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対話随想余滴 №14 [核無き世界をめざして]

対話余滴14 関千枝子から中山士朗様

             エッセイスト  関 千枝子
 
 なんだか、この前の手紙、泣き言ばかり書いたようで失礼しました。ただ、大腿骨骨折のリハビリの大変さを、痛感しています。退院は四月は無理で五月になりました。
 それにしても驚くのは年寄りの入院者の多いことで、まるで老人病棟のよう。それも女性が多いのです。完全に認知症と思われる人もかなりいます。年寄りの骨折がいかに多いか、ということだと思います。身の回りのことも何もできない人も多く、結局家族が見るということなのでしょう。幸せな方々かもしれませんが、いろいろな意味で考えてしまいます。ただ一つ言えることは、やはり、けが(骨折)はいけませんね。高齢者には禁物です。屋内で骨折する人も多いようなので、中山さんも、これだけは気を付けてください。
 病院に篭っているうちに世の中いろいろ変わってきました。不愉快なことが多いです。まず、元号騒ぎです。これで安倍氏の支持が増えたなど、信じられませんね。でも、中山さんのお便りに「海ゆかば」のことが書いてありうれしくなりました。「令」の字の持ち上げや萬葉集賛歌が言いふらされる中、「海ゆかば」のことを誰も言わないのに、私は怒っております。最近、「海ゆかば」のこと書いている新聞もあることに、気づきましたが、とにかくテレビの世界では(今、私は、新聞を読む機会が少なくて、多くの情報をテレビに頼っていますので)、海ゆかば」のことに触れているテレビ番組など見当たりません。戦中を少しでも生きた人間だったら「海ゆかば」を忘れた人はいないでしょうに。
 あまり腹が立ち、女性文化研究所の機関誌(ニュース)に、そのことを書かせていただきました。依頼は「今伝えたいこと」というテーマで、数回連載で、思っていることを書いてくれということで、私の生まれたころからのことを書こうと思ったのですが、この「令和騒ぎ」で、昨今の話題と絡めて皆さんが忘れていることを書こうと思います。
 第一回は、「海ゆかば」のことを書きました。萬葉集が貴族から庶民までの歌を集めた国民の歌集のように言われるが、あの頃の庶民があの難しい万葉仮名を書けたか。その中でも貧しい東国の防人が歌を詠み、書くことができたのか。五七調は日本語をしゃべる人にとって言いやすいので、少し教えれば、短歌めいたものをしゃべることはできたかもしれませんが、万葉仮名で書くことはどうでしょうか。誰かがあとから添削したものではないか、そんな疑問をもっています。
 さらに、「海ゆかば」の曲のでき方に対する腹立たしさです。
 あの歌は、一九三七年、盧溝橋事件から始まったシナ事変が実質的戦争に広がり、近衛内閣が、「国家総動員計画」を立てた。その最初の国民を鼓舞する大宣伝が「国民歌謡」でした。月に一度「国民歌謡」を作りラジオで放送するというのです。昭和の初めに出現したラジオは、満州事変を経て国民に広く普及、よく聞かれておりました。国民歌謡の第一回が「海ゆかば」でした。信時潔氏の作曲による荘重な調べは国民の心をとらえ、誰一人知らぬものはない曲となりました。天皇のために命を惜しまない、それが日本人、戦死は「誉」という考えが自然に国民の中に行きわたっていったのです。
 特に忘れられないのは戦争末期、玉砕の報とともにこの調べが流されたことです。鬼畜米英憎し、一億火の玉となって聖戦を闘い抜く、と悲壮な気持ちになったものです。
 なぜ、国民歌謡第一作が「海ゆかば」だったか。私は、どう考えても信時氏が自分で海行かばの歌を選んだとは思えないのです。国家総動員で難局に対処する、国民を鼓舞する歌には何がよいか。それには防人の天皇への忠誠の歌こそ最高、と考えた人がいて、当時超一級の作曲家信時潔氏に曲をつけることを依頼したのではないかと思うのです。
 この歌のすさまじさ。海でも山でも野垂れ死にOK。屍などどうなっても構わない、遺骨どころではありませんね。しかし、こんなことを本当に防人が心から思って歌に詠んだのだろうか。万葉仮名を自分で書くことは無理でしょうから、元歌のようなものがあっても誰かが手を加えたのではないだろうか、と疑ってしまうのですが。
 もっとも恐ろしいことは、今回の「令和」騒ぎで万葉ブームが起きたのに、「海ゆかば」のことを誰も言わないことです。皆さん、「海ゆかば」のこと忘れてしまったの!
 とにかく、元号というものに、私は大反対で、世界に通用しない日本だけの「馬鹿な習慣」それに対し、まったく無批判で、「時代の区切り、節目だから」など平気でしゃべっている人の多さ、何だか、悲しくなってしまいます。
 こんなことを書いているうち五月一日になってしまいました。今日から令和一年になるわけで、テレビをひねったら、一晩寝ずに踊っただの、令和と名付けたお菓子に行列ができたの、デパートの初売りに大騒ぎだの、まるで、去年のハロウィーンの渋谷の騒ぎを思い出すような騒ぎがあちこちで行われたようで、ほとほといやになってしまいました。日本人はお祭りが好きで、なにかにつけ直ぐ舞い上がるようで、怖いと思います。新しい時代になったなど平気で言っている人、何を考えているのでしょうね。世界中の大部分に人が元号なんて知らないのに、日本人だけが「新しい時代」なんておかしいですね。
 天皇(上皇ですか)は平成を戦争がなく、好かったと言いましたが、私から見れば、この三十年、限りなく戦争に近く、戦前の趣を呈しているように思えてならないのですが。
 世の中の「バカ騒ぎ」と別に、とても心配です。日本だけでなく、世界中の逆コース(こんな言葉、ありましたね。覚えておられますか)心配です。NPO会議でも核を持つ国々の態度はますます荒々しく、気持ちが逆立ってくる思いです。


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対話随想余滴 №13 [核無き世界をめざして]

        対話随想余滴⑬  中山士朗から関千枝子様

                作家  中山士朗

 このたびの関さんの闘病記を読みながら、やはりもの書きの人が書いた文章だと感心いたしました。
私なぞは、最近、私たちの『対話随想・余滴』を読んでくれている親しい人に「文章に脳軟化の兆候が表われていると思ったら、教えてください」と依頼している有様です。それに較べて、大変な手術を受けられ、そのリハビリも苦痛を伴うにも関わらず、自分自身を客観的に観察されている文章の鋭さには敬服いたします。そのような状態のなかにあって、仕事のことが念頭から離れない新聞記者の魂のようなものを感じました。それにしても、お怪我をされた後の日程の詰りには驚きました。このたび出版されました私たちの『ヒロシマ対話随想』の帯に、「行動の人」と日高さんが命名されたのもむべなるかなと思いますが、これからは少しご自分の時間を持たれるようにされてはと念願しております。
 そのことを感じながら読んでおりますと、被爆直後の私の姿が彷彿としてきました。
 そして、いつかも『往復書簡』の中で書いたと思いますが、原爆の放射能と熱線を浴びて顔や手足に火傷を負った私が、現在では看護師長というのでしょうか、外科病院の看護婦長から三ヶ月の間、毎日治療を受けた日々のことが鮮明によみがえりました。それは、火傷した顔や手足の焼け剥がれ、爛れた皮膚の下の組織から滲出するおびただしい膿液を拭い、チンクオイルを塗布するだけの治療でしたが、クレゾール水溶液を含ませた消毒綿が触れただけでも飛び上がるような痛みを感じました。
 気丈な婦長さんは、私を押さえつけ「身体じゅうに蛆をわかせ、臭くなって死んでもええと言いんさるか」と語気を強め、額に汗を浮かべながら私の体を押さえ続けるのでした。私は私で「こんとに痛いんなら、死んだ方がましじゃ」と叫んでいました。おしまいには、家人が手伝って私を押さえつけ、ようやく治療が終了するという始末でした。
 ですから関さんが術後に身体をひねったり、前にかがんではいけないと看護師の方から注意され、介護ヘルパーさんに支えられての生活に気落ちされたことは、よく理解されます。私も治療が終わった後で「よく頑張りましたね」と褒められたことを、関さんの闘病記を読み終えて思い出しました。
今後、日常生活において色々と支障を来たすことがあるかもしれませんが、乗り越えて下さい。関さん流に言えば、「目」、「耳」、「口」が達者なら大丈夫です。私は、それに「手」を加えております。吉村昭さんが、作品は「手」で書くものといわれた意味が、最近ようやくわかるようになりました。そして「手」は、生命維持の 根源の機能をもっていると思うようになりました。
お手紙の冒頭に、私の肺炎後の健康状態についてご心配を頂いておりますが、つつがなく暮らしておりますのでご安心下さい。けれども、最近、新聞の訃報欄を眺めておりますと、高齢者の肺炎による死亡が多いことにあらためて気づいているところです。幸い命が助かったものの、気をつけなければならないと思っております。
このたびのお手紙の締めくくりとして、元号「令和」の典拠の歓迎ムードについての考察が述べられていました。私も関さん同様に、新元号発表後の安部首相の談話には腹立たしさを覚えました。
 初春令月 気淑風和(初春の令月にして、気淑く風和ぎ)「萬葉集」巻五、梅花の歌の序を典拠したことを告げた後で、「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められている」と説明し、国書からの典拠と説明しました。その結果、異様な歓迎ムードが高まったのでした。政策的にも、効果をもたらしたのです。
こうした決定の談話を聞いておりますと、安倍首相はやはり戦争を知らない世代の人だなと思いました。知らないというより、歴史から学ぼうとしない宰相としか思えません。
戦争の最中に育った私たちは、萬葉集と聞けば、
海行かば水清く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ
と、事あるごとに歌わされましたが、学徒勤労動員で派遣された工場でも、日本軍玉砕のニュースが伝わった際には、作業を中止して斉唱し、必勝祈願したことがまず頭の中に浮かんできます。
また「令」という文字を見た瞬間、私は「命令」という文字がイメージされました。それは、私たちが戦時中に、国民学校令、学徒出陣命令、中学生の勤労動員令、女子挺身勤労令、ひいては勅令、召集令状、戒厳令などの言葉に出会ったからだと思います。その他に朝令暮改、巧言令色鮮仁(論語)という言葉もあり、「令」という文字に関しては良い印象がないのです。戦争を体験した世代がやがて消滅すれば、「令」は安部首相の言う麗しい時代を象徴する言葉になるのでしょう。
「令」という言葉は、関さんの言われるごとく、中国の古典の影響を受けているのはまちがいありません。萬葉集は、日本が律令国家を形成していた頃、つまり随・唐にならって七世紀半ばから形成され、奈良時代を最盛期とし、平安初期の一〇世紀までとされていますが、その間三百五十年間にわたって詠まれた長歌、短歌、施頭歌など約四千五百首も収められているのです。
「律令」は辞典によれば、律と令。律は刑法、令は行政法などに相当する中央集権国家統治のための基本法典、と示されています。律も令も古代中国で発達、随・唐時代にともに完成し、日本はじめ東アジアに広まったとされていますから、やはり萬葉集からの典拠として決めつけるのは無理があるような気がします。




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対話随想余滴 №12 [核無き世界をめざして]

余滴12   関千枝子から中山士朗様

             エッセイスト  関 千枝子

 私のけがでご心配かけましたが、中山さんは、肺炎の後、すっかりよろしいのでしょうか。ご自分の体のことは書いておられないので、心配です。でも、定政さんや、中国新聞の西本さんが別府まで見えたとのこと。よかったですね。別府は近頃広島からは不便で、皆さま行きたいと思いながら敬遠されるのですが、本当に良かったと思います。でも、中山さんの一中同窓会(鯉城高校の一年だけの卒業生ということになりますか)、「二三会」十五人参加というのは厳しいことですが、それにしても幹事役がいて、同窓会が開けるだけでも立派だと思います。

 この後、前の余滴の10での書き残しですが、一応書いていたものを送ります。書いてから少し時間がたって、少しバカみたい問われながら思うこともあるのですが、一応ご報告ということで。

 杖を使い始めたのはずいぶん前です。十年以上前です。転ばぬ先の杖、絶対に転倒することはないと威張っていたのですが、過信だったようです。倒れた瞬間痛いという感覚はなく、みっともない、起きなくてはと思ったのに、立ち上がろうとしても体が動かず変だと思っているうち人が寄ってきて皆様のお助けでひとまずロビーの椅子に腰かけました。落ち着いたので、体を動かそうとしても動きません。変だなと思っていると、水戸さんのお友達の介護の専門家の方が来ていらしたのですが、私の足などを動かしてみて、これはちょっと楽観出来ないと、自分で電話をかけ救急車を呼び、さまざまな手続等をとってくださいました。あれがなければもっと面倒なことになっていたかもしれません。救急車に乗る時、担架に乗せられる時の痛さ、思わず悲鳴が出、我ながらただ事でないと思いました。着いた先は東京新宿メディカルセンター(昔の厚生年金病院)です。整形外科では定評があるところで、まずはよかったと思いました。これからが大変で、検査があり、大腿骨骨折をしている、このまま入院と言われ、驚きました。一応ノートに子どもたちの電話が書いてあるのですが、なかなか通ぜず、大変でした。
 しかしこの救急センター、救急のけが人で一杯なのにも驚き、看護師さんたちの親切なことに心温まる思いでした。次の日が土曜日で、医師が決定しないというので心配しましたが、翌朝、救急センタ―の当番医師だった。小松先生が執刀すると言ってくださいました。
 この日からあと私は予定がぐっと詰まっていたのです。五日が選択議定書批准を目指す院内集会、六日が歯医者、七日が女性「9条の会」主催の澤地久枝さんの講演会、八日は昼間が安保関連法女の裁判の法廷があり、夜は、「38国際女性デー神奈川集会」に講演に行くことになっていました。この中で一番困ったと思ったのは、国際女性デーでした。ふつつかな私がメイン講演者です。責任もあり、日にちが迫っています。誰を代役にするにしてもお困りのことよくわかります。ほかの会は私の役と言っても大したものでなく、誰でも代わりはききますが、8日のことは本当に悩みました。
 主治医の小松先生に8日に講演に行けないかとお願いしてみました。「不可能ですよ。」と小松先生。「あなたの状態では今車いすに乗ることも不可能です。車に乗せるにしても3人がかりですよ。」確かに私も、その後、身動きできない痛さを経験しました。すぐそこの物が取れない。少し体を動かしてもイタイタ。何とも情けないがどうにもならないのです。小松先生に「あきらめます」というしかありませんでした。
 でも本当に悩みました。金曜日の夜の事故なので土日が入り、事故のことを知らせたのが月曜、期日までに代役決まるかしら。申し訳なく、死ぬ思いで、持ってきてもらったパソコンで、レジュメの梗概はできていましたので話し言葉で書きました。病院の病室には電源はあるが、インターネットは通じません。外部との連絡は携帯のみ、閉ざされた世界になりそうで、困ったのですが、娘たちのスマホにつなぐことでインターネットにつながることが判りました。その時だけですが、私に来たメールは全部開けられますし、明けたメールは後から読むこともできます。メールも飛ばせます。この機能を生かし、神奈川の女性デーの実行委員会に原稿を送ろうかと思ったのですが、そんなのをもらってもかわりに読む人はないし、と、断られてしまいました。それはそうですね、娘たちも却って失礼だよ、と言っていましたから。ただ私、精魂込めて書いたので少しがっかりしました。3・8の中央集会なども、今年は女性差別撤廃条約40周年を言っていますが、私は長い38の歴史、共産党だけの祭りだ、と、時の政府や占領軍などに言われながら、この日を守り抜いた日本の女性たちの歴史を強調したかったのです。
 もう一つ驚いたことは、病院の看護師の女性たちも「38女性デー」のことなど全く知らないことでした。女性デーにとり組んでいる人は多いし、皆がんばっています。しかし女の運動、まだまだ少数派というか、女性の中でも主流になっていない。これは問題だと思いました。「女性デー」を国民の祝日に、という運動ができないものかと思いました。
 私は今の祝日が、ほとんど全部、戦前の皇室関係の祝日がそのまま残っていることに、本当に問題を感じます。一月一日や、春分の日、秋分の日など関係ないではないかと思われるかもしれませんが、正月元旦は皇室にとって最大に大切な祭祀の日、皇室は天照大神の子孫で、太陽信仰です。春分や秋分は春季皇霊祭,秋季皇霊祭という太陽信仰に由来する大切なお祭りの日でした。あとになってできた海の日などの祝日も何やら皇室がらみだったり、こんな祝日ばかりで女の日がないのはおかしいではありませんか。
 
