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石井鶴三の世界 №179 [文芸美術の森]

木の上の蛇 1953年/チンパンジー 1953年

           画家・彫刻家  石井鶴三

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木の上のへび 1953年 (189×133)
1953チンパンジー.jpg
チンパンジー 1953年 (203×143)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №73 [文芸美術の森]

東京の一週間

             歌人  会津八一

 十一月十三日。急行で上京。中村屋の都合で隣の「トトヤホテル」に投宿。ホテルの主人は陶藝家の加藤唐九郎君、これはむかし小野賢一郎君が陶器大辞典を著はした時、使者となって私のところへ題字を貰ひに来て、私からきっぱりとことわられて、空しく歸った人で、それ以来三十年あまり會はないのだが、ただ今は自分の製作のために歸郷中だといふ。それに床は鈴木信太郎の果物を描いた淡彩の横椀物、この人も私の落合時代によく知ってゐた人なので、こんなことでいくらか気拝が落ちつく。
 十四日。午前早稲田大学へ行く。島田総長は旋行中とかで不在。それで図書簡に行くこの日ァメリカのロックフェラーさんが来るといふので、それに見せるために、日米関係の図書を主として、そのほかこの図書館の誇るもろもろの珍本の陳列をやって居た。その方は私も見せて貰ったが、ちょっと別室で人と面會してゐるうちにロックフェラーさんは来てそして折ってしまったといふ。
 そのほかに図書館長の岡村君から、近頃手に入れた織田豊臣時代から徳川初期へかけてのいろいろの肉筆や刊本を見せられた。こんなものを買ふと、骨董道楽だといって、學生から若い教師たちまで不平を云つて困ると館長がいふから、欧羅巴でも米國でも、自分の國の、かうしたものを集めて、整理して、保管して、學者に見せるのは、図書館の重大な仕事の一つだ。いやしくも大學の図書館と通俗図書館や貸本屋と違ふところはここだ。大にやれやれと館長にけしかけて宿へ歸る。
 夜、創元社のものが来て、私の「鹿鳴集」のポケット版を出したいといふ。それが出来たら奈良地方の旋行者には便利であらう。
 十五日。午前早宿田の図書館へ行くと、オランダの外交官でギユリツクといふ人が来てゐるので面會した。亜細亜諸国の言葉に通じ、漢文、漢詩を自分で作り、漢字も上手に書き、私に向つても、最初から流暢な日本語で話して少しも不自由がない。そして日本の古い文献のことを話しても相當の心得がある。今の日本の若い紳士たちの及びもつかないところがある。
 この人が歸つてから、私はこの図書館の書物を二十何種か借り出して、今日の午後にやる自分の講演の参考として、反射幻燈で冩させることにした。
 午後二時からの私の講演は、題を「東洋文藝雑考」として、漢字と假名、書道と繒畫、和歌と漢詩などについて、私の感想をならべ立てて、その間に私の持つ一貫した意見を明かにするつもりであった。その目的は果し得たやうに思ふ。
 早稲田には、もと恩賜館といって、明治天皇からの下賜金をもとにして造られた英國ゴシック風の赤い煉瓦の一棟があって、各科の研究室がその中に設けられてゐた。片上のロシヤ文學、吉江のフランス文學、津田の東洋思想、私の東洋美術史などもその中にあったが、佐野學君が、臨検の検事にそこからすぐに引っ張られて行ったのは、一番特別の想出であった。これが戦争中に焼けて無くなったので、こんど新にその跡へ鉄筋コンクリート七階建の大學院研究室といふものが出来た。その二階にある講堂を、私が遣ひ初めをしに新潟から出かけて行ったことになる。ちやうど同じ時刻に、一階には評議員會があって、石橋湛山なども来て居たが、大勢で混雑して居たから、互に手を上げて遥に挨拶をしたばかりで話も出来なかった。
 私の方は、大學の先生たちも、若い男女の學生も、外来の傍聴人たちも、入り混つて聞いてくれた。その中に鎌倉からわざわざやつて来た吉野秀雄君の顔も見えた。そして大學はテープレコーダーで録音し、中央公論社は速記者をよこした。
 十六日の午前には昨日の票の天、荻野三七彦博士が宿へ訪ねて見えて、昨日の私の講演の中に出て来た「委奴國王印」の是について質問された。それから荻野君と一しょにバスで早稲田へいって、新築の大隈會館で文學部教授たちから晝食のご馳走を受けた。私たちの部屋の床には副島種臣伯爵の正楷の書幅が懸かってゐた。私は平素この老先輩の晩年の草書を重く見てゐるのであるが、この幅はもつと若い頃の筆であるのに全紙に気力の充実した、ほんとにみごとなものであった。ことにその詩は、明治天皇の命をうけて北京へ談判にいった時のもので「二クビ清皇二謁ス咫尺ノ間」と結んであるあたり、明治時代史の一節が鮮かに目前に浮んで来る。
 講義が済んで、早稲田からホテルへ歸ると、間もなく山口芙美子さんが来た。すぐこのほど、北京政府のために、毛澤東を暗殺する陰謀をやってゐるといふ嫌疑を受けて、ある欧州人とともにあちらで死刑になった山口隆一君の夫人が、四人の子供をつれて九死の中からやうやう免れて歸って来たその人で、食事をともにしながら、前後の事情を委しく私に話してくれた。山口隆一君は私の門下の一人で、京都大學で考古學を學び、後に支那で仕事をし、終戦後も北京に踏みとどまって商賣をしたり勉強をしたりしてゐた人で、最近まで折々あちらから音信があり、その中には、北京は日本人の想像も及ばぬほどに平和で、住み心地がいいから、私にも遊びに来ないかといって来た。それくらゐ北京の生活を愛してゐたのに、ほんとに気の毒なことをした。夫人は裸で逃げて来たので、これから生活の方法ももとめなければならないといふので、この家はど気の毒なものはない。そんなことをいろいろ考へてゐると、私の肩から背中へかけて一面に痛み出して、たまらなくなったので、私は生れ落ちて初めてマッサージといふものをホテルへ呼んでもらって、やつと少し落ちついたところで眠についた。
 翌十七日早大の講義を終った。
 十八日正午までベッドの中でからだの疲れを休めて、午後から調布町の隠宅に中村屋の老夫婦を訪ねた。去年の秋訪ねた時にくらべて、庭の草木も、岩石も、よく落ちついて来た。何しろ地所は二萬坪もある中に、五千坪だけ庭にして、その中で老夫婦、若夫婦の住む二棟があるだけで閑静を極めてゐる。近い頃、「主婦の友」に平林たい子の訪問記があって、挿繪の冩眞に、中門の下に立つ老夫婦のあたまの所に、私が先年書いた額が、新に彫刻が出来て懸って居るのを承知してゐたが、今日はその額の下をくぐつて、案内も乞はずに玄関から應接問に通ると、頭山翁の大きな胸像と、私の奈良の歌の犀風が立ってゐた。それから奥へ通って老人たちに會って、よもやまの談に時を移した。しかしこの八十二歳と七十五歳の老夫婦は、世間の老人たちのやうに、何十年たっても毎日同じことを繰り返すことはしない。今度は、近頃燃えるやうな熱心で手を着けてゐる老人救済事業のことを、こまごまと話してくれた。
 十九日目をさますと、武蔵野の初冬はなかなか寒い。縁側へ出て眺めると、廣い庭一面に白い霜が下りてゐた。その霜の中を愛蔵老人は一人で散歩してゐた。
 朝飯のテーブルの上で老夫婦の質問に應じて地蔵菩薩の形式や信仰のことについて、例の如く長噺をしてゐるうちに、迎の車が来て、私と愛蔵翁とは歌舞伎座を見物に行った。今日は若主人の誕生の祝に中村屋に勤める二百人あまりの従業員を、すべて二等席に招待したので、われわれもそのお相伴をしたのである。
 その晩、私は再び新宿の「トトヤ」へ戻って聞くと、昨晩亀井勝二即君が来てくれたといふことだ。それから二三人の客に面會してから床に入り、翌二十日の午前にまた早稲田へ行って、図書館の中にある美術史標本室に入った。これは私を記念するために、先年この大學が特に設備してくれたもので、ここに陳列してあるのは、私が貧乏の教員生活の財布の中から、血の出るやうな小銭をしぼり出して、買ひあっめたものばかりで、今では大學の一つの特色となって、外國人などにも見せられてゐるが、私にとっては、すさまじい牛生の想ひ出だ。
 この晩「トトヤ」へ小林秀雄君が中央公論の松下英麿君とやって来た。小林君は、昨年芝の伊皿子のある料亭で一度遇っただけの間であるが、今晩は、一足さきに福田雅之助君夫婦が来てゐたので、學生時代から猛烈な福田ファンであった小林君が、まづ狂喜、それからスポーツや文藝の談に花が咲いて、痛快な一夜となった。私は上京以来一度も酒瓶に手を触れなかったが、今夜ばかりは二杯だけ飲んだ。小林、松下の二人は歸る時に、同じエレヴューターを四五回も上ったり下ったりして、小林などは午前二時半にやうやく鎌倉の家へ着いたといふことだ。
 二十一日上野から急行で新潟へ向つた。
                『新潟日報』昭和二十六年十一月二十六日

