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論語 №145 [心の小径]

四六〇 斉(せい)の景公(けいこう)、孔子を待つにいわく、季子(きし)のごとくするは、すなわちわれ能わず、季孟(きもう)の間を以てこれを待たんと。いわく、われ老いたり、用うる能わざるなりと。孔子行(さ)る。

        法学者  穂積重遠

 孔子様が斉の国に行かれたとき、斉の景公が、採用しようかどうか、採用するならどのくらいの待遇で、ということを近臣と相談して、「魯(ろ)の太夫のうちで上席の季子ほどの待遇をすることは力及ばず、さりとて末席の孟氏程度では気の毒故、まず季孟の中間ぐらいのところで待遇しようか。」と話し合ったが、やがて気が変わって、「わしももう年が年だから、孔子のような遠大の謀(はかりごと)を為す者を用いてもしかたがない。」と言った。孔子様が洩れ開かれて、待遇間者はともかく、このあんばいではとうてい志は行われぬと断念して、斉を去られた。

四六一 斉人(せいひと)、女楽(じょらく)を帰(おく)る。季桓子(きかんし)これを受けて三日(さんじつ)朝(ちょう)せず。孔子行る。
     
 魯の国が孔子様を用いて、国が大いに治まったので、隣国の斉が恐れて、これを妨(さまた)げようと思い美人八十人の歌舞団を送ってよこした。太夫の季桓子が喜び受けこれにうつつを抜かして三日も政務を見なかった。孔子様はせっかく魯の国を振興しようとした望みを失い、辞職して国を去った。

 この時の事情は『史記』の「孔子世家(せいか)」に訳しく出ているが、定公(ていこう)の十四年孔子五十六歳の時のことという。大司寇(たいしこう)となって国政に参与し、悪太夫の小正卯(しょうせいぼう)を誅して綱紀を粛正じ、魯の国が大いに治まった。そこで斉が孔子様の礼楽(れいがく)政治を妨げんがために、艶麗卑俗な女楽を送ったところ、季桓子が定公をも勧めて連日これを見物し、政務を怠ったのである。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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