 イタイイタイで騒ぐうち七日には手術となりました。手術は寝ているだけですから私は気楽ですが。翌日からのリハビリで、けがのあと始末の大変なことが判ってきました。
 実はここまで書いて止まってしまったのは、ショックを感じてしばらく茫然としていたからで。手術の翌日からリハビリなどと言いますと、昔の人はびっくりしますが、リハビリは早い方が回復が早いと言います。リハビリの先生たちは親切ですし、いつも思っていることですが、この方々は、絶対に悪く言わず褒めてくださいます。昨日よりよくできましたよ、と言われるとたとえ御世辞でもうれしくなるというものです。
 それで何となくほんわかしていたのですが、手術後一週間たち、シャワーを浴びていいことになりました。これも順調でいいことのはずだったのですが、何しろ初めて電話、がみがみ言われ、看護助手の人が体を左に(左は手術したほう)ひねってはいけない、かがんではいけない、そうすると手術のあとが悪くなるようですが、自分は前のような体になれないのか、前にしゃがむこともできないのかと、ものすごくショックでした。つまり落ち込んでしまったのです。髪も洗ってもらったのですが、美容室スタイルであおむけ、前かがみはだめと言われるとこれは退院してからどうなるのだろうと考えてしまいます。
 手術の前に先生と話し合い前かがみにも耐える金具を使ったはずですが、看護師にがみがみ言われると本当に嫌になりシャワーして気持ちいいはずがイヤーな気持ち。
その後看護師の方も、少し前かがみは構わないとも訂正され、生活指導の先生も髪もうつぶせで洗ってもいいと言われたのですが、とにかく衝撃でした。私は、けがの前のような状態になると思い込み、多少歩くのが遅くなるかも、くらいに思っていたのですが。とにかく術前にもどれず、介護ヘルパーの世話がなければいけないのでは嫌ですね、心配で心配で、夜も寝られぬ感じです。
ここまで書いてしばらくお休みしていました。だいぶ状況が変わり気持ちも変わってきました。シャワーもだいぶ上手になっていますし(整形外科のシャワーって、サービスでなく、リハビリのトレーニングの一つなのですね)。リハビリもよれよれだったのが、歩行器で歩けるようになりましたし、杖で歩くのも始まりました。まだ歩くと息が上がりますが、かなり上手に歩けました。息が上がるのは体力が減っているからで身動きできない頃、かなり体力を使っているからと、リハビリの人は言います。
この病室年寄りが多く、私は元気派のようです。前の日、分かっていたのに、次の日、自分がどこにいるかもわからなくなる人もいてびっくりすることもあります。認知症の人のけがも大変ですね。要するにけがをするのは年寄りに多いということでしょうか。
でも医者に、「あなたが六〇歳だったらあのくらい転んでも大腿骨骨折になりませんよ」と言われてしまいました。元気を装っていても婆は婆あだと思います。過信せず落ち込まず、リハビリにつとめなければなりません。ともかく外歩きができ、一人で、暮らしていけるようにならないと。
こんなことを言っているうち、テレビは、新しい元号でバカ騒ぎです。私は元号というものにそもそも反対で、日本だけなぜこんなバカなことがあるのか、西暦で通した方が、ずっと経済的だし、グローバル化など言われるのに、元号にしがみつくのはおかしいと思うのですが、世の中大騒ぎで、万葉集ブームとか、梅の名所がブームだとか、あの万葉集の歌が詠まれた九州大宰府の神社に人が押しかけているとか、誠にばかばかしく思えます。安倍さんは、万葉集を日本古来のものということを強調、日本の文化と伝統を言っていますが、萬葉集自体中国の古典の影響を受けていますし、万葉仮名、つまり漢字で日本語を書いたわけで、字を中国からもらい、それを日本流に直していったわけで、中国の古典の影響、少しも恥ずかしいことではない。それに万葉集は、貴族から庶民まであらゆる階層の人の歌と言いますが、本当に貧しい人や防人たちが、あの難しい万葉仮名をかけたのだろうか。誰か「手を入れた」のではないだろうか。私はなんとなくそんな疑問も持っているのですが。「防人の歌」というと私たちの世代、すぐ思い出すのが「海ゆかば」です。でも、テレビなどを見る限り、それを言う人はありません。私はあの歌がすぐ頭に浮かび、げっそりしたのですが。
とにかくすぐバカ騒ぎに乘ってしまい(乗りやすい)、さらにそれを商売にしてしまう、日本人の体質、私恐ろしく思われてならないのですが。

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対話随想余滴 №11 [核無き世界をめざして]

    対話余滴11 中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 今回の国泰寺高校の同窓会にまつわるお話は、私たちの旧制広島一中同窓会の現況を思い出させるものでした。
 学制改革で昭和二三年に旧制最後の一中(この後、鯉城高校となり、関さんが一期生となられた国泰寺高校になるのですが)を卒業した私たちの同窓会は「二三会」と称し、広島在住の世良邦治君が世話役で、これまでは年一回開催の会が運営されていました。昨年を最後にその呼びかけが中止されることになりました。世良君の説明によると、年々、高齢化による疾病などで出席者が減ったためということでした。私も、折角の案内状をもらっても出席できない者の一人でした。
  したがって、昨年、世良君の提案で、広島における最後の「二三会」が開かれました。案内状を送ったのは九〇名でしたが、出席者は十五名ということでした。私達の学年は、入学時には五学級二五〇名が在籍していましたが、一学級が爆心地近くの建物疎開作業に出動していて全員被爆死しましたので、生存した生徒数は二〇〇名ですから、現存者数はその45%ということになります。
 最後ということで、校庭のユーカリの前に集合し、被爆死した学友の名前が刻まれた「追憶の碑」の前で黙祷した後、男女共学の時代ではない当時は、近くに広島第一縣女があったために禁止されていた通学路、現在は平和大通り近くに門柱のみが遺跡として残されていますが、その道筋をたどったり、私たちが建物疎開の作業で出動していて被爆した鶴見橋に立ち寄ったりしながら逍遥し、黄金山の麓にある「半兵衛」という料亭にたどり着くという趣向が凝らされたものになりました。そして、席での近況報告では、通常病気の話が多くなりがちなために、それには触れないという申し合わせで行われ、好評だったそうです。年齢を重ねた同窓会は、なにかと気を遣うことが多いようです。
 関さんにもこうした同窓会の変化がありながら、個別的な交友関係が残されていることがお手紙に記されていました。それによって、関さんのお怪我の原囚がよく分かりました。
 それにしても、この場面の描写が、実に生き生きと、かつユ-モラスに描かれていることに感心いたしました。
 そのようなことを考えながら暮らしております時、広島から一中時代の友人である定政和美君が見舞いがてら、日帰りで訪ねて来てくれました。それは、私が大腸に癌が見つかったことを電話があった時話していたので、自身も体調不良にもかかわらず見舞いに来てくれたのでした。
 定政君のことは、これまで『私の広島地図』、関さんとの共著『ヒロシマ往復書簡』の中で書いておりますので、ご承知のことと思います。
 彼は、小学校に上がる年にアメリカから帰国し、昭和一八年にー中に入学した時に私と知り合いになったのでした。三年生になった時、学徒動員先の軍需工場からの指示で、建物疎開作業の現場である鶴見橋の西側の袂(爆心地から1.5㎞)に集合していて、共に被爆し火傷を負ったのでした。
 彼の家は、現在の原爆慰霊碑に近い中島本町にありました。家業は菓子の卸、販売をしていました。原爆が投下された日、家には病身の母、その介護のために勤労奉仕を休んだ父がいましたが即死。広島女学院の大學で英文学の研究をしていた姉は、第二総軍に動員されていて、縮景園にあった通信部にいて被爆、行方不明。
 その後に海軍経理学校生徒でありた兄が戻って来て、二人は鷹匠町で暮らしていましたが、昭和二十Ξ年に兄の友人を頼って一人アメリカに帰って行きました。その別れに彼が訪ねて来た日のことは、今でも鮮明に思い出されてきます。今から七十年前の話です。
 アメリカに帰ってからは、雇われての農作業、兵役に従事するなどの苫労がありました
が、除隊後はユナイテッド・エアライン、日本航空に勤務し、日本から妻を迎えてサンフランシスコ近郊に居を構えました。そして2013年10月に最終的に広島に帰国したのでした。ひっきょう定政君は、二つの故国で生きたことになるのではないでしょうか。つまり、原爆を落した国と落された国を二往復して暮らしたことになるのです。日本の例では、広島・長崎の二つの縣で二重被爆した人の例がありますが、定政君のような経験者は他にはいないだろうと思います。
 このたび会った時に、彼がしみじみと語った言葉が、私の脳裏にこびりついています。
 それは、疎開の荷物を父とー終に己斐の親戚の家に預けに行く途中で、「一人になってはだめだぞ」と諭されたということです。そして、原爆が投下された日の朝、父が「今日は休んだらどうか」と言ったことの意味があらためて思い出されると語りました。アメリカで長く暮らしていた父親は、日本は戦争に負けると常々語っていたそうです。
 別府駅で別れる時、「元気な顔を見て安心した」と彼は言ってくれました。
 私は、「お互い、も少し生きてみよう」と言って別れました。
 それから八日後に、突然の電話で中国新聞の西本雅実氏が別府に見えたのでした。
 西本氏は定政君の取材中に私の病気のことを知り、門司に取材に来られた機会に別府に足をのばされた様子でしたが、私の無事を確かめて帰って行かれました。その際、私たちの『対話随想』が四月中旬に出ることを伝えておきました。取り上げて下さるようでした。
 できるだけ癌のことは忘れて暮らしたい、と私は願いながら生きているのですが、思うようにはいかないものです。


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対話随想余滴 №10 [核無き世界をめざして]

対話余滴⑩ 関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子
 
 予想もつかないことが起こりました。
 3月1日の夜、コンサートを聞きに、市ヶ谷のルーテルセンターに行きました。国泰寺高校時代の同級生水戸栄子さんのお子さんの水戸博道さんのピアノリサイタルがあったのです。水戸博道さんは明治学院大学の音楽教育学の先生ですが、ピアノの演奏会も時々されているようです。演目がとても面白かったし(私の好みに合う)、水戸さんとも不思議なつながりがありありがたく招待券を頂いたのです。
 水戸さんは有朋高校(第一県女)からいらした方で、学校のスターでした。栗村麗子さんとコンビを組み、軟式テニスをやっていたのですが、このコンビなかなか強くて、高校選手権で全国制覇、大スターだったのです。軟式庭球というと若い方はなんだそれと言われますが、当時テニスなどと言えば大金持ちのスポーツで軟式のボールでも、高くて、皆大変と言っていましたから。第二県女など、校庭は広島女専の借用だし、小さい学校で校友会費も少なく、テニス部はなかったという時代ですから。テニス部と言えば、みなのあこがれでした。
 だから、私の記憶にある多山さんと言えば、真っ黒になってテニスをしている姿でほかの想い出はあまりなくなく、卒業してからも余り縁はなかったのですが、60余年たって、お姉さまは能の金剛流の家元に嫁ぎ(お子様は今、家元)、お子様はピアノ。音楽教育の先生、であることを知り、なんと芸術にかかわりの深いお家だとびっくりしました。私は、父が能が好きでなかなか上手でしたから、結構、話は通じるのです。
 七、八年前になるかしら、広島の国泰寺高校第一期の同窓会が、実務の担い手がなくて閉会になるという時、水戸さんにお会いしました。お連れ合いが亡くなり、東京の御長男(博道さん)のおうちに居を移すということで、本家の広島が閉会になっても東京の同窓)会は続けるということが決まっていましたので、喜んで、東京の仲間に入っていただくことになりました。東京の仲間も一人減り二人減り、久しぶりの新会員でみな大喜びです。東京の同窓会は、本家の同窓会の何周年の年に、皆さん参加しませんかと、私が呼びかけたところ、皆から「広島に行くのは大変だ」「広島に行くことはあるが、同窓会の日に合わせるのは無理や。いっそ東京でやらないか」という意見続出。それで私が「ほんとに参加する?」と確かめたところみな「参加する」と言います。それじゃ、と私が行きがかり上幹事をすることになり、以来私、万年幹事なのです。
 私が東京の同窓会を始めるのに、慎重だったのは理由があります。中山さんもご存知と思いますが、1949年(昭和24)、広島県全部が学制改革で新しい高校を作ることになり大騒ぎ。特に広島市は普通科の中学、女学校が三校ずつ、そのほかに商業や工業、それが全部一緒になって、完璧に地域割り、広島市に、地域性、総合性、男女共学の六つの公立高校ができました。準備も遅れて開校式が五月、てんやわんやのスタートでした。先生たちも始めての経験で、大変、大忙し。その中で私たち3年生は自分たちの手でこの新しい高校を素晴らしい高校につくりあげようと奮闘しました。自治会に、クラブ活動に、数校のメンバーが一緒に協力したクラブもあり、寄せ合い所帯は大変うまくいったのです。そんな中で、私はどこの学校にもできる人がおリ、リーダーがおり、クラブ活動などに熱心な人がいる(中等学校に入る時、輪切りがあるのですが、勉強の点数はともかく、世の中で役に立つ人とは別物)、ということも学びました。私などあの1期の同級生、同志のような感覚で懐かしいのです。
 でも何しろ実質8カ月の付き合いです。東京在住者は数が少なく、互いに名前も覚えていない人もいる。卒業後全くあっていない人も多い。心配しながら手紙を出してみたのですが、8割以上12人だか参加がありびっくりしました。でも当時は男子ばかりでした。私以外に一人女性はいるのですが、彼女は就職したこともなく、男ばかりの中に一人いても会話もないからと言います。それでずっと男の中に女は私一人でした。
 でも、この東京同窓会の第一回をやった時、期せずして皆が原爆体験を話しだし、4時間もの集まりになったことを忘れられません。「それは、ヒバクシャ、仲間内の集まりじゃ。当たり前じゃ。どこでもそれが通用するものじゃないで」とある方に言われたことを思い出します。その方の意見ではヒバクシャでも話したがらない方が多いと。
 水戸さんが来てくださって皆、大喜びでしたが、なんと彼女、女の参加者をもう一人増やしてくださったのです。渡辺、かつての栗村麗子さんです。
 栗村さんは、国泰寺の同窓会に出たことがありませんでした。なんでも彼女のお連れ合いが、熱烈に彼女を愛し、猛烈に嫉妬し、男子のいる同窓会に出てもいけないというのですって!「だからあの人有朋の同窓会には出るけれど国泰寺には出られないのよ」というのを聞いて大笑いしたことがあります。それがお連れ合いの具合が悪くなって、施設に入られることになり、『自由もできて』国泰寺東京同窓会にでる、といわれるのです。
これは、水戸さんとの友情がずっと続いていて、水戸さんとは家族ぐるみの付き合いがあること、息子さんが、医者で茅ヶ崎に住んでおられるので出やすいことなどあります。
 これで我が同窓会、女の参加者は私一人、殺風景な同窓会から女性が半分近くいる「にぎやかな」会になったのですが、栗ちゃんの張り切りようと言ったら。広島のお菓子『紅葉饅頭』やら何やら段ボール箱いくつかを宅急便で送りつけ、みなびっくり。「うちは、主人に尽くせるだけ尽くしたけん」今度は少し自分が遊ぶぞ、といった口ぶりでした。
 ともかく私が感心したのは水戸さんとの友情が、70年も続いていることです。幾ら高校時代のペアと言いながら凄いですね。昔、私がいくつか聞いた女性を蔑視する言葉がありますが、その一つが「女には友情はない」でした。
 こんなに驚いた言葉はありません。誰だって仲のいい友はいると思うのに、その方の言うには、女学校時代どんなに仲が良くても、結婚すると環境が変わる、環境があまり変わると話があわなくなったり、また互いに交際しづらくなるというのです。つまり女は結婚相手次第ということなのですね。私はその話に反発しましたが、反論しようにもデータがありません。五十年ののち。新しい友・運動する女友達はずいぶん増えましたし、少女時代に別れた友とも歳月を経て今同じことを思っていることが判り、大の親友になっている人もいます。要するにものの考え方が問題。環境でなく互いの心の問題だとはっきり分かります。言い換えれば、それだけ昔の女は、心の付き合いをする、あるいは社会的なことを話す機会に恵まれなかったというか。
 ともかく、栗ちゃんと、たーこのむかしながらの親友ぶりは「美談」でもあります。
 まあ、こうして高校時代の物語は楽しいのですが、その水戸さん(多山さん)から昨年手紙がきがまして、私はすぐ行くと返事を出しました。息子の博道さんは明治学院大学の音楽教育の先生ですが、一方、コンサートピアニストでもあるようです。しかし、東京でのコンサートは始めてのようですし何とか成功させたいというお気持ちもくみ取れるので、遠慮なく招待券を頂くことにしました。
 とてもポピュラーな選曲なのですがちょっと変わっていて面白いと思ったのです。まず始めはべートーベンが二つ並ぶのですが、最初は「イギリス国歌による八つの変奏曲」、イギリス国歌など誰でも知っていますが、なぜこれがオープニングなのか。その次は月光奏鳴曲これもポピュラーな曲ですが、なぜこれをここに据えたのかちょっとわかりかねましたが、非常に熱情的な演奏でした。次にラベルが入って、ここで休憩。この後ショパンのスケルツオなのですが、ここで失態、観客席からホール真ん中の通路に出るところで転んでしまったのです。私、杖を使いだして、もう20年になりますが、転倒はなく、私の杖を嗤う仲間のことを嗤っていました、杖がみっともなくても転ぶよりいいと威張っていました。この、ときも急激な転倒にまずいと思ったのですが、その瞬間あまり痛さはなくて、大したことでなくてよかったと思ったぐらいです。驚いた人々がかけよってきて、立ち上がろうとしたのですが、まったく立ち上がれないのです。多くの人々の助けで、ロビーに出て、椅子に座り、ちょっと落ち着いたところで、と思ったのですが、体が動かないのです。そこに水戸さんの友達で介護士の方が来ておられて私の体を動かしてみて、「これは大変」と直ぐてきぱきと救急の方に連絡してくださいました。担架に載せられるまでの痛かったこと。私もやっとけがの酷さが分かりました。近いところということでしょうか東京新宿メディカルセンターに運び込まれ、しばらくしてそこが昔の厚生年金病院だと気づきました。私・むかし、ひじの痛みがあって一度行ったことがあるのですね。記録が残っていて「昔横浜にいた方ですね」といわれてびくうりしました。
 たくさんの検査をされ、夜中のことでなかなか連絡が付かず、困りました。病院というのはいまだに家族の連隊責任とかめんどうなのですね。

 とにかく今日はここまで。後いろいろあるのですが、続きで書くことにします


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対話随想余滴 №9 [核無き世界をめざして]

余滴9 中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山士朗

 私が病気で入院したために、関さんが連続して筆を執られるようになったのは、今回で三回目です。このたびは、重い肺炎にかかり、かかりつけの病院から国立病院機構の別府医療センターの呼吸器科に送られて、二十日ほど入院いたしました。老齢者の肺炎は危険だと後で知り、ぞっとした次第です。作家の橋本治氏が肺炎で亡くなられたのは、私が肺炎になった同じ時期だったということを新聞で見て知りました。
 こうした事情から、関さんが止む無く忙しい最中、往復書簡が途切れぬようにと執筆して下さったことに心から感謝しております。この背景には、私たちには被爆者として、死ぬまで原爆廃絶に向けて書き続けていくという強い意思があるからです。
 しかし、人間の生命には限りがあるのを、八十八歳の現在に至ってようやく実感できたというのが正直なところです。このたびの二度のお手紙には、戦争を知る世代の死が多く伝えられていました。そのなかでとりわけ心に残ったのは、朝日新聞の「天声人語」氏とも言われた辰濃和男さんの「辰濃文庫」に関する文章でした。辰濃さんにつきましては、私たちの「対話随想」にも書かせて頂いたことがあり、振り返りますと、その美しい文体と温顔がたちどころによみがえってきます。その背景に、二万冊にも及ぶ蔵書があったことを関さんのお手紙によってはじめて知りました。
 その辰濃さんから、日本エッセイスト・クラブ賞の受賞式の時、私の文体を褒めて頂いたことは、今でも思い出しますと胸が熱くなります。関さんが「対話随想」が出版することができたら、「辰濃文庫」に納めたいと語っておられましたが、ぜひそうしていただきたいと思っております。そして、あらためて関さんにとっても私にとっても、辰濃さんとの縁の深さを思わずにはいられません。ぜひとも「辰濃文庫」を訪ねてみて下さい。そのご報告を楽しみにしております。
  以上が、前回頂いたお手紙を読みながら感じたことを書かせてもらいましたが、そのなかで気にかかる個所がありました。それは中塚先生とお会いになられた際の、外反母趾についての会話でした。関さんがそのような病状を抱えておられることをつゆ知らずにいましたが、お手紙を読んではじめてそのご苦労を知ったという次第です。
 そうした状況にあるとき、西田書店の日高さんから、関さんが大腿骨を骨折され、更生年金病院に入院されたとの報告を受けました。一ヶ月の入院ということでした。折り返し詳しい情報を聞くために電話しましたが、連絡がつかないということでした、
  瞬間、私は、前回の手紙のなかでの文章を思い起こさずにはいられませんでした。
  会の終了後、中塚先生にお連れ合いのことを伺ってみましたら、「もう歩くことができなくなり、私では介護できず施設に入りました」ということでした。お連れ合いの足が悪くなったのは、外反母趾からだそうで、私の足をご覧になって「あなたも用心しなさいよ」と言われてしまいました。靴を履いていても私の足、外反母趾と分かりますので。先生はそれで一人暮し、料理も洗濯も一人でなさるそうです。
  こうした内容が綴られたお手紙を拝見した後で、「余滴」⑤の関さんの文章が浮び上がってきました。正月料理をしつらえられた後に、述べられた感想で、私の心の隅に響いた言葉でした。
 
