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ニッポン蕎麦紀行№1 [アーカイブ]

~開拓の心いまだ忘れじ・釧路鳥取北~            

                                                                                           映像作家  石神 淳

  突然ですが、「あなたは蕎麦にご興味がありますか」。もし蕎麦がお好きなら、しばらく、(蕎麦と人との出会い旅)におつきあいください。
  蕎麦の旅は、北海道に始まる。早春の納沙布岬、少し傾いた貝殻島灯台が波に洗われ、北方領土の返還を願う「祈りの灯」が潮騒に揺らめく。まだ半分ほど氷に閉ざされ、立ち木の影もない野付半島を吹き抜ける凍てつく風と白鳥の群れのざわめき。小舟でも簡単に渡れそうな国後島に舳先を向け、出漁を待ち侘びる漁船が、望郷への思いをこめる。
  北の大地の原野にある牧場は、見捨てられたように静まりかえり、年老いた道産子が長いたてがみを寂しげに靡かせていた。その別海の開拓村を離れ、いまは釧路郊外の鳥取北で蕎麦屋を営む、山口シュウさんの「いなか家」を訪ねた。山口シュウさんは両親といっしょに幼女の頃、開拓者として埼玉県秩父から、まだ道路も電灯も無かった根室原野の別海に移住した。昭和初期のことだ。痩せた原野を開墾すると、故郷秩父から持って来た蕎麦の種を蒔く。蕎麦は救荒作物として一家を飢えから救ってくれた。長女に生まれたシュウさんは、芋俵一俵を一人でかついで馬車に乗せ、13歳からおぼえた蕎麦打ちでは、蕎麦粉の繋ぎに牛乳を入れてみたりの工夫もした。そんなボソボソの太い蕎麦は「ドジョウ蕎麦」とも呼ばれた。年頃となり、嫁に行った先の夫は白糠炭鉱の採炭夫、シュウさんも食堂の賄い人として、蕎麦屋の開店資金を、二人で一心不乱で貯めたそうだ。
  シュウさんの打つ蕎麦は、開拓農家時代から習い覚えた素朴な田舎蕎麦で、まさにシュウ流だ。打ち方も一風変わっていた。麺棒は40㎜径ぐらいだったと思われる軽い桐材のようだが、擦り減ってデコボコした杖のように変形して原形をとどめていない。強いて言えば長芋のようでもありオブジェのようにも見えた。40㎜ぐらいだったと書いたのは、あくまで推定であって、普通の麺棒には見えないシロモノだ。蕎麦包丁も先端が細くなった三角形だが、元は普通の四角い包丁だったそうだ。三角形に変形した理由は、切り方にある。捏ねあがると、小さなフランスパンぐらいの大きさに切り分けて丸くのし、たたみをせずに板を当てがい、スーッ、スーッと裁断する。まさに檜枝岐地方に伝わる「裁ち蕎麦」の技法だ。この方法だと、麺を折らずに済むので、繋がりのわるい蕎麦に対して合理的だ。それにしても、山口さん一家の出身地である秩父地方にはない打ち方だから、檜枝岐出身の人から教わったのかも知れぬ。でも、このシュウさんの打ち方は、最小限の狭い場所で作業できるから、白糠炭鉱の賄い婦時代に、自分で編み出した打ち方かも知れない。取材でお邪魔した時は、嫁に出した娘さんの千恵子さんと二人で店を切り盛りしていた。
蕎麦打ちを通して、その地方の暮らしにふれると、文化の一端が見えてくる。北海道は、本州各地から移住した人たちから受け継いだ文化が、いろいろな形で残されている。それはともかく、シュウさんが辿った凡そ80年の人生は、汗と忍耐のイバラの道だっただろう。そして、シュウさんの蕎麦には、紛れもない「開拓精神とオフクロの味」が込められていた。北海道の旅(蕎麦と人との出会い)は、まだ続く。
「いなか家」 北海道釧路市鳥取北6-3 電話 0154-51-5902


立川市長20年の後に №1 [アーカイブ]

静かな老々介護の日々
                                     前・立川市長 青木 久
  老妻を介護しつつ、静かな時を過ごすようになってから、もう二年になる。
 20間、市長として、立川の市政をお預かりしていた。
 当年84歳、一人の市民に立ち戻った一日一日が大切だ。
 妻は数年前、脳梗塞で倒れ、以来、立ち居振る舞いが不自由になった。ともに、手をとり人生を歩んできた戦友の世話をするのは私のつとめだ。
 心意気はあるのだが、いざとなると、いささか心許なくなることも多い。妻に手ほどきをしてもらって、ようやく用が足りることもある。そのおかげで、かなり世話取りにも熟達してきたのではないかと思う。
 とはいえ、一日おきに訪ねて下さる介護ヘルパーさんが、てきぱきと支援の手を差し延べてくれている。ありがたいことだ。
 老々介護。
お互いに一言二言交わす。多くを語ることはない。しかし、その短い言葉の中に、二人の思いがぎっしりと詰まっている。
 向かい合って黙っていても、実に多くのことを確かめ合っていることか。
 連れ添った夫婦とはそうしたものだと実感する。
 わが家は、300年前、村に住み着いた先祖がのこしたものだ。ここに私は育ち、妻を迎え、私は役所に出かけ、妻は小学校の教壇に立ち、子どもたちは巣立っていった。そしてあおば保育園に隣接している。
 朝早くから、子どもたちが通園してくる。いくつもの幼い歌声が重なり合って聞こえてくる。
 音楽担当教員だった妻は、それにあわせて口ずさんでいることがある。それは満ち足りたひとときだ。
 子どもたちの成長は早い。入園して数ヶ月で見違えるようになる。あいさつ・しつけ・絵画・音楽・踊りと学習する。子どもたちは、明日に生きている。その子どもたちを眺めるわれら二人には、過ぎし昨日を語り継ぐ明日がある。
 子どもたちの成長にあやかり、老人なりの生涯学習に取り組もうと思った。そこで書道サークルに入り、近くの上砂会館で励んでいる。立川市の老人学級の課程を終えた人たちが、サークルをつくり、先生を招いて授業を受けているのだ。
 筆を手にし、白紙に向かう。自分で選んだお手本を眺め、字を読む。
 「徳不孤 必有隣」(論語・里仁扁)
 そして一気に筆を下ろす。
 手本の意味するところは、「本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無い」ということだ。
 書き上がったのは、そう立派な筆跡とは言えない。つと横に立った、先生に褒められた。
 「青木さん、よく書けていますよ。お年寄りは、字の形や筆法を学ぶより、ご自分を書いて下さい」
 先生は、褒め上手だ。いや、励まし上手と言うべきだろう。でも嬉しかった。そこにあるのは、紛れもない私自身の字だったからだ。明日もまた、書き続けようと心に誓った。
振り返ると、私が今日あるのは、実に多くの人に導かれ、支えられ、ともに手を取り合って歩んで来たからだと思う。
 今は亡き祖父・両親・親戚・隣人・恩師・学友・家族、そして最も身近な妻がいたからだこそだ。
 私は、自らの足跡をたどってみようと思い立った。
 それが明日につながる私の里程標だ。
 そしてそれは、多くの人々への感謝の証でもある。

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昭和の時代と放送 №1 [アーカイブ]

時間メディアの誕生・プロローグ
                              元昭和女子大学教授 竹山昭子  

 日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年3月22日、芝浦の東京高等工芸学校の建物の一部を借りての発信であった。そのときから70余年の歳月を経て、いまやテレビの時代から多メディア時代に移行した。この70余年間の電波メディアの興亡の歴史は常に技術革新の歩みとともにあり、多くのマスメディアのなかで最も変容著しいメディアであるといってよいだろう。
 マスメディアの研究では、"あるメディアの全盛時代にはその実態を把握することは難しい、次世代のメディアの出現によって、初めて本当の姿が見えてくる"といわれる。
 そのメディアがどのようなメディアであったか、どのような役割を持ち、どのようなメッセージを伝え、どのように人びとに受け入れられていったかは、次のメディアの出現によって実態が見えてくるというのである。
 あるメディアの全盛期にはそのありようを当然と思って受容しているが、次世代のメディアの出現によって、広い視野から客観的、相対的に考えることが可能になる。
 その意味で、この「ネットマガジン」の基となっている拙著『ラジオの時代』は、放送といえばラジオを意味した時代の再検討である。テレビの出現によってラジオは大きく変容を迫られ、受け手の意識も変化した。現在、放送といえばテレビを連想するが、日本のテレビはラジオ30年の土台の上に築かれたのである。そしてそのテレビが、通信と放送の融合というメディア産業変貌のなかで、単なるテレビの一言ではくくれないものになろうとしている。
 そのような趣旨から、筆者はいま改めて、日本のラジオはどういうメディアであったかをこれから32回にわたり、振り返ってみたいと思う。                                                        
 

文明の利器「ラジオ」への期待
 日本のラジオ放送は欧米諸国に追随して始まった。日本でラジオ放送が開始されたのは1925(大正14)年だが、海外では、これより5年前の20年にアメリカが世界で最初のラジオ放送を開始しており、次いでイギリス、ドイツ、ソビエト、フランスなど15ヶ国がすでに電波を発信していた。
 こうした情報は日本にも伝わり、人びとは"線がないのに遠くのものが聞こえる文明の利器"に大きな関心を寄せ始める。1928(昭和3)年に刊行された『東京放送局沿革史』はその緒言で、日本のラジオ時代の到来を、"ラジオの民衆化"という表現を使って次のように述べている。 

 世界戦争の終結を告ぐるや滔々(とうとう)たる勢を以て無線は米国に勃興した。 太平洋を隔てて隣する我国がその波及を受けたのも洵に自然と謂はねばならぬ。(中略) 米国に於ける放送開始は各地の企業熱を一斉に刺戟すると共に一転して我国の無線放送の機運を促進しラヂオは愈々(いよいよ)民衆化して来た。このラヂオの民衆化は民間の製造工業界に新らしき目標としてのラヂオ時代を実現せしめ、東京放送局創設の機運は端しなくも、ここに醸成された。(註1)                                  

 第1次世界大戦で活躍した無線電信が戦後は民間に利用され、それまでのモールス信号に代わって音声をそのまま伝える無線電話の研究が世界的に高まるのだが、そのなかからラジオ放送が生まれ、アメリカでの実用放送開始が"ラジオ民衆化"への期待をもたらしたというのである。                                                註1・越野宗太郎編 『東京放送局沿革史』東京放送局沿革史編纂委員会 1928 P1                      『ラジオの時代・ラジオは茶の間の主役だった』 竹山昭子 世界思想社                    
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玲子の雑記帳2009-06-15 [アーカイブ]