『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №37 [文芸美術の森]

錦さん

          エッセイスト  中村一枝

 毎日のようにコロナの死を聞く今日この頃、人の死に対してどこか鈍感になっているような、不遜な気がしていたのだが、義理の妹に当たる斎藤錦さんの突然の死を聞いてからというもの、無力感にとらわれている。心筋梗塞だった。
 亡くなる一ケ月ちょっと前くらいに、ふらりと下北沢からやって来て、三時間ほど楽しいときを過ごした。ここ一、二年、お互いの健康上の理由やら何やらで、電話でしゃべることはあっても、向かい合い、ひざを突き合わせての語らいは本当に久しぶりだった。それが最後になるとは夢にも思わず、それぞれの胸の内を洗いざらいはきだしたくらい楽しい語らいだったと今は思う。彼女の持つおおらかさ、明るさ、やさしさ、といったものが一つずつ思い出されて、かけがえのない仲間を失った気がしてくる。
 錦さんは熊本出身。いわば汀女さんの後輩に当たる。彼女が汀女さんの嫁として下北沢に来てからも、バスで三十分、電車で四、五十分くらいの距離なのに、お互いの日常にかまけて、特に大森と下北沢の距離を縮めるようなことはしなかった。
 考えてみると、私はずるく立ち回って危なそうなことからはさっさと逃げ出した。
 汀女さんという人は、人間的にも、姑としても、いわゆる姑根性といった意地悪な所は何も無かったが、当時の私は少しおっかないという気はしていた。そのおっかない人を若い義理の妹にさっさと押しつけて自分は涼しい顔をしているという負い目も、どこかにくすぶっていた。いつかは錦さんに平身低頭して私の身勝手とわがままを許してもらいたいと思っていたのだ。その錦さんが、私が許しを乞う前にさっさとあの世へいってしまったのだから、私は下ろしたい頭の持って行き場がない。
 今もって、錦さんのやさしさ、おおらかさが思い出され、私は、今、自分の至らなさにほぞをかんでいる。
 錦さんは中村家の次男の嫁である。長男夫婦(つまり私と夫)が別に家を構えたあと、下北沢の家に同居して持前のおおらかさで家を切り盛りしてくれた。今思い出してみても、汀女さんは、錦さんへの不満や愚痴をひとこともこぼしたことがなかった。長い間一緒に暮らして、彼女のおおらかさ、暖かさ、夫や子どもへの深い愛情などをはっきりと感じ取っていたのだろう。
 嫁と姑といえば、汀女さんを巡る私たちの関係をいつも思う。嫁姑の関係は、このさき、どんなに世の中が変わっても多分ずっとつづいていく。時代が変わっても、方程式に当てはまらない、不自然な関係、いつかどこかでくすぶってくる。実はちょっと肩を外せば何のことはないのに、その肩を外すことがとてもむずかしい、変な関係なのだ。この先、百年後の身の上相談の欄に、今と同じように嫁と姑の関係が載ることは間違いない。錦さんは肩を外すのが自然にできた人だった。


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №43 [文芸美術の森]

「第七章 「小説なれゆく果て」7
 
        早稲田大学名誉教授  川崎 浹 
  
それでは仕様がない、あの家に行く事にはならぬ」

十二月二十三日
番頭来て、洲の岬の寄付は田端が市長と話をつけてきまった、との電話があった事、ついてはいつ引っ越すか早くやってくれと言ってきた、その寄付人の名義はだれになっているのかと言ったら、それは知らないという。それでは仕様がない、あめ家に行く事にはならぬ、と突っぱねる、彼帰去。
 夕方土地の東側に多くのブルドーザーがやってきた音。ここは東西南北田地に周りかこまれて一メートル位の高地になっている。その田圃を土盛り始めた。ブルドーザーが土を運んできては埋めならして行く。家がぶるぶるとふるえる。夕方までにこちらと殆ど同高にした。地主に知らせるべきだと出かけて行き、地主の玄関で叫んだが返事しない。皆いるらしい。ガラス戸に人影が映ったりする。もう暗くなっていたので叫ぶのをやめてポケットにあった有り合わせの紙片に大体の事情をかいて郵便受けに差し入れて帰る。
 ▲野十郎はかつて久留米に暮らしていたときの経験で、田畑の境界線について詳しく知っていたので、現在起こっている事態が地主に不利ではないかと書いて知らせている。しかし恐らくここの地主も野十郎を立ち退かせようとしているので、知らぬふりをしている。

十二月二十四日
 土盛りつづく、特に南方は庭に二間位侵略して土を盛った。一間位の山を造った。玄関、畑を一間幅道路として借りている畑もブルドーザーで引きかき廻して土を敷いた。道が無くなった。水くみに裏に出たら睡蓮池の向こう側に郵便屋がどこから行けばいいのですかと叫んでいる。こちらに来てくれと玄関前で受けとる。
 夕方村の懇意な人、一人の男を連れて来、道が分からないので案内してくれと頼まれてきたとM銀行相支店付きという名刺、入れて画室に通す、昨日東急に小切手を振り出した、それを高島さんに渡すため東急の社員とコブタとが行くから立ち会ってくれとの話で来たとのこと、では今にくるでしょうから待っていたらいいでしょう。だがなかなか来ない。どうせ仕事もないし、少し話し始める。一体何の金を渡すのですか。知りません。私の方には受ける金なんか一銭もないのですが、反対に房州に新築している家が少し建坪が広くなっているのと瓦などオーバーした費用をこちらで払うと言っているのでこの金を取りに来ると待っている処でこちらにやる金なんかないはず。又持ってきても受け取りません。そういうことになると何だか又たくまれてでもいるようで警戒しなくてはなりません。実は房州に新画室を建ててそれに移れとしきりに言ってきている処ですが、こちらから提案したことをやらずにその道をやるので移らないと言っている処で、これを無理に私を移すとしたらその計画どうなるのですか。あなたはまだお若いが利口そうな方だからご意見を聞かせてもらいたいですが、私はここだけが安住の地です。外にこの両足の裏で立つだけの土地がありません。ここを追い出されたら行く処は公道だけです。これも歩きつづけるだけで立ち止まったり腰かけたりは許されません。公園はベンチも休息できますが、夜は禁止の処がある。宿屋も無任所者は泊めてもらえません。私をここから追い出せば戸籍がなくなるのです。つまり私は日本人ではなくなり、結局国外追放でシバ舟にのせて領海外に突き出されるのが落ち。ということになりますね、と銀行員も賛成した。いくら待ってもコブタ達こないので、これ銀行のカレンダーです、毎年西洋の名画を刷っているのですと置いて彼ら帰去。
 ▲私の日誌では十一月十七日(日曜日)に増尾の高島さんを訪問している。そのとき土地の検分に同道する話がきまった。検分は十一月二十五日ではなく、二十三日(勤労感謝の日)に「高島氏の土地の件で房総へ。夜十二時帰宅」とある。祭日で大学が休みなので同道できた。また真聞手古奈(ままのてこな)の話を聞いたのもこの日らしい。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №50 [文芸美術の森]

        歌川広重・東海道五十三次シリーズ

                           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                     第1回 はじめに~広重登場~
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≪「名所絵」の絵師・広重≫

 私の“日本美術へのオマージュ”とも言うべき「日本美術は面白い!」シリーズは、2019年1月の第1回「琳派~俵屋宗達」から始まり、第34回まで「琳派の魅力」を語ってきました。
 その後の第35回から前回(第49回)までは、「浮世絵の魅力」というテーマで、葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」について話しました。
 引き続いてこれからしばらくの間も、広重、歌麿、国芳、写楽などを取り上げながら、「浮世絵の面白さ」を語っていきたいと思います。

 「北斎」の次に登場するのは「歌川広重」です。ここでは、広重の代表作である連作「東海道五十三次」と、晩年の連作「名所江戸百景」に焦点をあて、その中から選んだ作品を重点的に紹介しながら、その絵画世界の特質と魅力をさぐってみたいと思います。

 歌川広重(1797~1858)は、葛飾北斎(1760~1849)と同様、江戸時代後期に活躍しました。北斎よりは37年あとの生れです。

 当初、広重はさまざまなジャンルの浮世絵を手がけましたが、やがて「名所絵」(風景画)において独自の画風を確立し、この分野に数々の名作を残します。

 広重はまた、北斎とならんで、19世紀後半から20世紀にかけての西欧芸術に大きな影響を与えた画家のひとりです。
 印象派の長老カミーユ・ピサロ(1830~1903)は広重の絵を見たとき、「広重は印象派だ!」と言ったそうですが、実際には、半世紀ほど先行していた広重や北斎の方が印象派の画家たちに大きな影響を与えたのです。明治開化期の日本が西洋に放出した浮世絵が、ピサロやモネが成し遂げた「印象派革命」という絵画革新の起爆剤となったのです。