 しかし、この味でいいのだろうかなど不安に思ったり、年相応の衰えは如何ともしがたい。多分来年はできないだろうなど子どもたちに言ったのですが、まあ、どうなりますやら。
 とにかく、今年は絶対に頑張りたいと思います。そして、物書きとして、死ぬまで書きつづけたいと思います。もし、体が動かなくなっても、頭だけはしっかりして、物が書ければいいなと思っております。

  この思いは、私も同様です。
二月に肺炎を患い、不意に〝死の予感〟を覚えたときの時間に通ずるものがあります。どうか、お力落しなく、治療に専念して下さることを析っています。

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対話随想余滴 №8 [核無き世界をめざして]

余滴8 関千枝子から中山史郎様へ

             エッセイスト  関 千枝子

 本来なら今回は中山さんからの番なのですが、中山さんは、二月初めから入院中です。肺炎ということで、数日の入院かと思っていましたが、入院が長引き心配しました。年寄りの肺炎は気を付けなければいけないと言いますし、甘く見てはいけないようです。でも、とにかく快方に向かっておられるそうです。でも、今しばらく入院が続きそうですし、とりあえず、今回は関からの発信をもう一度続けます。

 私はあいかわらず、連日あたふたいろいろなことをやっております。何をやっているか、詳しくお知らせしなければなりませんが、とりあえず、今回は原爆のことを中心に書きます。
 二月八日、中塚明さんの「日本人の明治観を正す」という講演会に行きました。中塚さんは歴史家で元奈良女子大学長。いま、日本では韓国、朝鮮に対する反感がひどいですが、それにはあまりにも朝鮮のことに対する無知、明治は素晴らしいといったいわゆる「司馬歴史観」が「常識」になっているからだと思います。
中塚さんは以前から司馬史観に批判的で、私は、日韓関係の歴史の専門家(研究者)として最高の方だと思っています。ここ数年、お連れ合いの介護でなかなか外に出られないと言っておられたので、心配していたのですが、先日朝日新聞に「東学党」のあとをたどるツアーのことが上丸洋一記者の執筆で出ており、その中で中塚先生がツアーの案内役として活躍しておられることが出ており、お元気なのだ!と思っておりました。そのうち二月八日の講演会の情報が入り、ぜひ行かなければと思っているとき、中塚先生から講演会のことを知らせる手紙が来たのです。これは何としても行かなければなりませんね。
 中塚先生のお話は、朝日新聞の記事のことに始まり、「東学党のことを日本の新聞で取り上げたのは、初めてのことではないか。画期的だ」と言われました。そして、日清、日露という戦争を通じて日本が朝鮮侵略を進めた歴史が話されました。会場には上丸さんも来ておられたので、私は、「いい連載だったけれど、五回で終わったのは残念」とからかったのですが、上丸さんは「まあ、あれはあのぐらいで。今度、三・一独立運動のことを書きますから」と言っておられました。三・一独立運動も今年、一〇〇年。日本人は、こうした朝鮮の歴史を知らなすぎます。朝日新聞にいい記事が出たらいいな、と思っています。
 会の終了後、中塚先生にお連れ合いのこと伺ってみましたら、「もう歩くことができなくなり、私では介護できず施設に入りました」ということでした。お連れ合いの足が悪くなったのは、外反母趾からだそうで、私の足をご覧になって「あなたも用心しなさいよ」と言われてしまいました。靴を履いていても私の足、外反母趾と分かりますので。先生はそれで一人暮らし。料理も洗濯も一人でなさるそうです。
でも、東京まで来るのはこれが最後かもしれないが、と先生は言っておられました。もう八十九歳ですものね。よく頑張られます。脱帽です。
 先生の専門の日韓の話ばかりしてしまいましたが、先生と知り合いになりましたのは、実は「原爆」からなのです。一九八五年、私の『広島第二県女二年西組』が出版された年の暮れ。新聞で、識者を集めて「今年の三冊」と言った企画がよくありますが、それに中塚先生が、私の『広島第二県女二年西組』を取り上げてくださり、この中に登場する少女・玖村佳代子さんのお兄さんが、中塚先生が楽長である奈良女子大の付属高校の教頭、ということが書いてあり、私は驚いて、先生に手紙を差し上げたのですが、折り返し来たお返事に、残念なことに玖村先生は急逝されたとあり、本当にびっくりしました。それからいろいろあり、玖村由紀夫先生の追悼文集もいただいたのですが、玖村先生は大変教育熱心な数学の先生。若い頃から八月六日に水を求めて死んだ原爆の死者のことを偲び、この日は一滴の水も飲まなかった、などという話が書いてあり驚きました。こんなことで、中塚先生とその後の長いご縁ができたのです。
 原爆関係では、九日に、例の竹内良男先生の会で、川本隆史さん(国際基督教大学教授)の「記憶と忘却」という話を伺いました。ヒバクシャの記憶継承が大いに言われる(推奨される)世の中ですが、忘却(特に日本御加害の歴史など)の問題など問題提起され、「広島学」がなぜできないか、など鋭い問題提起がありましたが、この問題、簡単に言えることでもありませんので、今回はこんな話があったというだけにしておきます。とにかく若い(この方は一九五一年生まれ、広島学院など戦後できた名門校から東大を出た方です)方の視点は面白いし、竹内さんがこうした方と親交を結び、彼の講座に引っ張り出してこられるのにも、敬意を持っています。
 二月一七日は、調布市の大河みと子さんという市民派市議の方の勉強会に行きました。この日私に求められたテーマは「戦争中の暮らし」で、戦争の中で庶民の生活がいかに苦しくなっていったか、自分の記憶を重ねながら、女性の歴史とあわせて少し話しました。
 大河さんのおすすめでン原爆のことも少し話させていただきました。ヒバクシャにももちろんいろいろな方がいらして、特に広島は保守的なところですが、核兵器だけはごめんだと思っていることはみな一致しているということは強調しました。安倍さんは「核の壁、核の抑止力論者」ですが、北朝鮮との話し合いを「評価」して、ノーベル賞にトランプ氏を推すなど噴飯ものと言いますと、皆さん全員、同感と怒っておられました。まったく、安倍さん何を考えているのやら、です。
 そんなときですが、朝日新聞のこちらの地方版に、もと「天声人語」氏、故辰濃和男さんの蔵書で、「辰濃文庫」ができたという記事を見ました。辰濃さんは蔵書家で2万冊の本で玄関の扉も締まりにくくなっていたそうで、知り合いの建築家佐藤清さんが家の補強をされたそうですが、その佐藤さんが、辰濃さんの家が処分されると聞き、遺族から蔵書のうち約一万冊をもらい、ご自分の家の蔵を改造、文庫にしたのだそうです。場所は埼玉県の東松山市、我が家からは遠い遠いところですが、丸木美術館のある街です。一度行ってみようと思っています。
 実は、今度出ます「対話随想」に辰濃さんのことを書いていますし、出来上がったら、お連れ合いに本を送ろうかと考えていたのですが、佐藤さんに電話して聞いてみたところ、辰濃さんの小金井のお宅はもう取り壊されて空き地になっており、お連れ合いは老人施設に入っておられるとのこと(息子さんたちはもともと別の場所に住んでおられます)。もし、この記事が出なければ、誰もいない空き地に本がおくられ、むなしく帰って来るところでした。不思議なことに思えました。我らの「対話随想」が無事出版できましたら、この文庫に行き、辰濃さんに捧げたいと思います。
 これまた不思議なことですが、中塚明さんが私の「第二県女」を知ってくださったのが、辰濃さんの「天声人語」を読んだからです。それで.本を購入され、玖村という珍しい名前に目を止められたのが、始まりでした。中山さんがよく言われる「縁」と「伏流水」を感じております。
 それから前の号でお話いたしました、松本昌次さんのこと、「偲ぶ会」でなく、「語る会」が四月六日に開かれることになりました。ご本人が「お別れ会も偲ぶ会もやってほしくない、ただ、僕を肴に考えたり批判したりするのは一向にかまわない」と言っておられたのだそうです。これもいい会になるかと思います。すぐれた先輩、同時代の方々、その妥協しない奥の深い精神を継承したいと思います。
 

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対話随想余滴 №7 [核無き世界をめざして]

   対話随想余滴⑦ 関千枝子から中山士朗様

             エッセイスト  関 千枝子

 さまざまな大事な用事、つまらぬ雑事、雑用、立て込んでいまして、手紙を書くのがひどく遅くなりまして、すみません。
 実は昨日、一月二十三日、跡見学園という古い歴史を持つ私立の女子中学に平和学習(原爆)に行ってまいりました。なんだか、これが終わるまでそわそわして、じっくり手紙も書けない気分でした。
 跡見中学に行くのはこれが八年目です。
 「夏の会」という会があります。原爆の詩や手記の朗読を女優さんたちがなさっている会です。地人会の「この子たちの夏」というのがあり一九八五年から二〇〇七年まで二十三年間も行われていたのですが、地人会の解散により中止となった。これを惜しんで、女優さん十八人が新しい会を立ち上げ、新しい脚本で「夏の雲は忘れない」という朗読の公演をはじめ、今年で十周年になります。その最初の年、跡見学園の講堂で立ち上げ公演があり、私も招かれて行きました。女優さんだけでなく、跡見の高校生たちの朗読グループも参加し、一緒に舞台を作り大変感動的だったのです。私は跡見という学校が平和や原爆の問題に熱心なことを知り感心したのですが、その時跡見の学校の方から、跡見のいろいろな資料をいただいたのです。その中に当時の学園長の方が跡見という学校の歴史や、平和学習への取り組みなどいろいろなことが書かれていたのですが、私はこの文章に大変感動しまして、この先生にお手紙を差し上げたのです。当時から跡見は中学三年生が広島へ修学旅行に行くことになっていたようですが、園長先生は、修学旅行に行く学年の主任を呼び、事前学習にこの方の話を聞けば、と言ってくださったのです。
 こうして、私と跡見との縁が始まりました。修学旅行は中三の年ですが、二年生の三学期・一月に、生徒たちに話をしてほしいということになったのです。
 二年の学年主任・矢内由紀先生は大変熱心でしたし、私は中二が対象ということで感激してしまいました。私のクラスは女学校二年生で全滅しました。昨日まで楽しく笑ったり冗談を言ったり、そんなクラスメートが全員大やけどを負い死んでしまう、そんなことが起こったのですよ、それがあなたの年齢なのですよ、というと、皆、顔が引き締まります。私は夢中で話しました。そして、その後も毎年私は跡見に行くようになりました。
 「夏の会」も毎年、スタートは跡見でということが定着し、私は毎年一月と夏に跡見に行くのが習慣になりました。中二の学年主任は毎年変わるのですが、最初の矢内先生は,以来ずっと年賀状をくださいます。こんなに丁寧な先生は珍しいです。
 この学校の素晴らしいところは、単に私を呼んで話をさせてくださるだけでなく、その前から事前学習を行っていて、私の「広島第二県女二年西組」を全員に読ませてくださるのです。生徒さんたちはそれでレポートを書き、毎年素晴らしいレポートがあり、感動しています。今年は矢内先生が、生徒たちに二年西組の生徒から、特に記憶に残る一人を選び感想を書くよう言ってくださったそうです。この現物はまだ見せていただいておりませんが、どの人に一番関心が集まったか、それこそ、私、興味を持っております。
 そんなことで、今年も跡見に張り切って、というより少し緊張して参りました。この学校は茗荷谷にあるのですが、我が家からは少し遠く、また私の歩き方が少し遅くなっていますので、十分時間をみなければなりませんが、講演の時間が朝の一時間目なのです。遅れては大変です。目覚めましなどをかけ、前の晩から緊張です。
講演時間は一時間です。今年は私の話(体験)は短めにし、原爆全体のことを知っていただくためヒバクシャの絵を十六枚ほど見せました。絵を見せるのは毎年のことなのですが、今年は少し内容を変え、沼田鈴子さんと、佐伯敏子さんの描いた絵を入れてみました。有名な「証言者」のことを言っておきたかったのですが。こんな証言者たちがもはや出ることはないと思いながら。沼田さんの絵は、沼田さんが麻酔もなしで足を切られる手術をされるところ。佐伯さんの絵は、自分が見た被爆者たちの絵。このヒバクシャは、怖い顔をして鬼のようです。あまり怖い顔で、色なしのデッサンということもあって、ヒバクシャの絵としては、あまり「人気」がないのですが、佐伯さんには傷ついたヒバクシャの顔が鬼のように見えたのでしょうね、と話しました。その後、矢内先生が代表していくつか質問してくださいました。これからどうすれば、の質問に、ヒバクシャの証言を忘れず、一部分だけでも胸にとどめて来るださい。そしてまたもっと若い世代に語り継いでください。核兵器は人類と共存できない最悪の兵器、なんとしてもこの兵器を禁止したい。その世論を強めてくださいと言いました。

 それにしても、今年、わが世代というか、戦争を知る世代の死が続きます。樹木希林さん、兼高かおるさんに続き、市原悦子さん、その同じ紙面に梅原猛さんが出ていて、うーんと思っていたら、今度は松本昌次さんの死去が新聞に出ていて、少しおちこみました。松本さん、一月十五日死去、腎臓がん、九一歳。松本さんは、知る人ぞ知る未来社の大編集者、後、影書房を作り,この時代に井上光晴さんの第二次「辺境」を編集。だいぶ前の手紙に井上先生に「書け」とはっぱをかけられたことを書きましたが、それで、出かけたのが影書房、同社がまだ大塚にあった時です。
 松本さんにはお世話になりました。落ちこんだとき行っては一緒に酒を飲みました。ここには金はないけれど、いつも不思議に酒はあるという松本さん。「編集者には人を癒す才能もあるので」と言われたのも忘れられません。それから長い編集者生活、儲かることは一度もなかったけれど、いい本を出し、頭も体も衰えず、最後まで健筆をふるわれた。「9条連ニュース」に昨年までコラムを書いておられたと思います。九十一歳だから、まあ仕方ないと思うけど、寂しいです。

 昨年暮れのNHKテレビ「天皇 運命の物語」の件ですが、どうも、見た方が多くて少々困っております。当時の毎日新聞の皇太子記者はもう皆亡くなっていますし(一人存命)、ぜひ当時の証言をと言われたら、出ざるを得なかったのです。ほとんど半日くらい録音した中であの部分だけ編集されると、少し、違うなと思うこともあり、困るのですが。「皇太子の恋」までの大きな流れがあり、それが見えないと困るのですが、
 ともかく、一番驚いたことは、あれを見た人の多さで、まあ、びっくりです。天皇のこと、皆そんなに興味があるのかと思ったり。それがかなり進歩的なインテリばかりだったのに驚きました。面白いことに、私の住む地域の女性たち、「皇室アルバム」に夢中になってみている方々が多いのですがこの方々はあの種の番組は見ていないのですね。あまりごちゃごちゃ言われなくてほっとしたのですが。この話、詳しくするとこんなスペースでは書けません。必要なら(中山さんがもっと知りたいと言われるなら)、また改めて書きます。
 追記 これで⑦はおしまいのはずでしたが、今、平岡敬さんからお葉書を頂きました。奥様が亡くなったので「喪中欠礼」のお葉書いただいていたので、私、新年になってから寒中見舞いを出しておいたのですが、そのお礼の手紙です。平岡さんの奥様第一県女と聞いておりましたが、一年生だったのですね。私と同じで体調を悪くし、作業を休まれ、助かったそうです。苦しかったこと、推察できました。作業を休んで助かったものは、単純に「運がよかった」など言えない思いがあります。「私は運が良かったとして、死んだ友は運が悪かったのか!」という思いです。生き残りの辛さ。実は私、跡見の二年生にも、この思いを語ったのです。
 多分、平岡さんの奥様も同じ思いを抱えながら、亡くなられたのではないか、と思いました。

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対話随想余滴 №6 [核無き世界をめざして]

