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論語 №144 [心の小径]

四五八 微子(びし)はこれを去り、箕子(きし)はこれが奴(ど)と為(な)り、比干(ひかん)は諫(いさ)めて死す。子のたまわく、殷(いん)に三仁(さんじん)あり。

       法学者  穂積重遠

 「微子」の微は国名、子は爵(しゃく)、名は啓(けい)、殷王乙の長子で紂(ちゅう)の庶兄。「箕子」の箕も国名、名は胥余(しょよ)、朝鮮の開祖といわれ、平壌に箕子廟がある。比干とともに肘王のおじ。
                            
 殷の紂王が無道だったので、微子と箕子と比干とが諫めたが聞かれず、徴子は国を去り身を全くして先祖の祭を存し、箕子は配えられて奴となったが、狂人をまねて命を助かり、比干は極諫(きょっかん)したため紂の怒にふれて殺された。三人の行跡はそれぞれに違うが、いずれも出処進退の宜しきを得たものなので、孔子様は「股に三人の仁者があった。」とほめられた。

 古註にいわく、「孔子いわく、身を殺して以て仁を為すありと。死して仁を為すときは、死するを仁と為す。死すれども以て仁を成すに足らざるときは、必ずしも死を以て仁と為さず。仁は死にも在(あ)らず、亦死せざるにも在らず。三人の仁は、去ると奴たると死せるとを以て仁と為すにあらざるなり。商紂の時、天下安からざること甚だし。而して微子・箕子・比干は皆能(よ)く乱を愁え民を安んぜんとす。故に孔子これを嘆ぜしなり。」

四五九 柳下恵(りゅうかけい)、士師(しし)と為りて三たび黜(しりぞ)けらる。人いわく、子未だ以て去るべからざるか。いわく、道を直(なお)くして人に事(つか)うれば、いずくに往(い)くとして三(み)黜けられざらん。道を枉(ま)げて人に事うれば、何ぞ必ずしも父母の邦(くに)を去らん。

 柳下恵が裁判官になって、三度免職された。そこである人が二こんなにしばしば退けられるのだから、もうたいていにしてこの図を去り、他国へ行って身を立てたがよさそうなものではないですか。」と言った。すると柳下恵が言うよう、「私がやめられるのは、正道を守って殿様や太夫に迎合したご奉公をしないからです。この調子では今の世の中にどこの国へ行ったって三度や四度免職されないでしょうか。もし正道をまげてご奉公するくらいならば、何を好んで父母の国たるこの国を立ちのきましょうや。ここでそういうご奉公をします。ともかくも私としては正しさを行いさえすればよいので、免職されるか否かは私の知ったことでありません。」

 この本文にはこれに対する孔子様の評語が付いていたのが、落ちたのだろうという。なるほどそうらしい。柳下恵のことは前にも出ていたが(三八九)『孟子』(公孫丑上篇)の左の一欄がその人物をあらわしている。「柳下恵は、汚君を羞(は)じず、小管を卑(いや)しとせず、進みて賢を隠さず、必ずその道を以てし、遺佚(いいつ)せられて怨(うら)みず、阨窮(やくきゅう)すれども憫(うれ)えず。故にいわく、なんじはなんじなり、われはわれなり、わが側(そば)に袒裼(たんせき)裸程(らてい)(肌をぬぎはだかになるすと雖も、なんじいずくんぞ能くわれをけがさんやと。故に由由(ゆうゆう)然としてこれと与(とも)にし、自ら失わず。」

『新訳論語』 講談社学術文庫

                                        


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