≪幕臣から浮世絵師に≫

◎広重が絵師になるまでの生い立ちをおさえておきましょう。

 広重は、寛政9年(1797年)、幕府に仕える定火消同心・安藤源右衛門の子として、江戸・八代洲河岸にあった定火消屋敷の一角で生まれました。幼名は徳太郎。
 定火消同心はいわば幕府“消防庁”の役人。火災が起こった際には、火消し人足とともに現場に駆けつけて消火にあたる役目の下級幕臣でした。

 ところが、徳太郎13歳の時に、両親を相次いで亡くしてしまう。徳太郎は、少年ながら定火消同心の家職を継ぎ、安藤重右衛門と改名しました。
 幼い頃から絵を描くことが好きだった重右衛門は、火消し同心を勤めるかたわら、絵を描くことに熱中、15歳のときには、歌川派の浮世絵師・歌川豊広に弟子入りします。師匠からもらった画名が「歌川広重」。師匠の「豊広」から「広」をもらい、それに「重右衛門」の「重」をくっつけたのです。

 しばらくの間、広重は火消し役人と絵師という“二足の草鞋”を履いていたのですが、ついに27歳の時、家職を子の仲次郎に譲り、絵に専念するにいたります。つまり27歳の若さで“隠居”したのです。好きな絵のためとは言え、思い切った転身です。

≪初期には「美人画」を描いていた≫

 初期の広重は、歌川派一門が得意とした「女絵」(美人画)を多く描いています。そのような初期の「美人画」をひとつ見ておきましょう。

 下図がそれ。
 「外と内姿八景」というシリーズ名のついた4枚揃えの中の1枚で、「ろうかの暮雪 座敷の夕せう」と題されている。広重25~26歳ごろの作です。
 このシリーズの趣向は、部屋の中に芸者や遊女を大きく描き、それに呼応する外の情景を小さな円の中に描くというもの。

 この絵に描かれている場所は、深川仲町の料亭。部屋の中で手を打って仲居を呼んでいるのは深川芸者です。なかなか色っぽい風情ですね。

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 右上の円の中には、それに応じて障子を開ける仲居が描かれています。「姐さん、なにか御用?」と言っているのでしょう。
 外には雪が降り続いており、欄干や廊下にはうっすらと雪が積もっている。

 廊下に置かれた大きな風呂敷包に注目。これは「夜着包み」、あるいは「通い夜具」と呼ばれ、当時の花柳界の風俗を示しています。
 幕府による厳しい取り締まりを避けるため、深川の料亭では「芸者は客の御酌をするために呼ぶ」という建前にして、夜具(布団類)を置きませんでした。そのため、呼ばれた芸者は、男衆に「夜着包み」(寝具一式)を担がせてやってきました。それが廊下に置いてあるのです。
 だから芸者は、客の男と一夜を過ごすことを前提に来ていますし、この絵では描かれていませんが、芸者の右側には客の男がいるはずです。

 芸者の着ている着物の色は、寛政の改革で打ち出された“奢侈禁止令”の煽りを食って、地味な茶系統に限られていますが、その組み合わせは洗練されており、柄模様も念入りに描かれています。描線も滑らかで、立膝をたてた脚の丸味をおびた線などは、柔らかい身体の感触を暗示しています。
50-5.jpg 深川芸者は、粋で気っぷがいいことを売り物にしていましたが、そのほんのりとした色香が伝わってきます。
 若き広重が「美人画」の分野においてもなかなかの腕前をもっていたことがわかります。

 この頃の広重は、ほかに役者絵や武者絵なども描いています。
 しかし、江戸の町なかにはたくさんの浮世絵師がおり、歌川一門だけでも大勢の絵師を抱えているという状況の中で、広重はなかなか芽が出ませんでした。
 そのような不遇な時期、勉強熱心な広重は、狩野派の技法や南画、四条派といった他派の絵を学び、時には西洋画の技法を熱心に学習したようです。これらは、のちに広重が「風景画」のジャンルで活躍するときの豊かな土壌となったのです。


 次回は、広重が「風景画」に開眼するきっかけとなった作品を紹介します。

                                                                  (次号に続く)



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祖道傳東Ⅱ №34 [文芸美術の森]

第三十四図「道元春行図」

    
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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《紙本墨画彩色》192×345  六曲一隻屏風

 梅花は気品のある花として賞せられていますが、道元禅師はこの梅花を仏性の現われ、仏の悟りそのものとして称えています。
 『正法眼蔵』「梅花」の巻には、先師天童如浄禅師の語「元正啓祚 萬物威新 伏惟大衆 梅開早春」を示して、「梅間に帯せられて萬春はやし、萬春は梅裏一両の功徳なり、一春なおよく萬物を成新ならしむ、商法を元正ならしむ」と説き、春が来て梅が咲くのでなく、梅が開くから皆春となる。人も仏法に目覚めると全世界が仏国土となると示しています。

『祖道傳東』大本山永平寺


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ケルトの妖精 №42 [文芸美術の森]

グーラグズ・アンヌーン

            妖精美術館館長  井村君江

 ゥェールズの山あいに、ひっそりと水をたたえ、青く澄みわたったシーン・ア・ヴァン・ヴアーハ湖がある。その湖では満月の夜になると、たおやかな乙女が金の小舟を金の樺で漕いでいく姿が見られるといわれていた。
 ある月の輝く晩のこと。ひとりの若者がこの湖の岸辺に立って水面を眺めていた。若者は牛たちに草を食ませながら丘を越えてやってくると、湖のほとりで仮の宿をとることにした。
 若者は夕餉のパンを取りだしながら、ふと湖のなかほどを見やった。月の光に洗われている湖面に人影が見えたような気がしたのだ。目をこらすと、美しい乙女が小舟の上で波打つ金の髪の巻き毛をとかしているのが見えた。
 その美しさに若者はたちまち心を奪われ、パンを食べるのも忘れて見とれていたが、やがて姿はしだいに薄れはじめ、いまにも消えいりそうな気配である。
 若者はあわてて、手にしたパンをさLだしながら、
「岸辺まで来てください。そしてわたしの妻になってください」と、大声で叫んだ。
 するとその声に驚いたかのように、乙女は若者のほうに顔を向け、
「あなたの持っているパンは固すぎますわ」
 と言ったきり、ふっつりと消えてしまったのである。
 若者は、夜の闇にときおり月光を返してきらりと輝く静かな湖面を、夜が明けるまで眺めていた。しかしその晩、乙女がふたたび姿を現すことはなく、若者は見るも哀れに樵悸して家に帰っていった。
 このようすを見て心配になった母親は、息子から話を聞きだすと、つぎの日は火を通していない練り粉のパンを持たせてやった。
 ところがその日も若者は、がっくりと肩を落として帰ってきた。
「これはやわらかすぎるそうだ」
 母親はつぎの日、こんどは軽く焼いたパンを持たせてやった。
 気を取りなおして三たび湖を訪れた若者が、そのパンをきしだすと、湖の乙女はようやく若者のいる岸辺に近づいてきた。そして、
「あなたの妻になりますわ」と、約束してくれた。それから、
「でも、わたしの願うことをけっして破らないと誓ってほしいのです」と言った。
 思いがかなって有頂天になっていた若者は、「なんでも言うことをききます」と誓った。
 それを聞くと乙女はきっぱりと言った。
「わたしの願いは、わたしを叩かないということです。もし、あなたがわたしを三度叩いたら、そのときわたしはあなたの前から消えてしまうのです。どうぞお忘れにならないでください」
 嫁入りにあたって、湖の乙女はたくさんの牛を連れてきた。その牛のおかげで若者の家は日ましに豊かになり、妻になった湖の乙女とともに、若者は幸せに暮らした。
 四年たったある日のことである。
 近所の農家で赤ん坊が生まれ、若者と妻も洗礼式に出席するために出かけていった。
 ところが、お祝いの席でみんなが楽しく語り合っていると、
「悲しみと苦しみがいっぱいのこの世に生まれてくるなんて、なんてかわいそうな赤ん坊でしょぅ」と言って、妻がとつぜん泣きだしてしまった。
 人間の運命が予知できる妖精の心の表れだった。若者はあわてて、
「そんな不吉なことを言わないように」と、周囲の目を気にしながら、妻を軽くこづいた。
すると、
「気をつけてね、あなた。いちど叩いてしまったのよ」
 と、妻は悲しげに言ったのである。
 それから幾月もたたないうちに、赤ん坊は死んでしまった。若者と妻は連れだって葬式に出かけたが、こんどはその席で妻が、
「赤ちゃんは、罪と苦しみから逃れられてよかった」
 と、うれしそうに顔をほころばせ、身体を震わせて踊りはじめたのだ。若者は困ってしまい、やめさせようとしてまた妻の身体を軽く叩いてしまった。
 そんなことがあって、しばらくのちのこと。若者と妻は村の老人と若い娘との結婚式に招かれることになった。
 そのお祝いの席で妻は、こんどはワッと泣きだして、
「お金のためだけで、愛してもいない老人に嫁ぐなんて残酷だわ」
 と、叫んだ。
 人々は驚きあきれた。若者はなんとかその場を静めようと、ちょっとだけ妻を叩いた。すると、
「三度めよ、あなた」
 と、つぶやいたかと思う間に妻の姿は消えてしまった。
 驚きあわてた若者は妻を探してあの湖まで行ってみた。すると、妻が連れてきた牛の最後の一頭が湖のなかに消えていくところだった。
 妻となった乙女は、グーラゲズ・アンヌーンといって、湖に住む妖精だったのである。