   対話随想 余滴⑥中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山史朗

 まずは、新年おめでとうのご挨拶をもうしあげます。
   めでたさも 中の下なり おらが春
 私たちの「往復書簡」が始まってから七年の歳月が経ったことに、改めて驚いております。このような長い時間をかけて途絶えることなく続いている「往復書簡」は、過去に例がないのではないでしょうか。しかも、二人の被爆者によって紡がれた、証言の記録、核なき世界への希求が述べられた手紙の往復は、二人の生命が続く限り続くものと願っております。
 昨年は暮れの十二月二十四日に、NHKテレビで、たまたま『天皇運命の物語②』「いつもふたりで』を観ておりましたら、関さんが出演しておられる場面に出合わせ、そのあまりの偶然のことに驚きながら、拝見させていただきました。
 この番組は、天皇の平成最後の誕生日を記念して作られた、二夜にわたる特別番組でした。関さんは、▽日本中が沸いた世紀のご成婚▽その裏にあった強い決意とは、その場面で解説されていました。当時、毎日新聞に入社して間もない関さんが、取材チームに加わって取材されている写真や記事が出ておりました。淡々と解説される関さんは、堂々として見事でした。二十三年ぶりにお会いした関さんでした。
 この番組を観始めた時、大分県日出町に住む女性の方から電話が入り、「関さんが今テレビに出ておられる」と教えてくれました。「私も今観ているところです」と答えると「安心しました」と言ってすぐに電話が切られました。彼女は『往復書簡』の読者でしたが、嬉しい話でした。
 年頭のお手紙を読みながら、関さんがお正月の料理を調えてお子様たちも迎えられる、温かい光景が伝わってきました。そして、「たぶん、来年はできないだろう」という関さんの年相応の衰えの予感、それは私にも共感されるものですが、深くつたわってきました。
私の新年は、四日にかかりつけの医院、九日には別府医療センターの診察ということからはじまりました。いずれも、ボランティアの人に付き添ってもらっての病院通いですが、身体のあちこちに支障をきたし、まさしく明日をも知れぬ身を感じざるを得ません。
 昨年末、広島の中国新聞の客員編集委員・富沢佐一さんから電話取材がありました。その記事は、十二月二十八日の『高校人国記』国泰寺高校(広島市中区)に、核兵器廃絶へ思いを一つに生きた学者・医師が取り上げられていました。その中の一人として、私も加えられていました。その見出しは、
  <愚直の一念。被爆者の痛みを死ぬまで書く>
 となっていました。
 また、余滴②で爆心地から七〇〇メートル離れた広島一中で、倒壊した校舎から脱出することができた生徒が、その後、多発性癌に侵され、九回も手術をしたという話を書きましたが、このたびの記事によって、その生徒の名前は児玉光雄(86)君と言い、一九回もがんの手術を受けながら、広島市被爆体験証言者として、語り続けていることが分かりました。
 私たちの対話随想で何度か書きました片岡脩君も児玉君同様に倒壊校舎からの脱出組の一人でしたが、原発不明の癌で亡くなっていることをあらためて思いました。
 こうしたことを振りかえりながら手紙をしたためておりますと被爆死ながら八八歳の今日まで命長らえたことが不思議としか思えません。戦時中は、二十歳の命と教えられ、陸軍幼年学校や海軍兵学校が憧れの対象でした。原爆が投下された広島は、六十五年間は草木も生えぬと言われ、ましてや、被爆した者の生命は短いとされました。そうして歳月を経てこの年齢まで生きていることは、死者によって生かされているというよりも、罪深さのようなものが私の内部に沈殿していることも事実です。
 最近、平成最後の年、戦争がなく災害の多かった三〇年ということがしきりに言われるようになりました。けれども、今年は昭和九十四年と換算する私にとっては、昭和の戦争は、敗戦で終わったとは思っていないのです。したがって、このたびの関さんのお手紙を読みながら同じ思いで筆を執っておられることを感じました。
 石浜みかるさんによって、お父さんのキリスト教の信徒である石浜義則さんが、治安維持法違反で捕まり、そこでン原爆に遭った話。獄内での朝鮮半島出身政治犯との交流。そのうちの一人が韓国でヒバクシャ運動をはじめ、一九九七年に最初の使節団で来日した際、石浜さんの証言で被爆者手帳を取得した話。石浜みかるさん本人は、目下、キリスト教の満蒙開拓団のことを調べておられ、間もなく出版される予定であるとの報告がありました。
 その他に、NHKの山上博史さんとピアノの先生長橋八重子先生(以前往「往復書簡」に掲載)との追憶。宇都純子さん(原爆の詩や手記の朗読)が復活公演として、佐伯敏子さんお手記を一時間半にわたって朗読された話。武蔵大学で行われた被爆遺産継承の会の報告、韓国被爆者たちの手記の朗読、その運営に当たった同大学の教授・永田浩三氏(元NHKディレクター)は広島の被爆二世という宿命がありました。お母さんは、被爆後縮景園を通って、原民喜と似たようなコースをたどって避難されたとのことでした、
 手紙の末尾には、「二世の方々、若い方々、ヒバクシャでなくて原爆の問題に熱心な方々と知り合い、私は改めて勉強しなおしました」
 と結ばれていました。
 この言葉のように、関さんは今もって大勢の被爆関係者を訪ね、話を聞いておられます。
  私自身を振り返ってみても、関さんとても年齢から来る体力の衰えはあると思われますが、知れを克服しながら話を聞きに行かれる姿勢には敬服せざるを得ません。そこには辛い歴史を埋もれさせず、戦争の悲劇を伝え、核なき世界を後世に伝えるという強い意志の表れだと思います。国策が生んだ惨禍を記憶に残し、証言できる最後の世代の発言だと思っています。

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対話随想余滴 №5 [核無き世界をめざして]

  対話余滴⑤ 関千枝子から中山士朗様へ

             エッセイスト  関 千恵子

 二〇一九年の年明けですが、素直に「おめでとう」と言えず、なんとも不安いっぱいの世界の情勢です。でも,もう、できないのではないかと思っていた我が家の正月行事(子どもたちが来てくれる)も、とにかく正月の料理も作れましたし、(例年より支度を早く始める)などいろいろありましたが、とにかく無事終えました。しかし、この味でいいのだろうかなど不安に思ったり、年相応の衰えは如何ともしがたい。多分来年はできないだろうなど子どもたちに言ったのですが、まあ、どうなりますやら。
 とにかく、今年は絶対に頑張りたいと思います。そして、物書きとして、死ぬまで書き続けたいと思います。もし、体が動かなくなっても、頭だけはしっかりして、物が書ければいいなと思っております。

 これからは昨年の報告の積み残しです。なんだか少しずれて申し訳ないようですが、昨年はいろいろありすぎました。
 十二月一日、例の竹内良男さんの学習会に行きました。石浜みかるさんのお話でした。重いお話ばかりで、三時間の例会に収まらないような話でした。
前にもお話したことがあると思いますが、石浜さんのお父さん・石浜義則さんは、キリスト教の無協会派の小さな教団の信者で、歯医者さんですが、街頭で戦争反対を説き、治安維持法違反で捕まり、広島の吉島刑務所に収監され、そこで原爆にあったという方です。   この方は被爆の手記を書いていますが、どうしてか、その手記が掲載されたのが長﨑の証言集で、この方のこと、広島の原爆関係者もあまり知らないのではないかと思います。
 刑務所の高い塀に阻まれて石浜さんのお父さんはケガもなかったようですが、刑務所の建物も壊れ重傷者も多く、囚人同士で助け合ったとのこと。翌日から囚人たちは救援活動に駆り出されるが(二次放射能)、政治犯は数珠つなぎにされて山口刑務所に連れていかれる(広島に置いておくと暴動でも起こし危ないと思った[?])のです。この政治犯の中には朝鮮半島出身者が多くいた、独立運動のためということですが、ちょっとしたことに、言いがかりをつけられたということが多かったようですね。とにかく、石浜さんは山口に連れていかれ、戦争が終わって広島に戻されるが十月ごろまでそのままにしておかれたそうです。
 釈放になるが、朝鮮出身者修身の人びとはどこかへ行けと言われても行く場所がない。仕方なく石浜さんは、妻子を山口県の大三島の妻の実家に預けていたので、そこへ朝鮮人たちを連れて行くのです。治安維持法違反の政治犯などというと大変なので、妻の実家にはことをごまかしていたので、朝鮮人たちを連れて行くのは大変だったようです。
 ようやく朝鮮半島出身者たちを、数日食わせ、彼等も帰るルートが見つけられ帰国。石浜さんは歯医者をしようとするのですが政治犯だったため免許が取り上げられ歯医者ができない。仕方なく歯科技工でしばらく過ごしたそうです。戦前歯科技工士という職はなく、歯医者さんたちが自分でやっていた。歯科医の中にはそれが得意でない人もいる、石浜さんは結構これがうまくて、技巧の仕事で糊口をしのいだというのですが。やっと免許を取り戻すまで生活も、大変だったようです。
 帰国した韓国人たちとはそれきり連絡がつかなかったが、そのうちの一人が韓国でヒバクシャ運動をはじめ、一九七七年最初の使節団で日本に来られた時、石浜さんと再会、石浜さんの証言で被爆者手帳をとれたとか。
参加者の皆さん、びっくりして聞いておられました。
 石浜みかるさんは、今キリスト教の満蒙開拓団のことを調べておいでです。満蒙開拓団に加わらなければ、という状況に追い込まれる。それを進めた人たちの中には、賀川豊彦もいるとかのことです。これも重い話なのですが、こちらは時間もなく、石浜みかるさんの新著も年明け早々出るということで、またもう一度話を聞きたいということになりました。
 四日に、もとNHkのいらした山上博史さんという方から連絡があり、会いました。この方のお父様が音楽関係の方で広島大学の教授だった方ということです。このお父様が、私のピアノの先生長橋八重子先生に大変お世話になった、長橋先生の写真があるから見てほしい、自分は長橋先生の顔を知らないからと言われるのです。長橋先生の顔分かるかしら、とふと心配になりました。前に、長橋先生のこと、「往復書簡」でも、話に出ましたね、その時中山さんから長橋先生のお宅という新川場町の家の写真を送っていただいたことがあり、これは違うとお申しました。新川場の家の写真は古い家のようで、先生の家は確か小町(一中の裏の方)、とにかく素敵なおうちでしたから。私は長橋先生のお家についてよく覚えており、「広島のわずかに残る文化だ」、と思っていました。だから家についてはいくらでも思い出を語れるのですが先生のお顔、はっきり言えないのです。子どもだし先生の顔をそんなにじろじろ見られず、ただ老婦人ということしか(老婦人と言っても多分先生五十代ではないかと思うのですが)言えないのです。
 でも写真を見ると先生だとすぐわかりました。先生の小町の素敵なお家のテラスで撮っておられるので。先生に間違いないとわかりました。
それから山上さんと長いことしゃべりました。不思議な縁です。山上さんは戦後の方でお父様が長橋先生の弟子(長橋先生の夫君の弟子ではないかと思いますが)戦前のことは御存じないのに、なんでこんなに話が弾むのか。
 最愛の息子さんを失くされ、悲しみの中にいらした長橋先生、先生のおうちのグランドピアノの傍で遺体が発見されたそうです。ピカの瞬間、何と思われたか。
 十二月十四日、宇都純子さんの復活公演に茅ケ崎に行きました。宇都さんが原爆のことに打ち込まれ、十数年にわたって夏に、原爆の詩や手記の朗読をされていることは、何度も書いたと思います。それが二〇一七年は乳がんのため公演できなかった。昨夏もできず、とても心配していたのですが、12月になって復活公演となったのです。
 佐伯敏子さんの手記を朗々と読まれました。佐伯さんは身内十三人を失くし、手記もとても長く一時間半はかかります。でも、皆、じっと身じろぎもせず聴き入っていました。宇都さんの声は、病気の前よりかえって通り、よくなったような気がしました。本当に感動しました。
 十五日、武蔵大学に行きました。西武線新桜台というところにあり綺麗なキャンパスですが景色を観る暇もありません。道を尋ねながら行ったら二時間半以上かかりました。
 例の被爆遺産継承の会のセンター設立資金集めの第一号の会らしいけど、それにしては地味ですね。でも、若い方のいろいろな活動を聞け、悪い会ではなかったのですが。
このキャンパスで次の週も(土曜日)催しがありました。今度は在韓被爆者関係です。詩の朗読が中心の会なのですが、武蔵大学の学生たちの朗読が新鮮でした。韓国人被爆者たちの手記の朗読ですが、二十人くらいの朗読(群読は少なく、ひとりひとりかわるがわる読むスタイルですが)若い人がこれだけ集まると迫力があります。
 この武蔵大の生徒たちを指導し、また大学の教室を貸してくださるのも同大学の教授永田浩三さんがいてこそなのですが。永田さんは昔、NHKの有名なディレクタ-ですが、よく、原爆関係の会に来られます。広島局にいたことはないのに、と不思議に思っていましたら、会の後、お茶を飲んで話し合ったら、彼、広島の被爆二世なのですね。お母様は被爆後縮景園を通って、原民喜と似たようなコースをとって逃げておられるのだそうです。広島問題に熱心なわけわかりました。
 二世の方々、若い方々、ヒバクシャでなくて熱心な方々と知り合い、私も改めて勉強しなおしました。

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対話随想余滴 №4 [核無き世界をめざして]

  対話随想 余滴④.中山士朗から関千枝子様

                  作家  中山史郎

 新聞のコラムによれば、暑い夏の後には寒い冬が訪れると諺にある由。
 とにかく、この寒さに身も心も縮み、とうとう今年も身の回りの始末をつけないまま師走を迎えたという思いに沈潜しています。
 実は以前から思っているのですが、関さんが毎回送ってくださる複写に、知の木々舎の横幕さんが撮影された季節の美しい写真が添えられていますが、今度、『余滴』が本になる場合は、その都度その写真で飾って頂ければ、文章に季節感がにじみ出ていいだろうなと想像しています。最近では送った原稿に、書いた年月日を覚えとして記しているので、ふとそのようなことを思いました。
 このたびの関さんのお手紙を読みながら、書くということは、大勢の人と出会い支えられ、支えて生きていくものだとつくづくと感じました。そして、そこには作品の運命も関わっているように思いました。
 とりわけ、関さんと井上光晴さんとの出会いをこのたびの劇団大阪による『明日』の公演を通じて回顧される場面を読んで、はじめて知りましたが、物書きが歩んだ一端をうかがい知ることができました。同時に、その頃から関さんとのつながりがあったことに驚いております。
 と言いますのは、その頃、私も井上光晴の作品をしきりに読んでいたからです。
 お手紙を読んだ後で、書庫を覗いて調べてみましたら、『流浪』『暗い人』『乾草の車』『黄色火口』『階級』『残虐な抱擁』『虚構のクレーン』『幻影亡き虚構』『地の群れ』『九月の土曜日』『辺境』「明日』『眼の皮膚』『曳舟の男』『暗い人』と十五冊もありました。 
 そして、井上光晴さんから頂いた葉書のことを思い出しました。手紙の束から取り出して、改めて読みなおしました。
 
「死の影」頂きながらお礼がおくれました。今「石の眠り」一篇を読んだところです。何かつらい感じでした。どうかがんばって下さい。文学は困難な道ですが、歩き続けるより仕方ありません。時間をみつけてほかの作品をよみます。

 葉書の住所は、世田谷区桜上水四の一となっており、その頃私が住んでいた三鷹市中原四丁目宛てに頂いたものです。
はからずも、関さんのお手紙によって、井上光晴さんの作品に親しんでいた頃の私を思い出しながら、その頃は関さんとお目にかかる機会はありませんでしたが、現在、ご縁があって六年にわたって往復書簡をつづけさせてもらっているのが不思議にかんじられてなりません。
 それとは別に。関さんが母子家庭の現実を書きたい、と井上光晴さんに手紙を出した後の電話で、次のような言葉がありました、
「書きなさい、すぐ」、「わかっている、もう読んだ」、「一〇〇枚書きなさい」「ちまちましたことを考えるな、一〇〇枚書きなさい」。
 この言葉によって関さんは、井上光晴さんの個人誌「辺境」に七〇枚ずつ三回にわたって書かれました。これは後に農文協から『この国は恐ろしい国』となって出版されたということをこのたびはじめて知りました。
 この個所を読みながら、私が吉村昭さんに出会った頃のことが思い出されました。
 丹羽文雄さん主宰の「文学者」に加入する前のことです。ある同人雑誌に載せた作品を吉村さんに読んでもらったところ、「原爆は君にしか書けないんだ。それを書くだけの力が君にある」と励まされたのでした。そして、私は『文学者』に七〇枚の作品を載せてもらったのです。それは後に一〇〇枚に書き直し、吉村さんの紹介で南北社から発行されていた『南北』に「死の影」として掲載されたのでした。そして、昭和四十二年十月に「死の影』となって世に問われたのでした。関さんと同じような経路をたどって、処女作が世に出たように感じております。
 そして、劇団大阪の公演舞台の中でのゲートルの話の場面、なるほどなあ、と思いながら読ませてもらいました。
 昭和十八年四月に中学校に入学した私たちは、入学早々に配給されたのは、スフ織りの制服と制帽、ゲートルでした。いずれも当時、国防色と言われたカーキ一色のものでした。そして、最初に、軍事教練の配属将校からゲートルの巻き方について教えられたのでした。軍足と呼ばれる靴下の上部を下ろし、そこに三角形に折りたたんだズボンの端を置き、その上に軍足を元に戻し、そしてゲートルを巻いていくのですが、最初の二段は斜めに折ってそれから膝まで巻をいていきます。朝、家を出るときに巻いて行き、下校して家に着いてはじめてゲートル解くのです。そして、固く巻き戻しておくのです。巻き方が緩いと、軍事教練や行軍の最中にたるみ、列外に出て巻き直しをしなければなりませんでした。
 この厄介な代物を、敗戦直後、私は原爆で焼け野原になった土の上で燃やしたことを今でもはっきりと思い出すことができます。そのゲートルには、原子爆弾が炸裂した際の熱線によって濃い焦げ目が残っていました。
 このゲートルという名詞、死語になったかなと思って念のため辞書で調べてみましたら、<フランス語。西洋のきゃはん.。まききゃはん。≫とありました。

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対話随想余滴 №3 [核無き世界をめざして]

   対話随想 余滴③関千枝子から中山士朗様

                      エッセイスト  関 千枝子

 “暑い夏”、“温かい秋も、ここへ来て少し涼しくなり活気づいてみれば師走です。
 あれから色々ありました。行事も多く、何やかやとせわしく、折角始めた「終活作業」も少しも進まず、再来年の予定も入って、あと二年くらい死ねないぞ、など思っています。
 参加した行事も、偲ぶ会あり、出版記念会あり、さまざまですが、私たちの同世代、とにかく戦争の痛みが心に残っていて、傷ともなり、あるいは出発点でもあり、あの15年戦争の意味を、もう一度考えたりしました。
 その中で十一月十七日に行われた加納実紀代さん(歴史研究者、彼女の肩書は色々上げられますが、この言い方が一番ふさわしいと私は思います)の出版記念会。彼女は戦争中、女も戦争を担ったことを最初に言いだし、グループを作り、研究誌(銃後史ノート)を出し続け、大学の先生になります。私は彼女の仕事を取材し続け四〇年近くになります。彼女はその名前が示すように紀元二六〇〇年の生まれ、私よりずっと若い彼女が、肺気腫で体が悪いことをきき、心配していました。このたび一冊新刊を出され、出版記念会と聞き、彼女の最後の本での別れの会と思い込み、出かけたのですが、彼女想像していたより、元気で、声もよく出、新しい本の企画なども言われ、少し安心しました。
今度の新刊の本のタイトルは『「銃後史」を歩く』です。銃後史の研究のことが中心なのですが、冒頭がヒロシマでの被爆の体験談なのです。やはり彼女の人生、そして生き方の始まりが広島原爆だったのだな、と思いました。
彼女は三歳の時、二葉の里で被爆しています。屋外で遊んでいて被爆。でも、運よく日陰で火傷はしなかったのですが、彼女はピカを鮮明に覚えています。近所の少女が疎開作業に行って傷つき、ジャガイモのように皮膚が剥けているのをはっきり記憶しています。
 でも、私が、この話を聞いたのは彼女と知り合ってから大分後で、私が被爆者と彼女が知ってからも、なかなか自分のことは言ってくれなかった。しかし彼女の被爆の思いは深く、放射能への恐れも持っています。何しろ爆心から2キロ、そして屋外ですから。複雑な気持ち、よくわかります。
 とにかく彼女の研究に、紀元二千六百年と原爆が深く関係していたことは間違いありま)複雑な気持ちよくわかります。せん、そして、彼女は,女たちの被害と加害(それまで誰も言わなかった)に目を向けて行った。これは、私の思いとも重なり、私が「銃後史ノート」の取材に夢中になり、多くのことを教わるのですが。
 
