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論語 №149 [心の小径]

四七一 子夏(しか)の門人交わりを子張(しちょう)に問う。子張いわく、子夏は何とか云える。対えていわく、子夏は、可なる者はこれに与(く)みしその不可なる者はこれを拒(ふせ)げ、といえり。子張いわく、わが聞く所に異なれり。君子は賢を尊びて衆を容れ、善を嘉(は)みして不能を矜(あわれ)めと。われの大賢ならんか、人に於て何ぞ容れざる所あらん。われの不賢ならんか、人将(まさ)にわれを拒がんとす。これをいかんぞそれ人を拒がん。

           法学者  穂積重遠

 子夏の門人たちが子張に友と交わる道をたずねた。子張の言うよう、「子夏は何と言ったか。」「子夏先生は、交って益のある者とはつきあい、益のない者を受け付けるな、と言われました。」「わしが大先生にうかがったところとは違っている。大先生は、「君子たる者は、賢人を尊ぶと同時に、ひろく衆人を受受け入れ、一善の取るべき者あらばこれを重んじ、また無能の者にも同情をもつものぞと仰せられた。自分が賢ければ誰を受け入れても影響される心配はないことだし、自分が賢くなければ、他人がこちらを受け付けぬということはあるにしても、こちらが人を受け入れぬという筋はあるまい。」

 気の大きな子張と、用心深い子夏と、いわゆる「師や過ぎたり、商や及ばず」(二六八)のそれぞれの人物があらわれている。どちらの意見がよいか議論もあろうが、結局論点が違うようだ。子夏は「心友」を択ぷ道を説いて「己に如かざる者を友とするなかれ」(八)と教え、子張は一般交際すなわち「面友」を論じて「汎(ひろ)く衆を愛して仁に触しむ」(六)べきを言ったのであって、いずれも孔子様の教えの一面を伝えたものだ。

四七二 子夏いわく、小道と雖も必ず観るべきもの有り。遠きを致すには恐らくは泥(なず)まん。これを以て君子は為さざるなり。

 子夏の言うよう、「一枝一芸の小さい道にもそれぞれ取り得はあるが、遠大なる聖人の道を成就せんことを志す者としては、さようの末技にたずさわると、それに引っかかって大成を妨げる心配があるから、君子はそれをせぬのである。」

 法師になろうと志した者が、檀家から迎えの馬をよこしたときときに乗れなくては不都合て馬術を習い、法事の後に酒が出た場合に何か隠し芸がなくては殺風景だと思って小歌を稽古したところ、その二つがだんだんおもしろくなって、つい経を読むことを学ぶ時がなくなった、という『徒然草』のひとくさりを思い出す。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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