 このブログに「浦安の風」を書いてくださっている横山さんのうちには「ミミ」という犬がいます。そのミミがなくなったと知らされました。原稿のお願いをした時にもうおばあさんだというミミのことをきいて、我が家にも猫がいることから、、飼い主の横山さんのミミに寄せる気持ちを思い図っていました。そのミミが寄る年なみから病気がちになっていて、先月末、なくなったのです。横山さんの気落ちといったらそれはお気の毒なくらいでした。

 我が家のエイジ(栄町2丁目で生まれたのです)も13歳、決して若くはありません。子どもたちが巣立った今ではかけがえのない家族です。もともとが野良猫の、尻尾の短い、典型的な日本の猫です。我が家に来て2年がすぎたころ、喧嘩のすえ野良猫にかまれたことから(さすが雄猫、喧嘩っ早いのは生まれつき)ネコエイズに感染、立派なエイズのキャリアです。血液検査で陽性反応が出たときは一瞬あたまが真っ白になりました。が、適切なケアをすれば、発症を抑えて平均寿命は生きられると獣医さんにはげまされて、以来10年余、免疫を高めるサプリメントを1日も欠かさずのみ続けています。(猫にとってはいやなものらしく、こんなに長い間飲んでいるのに慣れなくて、薬の用意をするのがわかると今でも隠れようとします。)

 野良だったこともあるのでしょう、エイジはかいならされるのをきらって、好きに生きています。壁紙を張り替えたとたん、壁で爪とぎをはじめました。家中、猫の毛が舞っています。それでも壁紙を取るか、エイジをとるかと問われたら、そりゃあエイジよと飼い主は思ってしまいます。何のとりえもない、しつけのきかない、馬鹿な猫ではありますが、馬鹿な子ほどかわいいというではありませんか。

 ペットのことから命を考えていたとき、「心の小径」に原稿を寄せてくださっている錦織さんから、命がつながっていくお話をいただきました。個人が特定できるものは不特定多数の目にさらさないのが基本ですが、うかがったとたん、なんとも暖かく、ほのぼのした気持ちになって、載せたいなと思ったのです。実は、私の夫は孫の顔を見ずになくなったのですが、その孫がふとしたときにおじいちゃんとそっくりのしぐさをするのを見て驚いたことがあります。ああ、こんな風に命がつながっていくのだなと思ったら、死は怖いものではなくなりました。

 この一週間、ブログの更新におわれました。中身が充実していくのにつれて、私のスキルも少ずつ進化しています。

 


第五福竜丸は平和をめざす№2 [アーカイブ]

 

第五福竜丸の生い立ち 

                        『知の木々舎』編集部・構成

 まえがき                                                                  以下の記事は、『写真でたどる第五福竜丸』(財団法人第五福竜丸平和協会・2004)、同協会発行の『福竜丸ニュース』掲載の記事を基礎に同協会の了承をえて編集部で構成しました。  

 第五福竜丸は、最初はカツオ船第七事代丸(ことしろまる)として神奈川県三崎の船主、寺本正市さんが和歌山県の古座造船所に発注し、19473月に進水しました。 

 古座町(合併により05年より串本町)は、本州最南端の港・串本と捕鯨で有名な太地港に挟まれた漁村。昔、古座には古座水軍と呼ばれる「海賊たち」が住んでいました。熊野と呼ばれるこの地域の人々は熊野灘を生活の場とし、造船、航海術にたけていたといいます。 古座造船所は、町を流れる古座川の中洲にあり、戦時中には軍需工場として軍用の運搬船や木造の軍艦「日章丸」などを造っていました。 

 敗戦後、カツオ船の注文を受け、設計者で船大工の南藤藤夫さんは、漁船建造の経験がないため三重県の熊野川造船所や尾鷲(おわせ)造船所など三か所へ勉強にでかけて、半年掛けて8人の船大工により造られました。       総トン数:140.86t         全長28.56m         幅:5.9m         馬力250         速力5ノット 当時の標準的なカツオ漁船です。 

戦後漁業GHQ(連合総司令) 戦争が終わったとき、日本中が飢餓状態で食料の確保は何にもまして緊急課題でした。動物性たんばく質の確保は魚に頼るほかなく、水産業に大きな期待がかかったのです。しかし戦争中「徴用(ちょうよう)」された漁船は壊滅的な打撃を受けており、造船が急務でした。1945年末に、日本を占領しているGHQより漁船に限って造船が許可されました。このうち木造船は100トン未満であればGHQの許可なしで建造できたのです。 第七事代丸は登録上は99㌧ですが、実際には140㌧。建造に関わった方によると、運輸省の検査官に金品を渡してトン数検査に手心を加えてもらったという裏話も伝わっています。   

漁業制限とマグロ 敗戦と同時に日本の船舶は、全面的に行動が禁止されました。1945914日、木造船に限り日本沿岸から12カイリ(約22km)以内海域の航行が認められました。GHQ司令の名前から「マッカーサー・ライン」と呼ばれる制限区域です。 ついで927日に制限が広がり(第一次漁区拡張)、沿岸・沖合いでの漁場で操業できるようなります。 翌1946年にも二度の拡張が許可され東経165度北緯24度まで漁区が広がりました。この制限は1952年のサンフランシスコ講和条約発効まで続きました。 日本以西の海域では、1952年、韓国の李承晩(イスマン)大統領による「李ライン」、朝鮮戦争時にはクラーク連合軍司令官により作戦水城に指定された「クラーク・ライン」、1945年末から中国沿岸の底引き網漁を禁じた「華東ライン」などにより制限が行われました。 「沿岸から沖合いへ、遠洋へ」とのスローガンが叫ばれ、カツオ・マグロ漁に期待がかかった背景には、このような国際情勢があったのです。さらに漁の季節が限定される沿岸カツオ漁に比べ、回遊魚を追って周年操業でき、缶詰や冷凍加工などで市場の見込める遠洋マグロ漁は花形だったともいえます。 第七事代丸がマグロ専用船に改造されたのはこのような時期でした。

         イベントなどの問い合わせ    東京都立第5福竜丸展示館 

                     東京都江東区夢の島 夢の島公園内

                 TEL03-3531-8494   FAX03-3521-2900

                    E-mail:fukuryuumaru@msa.biglobe/ne.jp

                              

図書館の可能性№3 [アーカイブ]

図書館の可能性                 昭和女子大学教授  大串夏身

効果の計測をすると

 それは、次のような事例である。国立国会図書館の「カレントアウェアネス-E」に紹介があるので、引用しておこう。  

  ヵーネギー図書館は地域社会にどう貢献しているか(米国) 米国・ピッツバーグ市のカーネギー図書館が、百十年の歴史において初めて地域への貢献度を計量化した。カーネギー図書館とカーネギーメロン大学の経済開発センターは、カーネギー図書館の地域への影響を「投資に対する効果=経済的価値」「地域社会や.住民に対する寄与」といった側面から分析した結果を報告書にまとめ、この度発表した。 

 この調査は2005年、1300人を超える個人や二つのフォーカスグループ(ビジネス利用者、関連機関の人)を対象とした調査、費用対効果分析などによ。行われた。経済面での影響では、年間9100万ドル(約101.4億円)以上の経済効果(1ドルの投資に対して3~6ドルの利益)をもたらしていることや4100万ドル(約45.7億円)相当の図書・DVD・データベースなどを無料で提供していることが、地域住民に対するリテラシー教育との関係・地域社会への寄与については、子どもの読書を推進する施策を行っていること、図書館計画へ多くの地域住民の参画を得ていること、図書館における集会活動などに利用されていることなどが、それぞれ示されている。

 また、地域住民の間で、リテラシー教育・学習への寄与をはじめ、暮らしの質(QOL) の向上、子どもや若者を対象とした活動などにおいて図書館の活動が利益をもたらしているとの認識が高いとも報告されている。

 なお、効果という点では、図書館を継続的に利用した結果、個人の精神的な生活や社会の質の向上にいい結果をもたらしたというレベルのものもある。これは長期にわたる観察の結果判断されるもので、具体的な計測は無理だろう。 図書館は一般的にいいもの、社会に役立つもの、という理解で、質的にもいい結果をもたらしているとしか言いようがない。 ただ、前記の調査結果には、「地域住民の間で、リテラシー教育・学習への寄与をはじめ、暮らしの質(QOL) の向上、子どもや若者を対象とした活動などにおいて図書館の活動が利益をもたらしているとの認識が高いとも報告されている」とある。こうした面では、住民、利用者の認識とも深くかかわるものであることも理解できる。

次に、(図書館の価値)を高めるということを通して、図書館の(可能性)を高めるということについて考えてみよう。

  図書館の価値を高める

(図書館の価値)と言ったとき、次の三つが考えられる。1)図書館それ自体がもつ価値。それぞれの設置日的にあわせた良質なコレクションをもつこと、つまりコレクションの価値である。2)利用者に目的をもって活用してもらい、その結果、社会的に有用な、あるいはプラスの成果物をもたらすことによって価値を評価される。3)社会的、国家的な視点からの価値の評価。 

 1)「図書館それ自体がもつ価値。それぞれの設置目的にあわせた良質なコレクショソをもつこと、つまりコレクションの価値である」 

 これは、優れた図書をもっている図書館が社会的に高い評価を受けていることから言える。ヨーロッパの歴史ある図書館の多くは、良質なコレクションをもっていることで社会的に高い評価を受けている。日本では、その例として東京大学附属図書館が上げられる。同図書館は、紀州徳川家から「南葵文庫」の寄贈を受け、現在そのコレクションのすばらしさを称賛されている。これは図書館が本来もっている役割、資料を後世に伝える役割を実現していると言える。 

 もう少し述べておくと、コレクションのなかに歴史的に重要な図書、学問史上重要な図書、文化的な観点から評価が高い図書などが含まれている場合、一般に価値が高いと見なされる。ヨーロッパでは、羊皮紙の美しい写本やグーテンベルクの『四十二行聖書』やインキュナブラなどを所蔵し、その点数が多い、系統的に収集されているなどの要素が加わると価値が高くなる。日本では、江戸時代の多色摺りの図版がある、滝沢馬琴などの著名作家の刊本がそろっている、近代になると有名作品の初版本があることなどで評価が高くなる。それらは、ときどき資料展示として公開される。 もちろん特定テーマに関して系統的な収集が行われているとか、そうした収集を行った収集家のコレクションが寄贈されているなどによっても、高い評価が与えられる。

