論語 №149 [心の小径]
四六七 周公、魯公に謂いていわく、君子はその親(しん)を施(す)てず。大臣をして以(もち)いられざるを怨ましめず。故旧大故(こきゅうたいこ)なければすなわち棄(す)てず。備わるを一人(いちにん)に求むることなかれ。
法学者 穂積重遠
「周公がその子伯禽の魯公に封ぜられて入国した時、訓戒して、『人の上に立つ者は、
親族を見捨てるな。大臣が不適任ならば免職するもやむを得ぬが、在職中は十分に信任して、その言の聴かれざるを怨ましめるようなことをするな。古なじみの者は重大な理由がなければ棄てるな。また人には能不能、長所短所があるもの故、人を使用するには、その能くする長所を活かし、能くせざる短所を責めず、すべてのことが一人に揃うことを求めるな。』と言われた。これが魯の国の始まりじゃ。」
四六九 子張いわく、士は危うさを見ては命を致し、得るを見ては義を思い、祭には敬
(けい)を思い、喪には哀(あい)を思う、それ可ならんのみ。
「可ならんのみ」につき、古証にいわく、「可とは僅かに足るの辞、能くことごとくこの数事を行わば士と為すに庶(ちか)しと言うのみ、以て止むべしというには非ず。」
子張の言うよう、「士たる者は、君父の危難を救わんためには命をも差出し、利得問題があったら道理上取って然るべきか否かを思い、祭に臨んでは誠を尽くさんことを思い、喪に在ってはかなしみを極めんことを思うべきだ。これだけが揃えば、まず士と謂ってよかろう。」
これは全く孔子様の受売りであること明らかだ(五二・六六・三四四・四二七等)。
四七〇 子張いわく、徳を執(と)ること弘からず、道を信ずること篤からずんば、いずくんぞ能く有りと為し、いずくんぞ能く亡しと為さん。
子張が言うよう、「徳を行うならば、ひろく併せ行わねばならぬ。道を信ずるならば
その信念が強く実践の志が堅くなくてはならぬ。もし一善を行って自ら得たりとするごとき狭くかたまった気持であったり、たちまち信じたちまち疑うような薄い信であっては、道徳がありともいえず、なしともつかず、あぶはち取らずになってしまうぞ。」
伊藤仁斎いわく、「徳は執るに群り。然れども弘からざればすなわち徒(いたずら)らに狷介(けんかい)の士と為(な)る。道は信ずるに在り。然れども篤からざればすなわち必ず塗説(とせつ)(四四五)の流と為る。故に徳を執ること必ず弘く、道を信ずること必ず篤ければ、すなわち以て君子と為るべし。然らざればすなわち、その始めは得ることあるがごとしと雖も、しかれども道徳はついに己の有と為らずして、亦必ず亡からんのみ。」
『新訳論語』 講談社学術文庫
『新訳論語』 講談社学術文庫
2022-09-28 19:25
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