 加納さんの会の前、十一月十一日は大阪に劇団大阪のお芝居を見に行きました。この会の前代表・熊本一さんとは深いおつきあいで、いつも公演のプログラムを送っていただいているのですが、なかなか大阪に行けずにいたところ、今回は井上光晴さんの原作の「明日」だというので急に行く気になったのです。
 井上さんの「明日」、素晴らしい作品だと思います。一九四五年八月八日の長﨑。その日に結婚式を挙げる人。お産をした人。牢屋にいる夫に会いに行く人…様々な人が暮らし、その日を送っています。この人々が明日(八月九日長崎原爆の日)どうなるかわからない、明日をそんな日と想像する人もいない。”明日“どうなったか何も書いていませんが、この人々の暮らしているところから無事であったとは思えないのですが。
劇団大阪も「明日」は二〇年ぶりの上演、二〇年前の脚本で演ずるそうです。
 私、井上さんには「恩義」がありまして。これも三十余年前のことです。井上さんが個人誌「辺境」の第二次を出すという話を新聞で読み、思い切って手紙を出してみました。”辺境”の中でも最も崖淵のところにいるのが母子家庭、その貧困の現実を書きたいと書いたのです、すぐ井上さんから電話がかかってきました。「書きなさい、すぐ!」と言われるのです。私がくどくどと、自分は『広島第二県女二年西組』という本を出していて、などいうと、「わかっている、もう読んだ」と言われるのです。そして「一〇〇枚書きなさい!」
 驚きました。雑誌に書く文章など大体二〇枚か三〇枚です。え、と驚く私に「ちまちましたことを考えるな、一〇〇枚書きなさい!」。結局、七〇枚ずつ三回書かせてもらい、これがもとになり『この国は恐ろしい国』(農文協)という一冊になりました。
 
 劇団大阪の本拠・谷町劇場は、谷町六丁目、ビルの一角にある稽古用舞台といった小さな劇場です。芝居だけでは到底採算がとれないこうした劇団がともかくやっていられるのは、この劇場を持っているからと言います。谷町は昔、中小の町工場が立ち並んでいたところで、それが再開発され今の街になったそうで、工場は今一軒もありませんが、下町風庶民的です。地下鉄の駅から劇場まで歩く道すがら空堀という通りがありますが、そこに、「ハイカラ通り」という看板が掛けてあります。なるほど。しゃれた感覚。いいね!。
劇場に着くと、小さな劇場ですがほぼ満員です、この日だけでも二回、全部で六回も
公演するのに立派なものです。
皆さん、とにかく熱演で、感動しました。服装も戦争中らしいもので、苦労があったろうと思いました、男の人にもちゃんとゲートルを穿かせていましたが、(今の人ゲートルと言ってもわからず、テレビのドラマでも戦中なのにしゃんとした背広、ネクタイなどして笑ってしまうことがあります)、ゲートルには困ったのでしょう、手作りでしたが、ゲートルらしからぬ布地で、これはどうしようもありませんかね。「明日」が原爆と一言も言わない舞台、見る人がピンと来るかしらと心配になりました。おそらく二〇年前初演の時は、大半の人がピンと来ていたのでしょうが。
 
 熊本さんには私個人的にも大変お世話になっています。最初の出会いは三十年前でした。私の『広島第二県女二年西組』を、関西芸術座というところでドラマ化してくださいまして、熊本さんは企画で演出もされたと記憶しています。脚本は関西演劇界の大御所で、うまい台本で皆さん満足だったと思いますが、原作者としては少し違和感があったのです。そして大変不躾だと思いましたが、もし私が書いたらという台本を熊本さんにお渡ししたのです。それから四半世紀、そんなこともすっかり忘れていた私に、熊本さんから、今こそあの台本を生かしてみようと連絡がありました。二〇一五年のことです。手書きでくしゃくしゃ書いた台本を、熊本さんは捨てずにとっておいてくださった、そして原爆で死んだ少年少女たちの靖国神社合祀の問題も今こそ、世に問うべきだと言ってくださったのです。そしてその台本を全日本リアリズム演劇会議の機関誌「演劇会議」に載せてくださり、ご自分が指導しておられるシニア劇団(現役退職の人びとのための演劇講座を修了した人たちの劇団)で上演すると言ってくださいました。シニア劇団は大阪、奈良で講演し、このドラマを引っ提げ、シニア劇団の全国大会にも出場。雑誌を見て上演してくださったところもあり、被爆の事実を訴えた朗読劇の輪が少しずつ広まっているのです。熊本さんには改めてお礼を言いたいと思ったのです。
 熊本さんも私を歓迎してくださり舞台終了後、劇団の方々と会食の場を設けてくださいました。そこで、シニア劇団の方々が夏に京都の教会で「第二県女…」を演じてくださったこと、皆様とても喜んで素晴らしい感想が来ていることなど、伺いました。そして驚いたことに、シニア劇団の方々、全国どこへでも出張公演しますよと『広島第二県女二年西組』を宣伝してくださっているのだそうです。そして、明後年、ちょうどオリンピックのとき、東京で第二回のシニア劇団全国大会があるのだそうですが、これに「第二県女」を出したいと言われるのです。私は驚き喜び、「それまで頑張って生きています!」と言ってしまいました。
 この後、奈良に行き例の「原爆地獄」の本を出された河勝さんに逢いました。(と、偉そうなこと言いますが、初めて同然の土地、熊本さんに連れて行っていただきやっと行けたのですが)。
 河勝さん、八九歳。ますますお元気です、被爆の証言をした中学時代からの親友岡田悌次さん、同じく学友の栄久庵憲司さんもなくなり、もうお金の面でヘルプしてくれる人が亡くなり、本を出すのは無理、それで電子本を作るのだそうです。今までの「原爆地獄」の本の集大成。英語版。アマゾンなどにも出し、世界中で読んでもらえると気宇壮大な話です。
 そんな活動の一方、長唄、謡、詩吟、書道、絵を習い、長唄は名取り。皆半プロの腕前、絵は今書いておられるのを見ましたが、大きなキャンバスに被爆死した人々のことを少しシンボリックな筆使いで書いておられます。とにかくお元気な事驚いてしまいました。
本当にすごい人です。私も体が弱っただの、原稿を書くのが遅くなっただの言ってはおられません。二〇二〇年まで頑張らなければと思いました。


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対話随想余滴 №2 [核無き世界をめざして]

  対話随想余滴 ② 中山士朗から関千枝子様へ

                            作家  中山士朗

 お手紙の始めに、<書き残したことを書きたいと「余滴」と名付けたのですが、どうも昨今の状況、日本だけでなく世界が「右寄り」になっているようで、余滴どころではない、怒りの炎になるかもしれません>とありました。私もそのような思いも致しておりますが「水の一滴、岩をも穿つ」と言いますから、「余滴」でもよいのではないかと考えたりしています。
 それにしても、米国トランプ大統領の「アメリカ第一主義」は、第三次世界大戦の勃発を予感させてならないのです。第二次世界大戦の始まる動機となった日本に対する経済封鎖、ABCD包囲網、現代における北朝鮮、イランに対する経済封鎖、ひいては米中貿易摩擦には、不吉な予感を抱かずにはいられません。
 話が後先になりますが、偶然とは言え、同じ発言に出くわしたことについて書いてみたいと思いました。
 私たちの「続対話随想』の№44(2018年7月)で、資料の保存について、「実は私も最近になって、自分の書き残した作品の全てを保管してくれるところを探しているところです。子どもがいない私には。死後は他の書籍同様に廃棄物として処理されるだけです。現在、二、三人の人に相談しておりますが、母校である広島一中の同窓会の会館がいいのではないかという話も出ておりますが、いずれにしても生涯かけて被爆体験を書き続けてきた私にとっては生きた証でもあり、亡くなった人たちの記憶を消さないためにも、何とかして後世に委ねたいのです」と書いています。そして関さんには、種々お骨折りいただいた経緯がありますが、その時、私がその動機について述べたのと同様な言葉を、作家の村上春樹さんが記者会見で説明されている記事が十一月四日の朝日新聞に掲載されていて、不思議な思いにとらわれたのでした。
 村上さんは、このたび母校である早稲田大学に原稿や自身の蔵書、世界各国で翻訳された著作や膨大なレコードコレクションなどの資料を寄贈することを発表されましたが、その理由として「子どもがいないので、僕がいなくなった後、資料が散逸すると困る」と説明されていました。村上さんは、現在六十九歳の若さですが、子どもがいない人の思いは、残した仕事への深い愛着がこめられていることをあらためて知った次第です。
 大学は資料を活用し、村上さんの名前を冠した研究センターの設置を検討していますが、来年度から資料の受け入れを始め、施設の整備を順次進め、蔵書やレコードが並ぶ書斎のようなスペースも設置する計画だと発表しています。
 この記事を読みながら、いつか『ヒロシマ往復書簡』の中で、関さんが村井志摩子さんの没後の資料について書いておられたことを思い出しておりました。広島にも原爆に関する文学や芸能の資料センターのような施設ができないものかと思っております・
 話が前後してしまいましたが、竹内良男さんの「ヒロシマ連続講座」六十回目の「被爆者に寄り添っての暮らし――被爆証言に向き合う」というテーマでの居森公照さんの証言を読み、深い感動を覚えました。そして、居森さんの亡くなられた妻、清子さんが、爆心地から410メートルという至近距離にあった本川国民学校(当時)で被爆され、二〇一六年に亡くなられたことを初めて知りました。ずっと以前、本川国民学校で被爆された方がご存命だということは聞いたことはありましたが、現実にその生涯を知ったのは初めてです。その苦難に満ちた人の日常を支え、寄り添ったご主人の証言には胸衝かれるものがありました。
 清子さんは、原爆で家族全員を奪われ、自身は、膵臓、甲状腺、大腸癌、多発性髄膜種を患い、夫に支えられ、奇跡の生存者として六十歳くらいから体験を証言し続けたと手紙にはありました。今は、夫の公照さんが亡き妻のことを語り続けておられるそうですが、関さんの言われるように、妻に寄り添い続けた一生は、もはや被爆の継承者というよりヒバクシャそのものかもしれません。
 生涯を放射能障害で苦しんだ清子さんのことを手紙で読んでいる時、私は、爆心地から七〇〇メートル離れた広島一中で、倒壊した校舎から脱出することができた生徒の一人が、その後、多発性癌に侵され、九回も手術したという話を思い出さずにはいられませんでした。
 私は昨年、大腸がんが発見され、そのことによって六年前に否認された原爆症の認定を受けることができました。爆心地から一・五キロメートル離れた地点で被爆し、顔に広範囲の火傷を負いましたが、後遺症のケロイドに悩み、自殺を考えながら暮らした少年から青年期にさしかかった頃のことが痛切に思い出されるのでした。ましてや、多臓器癌に侵された人たちの苦悩は、到底はかり知ることはできないと思いました。
 このたびのお手紙の中でさらに驚いたのは、広島大学の湯崎稔先生の名前が出ていることでした。私は、湯崎先生とは、京都・比叡山麓の一条寺の里仁ある円光寺でお会いしたことがあるのです。
 このお寺には、昭和一八年に来日して広島文理科大学に留学した南方特別留学生、マレーシア出身のサイド・オマールの墓地があるのです。原爆が投下された日、爆心地からほど近い大学の寮にいて被爆し、昭和二十年八月三十日、東京の国際学友会に引き上げる途中で、病状が悪化したために、京都駅で途中下車して、京都大学付属病院に入院しましたが、九月三日に死亡しました。享年十九歳でした。遺体は市の民生局に引き取られ、大日山の共同墓地に埋葬されたのでした。後に、園部健吉氏に引き継がれて回教様式の墓が円光寺に完成したのでした。その墓の前面の碑には。

    オマール君
 君はマレー半島からはるばる
 日本の広島に勉強しに
 来てくれた
  それなのに君を迎えた
  のは原爆だった  嗚呼
  実に実に残念である
  君は君を忘れない
  日本人のあることを
  記憶していただきたい
        武者小路実篤
 
  と刻まれていました。
 私が湯崎稔先生と初めて会ったのは、園部健吉氏からオマール忌の案内状を頂き、その法要に参列した折のことでした。湯崎先生は、学長に付き添って見えておられたのです。
 
  母をとおくにはなれてあれば、
    南に流るる星のかなしけり
 
 オマールの遺詠です。
 

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対話随想・余滴 №1 [核無き世界をめざして]

   対話随想余滴① 関千枝子から中山士朗様へ

                      エッセイスト  関 千枝子

 「対話随想・余滴」を始めさせていただきます。「続対話随想」が50回で終わり、一冊の本にまとめることができました(本になるのは来年になるかもしれませんが)。
 ヒバクシャ物書きの端くれとして死ぬまで原爆のことは書き続けたいので、書き残したことを書きたいと、「余滴」と名付けたのですが、どうも昨今の状況、日本だけでなく世界が「右寄り」になっているようで、余滴どころではない、怒りの炎になるかもしれません。
 核兵器禁止条約の署名など、考えもしない、忘れてしまったような安倍さん、憲法改悪にはますます熱心なようです。日本ばかりではありません。トランプさんのやり方は、核軍縮どころか、新たな核兵器の開発であり、中国との貿易戦争とも合わせ、まるで、新たな冷戦というか、戦争前夜を思わせます。トランプ氏のやり方には、さまざまな国々から批判が出ているようですが、ブラジルの新大統領に南米のトランプ・ボルソナーロ氏が当選するし、「批判派」の代表のように言われるドイツのメルケル首相の政党が選挙で支持率を落とし、メルケルさんも21年には引退など聞くと、とても不安に思えます。メルケルさんがここへ来て人気が急落したのは難民へ寛容な政策をとっているからですが、ヨーロッパの国々では、難民に対し、厳しく対応する国々が増え、EUの行き方へも批判厳しいといいます。
 まことに、難民の問題は大問題で、あれ程多くの人たちが流れ込むと、これはたまらんということになります。ヨーロッパでも貧しい国々は、難民のために、決して金持ちでない自分の国がなぜ人を助けなければならなにのだ、ということになり、独り勝ちのドイツへの反発になり、経済安定のドイツでもいくら何でも、もう満杯だ、という声が起こるのも無理もない面もあります。
 難しいことですが、でも「自分の国ファースト」は、独りよがりのナショナリズムになり怖いのですが。貧困層の人びとがこうした考えになびきがちなのも、恐ろしいことです。
 私は、私たちの生まれたころ、(1930年頃)、不況(大恐慌)、そして不作、飢饉の日本で、「生命線」と言われた満州に「希望を見出した」人々と、それからの恐ろしさを思い出さざるを得ないのです。

