉・柳下恵以外の伝はわからない。朱張に対する批評がないが、おそらく落ちたのだろう。「可も無く不可も無し」をかの「通もなく輿もなし」(七六)、すなわち必ずこうときめてしまわずに時に随(したがっ)て善処するという意味に解するのが通説だが、試みに今日用いると同じ意味に解してみた。すなわち一方では平凡人なりと霊されると同時に、他方では超越人ならずして偉大な平凡人たることを誹りとされたのではないかと思う。

四六六 大師摯(だいしし)は斉に適(ゆ)き、亜飯干(あはんかん)は楚に適き、三飯繚(さんぱんりょう)は蔡(さい)に適き、四飯缺(しはんけつ)は秦に適き、鼓方叔(こほうしゅく)は河に入り、播トウ武(はとうぶ)は漢に入り、少師陽(しょうしよう)・撃磬攘(げきけいじょう)は海(かい)に入る。

 いずれも「子曰」がないが、おそらくはみな孔子様の言葉であろう。本章は、孔子様がせっかく魯(ろ)の国の楽を整備振興したのに、政治が衰えたので楽士たちが魯を去って四散してしまったことをなげかれたのである。天子諸侯は毎食間に楽を鄭させるので、その受持の楽師を「何飯」という。本文にある上に「初飯」があるだろう。「亜」は「次」。

 「楽長の摯(し)は斉に行き、亜飯の干は楚に行き、三飯の繚は索に行き、四飯の缺は秦に行き、鼓打ちの方叔は河内(かない)に入り、振り鼓の武は漢中に入り、副楽長の陽と磬打ちの嚢は離れ島に渡ってしまった。実に惜しいことじゃ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。