 2) 「利用者に目的をもって活用してもらい、その結果、社会的に有用な、あるいはプラスの成果物をもたらすことによって価値を評価される」 

これは、小説家や研究者の成果物、つまり著名な小説や研究の新しい知見を生み出すもとになった資料を提供したとか、その図書館で勉強して立身出世した著名人、有名人がいるなどである。アメリカでは、図書館で勉強して、それがその人の人生を変えて、社会にプラスの効果をもたらしたなどの例は枚挙にいとまがないようである。たとえば、アソドリユー・カーネギーがそれで、カーネギーはそのことを忘れず、多くの人に図書館の恩恵を受けてほしいという願いを込めて、生まれ故郷のスコットランド、そしてイギリス、アメリカに2500館の図書館を作るための援助を行ったと言われている。このような例は、日本ではあまり聞かない。この価値をもつのは、ノーベル賞受賞者、有名実業家、高名な小説家、著名な人物などが活用した場合である。 

3)「社会的、国家的な視点からの価値の評価」 これは、図書館が収蔵する学術研究成果や知識・情報の蓄積、図書館の役割が企業・国家の戦略などを考えるうえで欠かせないという視点から、価値を評価するもので、アメリカは図書館を民主主義社会を作る基盤として位置づけている。また、国が図書館にかかわる各種の政策を立案して、それをすすめようとしているのもこれにあたる。企業が企業内図書室や情報センターを充実させたり電子図書館に取り組むことなどもこれにあたる。

 次に、図書館を充実させる考え方・方法について考えてみよう。『図書館の可能性』青弓社

 


書(ふみ)読む月日№2 [アーカイブ]

願はくは ②

                    日本私学研究所特任研究員 池田紀子

 私たちの湯河原の住まいも、簡略な生活をするには、必要にして充分です。

 小平の家からは、二時間もあればついてしまう熱海の前、伊豆半島の入り口なので、135号線の混雑も避けられ、ドライブには適当な距離でもあります。

小田原厚木道路を通って、真鶴道路に入ると、海が見えてきます。

 私は冬の海が好きです。

 真っ青にどこまでも広がっている海を見るとき、諸々の悩み事も消え去る思いがします。もちろん海が見えると、車の窓を開けて、その香りに浸ります。幸せなひとときです。

 韓国に行く飛行機の窓から、真鶴半島を上から見たことがあります。地図で見るそのままの羽を広げた鶴の形で、感動しました。真鶴半島などと、誰が名づけたのでしょうか。言い得て妙だと、通るたびに感心しています。

 真鶴半島を過ぎて、駅前に出る手前に半島の全景が見えます。たくさんの家々が、目の前に広がる様子は、スペインのトレドの町が、高速道路を走っているときに、急に現れるそれと似ていて、嬉しくなる場所です。半島の下にトンネルができて、だんだんに半島への観光客が減っているそうです。便利さと引き換えに、ゆったりとした歩みが失われると、寂しい思いです。

 半島の突端に三ツ石という場所があって、そこに与謝野晶子の歌碑があります。

 

              わが立てる真鶴崎が二つにす相模の海と伊豆の白波

 

 魚や野菜など食物も豊富です。このあたりの食事処で出されるもののほとんどが、相模湾で取れた魚を使います。魚屋の二階での食事は、朝、取れたての鯵(アジ)や金目鯛(キンメダイ)が刺し身であり天ぷらです。本当にその料理の数々は新鮮で美味しく、すぐに、行きつけのお気に入りの店が、いくつかできました。食は日々の生活を明るくも暗くもすると思いますが、大切にしていることの一つです。

 部屋の窓から目を落とすと、湯河原の温暖な気候で育つミカンの畑が、そちこちに見られます。

 温泉場を通って箱根まで三十分はどの道のりを、ドライブするのも気持ちのいいものです。

 湯河原峠からは、富士山が目の前に広がります。

 春は桜、秋は紅葉。木々の間をぬけながら散策すると、そこここに藤村や漱石などの文人が投宿した宿が立ち並び、明治の文壇に思いを馳せることもできます。

最近では推理作家の西村京太郎の記念館もできていて、時々のぞくことが楽しみになっています。

 湯河原の温泉街の中心にある万葉公園も散策には良いところです。カシや椎(しい)の木が生い茂り、千歳川(ちとせがわ)のせせらぎが耳を洗います。

 園内には、数多くの万葉植物が栽培されて、季節ごとに可憐な彩りを楽しめま

す。また、古代建築を模した万葉亭、その傍らには、一つの歌碑があります。

 

              あしがりの土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに子ろが言はなくに

 

 この歌の意味は、足柄の土肥(湯河原)の河淵に湧く温泉が、決して絶えることもないように、二人の仲が絶えることはないと、あの子はいうのだけれど…、という恋する男の揺れ動く心情を述べているのです。

 万葉集には、およそ四千五百余首の歌が収録されています。その中で、この歌だけが温泉を詠んだものとして珍重されています。

 主人と連れ立ち、のんびりと造造すると心が和みます。ふと、万葉集を学んでいた学生時代の教室を思い出したりします。そして国文学を学んでいて良かったなと思います。

 さらに歩を進めると、国木田独歩の碑があります。

 

 湯河原の渓谷に向かった時はさながら雲深く分け入る思(おもい)があった

 

 明治期の湯河原は、豊かな自然の景観に恵まれていたことを偲ばせるものです。

 そしてわが主人は、この碑の前で雄弁となります。

 「あのね、独歩は晩年に三度、湯河原を訪れている。秘かな慕情(ぼじょう)を寄せていた定宿(じょうやど)の女中が嫁いだと聞き、尽きせぬ思いを書いたのが、かの『湯河原より』だね。この碑の文言は、『湯河原ゆき』から採っている」

 蘊蓄(うんちく)を傾けるわが主人は、学生時分に渋谷の喫茶店で、私を相手に文学を語り続けた時よりも、なぜか楽しそうです。

 そしてこの街には、主人が物語るべき多くのことがあります。

 与謝野晶子もしばしば、この地を訪れて逗留し、

 

            吉浜の真珠の荘の山ざくら島にかさなり海に乗るかな  晶子

 

 「この『真珠の荘』とは、真珠荘だよね。春の盛りに見事な枝が海に張りだしていたんだろうね。晶子らしいおおらかな叙景だよね」

 主人は、それからすぐ隣の家屋を指さしました。そこは今、ある会社の社員寮

となっていますが、谷崎潤一郎の晩年の住居・湘碧山房(しょうへきさんぼう)です。

 「谷崎潤一郎は、ここで『新々訳源氏物語』を脱稿(だっこう)したんだ。それ以後、健康がすぐれず生涯を終えられた」

 ミカン問屋の社長さんとも前の畑のおじさんとも仲良しになって、大根や菜っ葉をもらったりします。そのほか、新しい人々との出会いは、すてきな財産だと思っています 『書読む月日』ヤマス文房


サンパウロの街角から№2 [アーカイブ]

散步もまた亦樂しからずや
                     ブラジル サンパウロ・エッセイスト ケネス・リー


  ブラジル、今は冬だ。今年の冬はいつになく冷たい。ときどき狂ったように真夏を思わせる日が割りこむ。不安定なることはなはだしい。
  僕の家から步いて15分位の所にイビラプエラ公園がある。デッカイ。
 有名なビエナル画展はここで開かれる。プラネタリュ一ム館、近代美術館、アフロ芸術館が公園のなかにある。
 北側に大きな湖がある。湖のかたわらに日本館がある。茶室があり、生け花、よろいかぶとが飾ってあると聞く。入場料を取るので入ったことはない。湖の南側に柳や火焰樹の間に混って桜の樹が十数本植えられている。沖縄桜とか云っていた。
  ときどき、この公園に散步する。散步と云つても昔軍事教練で鍛えられた行進もどき、イチニ、イチニ、15分で1キロの速さである。散步とは一寸異趣のものだ。一巡するに約2時間かかる。
  步いていておもしろいのは過ぎゆく人たちを眺めることである。ヨボヨボの老夫婦から、勢いよく走り拔ける若者、犬を連れているのもいる。可愛い子犬はハァ一ハァ一と息を切らして主人に引張られている。なかには大きなどう猛そうな犬を連れている。犬に引きずられているようで、どっちが主人だかわからない。多くは男女仲良く手をつないでいる。子ども連れはほとんどいない。
 ブラジル人はお喋りの人種である。睦まじく喋りながら楽しげに散步している。ふと、何を喋っているのだろうかとげすな氣持ちを起して耳をそばだてる。
 「うちの兩親は田舍で百姓しているの」
 「ウン···」
 中年のカップルで仲良く手をつないでいる。一寸待てよ。夫婦だったら女房の里は知っている筈だが。とすれば···とつい勘ぐってしまう。
 そこらで知り合ったのだったら、指をからませて一体どうなっているのだろうか。
  若い女が後ろに束ねた髮を左右に振りながら足早に擦り拔けて行く。後ろ姿、びしっと太腿に張りついたスポ一ツ·ウェア一である。腰がくびれていいスタイルだと、つい見とれてしまう。 一人で走っているのは一寸寂しいやら、モッタイないやら。
  気が散っていかん。前を向いてイチニ、イチニと心の中で拍子を取り直し、こちらも急ぐ。
 一寸わからないことがある。こちらは引退の無職である。だから混む週末を避けてウイ一ク·ディに行くのだが、若者がウイ一ク·ディのこの時間に、学校に行かず、働きにも出ないでとは、よっぽど良い身分か、怠け者だろう。
  公園に散步、ジョギングに行く人たちに共通の目的がある。健康!寒い朝に一寸汗ばむ軽い疲れは気持がよい。健康で長生きしたいのは人情だろう。                                                          
公園での散步は、もちろん哲学·思索の時間でもある。
  最近の世界の政情を見るに、今流行りのデモクラシ一とはなんだろうかと考える。
  デモクラシ一はギリシャ語のDEMOS(人民)+KRATOS(ル一ル)の合成語である。國家の政策、社会規制を全公民が関与し、多数決の法則に従う意味を持つと云う。それだから古代ギリシャ、ロ一マに元老院制度があつた。その精神はフランス革命のスロ一ガンにあつた。「自由·平等·博愛」。明治維新の時、五條の誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」があった。アメリカの独立宣言は明快である。冒頭に、神は人間を平等に創造された。人権の平等を訴えて、あの有名な「人民の、人民による、人民の為の政府」で結んでいる。それをリンカ一ンは南北戦争が終った時GETTYSBURGの演說でこれを再確認している。このように、デモクラシ一はのべつ新しいものじゃない。今時政界を喧騷しているのは、よき昔へのノスタルジャからだろうか。デモクラシ一は街角の怪しげな骨董屋にゴロゴロしている。
  党独裁の共產主義国家にも彼等なりのデモクラシ一がある。議会制、選挙制、多数決、みんなそろっている。やり方は第二の問題だ。国民のことはあんまり構つてはいかん。だがこれらの制度と自由、平等、博愛の看板は降ろさない。降ろしたら独裁政権と非難されるからだ。
  アメリカは1960年代の終り頃からデモクラシ一の押し売りに精を出している。あの頃にアメリカに目をつけられたお客は皮肉にもみな軍事独裁政権だった。カ一タ一の人権外交政策、クリントンのグロバリゼイション政策、ブッシュになるともう目茶苦茶である。人の家に土足で上り荒してデモクラシ一を押し売りするのだから。
  台湾の民主化は国際人権機関から相相当の評価を得ている。異質のものを感ずるデモクラシ一であるが。2008年3月の総統選挙で香港生まれ、アメリカのグリ一ン·カ一ドを持った者が選出された。選挙による多数決によったのだからデモクラシ一であろう。
自分の国の政治を外国人に任せる程に台湾人はお人好しなんだろう。あたかも一つの會会社の経営を株主でない外来取締役を雇って任せるようなものだ。その経営方針がまたふるっている。預かつた会社を他社と合併して潰してしまおうとしているからだ。出資した株主そっちのけである。これも経営の一樣式かも知れない。相手は党独裁の共產主義国家である。共產主義政治はベルリンの壁崩壞で破產したにもかかわらずである。
そのうちに、朝起きたら元も子もなくなっていたと泣き面する日が来るかも知れない。軒を貸したら母屋まで取られたとことわざにある。他人事でないだけにじれったい。
  1985年5月8曰、ドイツ敗戰40周年に、時の大統領、R、ヴァイゼッカ一が演說をした。「過去に目を閉ざす者は現在に盲目となる」と。

