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戦後立川・中野喜助の軌跡№2 [アーカイブ]

闇市をつくった人々

                立川市教育振興会理事長  中野隆右

 

 敗戦直後、昭和20年の日本は、戦時中に引き続き統制経済の統制で配給制が敷かれていた。敷かれてはいたが、質、量ともに決定的に足りず、それだけで命をつなぐことなど思いもよらぬことだった。しかもそれは敗戦からのち、日を経るにつれてひどくなっていた。

 この状態は数年続いた。いや、歴史として振り返れば数年続いたに過ぎないが、その時代を生きる人々にとっては、それはいつ終わるとも知れぬことであった。

 白根氏は敗戦後バーテンとして勤務した米軍基地で、こんな〝笑えない滑稽な

話〟を聞いている。

 「やはり基地に勤めていた私の知り合いから聞いた話です。基地に働きに来た一般の労務者が、たまたま時間外に米軍の食堂へ行ったんだそうです。そうしたら食堂の人が休憩で誰もいなかった。見ると棚の上に何か知らないけれども饅頭みたいなものが置いてあったんだそうです。それは実は日本人の従業員の人が、ネズミが出るっていうんでネコイラズを仕込んであったものだったんです。それを知らずにその労務者は、パンか饅頭だと思ってそいつを食べて死んじゃってね。そんな馬鹿なことがありました」

 そんな時代だけに、闇市では、晴好品もそうだが、なんと言っても食料品が多く扱われた。敗戦の翌年から立川基地内で美容院の経営にたずさわり、現在も立川駅近くで美容院の営業を続けている住田義弘氏は、当時の闇市の姿を次のように振り返る。

「当時は経済統制で嘉には物がない時代でしたが、闇ではいろいろな物が手に入ったんです。たとえば闇市には、ぜんざいなどもありました。ただ、ぜんざいといっても砂糖が自由に手に入らない時代だったから、甘味は無かったんですよ。砂糖など、もちろん正規には手に入りませんでしたから。酒なども配給でしたが、実際に配給されるのは1ヶ月あたり五合くらいのもの。それでも配給があれば喜んだものです。米も統制だったので、寿司屋などでも米は客が持ち込むという体裁で営業していました。米でも野菜でもみんな闇。千葉や埼玉などから、みんな必死の思いでかついで運んできたものです」

 主食の米などまでもが、闇でなければ足りない。そこで近郊・近県の農家などから手に入れてくるわけだが、それが大変だったというのは、もちろん運ぶことについてだけの話ではない。なにしろ統制経済に違反する聞物資の取り扱いは、もちろん違法。これは厳しい取り締まりの対象であって、ばれればその場で没収されたし、当然処罰の対象となった。

 ただしひとくちに違法と言っても、取り締まりは物によって軽重があったようで、「米はうるさかったが、魚はあまりうるさくなかった」(住田氏)という。いずれにせよ開物資の取引は、その入手、搬送、そして取り締まりの目をかいくぐっての街への搬入と、どれもが苦労の連続であった。しかも当時の都市生活者にとっては、それ無くして生活は成り立たなかったのだ。

このように苦労して街に運び込まれた閣物資は、あるものは運び込んだ人々の家庭で自家消費され、またあるものは闇市の店頭に並んだ。このように入口から出口まで違法行為によって支えられた市場を取り仕切っていたのは、平時には表舞台で活躍することはないアウトローたちであった。

闇市をその営業形態から露天商と見れば、伝統的にはテキヤの扱いとなる。事実そうしたケースもたくさんあった。だが、闇市を現実に取り仕切る面々が、昔ながらのテキヤの出身ばかりだったかというと、必ずしもそうではなかったようだ。では、彼らはどこから現れたのだろうか。

 当時の事情に詳しいさる事情通氏の話から、まずはその一例を探ってみょう。話は、日本の敗色が濃くなった大戦末期にさかのぼる。

 「日本の戦争不利で何か情勢が不安だと、世の中にそんな空気が伝わったころのことです。いつの世も同じですけれども、そのころにも愚連隊みたいな人たちがいました。若い血気さかんな人たちです。その当時は愚連隊とは言わず、義勇隊と呼んでいたんですが」

 ここで語っていただいた事情通氏-仮にA氏としよう―は昭和3年、戦後立川市と合併する砂川町の生まれ。戦時中は市内にあった日立の工場で 「産業戦士」として働いていた。まだ10代のころのことだ。当時、軍都として栄えた立川には、立川飛行機-通称 「立飛」―をはじめ、多くの軍需工場が稼動していた。ここで言う義勇隊は、こうした戦時下の工場で使われていた言葉のようだ。

 「戦時中、その義勇隊、つまりは愚連隊で、なおかつどうにも手がつけられないのは、満州のほうへ炭鉱送りにされた。でも、まあまあどうにか内地にいてもいいようなやつは、残っていた。ただ、それだけでは締まりがつかないのでボスを決めて、そのグループを抑えさせたわけですよ。戦争の終わりごろの立川飛行機の義勇隊の隊長、つまり立飛の愚連隊のボスは岡部さんでした。岡部さんは、あの当時にもう20いくつかでしたが、戦争には行かず、立飛にいました」

 岡部さんとは、のちに市会議員となる岡部寛人氏である。混乱期の戦後の立川にあって、ある意味、市議会の要として活躍することになる。A氏の話は続く。

 「その岡部さんの兄弟分に、高松町で土建屋さんをしていた方がいました。この方は朝鮮出身の方です。その以前、立川にはいわゆるヤクザの組がありましたが、戦争が終わるころには組長はもう年をとっておりました。それで終戦になると、ちょうど朝鮮人とか台湾人の方は三国人″として有利な立場に立ったでしょう。結局、この土建屋さんが、組の二代目の跡を継いで、それで作ったのが、立川の駅前から中武の角までの露天商街(闇市)。テキ屋の親分みたいなことをやったわけですね。今でこそテキ屋とか愚連隊というのははっきり分かれているけれども、あの当時はもう、ごっちゃでしたからね」

 立川における闇市成立のひとこまである。どんなことでも、その背景には必ず人の動きがある。教科書的には、「戦後、各地の焼跡には闇市が発生し」で片付けられてしまう闇市の成立にも、各所、各所に必ず個別の事情、そしてそれを支える人の存在があった。  『立川―昭和20年から30年代―』ガイア出版


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