◆ 妖精と人間が結婚するには、「約束を守りとおさなければならない」というタブーがある。叩いてはいけない、鉄でふれてはいけない、どこへ行ったかたずねてはいけない、などいろいろあるが、 タブーを犯してしまうと、妖精との結婚は悲劇に終わるのである。
 それにしても妖精には、人間の運命や未来が見えるようだ。妖精という言葉のなかには、ラテン語のファートム(運命)という意味も含まれるというが、うなずける話である。


『ケルトの妖精』 あんず堂




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渾斎随筆 №72 [文芸美術の森]

名誉市民について

                歌人  会津八一

 新潟市に「名誉市民」といふものが出来るといふこと、そして私もその中にはひるといふことが、年の碁から何度も新聞に出たので、私は、たいへんに気にかけて居る。それは是非それになりたいとか、もしもなれなかったら大變だなどいふのではない。私には、その「名誉市民」といふものが、何のことか解らないので、めつたなものにされては困るから、それを気にかけてゐるのだ。
「名誉」といふ字がついてゐるほどだから、わるいものではないだらうし、ことに私もかなり名誉心は強い方だから、市會の人たちが私に同情してやってくれるのなら、決して惑いことではないと思ふから、黙って頂いておいても、まちがひはないと思ふが、やはりいくらか気にかかる。それは、ここでいふ「名誉」といふ文字の意味がよくわからないからだ。
 私のつとめてゐた大學では、二十何年も前に、私のことを博士にするといふ話が持ち上った時に、私は、そんな場合には、いつもするやうに、固く辞退した。それは格別ほしくもないからであったのに、大學では私の恩師の坪内先生へお願ひをして、そのために私は熱海の先生のお宅まで呼びつけられて、さんざんに不心得を訓戒されたが、私はなかなか承服しなかった。けれども、われわれの大學としてその方が都合がいいのだといふお話もあったので、そんなら、およろしいやうにといふことにした。そこで、とうとう貰ふことになったが、私は東京に住んで居る間は、そんなものを名刺に刷ったりはさせなかった。けれども新潟に歸ることになってから、名刺には私の万からそれを入れるやうに註文することにしてゐる。それは、受取る人の方で喜ぶやうに見えるからだ。しかし東京あたりで近頃出版される人名群書や年鑑などには、いつのまにか、文學博士とか文博とかそんな風のことを、誰の上にもつけないことになった。これはたしかに一つの進歩にちがひない。
 博士になってから何年かたって、私も少し年を取ったので、老齢にして事に堪へずと辞表を出した。私の大學では七十歳を停年としてゐる。私が辞表を出したのはその七十より四五年前であったが、年来いくらかの功労があったとかいふので、その四五年をまけてくれて、特別に名誉教授にしてくれた。こんな風に私の方はおまけになってゐるのに、私からいへば八年も年上の津田左右吉さんは、戦争中にあの有名な歴史上の學説のために、ある人たちから、まるで不名誉のどん底のやうにいはれ、それがもとで法律にもひつかかつて、われわれの大學から一時は離籍して居られた。それを、あとでまた迎へ入れて、私と同時に名誉教授にしたものだ。
 けれども私は「名誉教授」といふものが、今以ってよくわからないので、考へてみるに、日本で名誉教授といふのは、英米では「エメリタス・プロフェッサー」といって、この「エメリタス」といふことばは、忠實に年季をすっかり勤め上げたといふ意味らしいから、回り回って律義な恪勤者といふことにはなるであらうが、その中に名誉といふ意味はかすかだ。そしてわれわれがその稱號を頂戴しても、それを謹明書代りにして、これから勤め先を尋ね歩くといふのでもないから、さしあたり私にはいらないもののやうに思へるし、それに、名誉といふのは誰の名誉になるのか。貰ふ方があまり名誉にしないとなると、くれる方が名誉にするのか。ますますわからなくなる。もともと「エメリタス・プロフェッサー」を讃した時のふとしたもののはずみから出て来た名誉であってみれば、貰ふ方にいくらかの名誉があるのだとしなければなるまい。とにかくこの言語は「完動教授」と詳す方がいい。さうすると、いくらかまぎらはしさが減る。しかしそれと共にことばの魅力は、すっかりなくなるであらう。
 そこで思ひ出されるは「オノラリー・タイトル」とか「オノラリー・デグリー」とかいふ言葉である。これはいはゆる「名誉博士」のことであるが、この「オノラリー」のついたのには「オノラリー・プレジデント」で名誉會長とか「オノラリー・メムバー」で名誉會員とか、そんなものが、まだいろいろある。これは決して停年まで勤め通したの何のといふのでなく、またこれを自分に贈った學校なり學會なりに、事務的にも経済的にも、何の拘束も義務もなく、そして何所に住んでゐても自由だ。これは恐らく、贈られる方の名誉のために、そして贈る方の名誉にもして両方を兼ねて贈られるものらしい。
 このほかに英語には「オノラブル」といふ形容詞があって、たとへば英国議會あたりでは、議員が互に呼び合ふ時には、敵でも味方でも、かならずこれを附けて呼ぶといふ。この調子で「新潟市民」たちにこれを附けるなら、みんなが「オノラブル・シチズン・オブ・二イガタ」となる。けれども何十萬といふ市民が互にこの敬称で呼ばれるならば、何のうま味もないものになるから、それをある特定の二三人の敬稱にするのほ面白くないであらう。
 そこで話は新潟の「名誉市民」に戻るが、この「名誉」は、もとより「エメリタス」でもなく、また「オノラブル」でもなく、やはり「オノラリー」でなければならないと思ふが、今度われわれ市民のために、新しく作られる「名誉市民」といふものは「オノラリー・プレジデント」といふ時の「オノラリー」の意味で、新潟の「シチズン」にそのまま當てはめるのか。どうか。それから私はまだ洋行をしたこともなく、海外の様子は、まるでわからないが、近頃仙臺市から始まって、長崎市でも、そんなものが出来たといふが、米國あたりに手本があるのを、そのまま取ったものか。または、仙臺や長崎が、めいめいに獨創的なところがあるのか。ないのか。そしてわれわれの新潟ののは、それらの先例にどんな関係があるのか。ないのか。その邊をよく知りたいと思ってゐる。
 私はまた年内に東京から鎌倉に出て歸って来た。鎌倉でも「名啓市民」を作るといふ話を聞いたので、その人選やそのほかのことを聞くに、小説家の小杉天外と詩人の蒲原有明の二人が候補に上ってゐるといふ。この鎌倉といふ所は、近年になってめっきり文化人が多く住むことになって、この二人のほかに、高濱虚子、長谷川如是閑、里見弴、久保田万太郎、川端康成、久米正雄、大彿次郎、小山富士夫などと、相当なものがたくさん住んで居って、随分壮観だが、里見以下は七十歳にはまだまだ遠いけれども、七十五歳の蒲原が入ってゐるのに、それより一つ上の長谷川和是閑や二つ上の高濱虚子が、あれだけの實力と名聾を持ちながら、なぜはひらないのか。これはたぶん高濱、長谷川の二人はまだ元氣で、生きて活動して居るからかもしれない。この標準によると名誉市民になるのは、死火山のやうなものと認められたことになる。その邊のことは私にはよくわからないが、とにかく小杉、蒲原の二人は、市から税金を免除されることになってゐるといふことであった。
 文化人の寫眞集を作るといふので、先日東京から、はるばると私の所へ撮りにやって来た土門拳といふ寫眞家は、それより先に仙臺へ行って、詩人の土井晩翠、細菌學著の志賀潔の二人を撮ったといって、その時の印象を私に話してくれた。それによれば、土井さんも相當に貧乏らしいが、志賀さんの方は、もつとひどいらしく、この世界的の大學者のお宅は、實に貧弱なもので、座敷の中には調度も器物も何もなく、床の間の白い壁のまんなかに、掛物がなくて、その代りに文化動章が懸けてあった。そしてそのご本人の眼鏡の一方のガラスがこほれて居るのを、紙切れを貼って修理して、それをかけて居られたといふことだ。仙臺市がこの二人に對して市税を免じてゐるか。またはいくらかの年金を贈ってゐるか。その邊のことは聞かなかったが、仙臺の飾にも誇にもなるといふ意味をこめて「名誉市民」などいふ立派な言葉をを用ゐて居るのなら、それくらゐのことをしても當然であらう。もしまた、それほどにするにも足らぬ人たちなら、「名誉市民」などと擔ぎ上げるのは、全く無駄であらう。  (十二月二十草ス)
                   『新潟新報』昭和二十六年一月一日