  朝陽の柔い陽射しが眩しく公園の木々の深綠に映える。平和な公園の朝である。いつしか公園を一巡した。出口近くの半円に盛り上がつた鉄の橋を渡る。ガラン、ガランの足音が響いて我に返った。思索は止ってしまつた。欄干に寄って下を覗くと池の水面に大きな鯉の群が泳いでいる。投げられたパン屑にいっせいに爭ってパクつく。だが仲間喧嘩はしない。この世の中の平和は池の中の鯉にだけある。
  公園を出る。殺人車がピュ一ピュ一と風を切って走り去って行く。危ない。デモクラシ一と同じく危い。


砂川闘争50年・それぞれの思い№3 [アーカイブ]

砂川を記録する会代表・星紀市編

「金は一時、土地は末代」反対の一点張りで政府に抵抗①

       石野昇さん(故人)     

      砂川町基地拡張反対同盟・町議会議員・ 全電通労働組合

 砂川闘争が始まったのは、私が初めて町議会議員選挙に当選したときです。定員20名中9番目でした。私が当選して2週間くらい後、今度は町長選で、対抗する砂川三三候補を破って宮伝さんが町長に当選し、その後、基地拡張について相談を受けました。これ以上基地拡張に賛成するというわけにはいかないだろうということで、私の意志としては絶対反対ということをお話しした。

 議会は12日に開かれましたが、その前に地元の意向が大切なので、急遽お集まりいただいて、いろいろ議論しました。掻摘んで言えば、「相手は政府であり、その背後にはアメリカがついている、砂川町のような小さな町が一つになって戦ったとしても果たして勝算ありや」ということで議論に議論を重ねましたが、結果的にはこれ以上農地を取り上げられるということは、農民にとって生命を奪われることになる、これ以上の土地提供は許せないということで、満場一致で決まったんです。そして砂川町基地拡張反対同盟を作るということも決まりました。「全ての事柄については反対同盟に委任する」という地元の意向を受けて、選挙後初の議会が始まり私は拡張予定地内に住む議員として基地拡張反対を提案し、20名中一人の反対もなく満場一致で基地拡張反対を決議したんです。これは全町民の意志として受け止め町全体で反対闘争をしていこう、町議会議員全体が反対闘争委員会の一員となって、地元と一体となって、取り組みを行っていくというような経緯でした。

 基地拡張反対闘争委員会の役務構成としては、小林皆吉さんという方が町議会議長であったので闘争委員長となり、副闘争委員長には副議長の田中君典さん、今立川市議会議長の鳴島さんのお父さんの鳴島勇さん。事務局長には地元の吉沢義秋議員。事務局書記としては、議員ではなく当時砂川郵便局長の志茂威(たけし)さん、二番 (地名)の篠目治助さん、町役場の方、鷹林さん。企画部長には荒井久義さん。企画部員には議員の須崎志摩さん、萩原一治さん、町役場の隣の天城仁朗さん。宣伝部にはよくしゃべるからと、私が宣伝部長を引き受け、佐藤浩太郎さん、安藤慶次郎さん、平井武兵衛さん、馬場幸蔵さん、小沢毅平さん。調杏部が設けられ、調査部長に砂川昌平さん、青木直助さん、清水度三郎さん、石川祐常さん、網代孝さんと、企画部・宣伝部・調査部という部が設置され、地元を中心に第一行動隊が編成され、行動隊長に青木市五郎さん、副行動隊長に宮岡政雄さん。こうした人たちはすでに他界されました。全町行動隊が設置され、行動隊長に内野茂雄さん。私の記憶では、闘争資金として町から十万円ほど、額としてはきわめて少額ではあったが、拠出されたように思います。

 早速、行動に移り、宮野町長を先頭に代表団を編成し、政府なりそれぞれの機関に反対の申し入れを行うという行動を取りました。特に行動に参加する中で、反対の一点張りで政府に抵抗しましたが、条件が何もないなら、話し合いには応じられないとふてぶてしく言った当時の官房長官もありました。

 初めて米軍基地拡張を聞いたときの感想は、「大変なことになってしまったな」というものでした。地元の皆さんが集まった中での話として出されましたが、言うなれば相手は政府であり、そのバックにはアメリカという国がついている。この闘いの勝算ということは自信を持って闘えるという心境ではないことは確かにありました。

 ただ、相手は政府であり、アメリカ合衆国が背後についていたとしても、やはりこの砂川という町の住民の人権というものがあり、「人権を脅かすものに対する抵抗を阻止することは、いやしくも民主主義という戦後保証されたものを覆すということは同もできないだろう、我々が生きる権利として闘っていけば、勝算必ずしも無きにあらず」 というような感じを持ちました。

 しかしながら闘争というのはやはり砂川町の町民として支援も協力も得なければならない。しかし砂川町は何分保守的な町であったので、外部からの支援・協力を受けるというときにも、意識的に、共産主義の思うつぼになってしまうのではないかという感想を持つ人も住民の中にはいました。よって、「誰に協力を求めるのか、誰と共闘するのか」ということは慎重にやっていかなけれはならない。ということで、私も労働組合の役員をやっていましたが、三多摩地区労働組合協議会の事務局長の関口和さんと面識があったので、任されて、地元の出方を見ながら、無理をしないで息の長い闘いとなることを承知して、組織を壊さないようにやっていこうとしたんです。

 しかし、政府は徐々に強硬手段に出、バックに警察も出てくる。そこで労働組合とも共闘していかなければいけないということで、反対同盟として決定しました。労働組合の側から共闘の申し出があったことは一度もなく、反対同盟からの要請に基づいて、労働組合が支援に出るということになったんです。労農提携ということで、初めて共闘が確立しました。

 労働組合では、ほとんど全ての労組が支援協定して、闘争に参加したようです。毎日の闘争であったので、延べにするとかなりの参加があったと思います。砂川には宿泊場所がなかったので、地元の皆さん宅に分散して寝泊まりし、学生は砂川中学校の講堂に寝泊まりしていました。全駐労では、基地がなくなると自分たちの勤め先がなくなるということで、当初、闘争参加に躊躇(ちゅうちょ)していた面がありましたが、やはり日本の民主主義を守る、また、きな臭い軍事基地の拡張に関しては反対だという意志決定を最終的に行い、仝駐労も砂川闘竹に参加するという経緯がありました。我々も全駐労の立場を尊重し、無理のないように、徐々に参加を促したのです。(1998年8月19日インタビュー/1926年生まれ、2002年3月13日没)『砂川闘争50年 それぞれの思い』けやき出版


今日に生きるチェーホフ№2 [アーカイブ]

チェーホフ像を迎えて

                                                神奈川大学名誉教授・演出家 中本信幸

  数年前から本格的に準備され、200310月にチェーホフ没後100年察実行委員会が発足した。文学者、研究者、演劇人が中心であるが、チェーホフ愛好家を含む広い階層の人々を結集しての「草の根運動」的性格の運動体である。 

「日本経済新聞」(2004年1月1日付)が、「演劇や文学館の記念展示など各種のイベントが企画されている。チェーホフの伝統はロシアに生き続け、日本でもその魅力が今なお演劇界を中心に刺激を与え続けている」として、特集《没後100年チェーホフ色あせぬ魅力》を組んだ。その後、多くの全国紙が関連の社説や記事を載せた。 

 世界的規模で顕彰の催しや著作物の刊行が相次いでいるが、わが国のように広範な「草の根」的顕彰は、本国ロシアにも起こっていない。 国際的に著名な彫刻家・美術家G・ポトッキー制作の「チェーホフ像」がロシア当局の認可のもとに、″ロシア国民〟から″日本国民″へ贈呈されたのは、日本での真撃な没後100年顕彰行事に対する国際的認知とみてよい。 除幕式は2004921日に東京都北区王子の駿台学園で駐日ロシア大使A・ロシュコフ、ロシア国立メリホポ・チェーホフ博物館館長ユーリイ・ブイチコフら多数の来賓が出席して盛大に催された。 それに先立ち、九月一六日にはロシア大使館で関連の展示会と記者会見が行なわれた。なお、ポトッキー制作のチェーホフ像が間もなくフランスのニースにも設置される。 

