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多摩のむかし道と伝説の旅 №84 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅
-神田川水辺の道と伝説を巡る旅-2

             原田環爾


 更に池畔を進むと池は次第に絞られ、小さなひょうたん橋をくぐると一本の神田川の水路となる。鬱蒼と樹木の神田川2-1.jpg繁る静かな林の道を進み、京王井の頭線の低いガードをくぐると井の頭公園も終わるが、なお神田川左岸には明るく伸びやかに広がる川沿いの道が続く。この辺りの水深は浅く、水遊びができる様に水辺は綺麗に整備されている。次のゆうやけ橋から振り返ると、水辺の様子がよくわかる。神田上水橋を過ぎ、あしはら橋を過ぎると次第に井の頭線が神田川右岸に接近してきて、やがて川を挟んでぴったり並走するようになる。因みに井の頭線は昭和8年渋谷と井の頭公園迄がまず開通し、翌9年吉祥寺迄開通した。開業当時は帝都電鉄といった。その頃の沿線はほとんど田畑や雑木林ばかりで人家が少なく利用客の乏しい路線だった。
 さて左手に立教女学院が見えて来ると三鷹台通りの丸山橋の袂に出る。ここから川は南にやや蛇行し井の頭線の南側へ回り込む。その関係でほんの一瞬ではあるが水辺を離れることになる。丸山橋を渡って三鷹台駅前を通り、LAWSONで左折してしばらく進んだ後、マンションForest-villa で左手路地に入ると右岸沿いの道に出る。ここからはよく整備された快適な遊歩道となる。ただ神田川そのものはコンクリー トで護岸工事されておりやや風情に欠ける。神田橋、みすぎ橋、緑橋を経てやがて宮下橋の袂にくる。橋の袂には宮下橋公園というちょっとした小公園になっている。神田川を改修した時の旧流路が公園になったという。 宮下橋を南へ20~30mも向かうとすぐ大熊坂と呼ばれる緩やかな上り坂となり、上がりきると人見神田川2-2.jpg街道に出る。その街道沿いすぐ左に林の繁る小丘があり、丘の上に大熊稲荷がある。猫の額程の境内には大熊氏が安政3年に造立した正一位稲荷大明神の石塔と、やはり大熊氏が弘化5年に造立した富士山仙元大菩薩の石塔が立っている。森泰樹氏の「杉並の伝説と方言」によれば、大熊氏は久我山の旧家で、先祖は大熊修理亮景勝という小田原北条氏の重臣であったという。天正18年(1590)小田原城が豊臣秀吉に攻められて落城した折、大熊氏は若君を守ってこの地逃れきて、若君を永福寺に預けて匿ってもらい、自らは付近に身を隠していたが、若君は敵方に発覚して殺されたのでやむなく久我山に土着したのだという。
神田川2-3.jpg 元の宮下橋に戻り、逆に橋から北へ20~30mも入った所の坂下の道沿いに久我山稲荷がある。こじんまりした境内には稲荷大明神を祀る本殿、舞殿のほか、天満天神、八雲大神を祀る小祠がある。また正面鳥居の手前右手には小さな庚申堂があり、堂内には青面金剛像とその傍らに砧の木槌が奉納されている。久我山稲荷神社は旧久我山村の鎮守で、湯の花神楽の行事で知られる。湯の花神楽とは、神主が大釜で沸かした湯を榊の枝でかき混ぜ、神神田川2-4.jpg前と参拝者にお祓いをするというものだ。昔、久我山村に疫病が流行した折、疫病退散を祈願して参籠していた村人に、満願の日牛頭天王が現れ、湯の花で身のけがれをはらへとのお告げがあったということに由来する。なお正面鳥居の手前右手の庚申堂に奉納された砧の木槌は、反物を叩いて柔らかくし光沢を与えるもので、養蚕農家の大切な道具の一つであるが、もとは農作物や蚕の豊作を願って奉納されたものという。それがいつしか病にもご利益があると信じられるようになり、奉納してある木槌を借りては、患部を叩いたり撫ぜたりし、治ると新しい木槌を添えて返したという。そのためかつて堂内は木槌で一杯になったという。
