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こころの漢方薬№2 [アーカイブ]

沢庵のことば

               元武蔵野女子大学学長   大河内昭爾

 薬一つに心をとられ侯はば残りの葉見えず、一つに心を止めねば、百千の薬みな見え申し候。 

 右のことばは沢庵禅師の『不動智神妙録』の一節である。

『不動智神妙録』は柳生宗矩の請いをいれて沢庵禅師が書き与えたもので、柳生流『兵法家伝書』にある「一心多事に捗り、多事、一心に収る」のことばは、この禅師のことばをうけているのにちがいない。『金剛経』の「応に住する所無くして其心を生ずべし」(六祖慧能禅師)の「住する」とはとどまること、すなわち執着することである。一つに執着しなければ、自在な心の働きが生じると説いている。

 柳宗悦の「応無所住」という話に、「応無所住而生其心」つまり〝オウムショジュウニショウゴシン〟と最もありがたいお経を聞いた田合の老女が「大麦小豆二升五銭」とおぼえて、それでも法悦にひたれたという。それこそ碑恵の有無に左右されない無所住のあらわれと柳宗悦は語っている。  

 仏典で執着執心を嫌うのは、心が自由を失うからである。こだわりを持つことは心がかたよることであって、冒頭の禅師のことばも一つの事に心をとられて他を見失ってはならないとさとしたものだ。  

 禅師のことばを柳生流がどういかしたかは、現代の剣道にあてはめていえば、竹刀の先にのみ心をとらわれると相手の動きがつかめないという単純な筋道におきかえられそうだ。   

 それは、官本武蔵『五輪書』の「敵の太刀の動きを知ることが必要であり、敵の太刀を見てはならない」という意味の「敵の太刀を知り、いささかも敵の太刀を見ず」ということばに通じる。  

 観見二つの事と武蔵はいう。おもてだけの現象を見ることにとらわれすぎて、ものごとの本質を観るのをおろそかにしてはならないと説く。敵の竹刀の動きに心をとらわれる人は決して上達しない。相手の眼をしっかりとみつめながら、敵の竹刀の先はおのずとその視野の中にあるべきものだ。  

 生活全般まさにそうで、目先のことにこだわって、大筋のところを見失ってはならないと沢庵禅師や武蔵は示唆したものであろう。

 猫じゃらしに遊ぶ猫はその先端しか見ようとしないのに、犬は棒で遊ばれても棒を持つ人間しか見ない。  『こころの漢方薬』弥生書房


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