 「チェーホフを敬愛している日本国民にチェーホフ像を贈呈したい」。76日、在日ロシア大使館で描劇場を主宰する畏友クタラチチェーホフから、チェーホフ像の写真を見せられたとき、大使館員とともに考えあぐねた。「善は急げ!」だが、入管手続きなど難問題が多い。しかし急転直下、一件落着した。 異文化教育に熱心に取り組み、旧ソ連・ロシアとの芸術・スポーツ交流を進めてきた駿台学園の瀬尾秀彰理事長から快諾を得たのだ。「没後100年にちなんで、日本で数多くの多面的な興味深い催しが進められ、また、進められていくことは、私ども一同のよく知るところです。この一環としての重要事件の一つは、東京におけるロシアの彫刻家G・ポトッキー制作のチェーホフ像除幕式です。日本でのチェーホフ像除幕式は、真に歴史的な事件ですし、日本の読者と日本の知識人の方々がロシア文学とロシア文化を衷心から深く愛していることを物語っています。ロシア大統領夫人LA・プーチナが東京のチェーホフ像除幕式にお招きいただき感謝している旨、お伝えします」 

 A・ロシュコフ大使が、没後100年察実行委員会宛てのメッセージで述べている。

 「チェーホフ展・チェーホフと日本」(日本近代文学館、9231016日)の準備も兼ねて5月、6月に計二回ロシアを訪問し、モスクワとメリホボ、チェーホフの生地タガンローグを訪ねた。 メリホボで催された第五回国際チェーホフ演劇祭(メリホボの春・2004)と国際学会(チェーホフ没後一世紀。問題点と研究の総括)は、没後100年の最大イベントであった。 

 演劇祭には国内各地とウクライナから14の有力劇団が集まり、イタリアのミラノの劇団も参加した。演目も多彩で、チェーホフを愛し、その真髄に迫ろうとする意欲の感じられる舞台ばかりである。 ウラジオストクの沿海地方青年ドラマ劇場の「これがきみの劇場だ」が、今回の演劇祭の趣旨を代弁していた。題名は、「かもめ」から。商業主義に反旗をひるがえし、「新しい形式」 の芸術について熱弁をふるう若き劇作家コースチヤの台詞だ。「かもめ」が書かれた場所での上演で、演技に一段と熱がこもる。 主催者のブイチコフ館長が、この芝居に触れて、閉会の辞を結んだ。 「演劇祭は、演劇革新の発信基地になっている。これこそあなたたちの劇場だ!」 

 国際学会には、チェーホフ終焉の地バーデンワイラーで国際学会を2回主催したチューピンゲン大学のクルーゲ教授ら諸外国のチェーホフ研究者らが、万難を排して一堂に会した。イラン、台湾が初参加した。 チェーホフ博物館が、作家の終焉の地バーデンワイラーや作家の訪問地セイロンにも設立された。 チェーホフの輪は、時空を超えて、これまで未開拓であった中近東や南アジアにまで広がっている。 チェーホフの小説と劇の登場人物はすべて、ロシア人だ。 チェーホフはロシアのことしか描かなかった最もロシア的な作家とみなされてきた。ところが、没後100年を経て、真に国際的な作家になった。諸外国の人びとが「私のチェーホフ」「わが国のチェーホフ」と呼ぶようになっている。 

 メリホボの国際学会でロシアの研究者S・カイダシ=ラクシナ女史は、 「日本では、桜が数百年にわたって聖なる崇拝物になっている」 と述べ、 「チェーホフは、そのことを知っていて、サハリンからの帰途に日本に寄りたかったが、コレラの流行のために寄れなかった」 と強調した。 チェーホフは、159種類の植物をヤルタの自分の庭に植え、日本の植物も熱心に集めた。日本の桜も植えた。『桜の園』の「桜」に日本の「桜」のイメージが投影されていることは、これまでも言われてきたが、ロシアの研究者が国際学会の場で述べたことは注目に値する。 

雨の日は仕事を休みなさい№4 [アーカイブ]

目標を立てるのはやめなさい   

                  鎌倉・浄智寺閑栖  朝比奈宗泉

 55歳のとき、私はTBSを退社しましたが、その後もテレビ業界に関わっていくつもりでした。友人の事務所の片隅を借りてプロダクションを立ち上げるために、その準備に奔走する毎日。   

 しかし、そうなってからは、不思議なことに「このままテレビ業界で過ごしていいものだろうか」と、なぜか迷いが生じたのです。そこで、当初はその迷いから脱却するための修行のつもりで、仏門に入りました。 修行は容易ではないことは、いろいろな人から話を聞いていましたから、いざというときは尻尾を巻いて撤退しなければならないかな、という心配もありました。だから、「僧侶になる」などという確固たる決意があったわけではありません。むしろ、修行中でも休暇をもらって寺を出て、プロダクションの社長業もできるのではないかと考えていました。ともかく修行だけはやる。そのあとのことは修行が終わってから考えようと思っていました。 

 しかし、修行に入ってみると半年は自由がなく、坐り続けなければならないので外には出られません。その間にもプロダクションを任せていた社員が、連絡のために家にやってきます。家のほうでも心配します。そうなると 「ああ、これはダメだな。会社との両立                                                      はとても無理だ」とプロダクションを辞める決心をしました。 

 そのうえ、修行に入った翌日から先輩の雲水たちから、「おまえには修行は無理だ、明日の朝には、荷物をまとめて帰りなさい」などと言われ続け、そうすると、「何を負けてなるものか」という反発心が出るものです。修行を続け、半年も経つと誰からも何も言われなくなり、よしもう一年頑張ろう、もう二年頑張ろうと続けているうちに三年経ち、浄智寺の副住職になるお許しが出たのです。 

 人間には、長い人生のなかで何度か転機があります。私にも何度かありました。終戦直後の混乱した時代に大学を卒業して、電鉄業界、証券業界、そしてテレビ業界と、その時代時代に新しい職業に出合い、最後は仏門に入りました。しかし、いずれも「これになろう」とか「これをやりたい」とかいう強い目標、計画があったとはいえません。ただ、与えられたチャンスには努力を重ねてきたつもりです。

 しかし、運命のままに新しい職業との出合い、紆余曲折があってそのたびに目標のハードルを上げたり下げたりしながら、その業界で一所懸命やってきたという感じはします。自分が求めてそうなったのではなく、時代や環境が自分の転機を決めてくれたともいえます。

 目標を持って、それに邁進するのもいいでしょう。それはその人の人生です。それぞれの与えられた人生を全うすることは大事なことです。ただ、むやみやたらに「こうしよう、ああしよう」と計画するだけでは、大した結果は出ないと思います。

 さらに、無茶な計画を立てると、達成できなかったときの挫折感も大きくなります。人生の転機を上手に掴むためにも、まず日々の生活をみつめ、欲求を抑えることが大切です。この求める心をやめると、みえてくることがあり、心配事も起きません。

 

 繍求心止処即無事(求心止む処即ち無事)『臨済録』

 

「求心止処」とは「求める心をやめること」です。「即無事」とは、「周辺に困ったこともなく、すべてが大丈夫で何の心配もないこと」をいいます。つまり「求める心を止めると、無事である」という意味です。 私たちは汚れなき清らかな心で生まれてきています。やがて成長するとともに考えも広くなり、ときとして誰しも欲を出してしまうことがあります。そこで臨済禅師は「外に求むることなかれ、造作するなかれ(必要以上に求めたり、小細工するのはいけない)」とも言われています。

 仕事や人生において目標のハードルを高くしてもかまいません。しかし、その高くした分だけ自分が悩み苦しむリスクも高くなることを覚悟しておかなければなりません。どのような仕事の内容であっても、最後の判断は自分自身が決めるわけですから、常日頃から余裕をもって対応できる気構えを培っておくことが必要です。 

『雨の日は仕事を休みなさい』実業之日本社


こころの漢方薬№3 [アーカイブ]

読書の効用           元武蔵野女子大学学長  大河内昭爾

 今年(平成4年)になって私の身辺にはさまざまなよくないことがおこった。鬱病にならないでいるのは、ひとえに私の神経質なひよわな反面にひそむ楽天性のせいだろうが、一方では床に就いてあれこれ考えてふさぎこむ前に興味ある本に付き合えたことだった。それらの木に出会えたきっかけは、以前読んだ司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』全十巻との付き合いの経験である。 

 三、四巻目あたりから一巻終わるごとに心細くなって、最終巻の西郷の死と同時の本との別れは、西郷そのものとの別離であり、一つの時代と別れるような寂しさだった。まだあと何巻も残っているというのが何よりもうれしいというのはあまり経験しないことで、中学時代『大菩薩峠』に夢中になって以来の気分である。 

  それで『翔ぶが如く』が西郷隆盛を描いているように、同じ明治維新を題材の、そして西郷に対する桂小五郎すなわち木戸孝允を描く『醒めた炎』全四巻(中公文庫)をこころみに手にしてみたのである。ところがこれがたいへん面白い。薩摩に対して長州から見た維新であり、『翔ぶが如く』の反面を読む興味すらある。

 著者の村松剛氏は筑波大教授の仏文学者で、文芸評論家として有名だが、何しろ硬派のもの書きのイメージが強い上に、余りの大冊に私ははじめ敬遠した。しかし文庫判4冊にまとめられたのを機に手にして、その思いがけぬ面白さにひきこまれていったのだった。文庫判とはいえ500頁、600頁に及ぶ厚みはこの場合負担というより頼もしいばかりである。不安をかかえこんだような日中から逃げて、ベッドに入るのが何よりの楽しみだった。「新生日本の夢と苗と華」と第三巻の帯にしるされているとおり、それが日中のわが不安を超えるダイナミックな興味に、まさにに私はこの充実した評伝を心の漢方薬と頼もしく感じるばかりだった。

 頁をくりながら、剣客柾小五郎が日本の運命左右する憂国の政治家として維新の渦中をくぐり抜け、新時代の基礎づくりをはたしていく激動の過程が、個人の評伝をこえた歴史の胎動そのものとして、ドラマチックに描かれているのに圧倒されひきずりこまれた。 しかしいま私がここでしるしたかったのは、『醒めた炎』の表面的な案内ではない。読書こそ心の漢方薬であり、ストレス解消の即効的な見事な症例だといいたいだけで、臨床実例の一つとしてとりあげてみたのである。『心の漢方薬』弥生書房 

