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浜田山通信№2 [アーカイブ]

おもちゃ屋

                               ジャーナリスト   野村勝美

 私は昭和52年10月末日まで毎日新聞社にいた。社(自社のことを社といった)が左前になり、希望退職を募集したのでやめた。連れ合いがおもちゃ屋をやっており、ひそかに髪結いの亭主たらんとしたが、敵もさるもの、彼女の方が店に出なくなった。人生なかなか思惑通りにいかんものだ。彼女の実家は今も続く老舗の人形店だが、私の方はペンキ屋、いわば職人系で私の中には商売人の血はながれていない。ただこの時期は、高度成長期のピークだった。武士の商法だろうが、毎年二百万人以上生まれる子供のおかげでなんとかなった。いまは百十万人台。

 このころのしあがってきたのが、京都で花札、トランプを作っていた任天堂だ。ゲ-ムウオッチが大当たり、ついでファミコンで完全に子供、若者の心をつかんだ。初めは街のおもちゃ屋ももうけさせてもらったが、もうかるところには商売人が群がっていき、まもなくゲーム専門店が雨後の筍のように現れ、おもちゃ屋はお客をとられた。

 任天堂は、すごい商売をするところで売れないソフトの抱き合わせ販売をしたり、新製品のマージンをひどい時には2パーセントまで下げた。こんなマージンで小売店や問屋がやっていけるわけがない。

 浜田山にという問屋があり、最初はリヤカーを引いて得意回りをしていたが、やがて五階建てのビルまで建てた。それもほんのしばらくのこと、井の頭線に各駅停車であったおもちゃ屋が一軒残らずつぶれ、蔵前の問屋街が姿を消すのと同時に廃業し、ビルも人手にわたった。我が店も平成13年には店を閉めた。もちろん少子化が最大要因なのだが。

 任天堂の3月決算は、過去最高を3年連続して更新したという。トヨタ、GMをはじめ世界中の大企業が全部赤字や倒産しているのに「ゲームは景気に関係なし」と社長はうそぶいている。イチローのマリナーズのオーナーでもある。

 任天堂の歩いた跡はまさに死屍累々だ。つぶれたおもちゃ屋、ゲーム専門店の経営者、従業員はどうしているのだろう。そしてわが家の孫の一人は、ひまさえあればサッカーゲームに夢中だし、京都の大学を出た一人はゲームソフトの会社に就職した。わが店のお得意さんだった子はもう40歳、バンダイナムコに勤めている。TVゲーム、ケータイゲームがいつまで続くのか、すたれるのか、旧人類の私には全くわからない。。

 


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