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浅草風土記 №23 [文芸美術の森]

隅田川両岸 2

           作家・俳人  久保田万太郎 

    橋 場

 横に大きく、
  play
 と書いて、その下に、縦に、
  ボート
 と、やや小さく書いた細長い行燈が陪い中に高くあがっている。……曙橋の、隅田公園が尽きて間もなく町ところの.河につづいたとある露地の一角にである。

 ……涼んで、遊んで、爽快な良い気もちになって、ウンと業務能率をあげましょう。

 ……船を利用し、海洋を制するものは、これかやがて世界を制するものでしょう。

 …‥男性も、女性も.水に親しみ船に興味をもつのは海国民の本能でしよう。

 その行燈には、また、そうした文句か一ばいに書いてあった。そして、その下に、ポート三十銭、スカール二足五十銭、と小さく値段か書いてあった。
 立留って、読み終わったあと、わたくしはこんなことを書いて、一たいこれをだれが読むだろうと思った。……それほど、そのとき.人通りというものをもたないそのあたりだったから。
 が、それは、そのときに限ったことではなく、人通りというものをおよそもたないのが橋場というその町本来のすかただった。すくなくも、十年まえ、十五年まえのその町はそうだった。……そして、わたくしに、そういわせるたけの、以前をそうおもい起させるだけのたたのもしさを、その暗い往来の上にならんだ家々か……格子づくりの、小さい、しずかな家のどこもがもっていた。……と同時に、その家々の、あるいは簾を透き、あるいは葭戸(よしど)に照り映えている燈火のいろは、夫婦かけ向かいの、そうでなければ親子水入らずの、そうした人交ぜしない、優しい、しみじみした生活のこの世にあることを、何年ぶりかに、わたくしの胸にささやいてくれた。        

 「関西はまに水の騒ぎだ」
 「またですか?
 「山が崩れて家がつぶれた。している」
 「まア……」
 「藤吉つぁんのいるところは大阪のどこだっけ?」
 「ええと、あれは。……何んとかいう……」
 「大阪の市内じゃァなかったろう?」
 「市内じゃァありませえ、田舎です。……何んでももう京都に近いはうだということを、だれかに聞いたと思いますけど……」
 「と、あぶないぞj……今度騒いでいるのは、どッちかといえは京都に近いほうだ」
 「まァ、そうですか?……けど分りませんわ、あの人のことだから。……いないかも知れませんわ、もう、大阪に……」
 「そういえば、今年は、いつも欠かさずよこす人が年始状をよこさなかった」
 「ですもの。……大阪にいればよこしますよ。l……去年だって、一昨年だって、ちゃんとそこからよこしているてしょう?」
 「うんl
 「じゃァ、そうですわ、きっと……いないんですわ、もう……」
 「大将、また、しくじったかな?」
 「そうかも知れませんね」
 「人間、そうなると、目先の見えすぎるのもよしあしだ」
 「見えすぎるから、つまり、遣りすぎることにも……」
 「そうなんだ。……始終はそういうことになるんだ……だからこまる」

……たまたま見てすぎた一けんの、夕飯のいますんだあと、主人か妻陽子を噛みつつ夕刊をよみ、細君が、袂の端をくわえてチャブ台の上のよごれものを片附けているけしきが、わたくしに以上のような会話を空想させた。……この会話に七月の夜の蚊遣り線香のまつわるべきはいうをまたない。

『浅草風土記』 中公文庫



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