戦後立川・中野喜助の軌跡№3 [アーカイブ]

闇物資の出所               立川市教育振興会理事長  中野隆右

  ところで、闇市について語るならば、当然、そこで流通していた閣物資について語らねばなるまい。当時闇で流通していた物資には、前節までで触れたように米軍から流出した物資や、近郊農村などからの食料品以外に、実はもうひとつの大きな流れがあった。       

 それは、旧日本軍の軍需物資である。 

 戦時中の日本は国民は窮乏していたが、なにしろ戦争遂行のために商工省を解体し、軍需省という役所が設置されていたくらいで、軍は多くの物資を確保していた。また敗色が濃くなり、本土決戦が射程に入ってくると、文字通り、国内生産の比重は、すべてが民需から軍需へと移っていた。   

 それらの膨大な物資は、どこへ行ったのか? 前節で語っていただいたA氏が戦後の立川基地で垣間見た光景を語る。 

 「立川の飛行場はアメリカの被害には全然遇っていなかったでしょう。だから、すべての資材なんかみんなあったわけですよ。終戦後もそっくり残っていたわけですよね。それを軍は全然取りにこないで、そのままになっていた。私たちがたまたま基地の残務整理でアメリカ軍に徴用されて使役に出た時、ある倉庫をのぞいたら、新品の日本軍の飛行服とか、飛行隊の半長靴だとか㍉日本刀だとかがかなり残っていました。それはもう必要のないものだから、山積みにされていましたよ。日本はもう何もない、何もないと言っても、やっぱり飛行場あたりには結構あったわけです。それはそれなりの設備が整っていたし、資材もあった。それがいずこかへみんな消えている」

 軍が各所に確保していた物資の中には、戦後配給されたものもあり、私も軍用品の雑嚢が配給になったことを記憶している。

(中略)

 

 ところで、旧日本軍の物資の中には、空襲の激化が予想されるようになった際、被害を避けるため軍の倉庫から周辺各所へ分散保管されたものもあった。「軍都・立川」においても、この物資の「疎開」 は大規模に行われていた。 立川の場合、飛行場の周辺部の農家の蔵などへ、軍の依頼によって預けられている。ある家はリヤカーのタイヤ、ある家へは缶詰、あるいは戦闘機の椅子といった具合に分散収容されたのである。袋詰めの食料が預けられた家では、蔵にアリがわくといったこともあった。 

 ちなみに、砂川の我が家では、砂糖をお預かりしていた。これらの物資は官物であり、「いずれ軍から連絡があるまで保管せよ」 ということであったから、どの家も律儀に保管していた。そのうち軍そのものが解体してしまい、これらの物資は、取りに来る人がいなくなってしまった。もっとも、中には敗戦後になって軍人が家に現れ、持って行ったものもあったようだが。前出のA氏は、この辺の事情をこう語る。 「戦後になって、関係者も何もかもみんな分散しちゃったでしょう。だから、その関係者で、どこに何が隠匿してあると知っていた人は、自分で必要なものだけ取って、軍のトラックか何かを利用して、そのまま田舎へ帰っちゃったなんていう話も聞きます。農家のほうは預かったわけだから、軍から来たと言えば、別にそれをいやとは言えない。だから集めて、どこかヘドロンしちゃったわけです。たとえば自分の家へ持ち帰ったとか」 

 もちろん、回収に現れる人がなかった場合も多く、それらはいずれかの時点で、預かり主の農家自身が処理することになった。ちなみに我が家の場合、預かっていた砂糖は、食品問屋へと消えた。

 いずれにせよこれらの膨大な物資がその後どう処理されたかは、預かった家の人以外、(あるいは持って行った人がいた場合、その人以外) 知る由もないのである。結局、闇市に流れたものも幾分かはあったと考えるべきかもしれない。                 『立川 昭和20年代~30年代』ガイア出版


浜田山通信№3 [アーカイブ]

 エディオン撤退                      ジャーナリスト  野村勝美

 「神は細部に宿り給う」という。浜田山は広い東京、日本、アジア、世界から見れば実に細部だ。井伏鱒二『荻窪風土記』や大岡昇平の『成城だより』の名は誰でも知っている(でもないか)。しかし浜田山がどこにあるかは知らない人が絶対多い。だからここは間違いなく細部であり、細部観察者からすれば、世相を探るには格好の地であると勝手に思っている。

 されど私は細部探求者ではない。逆に極めて大ざっぱで、いいかげんな人間だ。ただ師の戸井田道造先生に世相史をまとめよう、君は浜田山の移り変わりを書けと指示されたのをずっと引きずっているだけである。もはや電車に乗ることはめったになく、近所を散歩するだけだからちょうどよい。

 5月末で井の頭通りの家電量販店エディオンが撤退した。このビルは1階がスーパーのサミットで、平成5年開店時は2,3階は大塚家具だった。エディオンはその後に入り、まだ3年ほどしかたっていない。1フロア500坪ほどの大きさの売り場で街の電器店はたまったものじゃない。私と奥さんが同郷だったT無線も修理や簡単な工事でがんばっていたが、昨年廃業した。

 最盛期家電メーカーの系列店が9店舗あったが、新宿、秋葉原の量販店ができた頃からみんなやめた。お隣のサンエーデンキは昭和28年、力道山のプロレス時代開業の草分けだったが、すぐ家の前に石丸電気の車がとまってテレビがおろされ、そのあとでアンテナの取り付けを頼まれ、頭にきて店をたたんだ。「屋根に上がって落ちても何の保証もないんですよ」と。その石丸電気もとっくにエディオンの傘下である。

 キリンビール倉庫をはさんだ西側に800坪ほどの空地がある。コジマ高井戸東店建築認可の看板。地上3階、地下1階、建築面積延べ5738㎡、20年8月着工、21年3月完成予定とある。エディオンは自分より大きいので撤退したと街のうわさだが、浜田山で1軒だけ残っていたアベ電気の社長によると、大きいところは大きいなりに大変なんですよ、コジマももう出ないでしょうという。環8の甲州街道寄りに最大手ヤマダ電機があって太刀打ちできないらしい。ダメとなるとさっさと引き上げる。少々の損切りは当たり前、エコポイント商戦など眼中にない。

 ところで「神は細部に宿る」を私は西洋の古諺と思っていた。実はユダヤ系のドイツ美術史研究家アビ・ヴァールブルクがボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』論で書いて有名になった。1929年(私の生まれた年)に63歳で死亡。


司馬遼太郎と吉村昭の世界№2 [アーカイブ]

司馬遼太郎と吉村昭の歴史小説についての雑感 2 

                                エッセイスト  和田宏                                     
歴史小説にいたるまで――司馬さんの場合1

 司馬さんも吉村さんも最初から歴史小説を書いていたわけではない。そこにいたるまでの過程をたどってみよう。そうすると、この二人の歴史小説の本質的な違いが鮮明になってくると思う。
 司馬さんはまず時代小説作家として登場した。
 本人の語るところによると、戦後復員して新聞社に入ったのは、火事を見たら駆け出してゆく社会部の記者になりたかったからだ、が、産経新聞では30歳直前に文化部に異動になり、「もう記者として車庫入りした気分だった、そこでこれから本格的に小説でも書こうと思った」ということである。
 いまの新聞社では文化部の役割は重要であるが、当時の気分としては、そうでもなかったらしい。文化部記者として文学や美術の担当になるが、「こんな高級なことをやらされるなら、出版社に入っていた」ともぼやいている。
 しかし小説を書き始めたのは、すでに社会部時代からで、そのころ京都支局で大学と寺社を受け持っていた関係からであろう、仏教関係の雑誌に発表している。最初の小説は27歳のときで昭和25年(題名は「わが生涯は夜光貝の光と共に」)、作家として決して早いスタートではない。以後、新聞記者としての見聞にヒントを得たと思われる題材をもとに、本名の福田定一名義で数編の短篇を書いている。しかし本人の述懐のよれば、本気で小説を書こうと志したのが文化部転部(昭和28年)以後ということになる。
 作家として芽が出かけていた寺内大吉氏(註1)と同人誌「近代説話」(註2)を立ち上げるため、なにか小説の賞を取っておこうと「司馬遼太郎」という筆名で書いたのが「ペルシャの幻術師」で、それが講談倶楽部賞を受賞した(昭和31年)。13世紀のペルシャを舞台にした、日本人が出てこない伝奇的な小説であった。
 この賞の選考委員であった作家・海音寺潮五郎氏が、ひとり強引に受賞を主張したという伝説が残っている。この歴史小説作家は司馬さんの風変わりな作品の中に作家の天稟を感じたらしい。私自身、編集者として長い間数々の文学賞の下読みを経験してきたが、改めて「ペルシャの幻術師」を読んでものちの司馬さんを予感させるものは何も感じない。私のことなどどうでもいいが、当時の講談倶楽部の編集者もそうだったようで、海音寺氏の慧眼にはいまさらながら驚く。氏の琴線に触れるなにかがあったのであろう。
 4年後、『梟の城』で直木賞を受賞した時も、やはりその賞の選考委員であった海音寺氏が「天才の出現」とまで大推奨した。受賞に反対した吉川英治選考委員に「若いときのあなたにそっくりではないか」と賛同を迫っている。ずっとのちになって海音寺氏は「あの時、司馬遼太郎は天才だといってもだれも賛同しなかったが、それが立証された。少々得意である」と威張っている。
 たしかに忍者を主人公にした時代小説『梟の城』には、それまでの習作時代とかけ離れた完成品が忽然と現れた感じがする。
 さて、作家として表舞台に立った司馬さんは、その後も時代小説を書き続ける。そして直木賞受賞の2年後から「産経新聞」に連載を始めた『竜馬がゆく』の途中で、今までになかったスタイルの歴史小説作家に劇的な変貌を遂げる。それを次回に検証しよう。
 ところで昭和45(1970)年秋、翌年から刊行されることになっている司馬遼太郎全集の収録作品の打ち合わせの時に、私は司馬さんから「『ペルシャの幻術師』は全集に入れない」とはっきりいわれた。自分の作品歴から抹殺したのだった。『梟の城』以前の作品で全集収録に同意したのは、「戈壁(ごび)の匈奴(きようど)」と「兜卒天(とそつてん)の巡礼」の二短篇のみであった。いずれも「近代説話」に発表した作品である。