『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №178 [文芸美術の森]

こぐま 2点 1952年

            画家・彫刻家  石井鶴三

1952こぐま.jpg
こぐま 192年 (126×178)
1952こぐま2.jpg
こぐま 1952年 (236×178)

 **************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №42 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆく果て」6

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹   

大義名分

十二月十三日
  番頭きて十五日までに越すかという。家もまだここと同様にはなっていない。ここの便所を見よ。ここは写真の暗室にもなるように出来ている。写真は研究に必要だ。その他のこと帽子かけの釘一本でも打たないのならここと同様ではない。前にここの地主大工等にひどい目にあわされている。二度とこんな目にはあいたくないということ、コブタにも話をし、手紙にも書いてやっている。これをこのままヘリコプターでつり上げて持って行くような、ここにこのまま仕事をつづけて居られるような風に万事が完備しなくては引っ越し交換にならない。
 それから最後に最も必要大切なことがある。一つはあの工事をやるとき材料を海のほうから運んだらしく、隣接の畑地をふみ荒らしているそうだ。そのままだとその地主、ひいては村の人達への不義理とうらみは全部その住居者にふり向けられる。
 だからその畑主の処に行って謝罪して相当の金で弁償してくること、この金は高島が出してやる。行くなら今ここで渡しておくがどうしますか。第二にこれは高島があの家に転居するには絶対必要な大切なことだ。あの地所や建物一切を千葉県か館山市に寄付すること。寄付したらその番人としてか管理者としてか高島という画かきの研究室に使い住居することを許可、認可すること。公務員ではない、その地所、家についての義務と責任は完全に負う。例えば納税、損害バイショウ等、町会費、電気水道等支払い、その義務責任にっいては詳しく書いてやる。ただそれには、どんな家を建てるかしらないが、もし租末で市のほうでこんな家は受けないというなら、川名地区か又はあの辺のなんらかのグループに寄付すること。寄付した以上はもはや釘一本無断で打つわけにいかぬ。だから家の住居に完全運行できるように仕上げること。これで高島入居、死亡又は一ヶ年行方不明になった場合は川名地区の公共建物として使うこと、ただし海水浴客等のダンスホールなどに便わぬこと、くわしくは後で書いてやる。この寄付が大切だ、こういうことにすれば大義名分が成り立つ。大義名分とはなんですか。分からなければいい。外の者にはこれだけですぐ分かる。番頭帰って行った。

十二月十四日
 コブタと番頭来る。昨日は体中が急に具合が悪くなって吐いたりした。体中がムカムカすると言って、今度は急にドナリ出す。この絵は皆インチキだ、見るのも気持ちが悪い。
 ここの家は何もかもインチキだ、ペテンだ、エゴイスト、馬鹿、畜生、恩知らず、義理知らず、とあらゆる罵声を張り上げてドナル、外の労務者たちに聞こえるようにか、身を乗り出して今にもナグル姿勢で迫ってくる。番頭は何のためか立ち上がって、コブタに加勢する気かイライラした様子。もう止める、あの家に移るのは断然止める。この高島をあの家に移そうとするなら首にツナをかけて車の後に引きずって行きあの家に放り込んで釘づけしておくより方法はないぞ、教えてやる、と宣する。コブタはこの野郎手のつけようのない野郎だとすてせりふを投げて帰って行く。

十二月十五日
 コブタには昨日言っておくべきだったことを手紙に書いて速達で出す。「提案した二つの件、隣接畑を荒らしているのをあやまること。家、敷地を寄付して入居を許すことの二件は最早必要なくなったので、その提案取り消す。このこと念のため申し送る。

十二月十八日
 コブタと社員とが田端氏夫妻を連れてきた。今度はコブタお世辞だらだら、田端は高島のいう通りにする、寄付するということはりつばなことだから市長に話す。受けるに決まっている。それで五日位の内に引っ越すようにしてやってくれないかと。そうしてもいい。しかし寄付はだれの名義になっているのか。実は先日館山市から建築出願の許可書を渡すから取りにこいという通知がきていたが、私に関係ないから放っておいた。
 ▲以下省略するが、新アトリエの名義問題、絵画の輸送方法、現在土地を借りている地主との貸借関係などで、高島野十郎の移転にはなかなか決着がつかない。

十二月二十日
 夕方地主の酒田来た。久しぶりだ。地代は大晦日に東京に行って電報カワセで送っておいた。工事が進んでいるようなので一体どうなっているのか見にきた。借地人にはそれぞれ相応の義務がある。例えば境界を守ること、又借りた時の状態で返さねばならぬことなど、貸し主の権利を並べていた。借り主の義務は一応心得ているつもりですが、それは貸借をやめる時の問題で、今は何もそんな時ではない。地所を荒らしていると言われるが、この自然に雑草や篠竹を繁らせているのは昨年からで、これは少し都合あってのことです。一体義務とか権利とか言いますが、義務と権利とは元来同じものなのです。例えば人間の一面が義務だとすれば、その反対の一面が権利とあるような事で。人の前向きが権利で背中が義務ですね。いいえ前後ではないのです。丸いゴムマリの日当たりがどちらかで、その暗い方がそのどちらかになるというのです。ええ、分かりました、とやっと分かったらしい。権利ばかりを主張しつづける奴等、いや死守している奴等、それでもやっと分かったらしく、さすが苦労している男だけある。帰って行く。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社




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祖道傳東Ⅱ №33 [文芸美術の森]

第三十四図「祖道傳東」

     
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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《紙本墨画》 九〇×.二丘 軸装

道元禅師の『山居(さんご)』の中にあるこの詩の一節は、道元禅師の心の姿を写し取ったものといえます。
  西来祖道我博東
  釣月耕雲慕古風
  世俗紅塵飛不到
  深山雪夜草庵中
   西来(せいらい)の祖道 我れ東に伝う、
   月に釣り、雲に耕して古風を慕う。
   世俗の紅塵 飛んで到らず、
   深山の雪夜、草庵の中。

 ここでは、道元禅師の教えるところの仏教は西来のみならず、いまは全世界に向けて、その教えが伝えられています。
 真実の坐禅の命脈は、確実に伝播されていることを喜びといたします。

『祖道傳東』大本山永平寺


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №49 [文芸美術の森]

         葛飾北斎≪富嶽三十六景≫シリーズ

          美術ジャーナリスト  斎藤陽一

       第15回 印象派に与えた影響

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≪「連作」という形式≫

 葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」が西洋絵画、特に「印象派」に与えた影響については、これまでの回で、折々に紹介してきましたが、今回、「富嶽」シリーズの最後に、これまで触れなかったことをいくつか押さえておきたいと思います。

 先ず、「連作」という絵画形式です。
 言うまでもなく、北斎の「富嶽三十六景」は、ひとつの山を主人公に、各地の景物を織り込みながらシリーズとして展開した「連作」です。
 ところが、西洋絵画には、19世紀後半、明治開化期の日本から流出した日本美術を知るまで、このような発想による「連作」形式はほとんど見られませんでした。

 ですから、北斎の「富嶽」シリーズなどを見た近代西洋の芸術家たちは、これに衝撃を受け、「このような絵画形式もあるのだ!」と気づいて、そこから重要な示唆を受け取りました。特に、当時の絵画主流であった古典主義に立脚するアカデミックな絵画に反発し、新しい絵画を模索していた若い画家たちのグループ「印象派」のメンバーは、西洋絵画にはないさまざまな特質を持つ日本絵画に、希望と活路を見出しました。

 その特質のひとつである「連作」形式について見れば、たとえば、印象派の代表的な画家であるモネは、北斎や広重などの連作から啓発されて、「睡蓮」をはじめ、「積みわら」「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」シリーズなどの連作に取り組み、新しい西洋絵画の世界を切り開きました。

 また、セザンヌは、故郷である南仏・プロヴァンス地方の山 サント・ヴィクトワール山を生涯にわたって何枚も描いた画家ですが、彼にとってこの山は、日本人にとっての「富士山」にあたる「心の山」でした。
屈折した心情の持ち主であるセザンヌは、彼が唯一心を許した印象派の長老ピサロが手放しで浮世絵を賛美したようには、あからさまに浮世絵を賞讃する言葉を残していませんが、おそらく、彼の「サント・ヴィクトワール山」シリーズには、北斎の連作「富嶽三十六景」がひとつの着想源となって反映しているのではないか、と思います。

