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今日に生きるチェーホフ№1 [アーカイブ]

チェーホフの眼差し
                             神奈川大学名誉教授・演出家 中本信幸


  ロシアの小説家にして劇作家チェーホフが生まれた1860年には、日本で幕末の「桜田門外の変」が起こった。
  翌1861年,ロシア皇帝アレクサンドル2世は,農奴解放令を発したりして,「上からの改革」を断行せざるを得なくなった。おくれた農奴制ロシアにかわって,新しい資本主義ロシアが現れたのだ。
  チェーホフが亡くなった1904年には,日露戦争が始まる。
  その翌年,ロシアで第一革命が起こる。
  歴史の大きな転換期,先行き不透明な時代に生き,森鴎外、夏目漱石,二葉亭四迷らと同時代の空気を吸っている。
  チェーホフは,モスクワ大学医学部の学資稼ぎと,家計を支えるために,「火事場で新聞記者が書くように」そそくさとユーモア小説を書きなぐり,ユーモア掌編・短篇の名手として海外にも知られるようになる。やがて内容的にも深い,より長い作品を書き,作家として成熟していく。
 一幕物ボードビルを手がけ,中編小説や『イワーノフ』『森の精』『ワーニヤ伯父さん』『かもめ』『三人姉妹』『桜の園』などの多幕物戯曲書く。
  もっぱらロシアの人間,生活,自然を描いたが,今日、国境を越えて広く世界の作家・劇作家として親しまれている。
  アゾフ海にのぞむ南ロシアの港町タガンローグに生まれたチエ一ホフは,幼少年時代から芝居好きで,家庭劇のために笑劇の筋立てを作ったり,ゴーゴリの喜劇『検察官』の市長役を演じたりしている。
  タガンローグは,対外貿易で賑わう文化的な町であった。毎晩,歌と音楽のある芝居とともに,たいてい一幕物ボードビルが演じられた。
  中学時代に書いた戯曲で,残っているのは一作だけ。大胆不敵にも,最も権威のあった帝室マールイ劇場の主演女優宛てに送り,ボツになった『父なし子』である。死後18年を経て表紙なしで発見され,1927年に『題名のない戯曲』という題で発表された。
  『プラトノフ』という題でも知られるこの作品は,主題と筋立てが盛りだくさんで,そのまま上演すれば8時間余を要する超大作でありながら,今日,「ドラマ,喜劇,ボードビル」の傑作とみなされている。
  チェーホフによれば,「現代はまったく何もかもこんがらがって曖昧で不可解」で,「その曖昧さをよく表して」いるプラトノフは,「まだ書かれていない現代小説のヒ一口ーである。」「昔の小説の主人公は,20歳だった。だが、今日では30歳から35歳よりも若い主人公は使えない。やがて女主人公もそうなるだろう。」というチェーホフは、21世紀の状況をみごとに予見している。
  笑いを武器として                                           
祖父が農奴だったチェーホフは,芸術家にとって必要不可欠な「個人的自由の感情」=精神の自由を,つまり,「貴族作家が自然からただでもらったものを,雑階級の作家は青春という代価を払って買っている」と書く。
  ご本人も,農民,庶民の心情の持ち主で,微笑を絶やさない道化者で,おつに構えない,親しみやすい人柄だ。医師の仕事のほかに,貧民救済の活動に打ち込んだり,農民の子弟のために私財を投じていくつも小学校を建てたりしたチェーホフは一切の権威から自由な行動的な知識人でもあった。
 シベリア経由で「囚人の島,耐えがたい島」サハリンにやってきたが,念原の日本訪問は果たせずに帰国した。亡くなる数日前に対戦国日本を「奇蹟的な国・すてきな国」と呼び,病床で日本人について口走っている。
  真の国際主義者チェーホフは,笑いを武器として,冷静に物事を見ることを教えてくれる。
                                    *
  没後100年という現在でも、その人気が衰えることはない。
  秀作の日本台頭のプロセスや日本人外交官との交流など、文豪チェーホフの横顔を追う
  チェーホフが1904年7月2日(新暦15日)に、南ドイツのバーデンワイラーで、「イッヒ・シュテルべ(私は死ぬ)」とドイツ語でつぶやき、シャンパンを飲み干して亡くなって、一世紀経つ。
  「医学は本妻、文学は愛人」と語るチェーホフは「知恵豊富」の冷めた目で自分を見つめ、静かに息を引き取った。なぜ、ロシアの作家の有名な臨終の言葉がドイツ語だったのか。孤立無援のわびしい異郷で、周囲の人々を慮ったのである。
  「ぼくが読まれるのは、やはり、せいぜい7年だ、生きられるのはもっと短い。6年だ」
 と、作家ブーニンに語ったチェーホフは、それから一年ほどで亡くなった。
  だが、久しく読み継がれ、没後100年のいま、忘却の淵に沈むどころか、新しい文学、芸術、とくに演劇の先駆者として、また、私たちの身近な同時代人として、時空を超えて蘇っている。

   燭の灯を煙草火としつチェホフ忌

  俳人中村草田男の名句の一つで、一九三七年の作である。昭和初期に「チェーホフ忌」が俳句の季題になる文化的基盤ができあがっていた。
  明治以来、激変する時代動向に関わりなく今日まで、日本で最も愛されているロシアの作家がチェーホフである。多くの作家、演劇人がチェーホフの恩恵に浴してきた。
  チェーホフが亡くなった年の六月に刊行された日本案内記(『日本とその住人たち』一九〇四年、ぺテルベルク、ブロックハウス=エフロン社)は、「ヨーロッパ文学の影響を受けて日本の多くの事柄が変わるであろう」と予測し、「現在、日本の諸都市の舞台では、シェィクスピア、ヴィクトル・ユゴー、ハウプトマン、チェーホフ、ゴーリキー、メーテルリンクが上演され、ますます大きな成功を勝ち得つつある」と指摘する。
 1904年には、日本ではまだチェーホフは上演されていなかった。自由劇場の創立者小山内薫が劇団創立の翌年、1910年にチェーホフの「犬」(原題『結婚申し込み』)を有楽座で上演したのが、 チェーホフ上演の始まりである。
  1903年にチェーホフ初期の短編『別荘の人びと』と『アルバム』が瀬沼夏葉女史により『新小説』誌にロシア語原文から訳載されたのが、チェーホフ翻訳紹介の始まりである。とりわけ日露戦争を契機に、ロシア文学への関心が急激に高まる。
 「戦争に勝ったが、文化では負けた」と言われ、ロシア文学ブームが起こり、チェーホフも相次いで翻訳され、上演されて日本の近代文学と演劇に多大を影響を与える。
 日本はチェーホフ紹介の先進国で、その翻訳と上演の量において、60年代までは世界に冠たるものがあった。ともあれ、没年の1904年に、劇作家チェーホフが日本でよく知られているという情報が、ロシアの一般大衆向けの便覧に記載されていることは注目される。買い被りの予想が的中したのだ。
 「チェーホフ。桜の園。日本。こう並べるだけで、多くの連想が湧く。チェーホフは桜の園のように、日本の現実の一部である。(中略)チェーホフの人となりそのもの、その創作法が日本文学と本質的に近しい」
 ロシアの日本現代文学研究者キム・レーホが、『ロシア古典文学と日本文学』(モスクワ・1987年)の第九章「チェーホフ」の冒頭に書いている。チェーホフは日本文学に近しい、つまり、日本人の心情や感性に近しい、と。


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