註1 世田谷区にある大吉寺の住職だったところからつけたペンネーム。本名・成田有恒。直木賞作家。晩年は浄土宗の大本山増上寺の法主を務める。
註2 この同人誌は第11号まで刊行され、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾、伊藤圭一、永井路子、胡桃沢耕史ら多数の直木賞作家を輩出したことで知られる。


玲子の雑記帳2009-06-06 [アーカイブ]

 6月5日、『知の木々舎』にとって記念すべき最初の講座が柴崎学習館第1教室で開かれました。立川の地から文化の発信をしたいという、かなり大胆な実験をこころみる最初の一歩です。

 この1ヶ月あまり講座開講にあわせてブログの充実に忙殺されていましたが、『知の木々舎』の活動の第一の柱がネットマガジンの発行とはいえ、もう一方の柱である講座が始まるには特別の思いがありました。ネット上で不特定の人とつながる面白さとは別に、共通の興味関心を持った人たちが直接顔を合わせてつながることは何ものにも変えられない面白さがあるからです。

 講座案内でご紹介したとおり、この日の講師はチェーホフ研究家の中本信幸先生。前日ロシアの旅からもどられたばかりとは思えないほどご本人はいたってお元気。おかげで受講生は近年になってすすんだ日露間のチェーホフ研究の最新情報をきくことができました。私自身はロシアはまるで門外漢ながら、このたび訪問されたミニシンスクの美しい街の様子を聞けば、まだ見ぬロシアの大地へ思いを馳せ、非常に贅沢な時間が過ぎていくのが感じられるのでした。今回の受講生は勿論チェーホフやチェーホフの作品に興味がある人たちですが、一つのテーマに関心を持った人たちが集まって、豊かな時間を共有する・・・講座を展開することで『知の木々舎』がめざしたのはまさにここにあるといえます。

 始まったばかりの講座への参加者はまだ多いとはいえません。少しずつ輪が広がることを願っています。

 

  


図書館の可能性№2 [アーカイブ]

 個人と地域社会やの図書館サービスの効果
                     昭和女子大学教授 大串夏身
  図書館の資料を人間が活用することによって、また図書館で入手した知識・情報を人間が活用することによって、資料・知識・情報はさまざまなことをもたらす。
 それは図書館に来館して、直接本棚を見て、自分が必要とする資料を借りたり、必要なところだけコピーして帰る、という利用からはじまる。また、図書館司書に、わからないことや知りたいこと聞くというところからもはじまる。そのはじまりは、地域社会にとってとるにたらない些細なできごとである。しかし、それが個人の生活や仕事にプラスの効果をもたらすこともある。もう少し積極的に言うと、図書館のサービスが利用されることを通して、何らかの効果を個人に、そして多くの個人を通して地域にもたらすと考えられる。また図書館がもたらす効果はきわめてささいなものであり、そのささいなものが地域に無数に存在することが、地域の質を高めることにつながる。     
そのささいなできごとを具体的に見ていくと次のような事柄である。                 
     読書の習慣を身につける。
      自らが学ぶ動機を得られる。                
        図書を通してさまざまな事柄に興味を持つ。               
        1冊の図書との出会いがひとりの人の人生を決める。               
        日常生活に必要な知識を得る。              
        購入しようとしている土地の周囲の概況や水害などについて知る。               
        ビジネスや仕事に必要な知識を得る。               
        取引先の銀行や経営状態を知る。               
        「六法」に記載されている判例の全文を入手する。              
         派遣労働の雇用条件について知る。              
         講演を依頼しようとしている評論家の考え方を知る。              
         傘の柄の実用新案にどのようなものがあるか知る。              
         のどあめの商標にどのようなものがあるのか知る。            
         かかりつけの医者に処方してもらった薬の飲み方と副作用などの注意点を知る。                       宿題について相談にのってもらう。              
         図書館などの公共施設の利用の満足度を調べたアンケート調査結果を知る              
         ほかの自治体での取り組みを知る。  
 以上は最初の4つを除いて実際に図書館に寄せられ、質問事例からのもので、図書館はこれらの質問に所蔵資料やオンラインデータベース、インターネット情報源を用いて回答している。
少し説明しておこう。
●「読書の習慣を身につける」
いつでもどこでも自分のライフスタイルに合わせ、図書を読むことで、読書の習慣化して、図書を通 してさまざまな知識や情報を得ることができる。それだけはなく、知識を蓄積すること、その知識を活用することで新しい知識を作り出すこともできる。
● 読書の習慣を身につけることは、幼児や小学生にとって必要なことである。それは地域での人の育成につながる。さらに中学生・高校生に読書を習慣づけることは、日本の課題でもある。読書の重要性は、情報化社会を迎えて改めて認識されている。「子どもの読書活動の推進に関する法律」や「文字・活字文化振興法」が制定・公布された背景には、その重要性に対する認識がある。  
図書館が身近にあり、新刊書が数多く本棚に並んでいて、いつでも借りて読むことができる。こうし た条件があれば、読書の習慣がより多くの住民のものになる。その中でいつも手元に置いておきたい 生涯の友となる図書を見つけ出し、書店で購入して自分の部屋の本棚に並べる。これも、読書習慣を構成する重要な要素である。                                                  

●「自らが学ぶ動機を得られる」「図書を通してさまざまな事柄に興味をもつ」           これらは公共図書館の特性を十分生かした効果である。公共図書館は地域の中で豊富な図書を所蔵して、本棚に並べ、誰もが自由に見て、手にすることができる。本棚には知識の体系にしたがって並んでいる。本棚を見ていくことで、さまざまな事柄に興味を持つことができる。ほとんどの日本の図書館は、利用者が興味を持つような図書や雑誌を入り口の近くに並べている。ところが、図書館によっては、そういった種類の図書や雑誌は、誰もが探しにいくいので、奥に並べてそれを探しにいく途中でいろいろな図書を見ることで、他の分野の図書にも関心をもってもらおうとしている図書館もある。                    これは本棚に並んでいる図書が興味をかき立て、知識の体系は興味の連鎖ともなる可能性をもっていることを示している。                                                       多くの図書を見て興味や関心をかきたてられ、それが自ら学ぶ動機になることもある。また、カルチャーセンターや公民館などの講座で学びながら、図書館の図書でさらに学習を深め、興味を持って学習を継続する可能性もある。                                                      

●「1冊の図書との出会いがひとりの人の人生を決める」                     公共図書館での1冊の図書との出会いがひとりの人の人生を決めるということもある。例えば、英文 学の名著と出会ったことを契機に英文学者を志すとか、科学の図書との出会いが、技術者になることを志し技術者になるとか、である。人生を決めなくても、その人の生き方に大きな影響を及ぼしていることもあるだろう。生きる力を得るということもあるにちがいない。                             ●「日常生活に必要な知識を得る」                               図書館の相談カウンターや電話、メールなどで質問すれば、さまざ まなことに答えてもらえる。日常生活にかかわるさまざまな事柄でわからないことがあれば気軽に聞けばいい。各種の辞典・辞書やインターネット情報源を駆使して、適切な回答を寄せてくれる。調べ方も教えてくれる。この調べ方を教える・案内するということは、利用者が自ら積極的に図書館を利用しようという意欲を高めることに結びつく。

 ●「購入しようとしている土地の周囲の概況や水害などについて知る」。                           これも日常生活の中での事 柄と言える。都市部の図書館では、「住宅やマンションを購入したいが…」ということで、特定の地域の各種の図面。(地図など)を求められることが、また土木会社から特定地域の埋設物に関する情報を聞かれることもある。後者はかなり難しい。水道管、ガス管、共同溝などがいつ頃どこに敷設されたか、というもので、難しいというのは、だいたい関係の機関で調べてわからなかったので、というケースがほとんどだからだ。調べ方にもよる。同じ資料でも図書館司書が相談に乗りながら調べるとわかるということがあるからだ。あきらめずにチャレンジしてみたい。                      前者は各種の主題地図 が必要で、所蔵していない場合は、どこにいけば閲覧できるが案内することになる。どのようなものが求められるか考えてみると……。土地の形状、店舗、病院、建物、公共施設などは市街地図、地形 図、住宅地図、航空地図(空中写真)で、地質・地盤は地質図・地盤図で、将来の計画は都市計画図 で、災害などは治水地形分類図、都市圏活断層図で、地価は公示地価図、取引地価図(実勢地価図)、路線値図、税金は固定資産税課税台帳などで調べる。                                  なお、地図に関する質問では、地域の昔から 今までの変遷がわかる図面がないかという質問がある。調べ学習の関係で生徒からよく聞かれる質問 で、また、これは大人も関心のあるところで、地域や商店街の活性化事業のためにも求められる。                                                     ●「ビジネスや仕事に必要な知識を得る」                            これには各種のものがある。                                   ○「取引先の銀行や経営状態を知る」印刷物では帝国データバンクや東京商工リサーチ発行の資料で、もっと詳しくまた新しい状態を知りたいのであれば、オンラインデータサービスで調べる。      ○「六法に記載されている判例の全文を入手する」 最高裁判所高等裁判所のものは「判例検索システム」(裁判最高裁判所作成、http://www.courts.go.jp/search/jhsp0010?action_id=first&hanreiSrchKbn=01)の検索エンジンで検索する。                                   地方裁判所は最近のものしか検索できないので、印刷資料か法律専門のオンラインデータベースで調る。○「派遣労働の雇用条件について」 関連の図書をまず読んで、新しい法律が改正されていないかどうかは「法令で提供システム」。(総務省作成 http://law..e-gov.jp/cgi-bin/idxsearch.cgi)で、最新の条文を確認して、改正されていれば、法律改正時期を調べ、法律・労働の専門雑誌で解説がないかを調べる。                                             ○「講演を依頼しようとしている評論家の考え方を知る」                                     これは「e-hon」(トーハン作成、 http://www.e-hon.ne.jp/bec/EB/TOP)や「本やタウン」(日本出版販売作成、http://www.honya-town.co.jp/hst/HT/index.html)などの新刊書のデータベースの著作がないかを調べ、あればすぐにi入手する。雑誌記事索引やインターネットのページ検索でフォローする。         ○「傘の柄の実用新案にどのようなものがあるか知る」「のどあめの商標にどのようなものがあるのか知る」これは地域の企業などにとっては非常に重要な事柄である。特許庁の「特許電子図書館」(http://www.jpdl.go.jp/homepg.ipdl)で調べる。キーワードで簡単に調べることができる。         以上のように仕事に役立つのも図書館である。インターネットやオンラインデータベースが普及してきて、市町村の図書館でも回答できる範囲は広がった。わからなければ、都道府県立図書館を中心とし図書館協力ネットワークを活用して調べてもらうことができる。                                     