≪ゴッホの敬愛する“聖人”≫

 もうひとつ、北斎の「富嶽三十六景」を代表として、古来、日本美術にひんぱんに描かれる「富士山」という、特別な山の意味について触れたいと思います。

 印象派の画家たちは、たくさんの浮世絵を見ているうちに、北斎をはじめ、日本の多くの絵師たちが、繰り返し、“独特の美しい姿を持つ、凛とした風格を示す山”を描いているのに気づき、そこから、「この山は日本人には特別な山であり、日本人にとって“聖なる心の山”である」ことをただちに理解したに違いありません。

 その“発見”がどのような絵になって現われたか、ここでは、ゴッホを例に挙げたいと思います。

 ゴッホは、浮世絵と出会い、画風を一変させるほどの影響を受けただけではなく、浮世絵を生み出した「日本」という国に対する熱い憧れをつのらせた画家です。

49-2.jpg 右図は、1886年にオランダからパリにやってきたゴッホが描いた「タンギー爺さん」の肖像です。
 タンギー爺さんは、パリでゴッホが知り合った画材店の主人。寛大で心やさしい人物で、店にやって来る若く貧しい画家たちに、作品と交換で画材を与えたり、時には無償で絵具やカンバスを与えたりしていました。
 ゴッホは、このようなタンギー爺さんを心から敬愛し、ゴッホが憧れていた“素朴で心の寛い日本の老人”に重ね合わせて描いたのが、この肖像画です。
49-3.jpg ゴッホはまた、タンギーを、正面向きの姿勢でこちらに慈愛のまなざしを向ける仏像のように描いています。その周りには、自分の愛する日本の浮世絵を並べて、爺さんを荘厳(しょうごん)荘厳しました。

 特に、タンギーの頭上にある絵に注目(右図)。「富士山」ですね。
ゴッホは、この“聖人”のような爺さんの頭を富士山で飾ったのです。あたかも、西洋宗教画の聖人の頭上に「円光」が描かれるように。仏像の背後の「光背」にも同じような「頭光」がありますね。

49-4.jpg パリに出たゴッホは、熱心に浮世絵を研究する中で、多くの絵師たちが繰り返し描いている、格別に美しい姿を持つ富士山こそ、「日本人の心の霊峰」であることに気づき、“仏のごときタンギー”にふさわしい冠と考えたのでしょう。

≪「富嶽三十六景」の終わりに≫

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 これまで、No.35からNo.48までの回で、葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」(全46図)の中から、14図を選んで紹介してきました。

 この「富嶽」シリーズの最初の回(No.35)で申し上げた通り、北斎の90年に及ぶ生涯は「絵ひとすじ」の人生であり、あらゆる絵画のジャンルに挑戦し続けました。その中で、「富嶽三十六景」を始めとする「風景画」の傑作を次々と生み出したのは、彼の晩年、七十代に入ってからでした。
 その時期に入っても、北斎の造形力は大胆でみずみずしく、そこが当時の江戸の人々のみならず、時代や国境を超えて、普遍的な共感を呼んでいるのだ、と思います。
北斎は、まことに類いまれなデザイン感覚を持った造形家であり、斬新な構図と鮮やかな色彩を駆使したその絵画世界は、現代もなお、色あせることはありません。
 次回からは、北斎の後輩にあたる歌川広重の代表作「東海道五十三次」シリーズからいくつか作品を選び、北斎とは一味ちがう広重の絵画世界を紹介していきたいと思います。
(「富嶽三十六景」シリーズ・終: 次号「広重:東海道五十三次」に続く


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ケルトの妖精 №41 [文芸美術の森]

ブラック・アニス

           妖精美術館館長  井村君江

 ブラック・アニスは、ディン・ヒルズという丘陵地帯の洞窟に住んでいた。背が高く、一つ目で顔は青く、長く白い歯をして、鉄の爪で人をさらった。棲み家の洞窟の入り口には大きなオークの木が立っていた。あたりが暗くなると外に出かけて、道に迷った子どもや子羊を取って食べた。そのためにブラック・アニスは人食いアニスとも呼ばれた。
 ときとして、ブラック・アニスは家のなかにも入ってくることがあった。風がごうごう鳴る音と一緒にブラック・アニスの歯ぎしりが聞こえたら、人々は家の戸口にかんぬきをかけ、窓のそばから離れて身をすくめていた。
 むかし暖炉は家のまんなかにあって、家のものはそのまわ。で暖をとりながら眠った。ブラック・アニスが窓から手をさしのべ、赤ん坊をつかみ取っていかないように、この地方の家には大きな窓がなかった。人食いのブラック・アニスが家のなかに片腕しか突っこめないようにするためだった。
 ブラック・アニスが吠えだすと、八キロ先まで聞こえ、家財道具が何もない掘っ建て小屋に住む貧乏人さえ、窓を豊な皮の布でしっかりふさぎ、魔女よけの葦を塗りこめて、恐
怖の一夜を過ごしていた。
 ブラック・アニスは冬にしかみんなを恐れさせなかった。だから春を迎える復活祭の翌日には、ブラック・アニス狩りの風習があり、この地では十八世紀までつづいていた。
 それはアニスの実の汁に猫の死骸を浸して、ブラック・アニスの隠れ家から人里まで引きずっていくという行事である。

◆スコットランドの冬はきびしい。雪も多くて寒さはひとしおである。
 人々は暖炉の暖かい火のまわりに集まっては、岩山を吹くはげしい風の音に耳を澄ませ、、「あれは青い顔をした冬の老婆が、地面を杖で叩いてかたく凍らせているのだ」と、いまでも話し合っている。
 頬の肉の落ちた一つ目の青い顔をしているとされている冬の老婆は、イングランドではブラック・ァニス、スコットランド高地地方ではカリアツハ・ヴエーラと呼ばれ恐れられていた。
 ケルトの暦にはベルテナ祭(五月一日)からサウィン祭(ハロウィーン、十月三十日)までを照らす「大きい太陽」の季節と、サウイン祭からベルテナ祭前日までを照らす「小さい太陽」の季節がある。
 サウィン祭からはじまる「小さい太陽」の季節になると、カリアツハ・ヴューラは、夏のあいだ石になっていた姿から息を吹きかえし、手にした杖で秋の葉を叩いて落とし、岩山や川を凍りつかせて生き物を凍え死にさせてしまうのだった。
 春も近いあるとき、カリアツハ・ヴエーラは山羊を守っているうちに、疲れて泉のそばで休んだ。眠っているあいだに雪がとけて泉の水があふれだし、ブランダー渓谷にすさまじい勢いで流れだした。その轟音で目を覚ましたカリアツハ・ヴエーラは水を押しとどめようとしたが、勢いは止まらず、洪水となって平野まで流れだして多くの人や動物たちを潰れ死にさせてしまった。スコットランド西部地方のストラスクライドにある湖ロッホ・オーができたのは、このときだといわれている。
 春になって「大きい太陽」が照りはじめ、ベルテナ祭の前夜になると秋のうちにせっかく落葉させた木々に芽が吹きはじめ、みずみずしい自然がよみがえってくるので、カリアツハ・ヴューラは、不機嫌になってしまう。そして手にした杖をヒイラギの根元に投げ捨て、石に変わってしまうのだ。ヒイラギの根元に緑の薬が生えないのは、こうした理由からだとされている。
 カリアツハ・ヴューラが一つ目なのは、冬の太陽の擬人化だからであるといわれている。とすれば、自然を破壊し動物の生命を滅ぼすとともに、いっぽうでは冬のきびしい自然のなかで動物たちを守護し新たな生命を育みながら守るという、二面的性格をそなえた存在であることもうなずける。
 きびしい自然を支配しているカリアツハ・ヴエーラは、ケルトの母なる女神アヌ、もしくはダーナから派生したものとも考えられる。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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渾斎随筆 №71 [文芸美術の森]

