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論語 №157 [心の小径]


四九四 堯(ぎょう)いわく、ああなんじ舜(しゅん)、天の暦数(れきすう)なんじの躬(み)に在り。まことにその中(ちゅう)を執(と)れ。四海困窮せば、天禄(てんろく)永く終えんと。、舜も亦禹(う)に命ず。いわく、われ小子履(しょうしり)、敢えて玄牡(げんぼ)を以て敢えて昭らかに皇皇たる后帝に告ぐ、罪あるは敢えて赦さず。帝臣(ていしん)蔽(おお)わず、簡(えら)ぶこと帝の心に在り。朕が躬(み)罪あらば、万方(ばんぽう)を以てすることなけん。万方罪あらば、朕が躬に在らんと。周に大賚(たいらい)あり。善人これ富む。周親ありと雖も、仁人に如かず。百姓(ひゃくせい)過(あやま)ちあらば、われ一人に在り。権量を謹み、法度(ほうど)を審(あき)らかにし、廃官を脩(おさ)めば、四方の政(まつりごと)行われん。滅国を起こし、絶世を継ぎ、逸民を挙ぐれば、天下の民・心を帰す。重んずる所は、民の食・喪・祭なり。寛なればすなわち衆を得、信なればすなわち民任じ、敏なればすなわち功あり、公あればすなわち見ん説(よろこ)ぶ、

               法学者  穂積重遠


 堯が天下を舜に譲ったとき、舜に告げて、「ああお前舜よ、天の命数がお前の身に帰したので位を譲るのだが、天命を受けて天子となった以上は、万事過不及なき中庸の道をしかと守って民を治めよ。もし 政を失って四海万民を困窮に陥れたならば、いったん受け得た天の恩命も永く断絶するであろう。」と戒めた。舜もまた禹に天下を譲るに当って、同様の言葉を与えた。かくして禹は子孫に伝えて夏の国が続いたが、桀(けつ)王に至って無道だったので、股の湯王(とうおう)がこれを滅ぼして天子の位に即いた。そのとき諸侯に宣言して「朕が桀を伐ったとき天を祭って、『ふつつかなる拙者履(湯王の名)黒牛のいけにえを捧げて天を祭り、至上至高なる上帝に明らかに申し上げます。かの桀は大罪赦し稚くこれを討伐するのでありますが、上帝のご家来とも申すべき賢人はきれを見失うことなく採用いたしましょう。しかしてかれらを選抜いたしますにもけっして私意をさしはさまず、上帝の御心まかせにいたしましょう。』と誓ったことであるが、今天子となった以上は、政治上の責任はすべて朕に存する。もし朕の身に過失があった場合には、万民に責任を負わせるようなことはいたすまい。もし万民に過失があったならば、その責任は朕が一身に帰せしめよ。」と言った。さて殷の末に至り紂王(ちゅうおう)が暴虐だったので、周の武王がこれを討伐したが、そのときも天に誓って、「周には天から授かった大きなたまものがある。それは善人の多いことであります。殻にはかの微子(びし)・箕子(きし)・比千(ひかん)のような近親はあるが、紂王がそれを用いずしてその心が離反しており、周の仁人(しんじん)が心を合せて私を助けるには及びませんから、必ずこれを滅ぼして天下を安んずることを待ましょう。」と言った。そして天子となった後は度

量衛を厳格にし、礼楽法制を適正にし、すたれた官職を復活したので、四方の政が成績を挙げた。また滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、棄てられていた賢人を採用したので、天下の民が心を寄せた。しかして最も重んじたところは、人民の食生活と、父母の葬式と、先祖の祭とであった。要するに堯舜より文武に至るまで先王の天下を治むる道は、孔子の説かれる「寛なればすなわち衆を得、信なればすなわち民任じ、敏なればすなわち功あり、公なればすなわち民説ぶ。」という寛・信・敏・公の四徳に尽きるのであって、この先王の治を万世に継ぐことが、すなわち孔子様の大願であったのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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