 まあ、こんなことを考えているだけでなくて毎日いろいろ忙しいのですが(楽しい催しもあります。演劇や、能狂言も楽しんでいます)、「核なき世界」のコーナーなので、先日,行われた竹内良男さんの『ヒロシマ連続講座」の話からいたしましょう。この講座のことは前にも伝えましたが、はじめ月一回くらいでやっていたのが今は月二回三回やることもあり、先日私が参加しました十月二〇日の会は六〇回目でした。六〇回という数にも.驚きますが、とにかく毎回二〇人から三〇人くらいの方が参加、テーマも原爆から,広く戦争、平和へと広がっていて、リピーターも多いのですが、毎回新しい方も来ます。この日は久し振りに、広島原爆そのもの、「被爆者に寄り添っての暮らし―被爆証言に向き合う」でした。「寄り添う」など言うと、何だか、天皇、皇后の「公務」のようで嫌ですが、今日話された居森公照さんは、まさにヒバクシャに、いえ、反原爆に、「寄り添った」方でした。
 居森さんの妻清子さん(2016年没)は、なんと爆心地から410メートル、本川国民学校の生き残りです。多分、原爆に一番近いところで被爆した方です。本川国民学校に生き残りがいるということは私も前から聞いて知っていました。しかしこの方が一九六二年ごろから横浜に来て暮らし結婚し、ずっと横浜暮らしだったなど全く知りませんでした。私も横浜に住んだこと長いです。間にアメリカに住んでいたこともありましたが三十年余横浜で暮らしました。でも、居森清子さんが横浜に住んでおられることなど全く知りませんでした。このことだけで胸を締め付けられるような思いとなり、原爆については、いろいろ知っているつもりでも知らなかったことが無数にあるのではないかと、反省もし、胸も痛みました。
 居森清子さん自身が書かれた証言記録によると、清子さんは当時本川国民学校六年生、同級生の多くは学童疎開に行っていましたが、彼女は、お父さんが死ぬときは家族いっしょがいいと言われたので、集団疎開に参加しなかったそうです。
 あの日、学校につき靴脱ぎ場で上履きに履き替えようとした時、あたりが真っ暗になった、彼女はピカの光も見ず、音も聞こえなかったと言います。本川国民学校は広島では当時珍しい鉄筋の建物で、コンクリートの壁の陰になって火傷もしなかったようです。真っ暗な中、周りが少し見えるようになったので運動場に出た、その時ものすごい熱さを感じたと書いておられます。校舎の全ての窓から炎が出燃え上がり、二人の先生が校舎から出てきて、川に逃げようと、校舎のすぐ裏の元安川に向かった。体全部が黒焦げになった友を助けて川に入った。暑さから逃れるため水をかぶり続け、火が少し収まるのを待って校庭に這い上がったがその時黒い雨が降ってきた。家のことも何も考えられず、ただふらふら歩いていたそうです。そこで救援のトラックに助けられ、町内ごとに決められていた避難先の田舎に行来ましたが、そこで一週間何も食べられず寝ていたそうです。父母や弟がどうなったか全くわからず、呉のおばさんに引き取られましたが。髪の毛は全部抜け、放射能障害に悩まされ、食糧難で、ひもじく、辛い毎日でした。いつも両親のことを思い、涙を流していたとかいてあります。
 どうやら中学を卒業、美容院で住み込みで働くようになりましたが、体がだるくて起きていることもできない日が続いたそうです。一九六二年ごろ新しい生活を求めて横浜に出、いろいろ仕事をしましたが、その時今の夫のお母さんに会い、優しく助けてもらった。そして、被爆者であることを承知のうえで、夫は結婚してくれました。
 居森公照さんのお話では、その頃原爆症のことが大分言われるようになっていたが、自分も清子さんが好きで、結婚されたそうです。
 横浜市鶴見区生麦の会社の社宅に住んでいた一九七二年頃、広島大学で原爆の調査をしていた湯崎稔先生がたずねてこられて、本川国民学校のその後のことも教えてもらいました。清子さんの両親も被爆直後郊外の寺に運ばれなくなり、弟は母の目の前で焼け死んだということも、その時湯崎先生に教えてもらい知ったそうです。
 その後膵臓、甲状腺、大腸癌、多発性髄膜種と病気続きでしたが、夫に支えられ、奇跡の生存者として六〇歳くらいから体験を証言し続けました。今は夫の公輝さんが亡き妻のことを語り続けておられます。清子さんは二度流産し、お子様はないそうです。「亡き妻の思いを大勢の人に伝え、戦争はしてはいけないということ、;核兵器の恐ろしさを伝えたい」。
と、公照さんは言われます。妻に寄り添い続けた一生、もはや被爆の継承者というよりヒバクシャそのものかもしれません。
 しかし、清子さんは、まだまだ言えない思いがあったのではないか。呉のおばさんの所でひもじかったと書いていますが、それ以上に辛かったかもしれませんね。呉のおばさんの家族構成もわかりませんが、その方も小さい子どもさんがあったら。あの時代、自分の一家だけでも暮らしにくい時代です、親類の子を育てるのは苦痛ではなかったか。
原爆だけでなくほかの空襲でも、たくさんの孤児を生み出しました、公的な施設ではとても間に合わない。この国の政府は、その世話を「親類」に押し付けた。そんな戦争孤児の中で今でもそのころのことを言えない、書けない人が多くいます。預かった方も大変だったのですから。とにかく育ててくれた人を悪く言えませんからね。
清子さんの詳しい事情全く知らないのに勝手な事書いてしまいました。
 しかし、清子さんは素晴らしい夫にめぐり合い、寄り添ってもらい、生きた。それは本当に幸せでしたね、と言いたいです。 でも、家族全部を奪われ、自分も放射能障害で、一生苦しみ、原爆さえなかったら、と思い続けられたでしょう。本当に、世界から核核兵器を廃絶し、恒久の平和の日を、と思わざるを得ません。


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続・対話随想 №50 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想№48 中山士朗から関千枝子様へ

                            作家  中山士朗
 
 私たちの『ヒロシマ往復書簡』から始まった『続対話随想』も、関さんから№47の3が送られてきて、最終回となりました。掲載の順番によって、私がなんとなく「あとがき」を書くことになりましたが、私がなんとなく『あとがき』を書くことになりましたが、荷の重さを考えております。
 このたびの関さんの手紙を読みながら、以前手紙に引用しました立命館大学の福間良明教授の言葉、
 <「平和は尊い」と結論付けたり、感動的に仕立てたり、メディアで繰り返されてきた予定調和的な語りでは、見えなかった「過去」や「ものの見方」もある。戦争を正しいもの」としてしまった社会や政治のメカニズム、誰かを悪人にして、思考停止するのではなく、どう多角的に解き明かし、現代と照らし合わせるか、わかりやすい話にはならなくても、従来と違う視点が提示されれば、意外性を感じて興味を持つ若い人が出てくるであろう.>
 この示唆的な言葉が実感として伝わってくる、それぞれの内容でした。
 冒頭にありました近年の高校生の修学旅行においては、これまでの広島や長崎の甚大な原爆被害を後世に伝える建物や資料館、沖縄戦の惨劇を伝える戦跡や祈念資料館などの歴訪が、予算を理由に削られ、また「悲しみの記憶」からマイルドな方向の旅へと変えられようとする現実を関さんは指摘されました。
 手紙には、
 広島大学の文化人類学が専門の楊小平さんが、広島大学に留学したこと、原爆という凶悪な兵器のことを深く知り、今は資料館のボランティア活動をしているが、広島の人の原爆に対する激しい怒り、廃絶への念願に反して、あの戦争に対する加害の認識の薄さ、特に中国への侵略戦争を忘れた人もいる現実の問題を感じている楊さんの内面。そのことが関さんの靖国問題に繋がっていく過程。ひいては「動員学徒慰霊碑」と靖国神社の思いについての考察。
 朝日新聞の、原爆のことを説明した新聞に、広島市の建物疎開のことが全く書かれていないことから、記録の正確な警鐘を指摘。
 学制改革で母校を失った山中高女と第二県女に被災地での碑を建てることを進言し、以後、その慰霊碑と折り鶴を収めたケースは町内の人びとによって大切に守られ、追悼式が行われてきた話。
 八月十一日、北杜市のやまびこホールで行われた「Peace Concert 2018」での、早川与志子さんの平和への思い、テレビ人として、またフリーのジャーナリストとして生きてきたことが凝縮された3時間の内容が、感動的に伝わってくる話。
 八月十八日、大田区区民プラザで開かれた「平和のための戦争資料展」における、関さんが構成された「似島」を長澤幸江さんが朗読されたこと、また、彼女は、六月の「沖縄の日」の式典で女子中学生が読んだ素晴らしい詩(私も鮮明に記憶しています)を墨書されているという感動的な話。
 が書き連ねてありました。
 長編になってしまったことを気にしておられますが、これでもまだ足りなかったのではないかと推察しております。読み終えて、関さんの生命を燃やし尽くすような行動力、それにともなう人々との交流の濃さに感嘆しております。外出もままならず、ひたすら読み、書いているわが身が思われてなりません。
 けれども、お手紙の中で拙著『天の羊』に出てきます南方特別留学生、原爆供養塔などの話が出てきますと、日本各地を取材して回ったころの元気さがよみがえって参ります。」
 『天の羊』は、副題が被爆死した南方特別留学生となっていて、昭和五七年五月十五日に三交社から出版されたものです。帯には、次のような解説が添えられていました。
 <それら歴史的事実の中には、大勢の人間の苦悩、悲しみ、死がこめられているはずであった。…・かつてこの場所に、東南アジアからの留学生たちが、アジアの国生み、八紘を一宇とする肇国の大精神という、他国の戦争遂行の理念に従わされ、飢えに耐えながら勉学したのも、すでに人々から忘れ去られていた。>
 この大東亜省招致による南方留学生は、昭和一八年に日本の占領下にあった南方諸地域から一〇〇名、昭和十九年には一〇一名が来日しましたが、そのうち、広島に原爆が投下された時、広島文理科大学の留学生のうち二名が被爆死したのでした。その二人の死をおって書いたのが『天の羊』でした。
 そしてお手紙の中でとりわけ強い記憶となったのは、人と会う時に原爆供養塔の前を待ち合わせの場所に選んだ森沢さんの話でした。実は私は、森沢さんの父・森沢雄三さんが建設に力を尽くされた供養塔の内部を訪れ、無名の死者の霊位に合掌させてもらったことがあるのです。この時の話が『天の羊』の中に詳しく書かれていたことに、私自身その偶然性に驚いています。 
 余分なことだと思いますが、文中から.抜粋してみました。

 昭和四六年二月に、私は広島に行ったが、当時、広島平和記念資料館長であった小倉馨氏の紹介で、広島市役所年金援護課の高杉豊氏に会い、供養塔の地下安置室の内部を見せてもらったことがある。/供養塔は、公園の北外れにあった。以前は、土饅頭の上に『広島市原爆死没者諸霊位供養塔』と書かれた木碑が一本立っていただけのように記憶していたが、今見ると、美しく芝生が張られた直径一〇メートルほどの円墳の頂きに五輪の塔が置かれ、正面入り口の左右には石灯篭が据えられている。その手前の祭壇の前に立つと、背景の緑が目にしみる。/私たちは供養塔の裏側に回った。すると、中央の一部分が鋭く切り取られていた。そこから、内部に通ずるコンクリートの階段が下に伸びていた。人ひとりがやっと通れるほどの階段をもった通路と、白く塗られた銅製の扉が正面にあった。扉のところには、「安置所」と書かれた表示板が取り付けられていた。・
 扉が開かれると、高杉氏は入口の左側の壁に沿って手を動かし、点灯のスイッチを探した。明かりが点って安置室に入って行くと、まず最初に私の眼に映ったのは、祭壇と、その中央に置かれた高さ一メートルほどの多宝塔であった。高杉氏が最初に合掌し、その後で私も祭壇に向かって手を合わせた。---―なんという静けさであろう。私は安置室の内部に視線を移しながら、次第に言葉を喪失していった。/正直なところ、安置室というより、遺骨を収納した、すこぶる近代的な倉庫と言った感じが強かった。/三方の壁に沿って設けられた、床から天井まで届く高さの鋼鉄製の棚には大小の木箱が隙間もなく積まれていた。左手の棚には、一合枡に木の蓋を取り付けたような四角い箱が整然と並べられていたが、これには氏名を書いた紙が貼りつけられている。そして、正面と 右手の棚には、縦一メートル、幅三十センチメートル、深さ八十センチメートルほどの木箱がならべられ、はみ出した木箱は、その棚の前の床に直かに積み重ねられていた。/わたしは高杉氏に断って、左手の棚の中から一合枡に似た木箱を取り出し、掌の上に載せてみたが、私が想像していたよりはるかに軽い物体であった。/この個別の名前があるのは、各町内会長が預かっていたものを移送したもので、その数は、約二千柱におよんでいた。/大きな箱の一部には、「進徳高女」とか、「己斐小学校」とか言ったように、学校名を記載した紙が貼られていたが、これらはその学校の校庭で荼毘に付された人たちの遺骨であった。/高杉氏はすぐ近くにあった床の上の木箱の蓋を開き、その内部を見せてくれた、蓋の表面には「住所氏名なし」と書かれた札が貼られていた。/「あの時大勢の人が似島に送られて来ましたからね。そこで亡くなられた方で、しかも、名前が分からないといった人たちのお骨なんです」と高杉氏は言った。/内部を覗くと、骨片というより、むしろ骨粉と言った方がはるかに適切な、焼け砕けた遺骨がびっしりと詰まっていた。/こうした箱の数は、約八十もあり、十二万から十三万人の遺骨と推量されている。/安置室の中は静まりかえっていた。/乾燥空気を送り出すかすかな機械音が耳の底で振動していたが、やがてその振動が安置室の中の全ての遺骨から伝播する振動と共鳴し、室内全体が死者の声で満たされていくのを感じた。箱の中の骨片がいっせいに空間を漂いはじめ、組み合わされ、死者の言葉となって私をつつみ始めた。/「人間のものとは思えません。哀れなもんです。」と高杉氏は最後にしみじみ語った。/
 このたびの関さんの手紙を読みながら、過ぎ去った時間を慈しみながら思い、返事をしたためました。ひっきょう関さんも私も<生かされた生命≫を生きて来たのだと改めて思います。そして、このことが二〇〇〇年から始めた『ヒロシマ往復』(第Ⅰ~Ⅲ集)から対話随想として完結をみたと私は信じています。原爆について語られることが少なくなった現在ですが、私たちが成し遂げた仕事は、被爆者が生きた記録と記憶として必ず継承され、後世の人に読み伝えられていくものと信じております。

 関千枝子中山士朗「続対話随想」を読んでくださいます方々に

「続対話随想」はこの48で終わらせていただきます。次回から「対話随想・余滴」という形で、書かせていただきます。
 関、中山 二人の手紙のやりとりは2012年から始まりました。当時中山さんが原爆症の認定から外されたことへの怒りでした。中山さんが1,5キロの至近距離の被爆でケロイドに苦しんでいるのに、持病が心臓疾患では原爆症と認められないというひどいものでした。ここから始まった往復書簡ですが、原爆について書きたいことは尽きることなく今まで続いています。その中で往復書簡は本になり2016年夏までを3冊の本にしました。現在の出版の状況で売り上げだけで採算をとれることは見込めずいくらか資金を用意して出版したのですが、それもなくなり、第Ⅲ集をもって終わりにします、と書きました。
 その後も知の木々舎のブログでのやり取りは「続対話随想」として続いていますが、この間、中山さんが癌を発病しました。熟慮の末、中山さんは手術をせず、抗がん剤も使わず、自宅で療養していますが、不思議なことに体調は悪化せず、元気に書き続けています。皮肉なことですが、がん発病のため、6年前はすげなく断られた原爆症の「認定」を受けられることになりました。中山さんはこれを非常に喜び「これで自分はヒバクシャとして死ぬことができる」と言っています。そして、この「認定」の金で「続対話随想」2018年夏48までを本にしたいと申されました。
とにかく私たちの原爆、戦争、平和に対する思いを、後世への証言として残したいということです。今編集にかかっております。できたら今年中に出版できたらと思います。
 幸い私たち、まだ生きられそうな気がします。生ある限り、書きたいと思います。やっと核兵器禁止条約ができたのに、我が国の政府は署名もしないのですから。怒り続けるしかありません。次から「余滴」が始まります。ヒバクシャの執念におつきあいください。


※続・対話随想は№47が①②③と続いたため、今回は実質№50となります。(編集部)  

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続・往復書簡 №48 [核無き世界をめざして]