陶磁器の鑑賞

              歌人 会津八一                                         

 こんど小山富士夫君が、東京からやって来て、懸下の数ヶ所で、われわれのために、陶磁器の講演をしてくれられることになった。ことに今回は、ただのお話だけでなく、最近に小山君が、大へんな苦心をして、最近式の天然色の寫眞機で、歴代の陶磁器を撮影された、そのフィルムを持って来て、それを映寫しながら、説明をして下さるといふので、これはほんとにありがたいことだ。
 私は二十だいに國を去って、ずつと東京に暮らしてこんど引上げて新潟へ歸つて見ると、四萬の人口が二十何萬かに増してゐるし、その人たちの風俗なり、言葉なり、町の區畫なり、だいぶ變ってゐるが美術の趣味のことも、昔なら應擧や文晃の繪とか、海星や山陽の書幅でもいぢくり、そしていくらか茶器でもひねくれば、それで一かどの趣味家のやうな顔をしたもので、その頃は、陶磁器の鑑賞などいっても、至って幼稚なものであった。これは新潟だけがさうであったといふのでもないが今になって見ると、新潟では、もう應撃だの文晁だのといっても、誰もちっとも気乗りがせぬばかりか、いつそ佛蘭西の名書でも欲しいといった顔をしてゐる人もある。そして、もつと目につくのは、陶磁器の知識と趣味が、この地方でも、かなりの程度高まってゐることだ。
 陶器の歴史は古い。これを世界的にいへば、千年、二千年、もつとずつと昔にさかのぼっても、早くも立派なものが方々に出来てゐた。そしてそれらについて、文献や傳説も、かなり豊富に遺ってゐるが、その文献や傳説が、果してどの安物に、どんな具合にマッチするのか、そのところが、よく解決されぬままに、それぞれ、そのままに傳はつて来てゐる。そしてその貿物も、昔あつて、今は無くなつたものもあるし、時代の移り行くうちに、これまで見覚えのなかつたものが、時々土中から出て来たりする。そして同じ品物でも、まるで達ふ思ひがけもない地方から出て来るのもある。それをみんな、一人の力で整理して、その道の宿題をすっかり解決するわけには行かない。そして、もともと東洋のものでも、今では世界中の學著や研究者たちが、皆で総がかりで研究し始めた。欧米の博物館にもあちらの個人々々の手もとにも東洋のものが相當に集められてゐるし、正倉院の品物なども、世界の各地から見學にも来る。そして国境を越えて意見が戦はされ、そして落ちつくべきところに結論が落ちつく。かうした明るい今日の大勢であるから、田舎物識りの口傳だとか、内のおやぢの覚え書などを虎の子のやうに秘蔵してゐても、今の世の中へ、そんなものを持ち出すことは出来ない。古證文の出しおくれといふものだ。
 小山君は、たしか一橋の商科大學の出身であった。この人が落合村の ― その頃はまだ村であつた ― 私のところへ訪ねて見えたのは、今から二十何年も前であった。たしか料治熊太君が案内役であつた。その頃の小田君は、まだ随分お若かつたのに、もう日本中の主な窯跡、それに朝鮮の窯跡まで巡りつくしてをられ、それから自分で土をひねって、焼物を作ってをられた。私は大森のお宅までその作品を拝見に出かけて、折からご在宅のおとうさんにお目にかかったことがある。するとおとうさんから「せがれは、銭にもならぬものばかり作ってゐますが、あんなことをさせておいても、いいものでせうか」といふご相談を受けた。そして私は「大變立派なものです。大にやらせて下さい」と保讃して歸つたことを覚えてゐる。
 これだけのことは何でもないやうで、決してさうでない。文化史とか美術史とかいふものを研究する人たちは、まづ参考書や寫眞をあつめて、最後に一度見學旗行でもすれば、なすべきことは、みんなしてしまったやうに思ってゐるのが多いが、もしその人たちが、製作の心境、その實技、かういったところに、自分の體験から来たところの、しみじみとした同感がないなら、用意として一番大切なものが放けてゐる。私はさう信じてゐる。小山君は今日の大成のために、その頃から、この大切な下地を作ってゐられたのである。
 その後小山君は駒込の東洋文庫へ通って、文献の勉強が始まった。そのために、自分だけその近くに下宿して、この有名な圖書館のたくさんの書物の中から、数年の間に古陶磁に関する文献を二萬件あまりを抄出された。これは惜しいことに、その下宿が近火で焼けた時に、全部亡くしてしまはれたけれども實技以外の、この文献の研究は、今日の小山君の博大な知識の基礎をなしてゐるにちがひない。
 それから後、小山君の學問と、識見と、實技とは、平行して進んで止まずに、今日に及んでゐる。その間に発表された、いろいろの研究は、随分たくさんあって、その中でも、正倉院にある陶器の系統を考定したり、中国の青磁の起源を追求したり、定窯の位置を危険を冒して踏査して決定したり、そのほか陶磁器の全分野にわたって、その業績は廣く深く、著述もいろいろあっていづれも世に重じられてゐる。そして今では文部省や國立博物館で、この方面の取調を据任してゐられる。
 私はさきほど陶磁器の研究は國際的協力の姿になってゐるといったが、この點からいつても、われわれの小山君は大立物で、たとへば米国のウォーナー博士とか、佛蘭西のグルッセー博士か、そのほか外國から来る文化方面の學者たちは、陶磁のことは、きまつて小山君が引きうけで相談に應じてゐる。
 この小山君が新潟へ来て、一部の人たちのために講義をしてくれたのは、實は今に始まったことでなく、昨年が、もう二三度目で、おなじみも多くなってあると思ふが、この小山君が、従来の黒インクで印刷した寫眞版の貧しさに気づいて、鮮明な天然色の映畫による解説を、日本の各地で試みようとされる時に、われわれの地方が、その封切を拝見してゐるうちに、世界の水準の上に、正確な説明を聞きながら、陶磁史の正確な認識を得られることは、何よりもありがたいことだ。個人々々のためにも、文化生活向上の意味から、こんないい機會を見遁すべきではない。
                                   「新潟日報夕刊」昭和二十五年九月二十七日

『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №177 [文芸美術の森]

唐招提寺金堂 1952年/金太郎と熊 1952年


            画家・彫刻家  石井鶴三

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唐招提寺金堂 1952年 (144×202)
1952金太郎と熊.jpg
金太郎と熊 1952年 (126×178)


**************  

【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。

画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。

文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №36 [文芸美術の森]

おばあさん、頑張れ。

               エッセイスト  中村一枝

 食べ物には旬のものというのがよくある。寒ブリとか大根とかその時宜に応じて、旬という言葉を使う。人間にだって旬のときというのがあって、役者さんなども、ああ、今、旬だな、という気持ちが自然に湧いてくる役者さんがいる。
 でも、おばあさんの旬というのは聞いたことがない。だいたい旬の中にはどこかいきのいいというニュアンスがあるから、おばあさんのイメージにはあまりそぐわないのだろう。自分がおばあさんになって、改めておばあさんというものが、こんなにも世の中の新しいものから離れているものかという、情けなさの方がいや勝さって、おあばあさんの優越感なんて少しも浮かんでこない。おばあさんが華やかなものではないことはもとからわかっていたにしてもだ。
 おじいさんにはなぜか、年輪を経た智恵とか、古びたものが持っている一種のみやびみたいなものもがるようだ。全部のおじいさんがそうだというわけではないが、なぜか、おばあさんより高尚に見えてくるから妙である。昔話などでも、なぜかおじいさんは清貧に甘んじ、どこか高潔で品よくみえるが、おばあさんには、ずる賢さとか、欲張りとか、いうイメージがついて回って、おじいさんに比べて点数が低い。実生活では、みごとなおばあさんがたくさんいるのにと思ってきた。
 考えてみると、「おばあさん」と呼ばれて、はい、よっとにこにこ登場してくるおばあさんなんて果たしているのだろうか。おばあさんという言葉がずっとつなできたイメージは、どうしても清新さとか、柔軟性とか、進歩的とかいというものと遠く離れているように見えるのは私のひがみだとうか。 自分がおばあさんになったからといって、急におばあさんをより高尚に見せようというわけではないが、どうも私くらいの世代にはおばあさんという名称がおじいさんにくらべて価値が低いような気がしてならない。意地悪ばばあは数多くあるのに、意地悪じじいは少ないのもこれまた不思議なきがする。この際、おばあさんのイメージアップをはからないと、おばあさんになりかかりの女性たちは、決していい顔でおばあさんにはならないと思う。
 実際、世の中の利権にからんでいるのはほとんどが男たちで、女性はそのうちのごく少数に過ぎないことは周知の事実である。おじいさんは決して、清貧ではないのである。
 コロナで世の中が変わり、いろんんな変事がはじまろうとしても、男と女の地位を逆転するようなことはまだまだ起きてはいない。
 私が育った時代はまだまだ男女の同県の意識が低く、下手にそれを訴えても逆に女性のおろかしさにすり替えられてしまうこともあった。でも、本当に優れた人間は男であっても女であっても、認められる。実際、いい男も、いい女も、先ず人間としての誠実さや謙虚さに裏打ちされた人間であることを、私はずっと見てきた気がする。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №41 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆく果て」5

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹

井戸水にボーフラが湧く

 ▲八月末に画家の友人一家がドライブして現地に行くと、やっと柱がたっている程度。井戸水を汲んで持ってきてくれたが緑色ににごっている。四、五日してボーフラが湧いた。
 九月十二日に「番頭」来て、十五日に家が完成するのでいっしょに行くように告げる。画家が「見ないでも、まだ出来上がっていないのは分かっている」と言ってボーフラを見せると番頭驚いて帰る。数日して番頭と社員が来訪、完成した家を見に行こうと言うので、画家は自分が望んでいるのは建て売り住宅ではなく、このアトリエとそっくりの家であると言って、流しや流し台のはき口などいろいろ見せると、彼らは驚く。井戸の水の話をすると、社員は大工は現場の水を飲んでいる。一度水さらいをするので新しく湧いた水は大丈夫だと答えるが、十日後に画家の友人が井戸水を汲んで持参してくれたがさらに濃くなっていた。
 十月は野十郎、十三日間ほど八ヶ岳に写生旅行して留守。

