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論語 №152 [心の小径]

四八〇 子游(しゆう)いわく、子夏の門人小子、洒掃(さいそう)応対進退にすなわち可なり。そもそも末なり。これを本(もと)づけばすなわち無し。これを如何。子夏これを聞きていわく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道は、いずれをか先にしいずれかを後にし倦(う)まん。これを草木の区にして以てべつあるに譬(たと)う。君子の道はいずくんぞ誣(し)うべけんや。初めあり卒(おわ)りある者は、それただ聖人か。

         法学者  穂積重遠

 子游(言游)が「子夏君門下の青年たちは水を子まいたり掃除をしたり来客の接待や進退作法などは良くできる。しかしそれらは元来末(すえ)のことで、根本の倫理については一向(いっこう)おしえられて。どうしたものじゃ。」と言った。子夏がこれを聞いて言うよう、「イヤハヤ言游君も飛んだまちがったことを言うものかな。君子たるの道は、どれを「先に教え、どれはめんどうだからあとまわしにすえう、という風にきまっているものではない。たとえば草木のその種類に応じて育て方が違うようなものだ。君子同を教えるに無理をすべきだろうか。初めと「終わり、すなわち道の本末を同時に兼ね備えるのは聖人だけで、あおの以下の者に至っては、匡より初めて第に言游らざるを得ないのだ。」

四八一 子夏いわく、使えて優なればすなわち学び、学びて優なればすなわち仕(つか)う。

 安井息軒(そっけん)が、「或いは疑う、学びての句は当(まさ)に仕えての句の前に在るべしと。……今案ずるに、学びて働なればすなわち仕うるは士子(しし)の常なり、、人皆これを知る。既に仕うれば、行って余力ありと雖も多くは復(ま)た学ばず。子夏の意、主とする所はここに在り。故に仕うるの句を以て前に寒くのみ。」と言うのは至極最も故、その意味で両句を転倒して現代語訳してみた。

 子夏の言うよう、「学問が十分に進んで余力ができたらはじめて仕官すべきである。そして仕官した以上全力を役向きにそそぐべきは当然だが、しかし余力があったら学を廃することなく絶えず勉強して、智徳を増進し人物を大成すべきである。ところが仕官をすると学問を放棄してしまうのが管理の通例で、それは甚だ宜しくない。」

四八二 子游いわく、喪は哀を致して止む。

 「かなしみをきわめんのみ」とよんでもよかろう。

 子游の言うよう、「父母の喪は結局悲哀の真情を尽すだけのことで、それ以上の虚礼はいらぬ、」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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