     続対話随想47の② 関千枝子から中山士朗様

                       エッセイスト  関千枝子

 五日、朝から「建物疎開作業で亡くなった動員学徒の碑巡り」です。この碑巡りフィールドワークも広島YWCAの主催事業になってから五回目になります。暑いときに参加者を歩かせるのですから、私が楽をしてはいけないと、少し辛くても自分も歩くことに意味があると思っていたのですが、今年は酷暑ということもあって、主催者からはっきり言われてしまいました。昨年私があまりのろのろ歩くので、参加者の「若い」皆さまはかえって疲れてしまい、予定の時間より遅れて主催者は困ったらしいのです。慰霊碑から慰霊碑まで私は車で移動するように、と言われてしまいました。高齢の参加者がいらしたらその方も車に乗せようということになりました。暑くて外に立っているだけで暑いのですが、車で移動すると、まあ、楽なこと。用意してきた「水」もほとんど飲まずに案内出来ました。申し訳ないと思いながら、皆さまに、「慰霊碑もない学校、死者の数も名前もわからない人がいる(国民学校の高等科に多い、朝鮮半島主審者が多いと推察される)、その人たちのことも偲んで歩いてください、と叫んでいました。
 午後、主宰の方々と昼食、懇談しました。懇談にはYWCAでフィールドワークの責任者でもある難波さんの経営している本屋さんの部屋を使わせていただきました。涼しくて大助かり。フィールドワークの間、あまり汗もかかず水も飲まなかったのに、飲みだすといくらでも水が欲しくなり、がぶがぶ水を飲むこと、やはり少し脱水だったようです。夕方になったら急に疲れて、行こうと思った会は失礼して、ホテルでお休み。堀池さんは、NHKの出山さんが造った映像を見る会に行きました。
 六日朝、例年通り、私の学校の追悼の会に参ります。昔の雑魚場、国泰寺中学の南に、この地の町内会の持つ荒神様の境内があり、ここに山中高女と第二県女の慰霊碑があります。第二県女の同窓会は解散(何しろ一番若い同窓生でも八十四歳ですから、もう動けない)なので、追悼会は町内会と山中の継承校になる広島大学福山分校付属中学校の主催です。今年は、少々ショックでした。参加者が少ないのです。会場にテントを張り椅子を並べるのですが、今年は空席が目立ちました。かっつてないことで、「歳月」を感じました。 
 今年、「追悼の式」が終わった後私は一言しゃべらせてもらいました、これには実はいきさつがあり,去年も私は、碑の歴史と町内会に感謝の言葉を述べたいと申しでたのですが、式の実行委員の福山中学の先生に、町内会と打ち合わせをして式次第を決めている、時間もない。雑魚場の被災の状況は僕らも勉強して知っているなどと言われるので、ではこのあたりに何校の(どの学校の)生徒がいたかわかりますか、と聞くと、沈黙。でも絶対に飛び入りの発言を認めようとしないので、去年はそのまま引き下がり、今年あらかじめ福山分校付属中学に申し入れ、話していいということになったのです。
 式の後「迷惑」にならぬようなるべく短く、私は話しました。
 この碑は昭和二十八年、当時の町内会長荒谷輝雄さんが、多くの学徒が死んだこの地に碑を建てたらと思い、各校に話を持ち掛けられた。しかし多くの学校は(一中、修道。女学院,山陽など)は自校内に建てる(すでに建ててある)と言い、結局母校を学制改革で失った山中と第二県女の二校が建てることになった。荒谷さんの申し出がなかったら母校を失った二校は碑を建てるなど思いもつかぬことであった。当時復興期に入った広島で、このあたりは市の中心に近い高級地、そこに慰霊碑を建てることに反対もあったらしいが、荒谷さんの力で慰霊碑が実現した。荒谷夫人は山中の卒業生で、夫妻で碑の建設に熱心だった。
―――ここで私は、少し声を張り上げ福山中学の生徒たちに言いました、「そこの折り鶴の置き場を見てください、プラスティックの大きな布で覆ってあるでしょう?こんな覆いのある折り鶴の置き場を見たことありますか。ちょっと屋根のようなものがある所はありますが、こんな覆いのある置き場はみたことがないと思います。
一九七〇年代後半から八十年代、ヒロシマ修学旅行の全盛期、ここは大人気の慰霊碑でした。折り鶴もたくさん集まります。荒谷さんは雨が降ると折り鶴を毎日ご自宅まで持っていかれる。せっかく皆様の善意の鶴を濡らしては申し訳ないと言われるのです。しかし折り鶴はどんどん増え、運ぶのも大変。そこで荒谷さんは覆いを作らせたのです。今広島は千羽鶴が増えすぎリサイクルしていますが、この雑魚場の折り鶴は七十年代の折り鶴が色もあせずに見られますよ。
 高校生たちが私の話をどう受け止めてくれたかわかりません。私は、碑が今そこにあるには、当たり前のように思っているかもしれないが、碑づくりにあたった人びとの「思い」苦労、そんな歴史があったことを言いたかったのです。
町内会の方はとても喜んでくださいました、第二県女の同窓会は解散のとき残ったお金を町内会に寄付し、永代供養を頼んだのですが、このあたりの町内会は住民も減り、福山中学の力はあっても、当日の準備や維持費の問題、その他町内会の苦労は大変だと思います。私が感謝の気持ちを申し上げますと、「頑張りますから」といってくださいました。 
 この後、私、堀池さん、森沢紘三さん、藤井幸江さんとお茶を飲み、それから藤井さんの車で平和公園の供養塔まで送っていただきました。これは変なメンバーです、恐らくこの日以外考えられない組み合わせというか。藤井さんは二年西組でただ一人奇跡の生き残りの坂本(平田)節子さんが、段原中学で最初の担任をしたときの教え子、資料館のボランティア。今だに節子さんをしたい、彼女がいかに良い先生だったか物語ってくれる方です。森沢さんは亡くなった級友森沢妙子さんの弟さん、彼等のお父さん森沢雄三さんは豪快な地方政治家で県議として広島市の助役として浜井信三市長を助けて平和都市ヒロシマの復興に尽くした人。しかし、大柄で豪快だった森沢さんと、小柄で生真面目一本やりの節子さんとあまり接点はなく、不思議な取り合わせですね、堀池さんは呉線沿線坂の大雨被災地のボランティアに行ってきたばかりですが、暑いので,十分働いたら十分休みで作業を進めた、だから大丈夫ですが。と元気。呉のボランティアに行くという彼女に坂に行けと進めたのは私。坂、(鯛尾、小屋浦では、似島に運ばれたクラスメートが転送されたところです。まさかこんなところまで運ばれたと知らない友人たちの家族は、死に目に遭えなかった。歎きの地です。慰霊碑は鉄道の傍で土砂をかぶっていたがとにかく無事で,お参りをしてきたそうです。
 供養塔の傍で竹内さんと会いました。森沢さんはお父さんが供養塔の建設に力を尽くしたことから、必ず待ち合わせの場に供養塔を指定します。竹内さんは女子学院の先生のMさんといっしょです。この大勢に森沢さんは昼飯をごちそうすると言います。初対面の堀池さんたちは遠慮するのですが森沢さんは聞きません、お父さんに似て豪快な森沢さんは言い出したら聞きません、流川の小料理店、頂いた瀬戸内の魚料理,おいしかったです。竹内さんは、前にも申しましたが、ヒロシマ修学旅行から、広島に深い関心を持ち関わり続け、私より広島のことに詳しいと思う方です。広島のフィールドワークはたびたび試み、今年は九日に草津を歩くそうです、森沢さんが被爆したのは草津、何だか、いろいろ縁が続き不思議ないことです・
 八六の広島はタクシーをつかまえるのも大変ですが、お店で苦心してくださり「ひとまちプラザ」に直行。私の講演会「書き、語り、怒りをもちつづけること」があります。
 これも不思議なことである日、竹内さんの携帯から電話がかかり、村上俊文さんに紹介されたのです。「靖国神社の話を聞きたい」と言われるのに驚きました。建物疎開の少年少女たちの靖国神社合祀の問題を取り上げたのは、私が最初で最後だと思います。靖国神社や護国神社大好きの人が多い広島では私の問題提起は「無視」されてきました。靖国の話を聞きたいという方は初めてで、うれしかったのですが、この方がどういう方かさっぱりわかりません、竹内さんもよく知らないが伝承者のグループの方らしいと言います。どういう方かよくわからぬままメールでやりとりして話を詰めてきました。一時間や一時間半の話ではとても語りつくせないから、できたら私の本を売ってくださいと頼みました。会場では売ることが難しいから予約を取りましょうということになりました。
 あまり売れ行きには期待しなかったのですが『広島第二県女二年西組』『ヒロシマの少年少女たち』二〇冊ずつ四〇冊送れというメールがきました。本を売っていただくのはありがたいのですが、こんなに売れるのかしら。「押し売りしなくていいから余ったら返してください」と手紙を付けて送りました。
 この日この時刻に、広島でI CAN の川崎哲さんの講演もあるそうで私の話などに人が来るの!と心配してくださる方もありました。しかし村上さんは強気で予約がもう四〇人入っていると言われます。とにかく熱心な方で、メールもたびたび。五日のフィールドワークにも参加され、そのあと「打合せ」をいたしました。来られる方は伝承者や資料館のボランティアが多いそうで「次世代への継承のあり方」がやはり大テーマになるようで、心して話さなければなりません。
 会場に着くと会場にはもう一杯の人、驚いてしまいまた。六十人は見えたようです。会はまず映像で被爆者の絵で建物疎開学徒を描いたもの、基町高校の生徒が被爆者から話を聞いて描いた絵で学徒関係の者が紹介され、私はなぜ、私が全滅したわがクラスの話を書こうとしたか。話したくない人も取材したのか。話さない人の悲しみも書きたかった。私だけの経験でなくひとクラス全部を書くことで、全体を写したい、とりわけなぜあの若い少年少女たちが「小さな兵隊」として動員され、しかも「戦神」として靖国神社に合祀されたか、それを多くの遺族たちが喜んでいること、それへのこだわりを話しました。村上さんも靖国問題についていろいろ質問してくださいました。最後に私が言ったことは、「もしあの時私が欠席せず、作業に言っていたら間違いなく死んでおり、靖国の神になっている」、「たぶん私が今靖国にいたら、いやだ、私はここにいたくないと思っているだろうから」と言いました。靖国のことを皆さまはどう思われたか、でもその中で広島の護国神社が少年少女たちを神として祀っていることをたたえ、靖国と護国神社は違うと言っていた方が、帰りに私のところに来られ、「もっと靖国や護国神社のこと勉強します」と言ってくださいました。
 伝承は大事ですがが、ただの伝承ではなく,日本が犯してきた加害の歴史、それを踏まえての「核兵器廃絶、そして絶対の平和を願う」のだという私の気持ちをわかってくださればうれしいのですが。
 この夜は早くホテルに帰りました。ホテルには平和式典での広島市長の宣言が号外に刷られておいてありました。一応核廃絶平和を訴えながら、遠慮しいしいの宣言、いつもながら腹立たしいです。この思いは九日の長﨑市長の見事な宣言を読み、さらに思いを強めました。


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続・対話随想 №47 [核無き世界をめざして]

     続対話随想47① 関千枝子から中山士朗様

                                     エッセイスト  関 千枝子

 酷暑と大雨、台風。二〇一八年の夏は、ひどい夏でした。モリカケも、文書偽造など様々な官庁の悪事も、いい加減なまま。核兵器禁止条約は「無視」され、,改憲にはあくなき執念の安倍総理。腹立たしい限りですが、私個人にとっては、新しい「出会い」もあり感激的なこともたくさんありました。
 七月十九日、ある都立高校にヒロシマ修学旅行の事前学習に行ってまいりました。原爆のことを話すのに、ヒロシマ修学旅行は最高の場だと思うのですが、一九七〇年代から九〇年代までの最盛期を過ぎ、今、東京の公立高校では、広島修学旅行など壊滅の状況です。私が話に行くのは私立の中、高校、それも女子校ばかりです。都立高校(それもなかなかの進学校)のお招きにはまず「感激」。「ヒロシマ修学旅行」は久しぶりです、などと言われるので、戦争のことなどあまり知らないのでは、など緊張したのですが、静粛に、よく話を聞いてくれ、質問も核兵器禁止条約への政府の態度など大変鋭く、感心しました。
 担当の先生に伺うと、広島は久し振りだが、沖縄にはずっと行っていたし、去年は長﨑だったと。なんでも近頃東京都の教育委員会は、修学旅行の費用の上限を決めていて「うるさい」のだそうです。沖縄だと往復飛行機なので金がかさみとても駄目。長崎は,行きは飛行機を使えるが、帰りは列車になる、長崎から東京まで列車だと今時の高校生は退屈するので、広島にした(往復列車で費用に問題なし)ということでした。そんなこともあるの!と驚き。
 この修学旅行の責任者の先生は社会科の先生で、きちんと歴史を教えておられるようです。東京都の教育委員会は石原都政のころからめちゃめちゃで、私など、もう公立校はだめとあきらめていたのですが、きちんと平和教育をやっておられるところもあるのですね。うれしかったです。
 八月三日から広島入りしましたが、早朝出発、昼ごろ広島着、ホテルで、広島大学の客員研究員の楊小平さん(中国人)と待ち合わせ、楊さんの車で広島をまわる大変忙しい日でした。私の若い友人・堀池美帆さんも、同行しました。堀池さんは往復書簡でも紹介しましたが、彼女が高校一年生のとき、広島で出会い、原爆に興味を持っている近頃珍しい女子学生ということで友人となりました。彼女も来年は就職です。八六のヒロシマ旅行もこれが最後になるかもしれません。今回の広島はなるべく私と一緒にいたいというので楊さんに了解してもらい、三人の「旅」になったのです。
 そこで、楊さんですが、この人に会えたのは、驚きでした。彼、中國、四川省成都の人で来日、広島大学に留学一二年目だそうですが、日本語ペラペラ、ほとんど完璧です。
 楊さんには、七月に上京された時一度会っています。彼は、もともと文化人類学が専攻で、中國にいたころは原爆についてあまり知らなかったそうです。たまたま広島大学に留学したことで、原爆という凶悪な兵器のことを.深く知り、今は資料館のボランティアにもなっています。もちろん中国人のボランティアは彼一人というか、初めてのことでしょう。しかし、広島の人の、原爆に対する激しい怒り、廃絶への念願に反して、あの戦争に対する加害の意識の薄さ、殊に中国への侵略戦争を忘れている人もいる状況に、楊さんは、違和感をもち、私の作品を読み、ぜひ私に会いたいと言ってきたのです。広島の少年少女たちの靖国の合祀のことなど、問題にしたのは私しかいませんから。
 また、彼は「外国人被爆者」について関心を抱いていて、あなたの『天の羊』もきちんと読んでおられました。そして中国人留学生の被爆についても詳細なレポートを書いています。私は、朝鮮半島出身者、アメリカ人捕虜、ドイツ人(キリスト教関係、神父)そして南方特別留学生のことは知っていましたが、中国人のことは考えもしませんでした。台湾や旧満州から来た学生が、南方特別留学生と同じで、東京が空襲で危ないので、広島に来させられるのですね。広島に高等師範、文理大があったことが留学生の広島行きになったようです。
 現場で話すのが一番、ということで、まず、原爆ドームのすぐ南の「動員学徒慰霊碑」に行き、その傍で話しました。この碑を建てた廣島県動員学徒等犠牲者の会の人々、決して戦争が好きな人びとではありません。原爆を廃絶したい気持ちは人一倍です。それが自分の子どもの死のことになると、「お国のため」に作業して死んだのだから、「国に殉じた」のであり、靖国神社に合祀されてありがたい、となる。何十年経っても子どもの死は悲しい、忘れられないと涙する人々が、靖国神社に詣でると「神々しかったよ」と陶酔する。一瞬、悲しさがありがたいことに変るのです。靖国神社がどんな役割を果たしたか、そんなことを考えたこともないでしょう。この「信仰」はどこから来るのか。
 長い時間話し込みました。そのあと、どこへ行くかいろいろプランがあったのですが、宇品、千田公園(彼は千田さんの銅像を見て彼に興味を持ったようです)に行くことにしました。これ、簡単そうで大変でした。今、広島の市内、あちこちで右折禁止、左折禁止で、面倒です。つい目の前なのに大回りしたり。楊さんも広島市内の運転は慣れておらず、大苦労です。結局一番わかりやすい電車通りを宇品に向かいました。
 宇品港のあたり、停留所の場所も変わり、昔、父の会社のあったところなどもどこかよくわかりません。ただ、暁部隊のあったところ、凱旋館のあったところは、見当がつきました。
 今、広島の人は、宇品港に暁部隊(船舶運輸の部隊)があったことを知っている人も、宇品港が陸軍の港であったこと。陸軍の港はここと大阪の築港だけ(宇品の方が古い。日清戦争以来だから)という重要な場所だったことなど全く知りません。しかし、ここは、戦前、兵隊を朝鮮や中国に送り出す港であり、死んだ兵の遺骨が返ってくる港でした。昨年亡くなった友・戸田照枝さんは御幸通りの傍に住んでいたので、宇品港に行きかえりする兵隊の行進の軍靴の音で育った、とよく言っていました。
 私は、中山さんに教わった山頭火の宇品港を詠んだ句を披露しました。
 「いさましくも かなしくも 白い函」
 楊さんも堀池さんも白い函の意味がすぐ分かって憮然としていました。
それから御幸通りを北上するのですが.御幸通りがどこか、わかりません。多分この通りだと見当をつけ進みました。その道は、間違いなく御幸通りだったのですが、きれいなしゃれた家ばかりで見違えるようでした。宇品最北部に近いところ、通りの右手に千田公園があります。楊さん、前にこの公園と千田さんの大きな銅像を見て何だろうと思ったらしいです。私も久しぶりに千田像を見て記憶より大きくて立派なのに改めて驚きました。千田貞暁は明治期の知事、宇品の埋め立てを考えました。広大な埋め立て、当時としては超巨大な事業で、千田さんは私財を投げ出して埋め立てをしたと言います。完成した宇品、そこへ日清戦争が起こる。朝鮮半島に大量の兵隊を送らなければなりません。宇品は陸軍の港となり、明治天皇は行幸して兵を鼓舞し、広島に大本営が造られ、広島は「軍都」になったのです。
 千田貞暁(男爵)はローカルな有名人で、広島以外の人は、名前を聞いたこともないかもしれません。しかし広島の人は宇品を作り広島を発展させた千田さんのことを絶対に忘れませんでした。あの戦争中、あらゆる銅像や金属がお国のために献納させられた時、広島の人は千田さんの銅像だけは,守り抜いたのです。千田さんが造った宇品、それが陸軍の港になった、それがいいことだったかどうか。多分千田さんは瀬戸内海交通の要の港としての宇品を考えていたと思います。陸軍の港になるとは思っていなかったかもしれませんね。
 そのあと、私が住んでいた家のあとが近いので回りました。これも想定外のできごとですが、私の家のあったところは、今老人施設になり沼田鈴子さんが最期まで暮らしたことで有名です。
全日空ホテルまで取って返し、朝日新聞の宮崎園子さんに会いました。私も宮崎さんにお願いしたいことがあったのですが、宮崎さんも私と堀池さんと二人一緒の写真を撮りたかったのですって。堀池さんは明日(四日)、坂の大雨被害地にボランティアに行くことになっています。宮崎さんに坂の慰霊碑の所在地を聞くといいと思ったのです。
 私が宮崎さんに頼みたかったのは、朝日新聞が出しているタブロイド型の原爆のことを説明する新聞「知る原爆」、あちこちで原爆の学習に使われていますが、それに広島市の建物疎開作業のことが全く書かれていません。あの作業がなければ、学徒だけで六千、大人の「義勇隊」や、身内を探して広島に入った二次被爆者を足すと優に一万人の死者が減っていると思うのに、獲物疎開作業のことが一言も書いてないのはどうしたことか。広島市はどうもこの建物疎開作業のことをあまり言いたくないのではないか、それに乗るように新聞までが、警戒警報が解除されて日常が戻ったと書いているのはおかしい。一万人以上の人間が市の中心地の露天で作業しているのが日常と言えないでしょうと言いました。実はこれは宮崎さんの前任者に頼み、彼も直すと言っていたのですが、直っていないので、改めて宮崎さんにお願いしましたわけです。私はどうしてもあの「作業」に拘らざるを得ないので。
 四日は、資料館と市立図書館などに行きました。資料館は本館の改修が遅れていて、まだ東館しか見られないので、主に地下の展示室を観ました。一室で被爆体験を「伝承者」が語っていましたので覗いてみました。写真や被爆者の絵などを映像で見せながら語るのですが、少し違和感を感じました。
 この「伝承者」というのは広島の新しい試みらしく、個々の被爆者の伝承をする、まず「論文(感想文?)」を書き、その被爆者が承諾(合格点?)を出せば伝承者と認められ、その被爆者の体験を語ることができる。その被爆者が亡くなってもその体験を永久に語り継ぐことができるというわけです。なお、これには広島市の何とかいう課も関わって、伝承者を増やすことを試みているらしいのですが。なんとなく私はこうした方法に抵抗を感じるのですが。いかに勉強をしても、本人と同じ思いで語れるかしら、と思い、今まですでに行われている手記の朗読などの方が自然でいいのではないかという気もするのですが。
 この伝承者のこと、次の日もいろいろな方と話し合う機会があったのですが、私と同じ違和感を持っておられる方も多かったです。
 

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続・対話随想 №46 [核無き世界をめざして]