 ここから先しばらく水辺の道を離れて、久我山駅界隈の旧跡を訪ねつつ富士見ヶ丘駅まで行くことにする。久我山稲荷の前の街路を東へ道なりに進むと井の頭線の踏切に来る。線路の右手先には久我山駅のホームが見える。踏切を渡り商店街に入ると程なく駅前の賑やかな通りとの交差点に出る。北へ向かう六地蔵通りは急勾配の上り坂で古くは御女郎阪と呼ばれた。この辺りに霊験あらたかな瘡守稲荷があり新橋の芸者衆がよく詣でたことからこの名があるという。なお六地蔵とはこの御女郎阪の坂の上の集落の中にかつて光明寺という寺神田川2-5.jpgがあったことによる。光明寺は明治初年に廃仏毀釈により廃寺となり、今は地蔵堂と墓苑が残るのみだ。寺は墓苑の南側にあったという。地蔵堂内には奥の壁左から寛文5年(1665)庚申塔、宝永5年(1708)念仏供養塔、享保4年(1719)地蔵菩薩、寛文10年(1670)日待塔、入口左右に享保8年の地蔵が3基ずつ立っている。このうち宝永5年の念仏供養塔と享保8年の6地蔵には光明寺騒動と呼ばれる住職と村人との騒動にまつわる供養塔であると言い伝えられている。すなわち江戸時代のこと、光明寺の住職は大変な女好きで、居酒屋の後家に手をだして村の若者6人から袋叩きにあい、雑木林と道の間にある溝に投げ込まれ死にかけた。住職は息を吹き返したが、土地の親分が代官所に届け出たため表沙汰になり、暴力をふるった若者は捕えられて終身刑になり、あげく牢死してしまった。哀れに思った村人は6体の地蔵を造り供養したという。それが現在残る6地蔵である。寺はその後のある正月、どんと焼きの火の粉がもとで全焼し、再建されるまで数十年間、寺はなかったという。ところがこれに尾ひれがついて面白おかしく言い伝えられて神田川2-6.jpgいる。すなわち手を出した女は檀家の美人後家であったとか、投げ込まれたのは神田川であったとか、寺がなくなったのは住職も非があるとされて取り潰しになったとか・・・真相はよくわかっていない。
 元の地蔵通りの駅前交差点に戻り東へ向かう通りに入る。この道は明治の頃、井の頭行の馬車道であったという。道なりに進むと車の行き交う人見街道に合流する。街道は緩やかな坂道で100m余り上った所の左手分岐道のある角地に一見に値する庚申塔がある。享保7年(1722)造立の道標を兼ねた庚申塔だ。側面に「これよりみぎいのかしら三ち」「これよりひだりふちう三ち」と記されており、井の頭弁財天信仰者の道標になっていたと思われる。
神田川2-7.jpg 先の合流点に戻り、街道筋向かいの街路に入る。たぶち通りと称し神田川の北側丘の上の集落を縫う瀟洒な街路だ。昭和30年代までこの道を境に南側は田圃であったという。街路を道なりに進むとやがて右へ緩やかにカーブしながら下り坂となる。下り降りた所で富士見ヶ丘通りにぶつかる。右手に富士見ヶ丘駅がある。
 踏切を渡り富士見が丘駅を右にやり神田川の月見橋の袂に出る。ここから先は左岸と右岸が入れ替わり立ち代わり車道か遊歩道になるので適宜都合のよい方をとればよい。ただ車道といっても交通量はほとんど ないのであまり気にする必要はないかもしれない。あかね橋を過ぎ、柳橋まで来ると前方に杉並清掃工場の高い煙突が見える。やがて激しい車の走行音が聞こえてきたら環八通りの佃橋の袂に出る。そこは丁度高井戸駅のガードの横になっている。
 

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