SSブログ

砂川闘争50年・それぞれの思い№1 [アーカイブ]

砂川闘争を風化させないために                                                                         

                                  砂川を記録する会代表・星紀市

砂川基地闘争とは
 砂川闘争とはアメリカ軍立川飛行場の拡張をめぐり、15年間にわたり続いた、大きな住民運動のことを指しています。
 アメリカ軍立川飛行場の前身は、大日本帝国陸軍の飛行場でした。1922年、当時の立川村と砂川村にまたがって作られた小さな飛行場はやがて拡大強化されました。太平洋戦争時には、軍都立川と言われました。
 1945年敗戦によりアメリカ軍に占領されてからは、朝鮮戦争・ベトナム戦争の出撃拠点となりました。
 1955年大型機の離着陸のためにさらに滑走路を延長することを、アメリカ軍から要求されたのに対し、砂川の農民たちはこれに反対しました。強制収用のための土地測量にあらゆる方法で抵抗し、裁判所や東京都収用委員会でも論陣を張り、一歩もゆずりませんでした。ついに1968年アメリカ軍は拡張をあきらめ。翌年国も収用認定を取り消し、15年の戦いに終止符が打たれました。やがてアメリカ軍は横田基地に移り、1977年、580万平方メートルの基地は、日本へ全面的全面返還されたのです。

砂川基地闘争の持つ意味
 今振り返ってみるとこの闘争は、憲法との関わりで、大変重要な意味をもっていたと言えます。
 その第一は地方自治を守る運動であったということです。1955年5月4日、東京調達局(現東京防衛施設局)が砂川町の宮崎伝左衛門町長に基地拡張の通告を行ったのです。それは126戸の農家と17万平方メートルの農地を奪い、町の中心を通る都道五日市街道を分断するものでした。
 町長はすぐにこの通告を地元住民に説明したところ、絶対反対の意思を表明され、5月8日、地元住民は砂川町基地拡張反対同盟を結成しました。
 12日には臨時の町議会が開催され、満場一致で反対を決議、町議会議長を委員長とする反対闘争委員会が作られました。宮崎町長は、「たとえブルドーザーの下敷きになっても1坪の土地も渡さない」と悲壮な決意を語り、砂川町は町ぐるみで、国が決めたアメリカ軍基地の拡張に反対したのです。また宮崎町長は調達局が土地収用のために行う立ち入り調査に反対して公告を拒否、東京都知事の職務執行命令にも従わず、基地拡張のための一切の法的手続きに抵抗して、砂川町を守りました。
 その第二は自由と権利を自らの努力で保持するという、憲法第12条の実践であったことです。
 国が農民の抵抗を警察官の暴力で排除して測量強行していたとき、
「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」
 と言う青木市五郎行動隊長(後の立川市議会議員)の言葉を合言葉にして、農民たちは団結を崩さず、戦いつづけました。
 警察官の警棒に打擲され、1000人を超える負傷者が出ました。自らも重傷を負った日本山妙法寺の西本敦上人は、
 「流すべき血は流さなければならない。失うべき命は失わなければない。その後に平和な独立日本が訪れる。」
 と説きました。万余の労働者、学生、知識階級の人々が砂川に駆けつけ、誰もが身を挺して自由と権利を守ろうとしたのです。
 そしてその第三は、戦争のための軍事基地か、豊かな生活のための農地かの選択であり、安保条約か、憲法かの選択であったということです。
 砂川の農民たちは戦前・戦中は旧日本軍に、戦後はアメリカ占領軍に多くの土地を取り上げられてきました。しかし、もうこれ以上戦争のために土地を提供することを拒否したのです。
 この闘いの中で、東京地方裁判所の伊達秋雄裁判長は、
 「駐留アメリカ軍は、憲法第9条に違反しており、憲法上、その存在は許されべからざるものである」
 と言って、反対運動の人々の基地立ち入りに、無罪の判決を言い渡しました。
そればかりではありません。砂川闘争は大衆的な実力闘争と法廷闘争の結合、あらゆる階層の人々の共同行動という面でも特筆すべきものでした。
 地元の農民・労働者・学生が無法な測量と、それを擁護する警察権力の暴行に、徹底して非暴力で抵抗したのです。法廷でも総評弁護団を中心とした数々の抵抗が繰り広げられました。測量のために農地に入ってはならないという仮処分申請、東京都がなした土地収用のための公告の取り消し請求、内閣総理大臣がなした収用認定取り消し請求、飛行場内土地の明け渡し請求、東京都収用委員会の審理裁決権限不存在確認請求の裁判などなどです。また、64年4月から始まった収用委員会の審理には、毎回多数の農民と労働者が三多摩労協が借り上げたバスで東京都庁まで、傍聴に駆けつけ、66年暮れまでに13回を闘いぬきました。
 この間も、防衛施設庁による反対防衛同盟への執拗な切り崩しが続きました。66年の墜落炎上事故をきっかけとした多くの立ち退きと、買収国有地への立ち入り・耕作禁止、柵設置の通告を契機に、現地は10年ぶりの緊張に包まれました。このときベトナム戦争反対闘争に取り組んできた、三多摩反戦青年委員会は、反対同盟役員とともに、全国に砂川の危機を訴え歩いて、現地での集会を盛り上げました。
一方、美濃部東京都知事の出現により、収用委員会の審理が中止になったこと、ベトナム戦争によるアメリカ財政の破たんなどとあいまって、ついに68年の拡張中止になったのです。
 私たち砂川を記録する会は、地元の立川市でおきた砂川闘争を昔の出来事として忘れることなく、また後の世の方々に史実を伝えていきたいと考え、その記録を残す活動を続けています。
  1996年に写真集『砂川闘争の記録』。(けやき出版)を発刊。
  2002年にはビデオ『砂川の暑い日』(126分)を制作しました。
  2005年に、『砂川闘争50年・それぞれの思い』(けやき出版)
 『砂川闘争50年
・それぞれの思い』には、さまざまな立場から、砂川闘争に関わった人たちの証言が収録されています。
 砂川闘争を風化させないために、改めて、それぞれの人たちの証言を連載していきます。               
                                                                                                         『砂川闘争50年・それぞれの思い』けやき出版


posted by bell at nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0