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論語 №154 [心の小径]

四八丸 子貢いわく、君子の過ちや日月の食の如し。過つや人皆これを見る、更(あらた)むるや人皆これを仰ぐ。

        法学者  穂積重遠

  子貢の言うよう、「君子でも過失はあるが、君子の過失は小人の過失と違う。君子の過失は日食月食のようなもので、少しも隠し立てをしないから、衆人がこれを見て、あの君子にしてこの過ちあるかと驚くこと、日食月食を見て太陽が黒くなった、月が暗くなったと驚き怪しむようなものである。しかしその過ちはさっそく改められるので、人々がさすがは君子だと感服すること、食が終って後の日月がたちまち再び円(まど)かにして光輝前に倍するのを仰ぎ見るごとくである。」

 さすがは「言語」の子貢で、言うことがいつも気がきいている。以下数章とりどりにおもしろい。

四九〇 衛(えい)の公孫朝(こうそんちょう)、子貢に聞いていわく、仲尼(ちゅうに)いずくにか学べる。子貫いわく、文武の道未だ地に墜ちずして人に在り。賢者はその大なる重のを識(しる)し、不賢者はその小なるものを識す。文武の道あらざることなし。夫子いずくにか学ばざらん。而して亦何の常師かこれあらん。

 衛の太夫の公孫朝が子貢に、「仲尼先生はどこで誰に就(つ)いて学ばれたのか。」とたずねた。子貢の言うよう、「周の文王武王の道はまだ亡(ほろ)び尽くさずして人に残っています。すなわちその大道は賢人が知っており、その小道は不賢者も心得ている次第で、文武の道は天下至る所に存するのであり、そして先生は下問を恥じず誰にでも道を問われるのですから、先生はどこで学ばれなかったということもないと同時に、誰というき
まった師匠はもたなかったのです。」(参照 -一六六) 

『新訳論語』 講談社学術文庫



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