●「かかりつけの医者に処方してもらった薬の飲み方は副作用のどの選手注意点を知る」            医薬分業で、薬は処方箋を処方する薬局からもらうようになった。薬を受け取るときに薬剤師から説明を受けるが、それほど詳しいものではない。聞くだけでもメモを取らないから、家に帰ったらほとんど忘れてしまう。そうしたとき、もっと知りたいと誰でも思うことだろう。図書館に問い合わせれば、薬の事典などで詳しく教えてもらえる。                                                                  インターネットでは、「お薬110番」(ファーマフレンド作成、http://www.jah.ne.jp/~kako/)などの薬のデータベースで検索して効用や副作用や飲み方の注意事項などを確認する。薬の副作用ものについての最新情報は厚生省労働省厚生労働省のページ「医薬品と安全性関連情報」(http://www1.mhlw.go.jp/kinkyu/iyaku_j.html)で確認できる。                                      ●「宿題について相談にのってもらう」 これも図書館は資料があるので、当然相談に応じる。これは学校の役割だという考えがあるが、土曜・日曜など図書館がヤングアダルトコーナーに、大学生のアルバイトを配置して相談に応じるようにするといい。土日は学校が休みだ。放課後も同様にすればいい。教科書や教材をおかないという図書館があると聞くが、それで学校教育支援ができるのだろうか。           図書館司書が、日常的に学校のカリキュラム分析・学習をしていないということの方が問題だ。       また、これに関連して資格関係の図書は置かない、資格の問題集は置かない図書館もある。時代がわかっていない。これからの情報社会では、資格、特に知的なものに関連した資格はきわめて重要で、専門職をきちんと処遇し、活躍の場を広げることが知的な社会をより効果的で豊かにしていくことにつながるのだ。当然限定的にでも資格の問題集はおくべきだろう。
●「図書館のどの公共施設の利用も満足度を調べたアンケート調査を知る」 市役所からの質問である。「ほかの自治体での取り組みを知る」というのもある。印刷資料やインターネットなどを駆使して調べる。これらは図書館を利用した人が、利用したことを生かしてプラスの何かを社会のなかで生み出すという意味での<図書館の可能性>である。
                          『図書館の可能性』青弓社
         


玲子の雑記帳2009-05-30 [アーカイブ]

 『知の木々舎』の講座開講とそれにあわせてのネットマガジンの準備に追われているうちに、季節はいつの間にか移ってまもなく6月。もう夏です。季節に合わせてこのブログのテンプレートも夏バージョンに衣がえしました。しばらく青い空にお付き合いください。


the SOUND of Oldies in TACHIKAWA №1 [アーカイブ]

立川っ子純情①
                                             鈴木 武
呼び出し音が鳴ってる途中で誰に電話をかけたんだか忘れちまう。
風呂場で、子どもに尋ねる。「おとう頭洗ったっけ?」
新しいことはすぐに忘れちまうのにガキの頃の何の役にも立たぬ、くだらねえことはなぜか憶えてんだよな。
おそらく俺より五つくらい先輩から五つくらい後輩までにしかわかんねえ立川の話・・・
 
立川市内雑観.jpg今では全国でも屈指の乗降客で賑わう立川駅だけど、俺がガキの頃は夜九時ともなりゃ人影もまばらだった。現在のような高架にはなっておらず、暗くじめじめした地下通路が各線のホームにつながってて、そこには蛍光灯を内蔵した箱型の地元店舗の広告が並び、玉切れ寸前で点滅する様が地方都市っぽい雰囲気を醸し出してた。しかも南北に自由に通過はできなくてさ、反対側に抜けるには入場券を買わなきゃならず、不便この上なかったな。
そんな立川も、少なくとも青梅線沿線や村山、東大和方面の人たちにとっちゃあ最寄の都会で、今みてえに郊外型の大型店舗なんてねえ時代だから、ビッグな買い物をするときゃ家族でおしゃれして立川に繰り出し、お昼はデパートの食堂に入る、なんてのがお決まりのコースだったんだろうな。砂川の諸先輩方は未だに駅周辺に来る時は「立川に行って来る」と言うらしい。ちなみに俺の先輩のお父上は都内に出る時「東京に行って来る」って言ってるぜ。               立川駅雑踏.jpg 
ただし、市外の人たちから見りゃ立川=北口でさ、南口なんか眼中になかったんじゃねえかな。一般的に北口を栄えてる方、南口を栄えてない方なんて表現してたもんな。馬場の方、猪木の方みてえなもんだよ。北口が栄えてるって呼ばれてたのは南口には無いデパートがあったからだけっつう気もするがな。
 

Photo (C) Tachikawa City Historical Folk Museum/
          Tachikawa Printing Factory.All Rights Reserved

 写真は昭和54年頃の立川駅前と駅構内の地下道


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第五福竜丸は平和をめざす№1 [アーカイブ]

第五福竜丸から伝えたい

               第五福竜丸平和協会事務局長、展示館主任学芸員  安田和也

  きょうも第五福竜丸展示館には子ども達のにぎやかな声がひびく。「わーでけえ」「なにこれ?」「本物かあ」の声があがる。4月半ばから6月にかけては、春の修学旅行や社会科見学のシーズンであり、小中学校、高校の生徒たちの見学が多い。年に400校を超える学校の見学があるが、展示館では、ボランティアガイドの方たちが、ほぼ全ての学校にお話をしている。また一般来館者のグループにもお話している。21世紀が始まった2001年春にボランティアの会がつくられ、展示館で「説明が聞ける」ことが知られるようになってきた。 

 ビキニ事件から半世紀以上が経ち、直接事件を知らない世代が大多数になることは、ある意味では当然であろう。しかし、被災した船の実物が保存されているからこそ、多くの人が足を運び、あるいは公園に遊びにきた市民が見学していく。入場料を取らないことも大事だ。展示館では、第五福竜丸の被災の模様や乗組員の被害とともに、マーシャル諸島の被ばく者、戦後の核兵器開発とその被害、核兵器に反対する人々があることも伝える。また、この船が、アジア太平洋戦争直後の日本の復興の時期に建造され、食糧難の時代に遠洋漁業に従事した木造船として、現存する唯一の貴重な資料であることも話している。

 来館者の感想を紹介しよう。「私は家で母たちに第五福竜丸のことを話しました。母が「そうなんだ、わかった!」となっとくして、父や妹たちにも話していました。みんなの耳に第五福竜丸のことを聞いてもらいたいと思いました」(小学6年・女)。「過去はもう変えられないものです。第五福竜丸の悲劇は真実です。しかし未来は私たちの手で作りだしていくものです。説明を聞いて、原爆や戦争のない平和な世界が広がればいいと思った」(中学3年・男)。 

 今年は、新藤兼人監督が作られた映画映画「第五福竜丸」の公開50年にあたる。展示館では、5月半ばから6月末まで映画についての企画展と上映会を開く。新藤さんは、「第五福竜丸は生きている」の言葉を揮毫して下さった。たくさんの市民の声で残された第五福竜丸、原水爆のない、平和な港に錨を下ろすその日まで、この船は生き、航跡を刻みつづけるだろう。久保山愛吉無線長の遺した言葉、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」とともに、第五福竜丸は、いまこの世界に生きる者たちにメッセージを発信しつづける。

 新藤兼人監督と第五福竜丸   

 東京・江東区夢の島公園、ここは40年前までは都民が出すゴミの廃棄場所であった。その埋立地は、後に造成されて都立公園となった。その海に面した一画に木造の遠洋マグロ漁船・第五福竜丸の展示館がある。


 新藤兼人監督(現役最高齢監督、97歳)が、1958年から制作し59年2月に公開された映画「第五福竜丸」、そのビキニ水爆実験に被災した船の実物が保存される小さな博物館である。第五福竜丸は、全国の多くの市民による「原水爆反対」「被害を後世に伝える」との平和のとりくみで遺され、都によって展示館が建てられたのだ。   
  ビキニ水爆被災から55年、事件を直接知らない国民は7割に達するという。いまを生きる市民にとって、映画「第五福竜丸」は、歴史を生きた事件として追体験する貴重な映像となっている。何度か来館された新藤監督は、“どうしても撮っておきたかった”、“劇ではあるがドキュメンタリーのように事実に忠実に撮る手法で作った”と話してくださった。資金もないなかで、焼津ロケの宿代も払えず食事はゴハンと味噌汁とおしんこだけ、国際的に多くの賞を受賞した「裸の島」の収入により数年後に支払った、というエピソードも紹介された。興行的にも「暗い」内容は、なかなか当時の庶民の足の向くところではなかったという。

 ビキニ事件から55年を経たいま、私はこの映画を観て感動を新たにする。ここには、貧しいが朴訥とした田舎の漁師町に生きる人びとの姿があり、その海の男たちに突然降りかかった水爆実験の「死の灰」、被ばくとその後の経緯、それに関わった人々が描かれていく。無線長・久保山愛吉とその妻、宇野重吉と乙羽信子という名優は、英雄的主人公ではなく、市井の漁師とその妻である。夫と妻のまなざし、子どもへの想い、取巻く人々の暖かさ、当館が所蔵する久保山さんへのお見舞いの手紙3千通からも感じられる、その心が静かに伝わってくる。水爆という巨大な破壊、暴力とその理不尽さが、観る私たちにひたひたと迫る。


映画公開50年記念企画展と上映会

5月16日より6月30日まで企画展「新藤兼人監督・映画第五福竜丸50年」をおこなう。

6月の毎週土曜日 映画「第五福竜丸」の特別上映会開催入場無料

                               <但しカンパは歓迎>。

  夏休み子どもイベント 7月25日(土)8月2日(日)9日(日)11:00am◇平和の絵本のおはなし会―マーシャル諸島の子ども達のお話を読みみんなで考えます。◇工作教室―牛乳パックでつくろう第五福竜丸 いずれも参加無料・予約不要  

                     イベント等の問合せ 、

                                        東京都立第五福竜丸展示館  URL http://d5f.org)                                    

                      東京都江東区夢の島3-2 夢の島公園内

                                        TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900                                                                  E-Mail:fukuryumaru@msa.biglobe.ne.jp