 十一月四日
 番頭来る。家すっかり完成したから見に行ってくれと。まだまだだめだ。窓に雨が吹きっけたらしみ込む。これはガラスの四方をすっかり目づめすることだ。そして四方から水をぶっかけてみて少しもしみないようにすること。雨漏りは画には絶対禁物。この画室はそうなっている。カーテンはどうしたか。家の床下を見たか、ここは木片もカンナクズも鋸クズ一つないようにはじめに掃除してあるが、それはどうしたか、と言って追い返す。

 十一月十日
 友人が井戸水を汲んできてくれた。それを相の保健所に持って行って検査たのむ。五日で結果が分かった。水素イオンが八十五もあって全く使用にたえず、手のつけようなしとの答え。団地のほう許可もでてないのに工事やっているので中止命令が県からきたとのこと。

 十二月六日
 コブタと番頭がきて、水はなるほど駄目だ。田端氏に頼んで水道を引いてもらった。十万円のところ、少し遠いので二万円追加、重役たちはそれは本人に出させろというが自分がケンカして会社で出させることにした。とにかく十五日までに移転するようにと会社は言っている。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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祖道傳東Ⅱ №32 [文芸美術の森]

第三十二図 「承陽永春」

     
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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《紙本墨画彩色》 九〇×二一五 軸装

 「承陽(じょうよう)」は、道元禅師の廟所、塔頭の名前です。
 『学道用心集』の中に、「直下承当」とあって、道元禅師自身がご命名されたことも考えられます。
 道元禅師七百五十回大遠忌を迎えた今日、道元禅師の教えは、色褪(あ)せることなく、より輝きを増して伝えられて来ています。
 道元禅師が歩まれた同じ道程を歩んで、今日まで永遠と伝えられています「坐禅によって到達できる至高の境地」は、これから先、未来永劫にわたって教え、伝えられて行きます。そして、人々の心の中に永遠と生き続けていくことに違いありません。
『祖道傳東』大本山永平寺


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №48 [文芸美術の森]

                      葛飾北斎≪富嶽三十六景≫シリーズ

          美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                第14回 「諸人(しょにん)登山(とざん)」

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≪富士山頂・止めの一点≫

 この連載:「日本美術は面白い!」シリーズは、2019年1月に「琳派」(No.1~No.34)からスタートしました。
 「琳派」のあとは、これまで、No.35から前回のNo.47までの13回にわたって、葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」の中から選んだ作品を重点的に紹介してきました。

今回は、この連作の“止めの1点”と考えられる「諸人登山」(しょにんとざん)を紹介したいと思います。

 「富嶽三十六景」は、当初、36点が制作・刊行されましたが、その後、10点が追加制作され、合計46点の連作となりました。「諸人登山」は、後の10点のグループの中に入っている作品であり、連作中、唯一、富士山頂を描いたものです。おそらくこの絵は、連作の“止めの一点”として構想されたもの、と考えられます。

 画面に描かれているのは、江戸を発ち、はるばると徒歩で山麓までやってきて、そこから難儀をしながら山道を登り、やっと山頂にたどり着いた人たちです。皆、白装束を身にまとっているので、「冨士講」の人たちでしょう。前回、“江戸では「冨士講」が流行していた”と申し上げましたね。

48-2.jpg 現在の富士登山は、軽量で暖かい衣服やしっかりとした登山靴などの装備も整っていますし、その上、山腹の途中までバスに乗り、堅牢な山小屋に泊まってから山頂をめざすという“観光登山”です。

 しかし、この絵に描かれているのは霊峰への“信仰登山”であり、人々は信仰と修行のために、はるばる江戸から歩いてきたのです。

48-3.jpg 現代と違って、ろくな防寒衣も身に着けず足袋はだしで険しい山道を登っていくのですから、山頂にたどり着いた時には、疲労困憊の状態だったことでしょう。夏とは言え、高山の寒さも尋常ではありません。

 北斎は、疲れ切って座り込んでいる人たちや、寒さを避けるために狭い岩室の中で身を寄せ合っている人たちの様子を描いています。画面の右下には、険しい尾根を金剛杖に頼りながら「お鉢巡り」をする人たちの姿もあります。

 全体の画面の左上の空が赤味を帯びているので、間もなく「御来光」を迎えるという時刻でしょう。その一瞬をみんなが待っているのです。

 人々の様子が、結構リアルに描かれているために、“北斎自身も富士山に登ったのではないか”という議論もありますが、連作「富嶽三十六景」を描いた時には、既に70歳を超えていたので、いかに老年に至ってもなお頑健・達者だった北斎と言えども、富士に登るのは無理かと思います。もしかすると若い頃に登ったことはあるかも知れませんが、確証はありません。

 「富嶽三十六景」のそれぞれの作品について、しばしば「この場面は、実際のどの地を描いたのか」とか「北斎は現地に行ったことがあるのか」という議論があります。
(このような議論は、次のシリーズで紹介したいと思っている歌川広重の連作「東海道五十三次」についてもありますし、それだけでなく、浮世絵の風景画ではよく言われることです。)

 それを研究・検討することは、学問的には大いに意味はあると考えるのですが、私たち鑑賞者は、それにあまりこだわり過ぎないほうがよろしいかと思います。優れた研究の成果を享受させていただきながら、それぞれが自由に楽しめばいいのではないか、と思います。

 北斎は、想像力豊かな上に、卓抜した構成力(デザイン力)を持つ絵師です。豊富な学識もありました。そのような特質を最大限に発揮したのがこのシリーズなのですから、それぞれの作品は、北斎が、実際の地についての知見を素材にしながらも、自由に創り上げた絵画世界なのだ、と考えます。現実通りに描いていないからと言って、その芸術的価値が下がるわけではないのは当然です。これは、絵画のみならず、すべての芸術創造に言えることですね。

 少々寄り道をしてしまいましたが、ともあれ、「諸人登山」は、連作中の他の作品と異なって、富士山の姿の全容を描かず、山頂だけを描き、難儀の末にたどりついて御来光を待つ人々を描いた唯一の作品です。それだけに、連作「富嶽三十六景」の“止め”の一点にふさわしい作品と言ってもいいでしょう。

 次回は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」シリーズを語る最後の回として、この連作が西洋絵画、特に「印象派」に与えた影響について、あらためて、触れておきたいと思います。

                                                             

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ケルトの妖精 №40 [文芸美術の森]

パドルフット

           妖精美術館館長  井村君江

 スコットランドのバースシャーに、家事好きの妖精が住んでいる村があった。
 夜になると村の一軒の家に現れて、台所の汚れた皿を洗ってくれたりするのだが、ときには戸棚にしまってある皿を放りだして散らかしたりする、気ままないたずらものだった。
 この妖精は、陽が沈むと、どこからか家の前の小川を渡ってやってくる習慣をもっていた。
 小川のなかをバシャバシャと歩いてきて、そのままぬれて汚れた足で家のなかに入ってくるのだった。そこで村人たちは、いつのまにか彼のことをパドルフット(泥んこ足)と呼ぶようになった。
 ある晩のこと、パドルフットがいつもの小川で水をやたらとはねかえしているところへ、街から戻ってきた男が通りかかった。男は街の居酒屋で一杯やってきたところだったから、酒のいきおいで、こう呼びかけた。
「よう、泥んこ足。そこにいるのは、おまえさんかい?」
 すると、パドルフットは怒って言った。
「なんてこった、まったく。おいらのことを、泥んこ足なんて言いやがって」
 そして、くるりと踵を返して走り去ってしまい、この村へは二度と現れなくなったということだ。パドルフットは、泥んこ足と呼ばれるのが大嫌いだった。

◆ パッドフット(ばたばた足)という、パドルフットと似た名前の妖精がいる。これは日本の「ひたひたさん」や「べとべとさん」のように、道を行く人の後ろからどこまでもついてくる。
 ヨークシャーのリースに現れたパッドフットは、羊ぐらいの大きさをした毛の長い犬のような姿だった。うめき声をあげたり、ジャラジャラと鎖のような音をたてたりして、人の後ろをついてくるので、気味悪く思った男が杖でつついた。ところが杖はその身体を突き抜けてしまい、パッドフットに皿のような目でにらまれた男は、その恐ろしさから床についてしまったということだ。
 こうした道ばたに出没する妖精たちには、声をかけるのはまだよいとしても、さわったり手を出したりはしないほうが賢明のようである。


『ケルトの妖精』 あんず堂

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