続・対話随想46 中山士朗から関千枝子様へ

                                作家  中山士朗

 このたびの西日本豪雨がもたらした悲惨な光景をテレビで観ながら、関さん同様に被爆直後に広島を襲った枕崎台風を思い出さずにはいられませんでした。伊勢湾台風に次ぐ猛烈な大型台風でした。このことは何時か『ヒロシマ往復書簡』で、水浸しになったバラック小屋の中で家族が必死で私を支えてくれた話を書きました。そして、間一髪、潮の流れが引き潮にかわり事なきを得ましたが、その間、全身火傷を負った私の病床を蒲団で囲って守ってくれた家族のことは、今でもはっきりと記憶に浮かびます。
災害のもっともひどかった広島では、人々は四年前の広島市安佐南区の災害を思い起したとされていることについて、関さんが被爆直後の枕崎台風について思いを新たにしていられたのは、私も同じです。
 そしてその頃、関さんが寝床の中でそっと髪の毛を引っ張ってみて、抜けないので安心されたという話は私にも同様な経験があります。私の場合は、私が寝ている間に母がそっと私の髪の毛を抜いてみたというのです。
 また、関さんの学校の一年生と二年生の半数が建物疎開作業中に急遽、東練兵場に行くように命令された際、級長どうしの話し合いで、何事も東西東西で,東が先と決まっているという理由から東組が東練兵場に行くことに決まったという話、大変興味深いものがありました。これと似た話が私にもあるのです。私たちは、通年動員で軍需工場(東洋工業、現マツダ)に通っていましたが、三学級がA班、B班に分けられて工場に配属されていました。今から思うと、敵性語とて英語の時間が無くなったのに、なぜアルファベットのローマ字が使われていたのか、理解に苦しみますが、その班別で、臨時の一日交替の建物疎開に出動していました。原爆が投下された八月六日の月曜日は、私が属するA班の日でした。ことほど左様に、人間の運命は簡単に左右されるものであることを関さんの手紙を読みながら感じたことでした。そして、七十三年経って初めて客観的に話せる時間が持てたことを実感しております、
 そのような思いにとらわれているとき、このたびの台風で被害の大きかった坂町小屋浦地区で、危機一髪、母と娘が避難して命が助かったということがテレビで報道されている場面にたまたま出会いました、その女性は、平素、祖母から枕崎台風のことを聞かされていて、その状況を察知し、いち早く近くに住む祖母のところに避難して命拾いしたのでした。その話を聞きながら、私たちと同時代に育った者に刻まれた記憶は、容易に消えるものではないと思いました。
 ただちがう思いは、枕崎台風の後は、
 国破レテ 山河アリ
という思いがしたのに対して、今回の西日本豪雨による災害は、
 国乱レテ  山河マサニ荒レナントス
というのが正直な印象です。
 話が途切れてしまいましたが、坂町小屋浦に、似島からも移送されて死亡した人たちを悼む「原爆慰霊碑」があることを知ったことも、またその記事を書いた人が朝日新聞の宮崎園子さんであったことも驚きでした。
 たまたまのご縁で知ったのですが、このところ宮崎さんの書かれる記事をしばしば耳にしております。
 ご縁と言えば、前回の手紙に書きました、「旭川原爆被爆者を偲ぶ市民の集い」の実行委員の石井ひろみさんもその一人です。
 先の手紙で、私の広島一中時代の同級生だった学友が、旭川の施設に入ったことを石井さんからの連絡で知った話を書きました。その時、名前を伏せて書きましたが、砂子賢介君のことでした。その後で石井さんからこの七月三十日に行われた「しのぶ市民の集い」の会のレポートと砂子君に関する資料を送っていただきました。お礼かたがた電話で話しておりますと、今回、私に連絡したのは、濱田平太郎さんの消息を知るためでした。送った郵便物が戻ってきたために、私のところに問い合わせがあったという次第です。石井さんの説明によると、濱田君は、たびたび北海道を訪れ、そのつど旭川にいた砂子賢介君に会っていたとのことでした。登山家でもあった濱田君は、世界各地の山岳を訪ね写真を撮っていましたので、北海道に行ったのも、そうした目的の旅だったのかもしれません。
 今回、石井さんから頂いた資料の中に、砂子君が被爆体験を語った記録がありました。その中に、夫人の絹子さんが語っておられる個所があり、砂子君の病状がそれとなく知らされていました。
 <結婚して四十年余り(昭和四十三年結婚)、定年退職した夫と過ごす時間が長くなり、数年前から、夫の被爆した事実を聞いておかなければ…・、という気がしてならなくなりました。長い教員生活の中で、時々は子どもたちにその日のことを話したりしていたようですが、私は十七年前、ご縁があって東川のお寺で体験を聞かせてくださいということで、話しを聞いたのが、最初で多分最後だと思います。今は、だんだん昔の記憶がはっきりしなくなってきて…・。もっと早く聞いておくんだったなあと残念に思っています。>
 夫人との対話の中で、砂子君は学徒動員で東洋工業に通い、旋盤工として働いていたが、一日交替で市内に戻り、鶴見橋近くで立ち退き家屋の処理をしていたこと、八月六日のあの日も鶴見橋近くの作業に出動していて被爆した話を冒頭に語り、その後の避難状況や、熱線と放射能を浴びたひどい火傷、家の下敷きになって行方不明となった祖母。母と弟、妹の三人が東練兵場に避難したことなどを説明しています。そして昭和二十二年六月に北海道の従弟が迎えに来て、美深の叔父の家に着いた時の話、一度は郵便局に就職したが復員してこない先生がいるというので、恩根内小学校の代用教員として勤めることになった経緯を語っているのです。
 この対談を企画された石井さんに,私は不躾にも「石井さんは広島、長崎いずれの地で被爆されたのでしょうか」と質問したのでした。すると、「私は戦後生まれで、まだ六十歳です」という返事がもどってきました。聞けば東京で十六年間、演劇の勉強をしておられたということでした、現在も『テアトロ』を購読していて、村井志摩子さんの逝去を知ったと語ってくれました。資料に添えられた手紙には、
<私は戦後生まれですが、ヒロシマ・ナガサキそしてフクシマの体験を、記憶しておくこと、記録しておくこと、それが大事なことだとおもいます、>
 と書いてありました。
「旭川原爆被害者を偲ぶ市民の集い」はこうした人たちによって支えられていることに深い感銘を受けました。
 このたびの集いには、広島、長崎、旭川の各市長からメッセージが寄せられ、道北で故人となられた方々の紹介がなされていました。そして、手紙の末尾には、『原爆供養塔』の筆者の堀川恵子さんに来ていただく予定になっております、と書いてありました。また、電話での話のなかで、「集う会」では、担当者を決めて、毎月一日と十五日には私たちの
『ヒロシマ往復書簡』を検索することにした、との知らせがありました。
 このようにして、私たちの仕事が伝わって行き、 ありがたいことだと思っています。
 往復書簡(第Ⅲ集)の「鶴見橋――炎の古里」で紹介しました相原由美さんが、八月十五日付の朝日新聞≪記録と記憶 消された戦争>に、七一年経て届いた父の「最期」―-冷戦下に埋もれたシベリア抑留という見出しで大きく紹介されていました。
 往復書簡では、戦友の話からシベリアに抑留されていた父親は、バイカル湖近くの収容所で、伐採作業中に倒木の下敷きになって死亡したことになっていました。二〇一六年に初めて抑留による犠牲者を追悼する会に出席した際、申請によってロシアから厚労省に引き渡された、カルテや、捕虜となった前後の状況など詳細な記述がある個人資料が得られることを相原さんは知りました。自ら厚労省に問い合わせ、資料を入手することができたのでした。送られてきたのは、「病院で死亡」という通知でした。二二枚のロシア語の文書を翻訳してもらうと、それは病院のカルテでした。それには、腰椎骨折、睡眠不足、食欲不振、不整脈、うわごとを言うなどと記されていました。
 それまで、冷たい土の上でン亡くなったと思っていた父が三四日間、手厚く看護されていたことが判り、気持ちが少し楽になった、と相原さんは語っていました。
 私は新聞を読み終えると、すぐに相原さんに電話しました。相原さんは、厚労省に自己申請した経緯を語ってくれましたが、私は聞きながら改めて戦争の記憶と記録について考えなければいけないと思いました。
終戦から七三年を経た今日、戦争、原爆を直接知る世代が減る中でどのように当時を検証し、記憶を継承すればいいのかと考えさせられます。
これも朝日新聞に掲載されていたのですが、立命館大学の福間良明教授(歴史社会学)によれば、
決まり文句のように「平和は尊いと結論付けたり、感動的に仕立てたり、メディアで繰り返されてきた予定調和的な語りでは、見えなかった「過去」や「ものの見方」もある。
戦争を「正しいもの」としてしまった社会や政治のメカニズム、誰かを悪人にして、思考停止するのではなく、どう多角的に解き明かし、現代と照らし合わせるか、わかりやすい話にはならなくても、従来と違う視点が提示されれば、意外性を感じて興味を持つ若い人が出てくると思う。
と示唆的な言葉が綴られています。

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続・対話随想 №45 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想45 関千枝子から中山士朗様へ

                      エッセイスト  関 千枝子

 このたびの手紙は少し昔のことなどを思い出して書いてみようと思っていました。というのは前回コピーをお送りした「知の木々舎」の表紙のハスの絵からの想い出。蓮の花と蓮田、私の原爆への思い、そのものだからです。 
 ところがそこへ。あの西日本大水害です。災害の酷さ。想定外だか、千年に一度だか知りませんが、ただ息を呑むだけです。特に広島県は一番被害がひどかった。多くの人は四年前の広島市安佐南区の災害を思い出したようですが、私は、あの原爆の後の枕崎台風の惨禍を思い出さすにはいられませんでした。
 あの年、八月十五日までカンカン照りだった天気は急変し。雨の多い日が続き、急に涼しくなってきました。私は十五日の夜から熱を出し寝込んでいました。それが原爆(放射能)に関係するものか、疲れから来たものか、あるいは風邪をこじらしたのか、まったくわかりません。それくらいのことで医者を呼べるわけでもなく、健在な医者がどこにいるのかも分からず、とにかくどうにもならない中で私は寝込んでいました。
 その時すでに、まったくケガのなかった人が、歯ぐきから血が出たり、髪の毛が抜けたりして死んだ、といううわさは伝わっており、私は寝床の中でそっと髪の毛を引っ張り、抜けないので安心した覚えがあります。
 八月の終わりごろ、少し良くなり熱も収まったので、起き上がっていますと、近所(と言っても歩いて七、八分かかりますが)に住む東組の級長の菅田さんが、訪ねてきました。私は彼女と玄関の外で話しました。彼女の話は、「西組は全部死んで、坂本さん一人だけが生き残っている。先生の死もあり学校は当分開かれない、家で待機しているように」というような内容でした。あの前日の五日、二年生も一年生も全部雑魚場(市役所裏)で建物疎開の後片付け作業をしていました。その日の午後どこからか命令が来て、その一年生と二年生の半分は東練兵場に行くことになったのです。二年はどちらの組が東練兵場に行くか、級長同士で話し合って決めなさいということで、西組の級長の火浦ルリ子さんと東組の菅田さんが話し合い、何でも東西東西で東が先だから東組が先に東練兵場に行きなさいと火浦さんがいって東組が東練兵場に、西組が雑魚場に残ることになったそうです。それが二つの組の生死を分けた。菅田さんもその重さがこたえているようで、すぐれない顔色でした。その時何だか寒くて、玄関の外で話したので私は震えが来て、菅田さんを帰して家に入った途端また寝床に倒れこみ、寝込んでしまいました。
 私はこの時菅田さんを家の中に入れず外で話したため寒い目に遭わせたことが大変気になっており、その時の詫びを数十年たってから言ったことがありますが菅田さんはそんなことを覚えておられず、大笑いになった覚えがあります。記憶というのは、そんなものでしょうね。
 元気になり起き上がったのは枕崎台風が通り過ぎてからで、その時広島中は水浸し、特に埋め立て地の宇品は床上浸水。我が家は前にも書いたことがありますが、アメリカ帰りの方が、全財産つぎ込んで作った理想の家。洪水のことも考え長年の資料を参考に家屋の部分は非常に高く土盛りしたので我が家は浸水しなかったのです。でも庭も道も水につかり、水道が止まって大変だというので私と姉は、張り切ってバケツを担いで翠町に行けば井戸があるというので水くみに行ったのを覚えています。
 その時、広島は、新聞はまだ来ないし、ラジオだけが情報源、それも停電になったらアウト、まったくひどい情報過疎の中で暮らしていたわけで、台風であちこちの崖が崩れひどいことだったというのは後からだんだん知ったことでした。我が家の一番の被害はツテを頼ってどこかの農家の蔵にいくつか荷物を疎開させたのですが、その蔵が大水で流されてしまい、パーになったことでしたが、そんな“損害〝は原爆で焼けず、誰も死ななかった幸運な一家では言ってはならないことで、私なども、ああそうかと思ったくらいでした。
 あの時も大変な被害だったようですが、山崩れなどの被害の多さは、山の松の木を松根油をとるため切り倒したからと言われ、私もそう思い込んでいました。四年前の水害のとき、広島の山間の土地は花崗岩で、弱いという話を聞かされびっくりしたことがあります。そんな弱い土地の川沿いを開発して…・無茶ではないかと言ったのですが。
でも今年の災害であちらでもこちらでも水道が止まり、困っている、復旧の見通しが立たないと悩んでおられる話を聞きました。これは本当に困るだろうと思います。それにつけてもあの原爆のとき、広島で水道が止まらなかったのは、すごいことだったと思います。もし、水道が止まったら…‥。宇品など水道が掘れないところです。どんなことになったか。
 浄水場の方々の苦労と努力があったように聞いています。
 枕崎台風のときも、広島の川にはたくさんの流木が流れてきたようですね。あれを拾ってバラックを建てたという話も聞いています。でも今度、大水で府中町がやられたそれも川を流木がせき止めたから、という話には驚きました。府中町など、災害に関係のない豊かなところだと思っていましたから。
 それに、坂、小屋浦という地名がよく出てくる、それも胸が痛みます。坂、小屋浦には海軍の施設があった。似島がいっぱいになると何人かの人が坂や小屋浦に移された。私のクラスでも似島から坂、小屋浦(鯛尾)に移され、亡くなった人が三人います。ここの悲しさは遺族が子どもの死に目に遭えた人がいないことです。誰も、そんな遠いところに運ばれているなど思えなかった。宇品の桟橋で似島に連れていかれたという人の中に名前を見つけ飛んで行ったが、もうすでに坂に移されていて、すでに死んだあと。遺骨もなくて(みな一緒に焼くので、遺骨があっても仕方ないということで)髪の毛が少し残されていた、という話でした。昔、坂など遠い遠いところでしたから、ね。まさかあそこに子どもが連れていかれたなど思わなかった。坂の話は辛いです。
 坂にも原爆の慰霊碑があるのだそうですね。朝日新聞の宮崎さんの記事で知りました。本当にあそこでたくさんの人が亡くなったから.。

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続・対話随想 №44 [核無き世界をめざして]

 続対話随想44  中山士朗から関千枝子様へ

                           作家  中山士朗

 このたびのお手紙を読みながら、私の身辺でも老人ホームに入った友人のこと、難聴の症状が出て意思疎通ができなくなった友人のこと、認知症になった知人のことをあらためて思い出しました。
 ごく最近も、旭川原爆被爆者をしのぶ市民の集い実行委員会の一人である石井ひろみさんから、広島一中の一年生の時同じクラスにいた友人(旭川在)が施設に入ったとの知らせをいただいたばかりです。この知らせは、「第32回旭川原爆被爆者を偲ぶ市民の会」開催通知に添えられた便せんに書かれたものでした。
 案内状には、次のように式次第が書かれていました。

 開催日   2018(平成30)年7月30日
 会場    旭川市民文化会館小ホール
 参加    無料
 日程    午後4時ロビーにて被爆資料展示
       午後6時     開場
       午後6時30分  開会
       道北の被爆者朗読
       道北の原爆死没者紹介
       「ナガサキ・語られなかった思いを紡いで」
       合唱・黙想
       午後8時30分   閉会予定
 後援   旭川市・旭川市教育委員会・北海道新聞社旭川支社
       北のまち新聞社(あさひかわ新聞)

 案内状には、昨年の三一回しのぶ会に参加したのは一四〇余名と記されていました。
 今年の7月四日付の大分合同新聞に発表された二〇一七年末の生存被爆者数は、最小一五万四千八百六十九人で、広島七万二百二十人、長崎四万四百四十九人、福岡五千八百九十二人、大分五百四十七人で、平均年齢は八二,〇六歳となっていました。この数字から判断して、北海道全体ではかなりの被爆者がいたのではないかと推察されるのです。
 こうし記事の中に、共同代表の一人であった伊藤豪彦さんの死が報じられていました。
 伊藤さんは原爆が投下された時に、兵士として救援活動に当たり被爆されたということ出した。その時に目にしたむごたらしい様子に触れ、「二度とあのようなことが繰り返されてはいけないのです」と強い口調で訴えられておられたそうです。
 私はこの個所を読みながら、被爆直後に比治山の山頂でうずくまっていた私を背負い、東側斜面の中腹にあった臨時救護所に連れて行ってくれた兵士の顔や姿を思い出さずにはいられませんでした。家族と連絡が取れるまでの六日間、その兵士は何くれとなく私の介護に当たってくれました。井戸端に私を背負って連れて行き、冷たい水で私の体を拭ってくれました、ちょうどその時、娘さんを探しに来た近所の人の姿を認めたので、兵士に頼んでその人を呼び止めてもらい、家への連絡を依頼したのです。その日の夜遅く、父が訪ねて来て、翌日の昼に,母が雇った荷馬車に乗って私を迎えに来ましたが、その時も私を背負って山の麓で待つ荷馬車まで送ってくれたのでした、私と母は、兵士の姿が見えなくなるまで、頭を下げていました。
 私のいつもの悪い癖ですが、話がすっかり横道にそれてしまいました。
 村井志摩子さんの死は新聞で知りましたが、同年代の被爆者の死去がこのところ続いておりましたので、私自身の余命に思いをはせていたところです。特に言語による表現活動を続けた人の死は、とりわけ身近に感じられ、心がえぐられる思いがするものです。
 関さんと村井志摩子さんの深い交友関係を初めて知りましたが、同時に亡くなられる数カ月前の関さんとの電話での会話の内容には、慄然とするものがありました。関さんの胸中を考えますと、どんなに辛かったことかと思わざるを得ません。
 そして、資料の保存、記憶の継承について、改めて考えておかなければならない事だと思いました。実は私も最近になって、自分の書き残した作品の全てを保管してくれる場所を探しているところです。子どもがいない私には、死後は他の書籍同様に廃棄物として処理されるだけです。現在、二、三の人に相談しておりますが、広島一中の同窓会館がいいのではないかという話も出ておりますが。いずれにしても、生涯かけて被爆体験を書き続けてきた私にとっては、生きてきた証しでもあり、亡くなった人たちの記憶を消さないためにも,何とかして後世に委ねたいのです。
 近ごろ、私は広島を旅だった日のことをしばしば思い出すようになりました。
 関さんの手紙の中にも、昭和二十年三月に村井志摩子さんの東京女子大、姉上様の広島女専入学のことが書かれていましたが、その個所を読みながら、私自身の廃墟からの旅立ちの日を思わずにはいられませんでした。駅頭に見送りに来てくれた、母の涙を思い出すたびに、年老いた現在でも涙が滲んでくるのです。
 私が早稲田大学の文学部に遊学して、文学を学びたいと言った時、父も母も反対しませんでした。二人が読書家であったせいかもしれませんが、私が将来もの書きになりたいと言った時にもあえて反対はしませんでした。ただ、「苦労が多いぞ」、と父が言っただけでした。
 被曝して顔にケロイドを大きく残した私が、社会人になった時に普通に歩める状況にないことを父も母も察知していて、私が文学の道を選んだことにあえて反対しなかったのだと思います。駅頭での母の涙は、私を不安に思う涙でした。汽車が動き始めた時、原爆症で紫色がかった母の唇が震えたのを今でも鮮明に記憶しています。この廃墟から廃墟への出発が、現在も私が書き続けられる原動力になっているのではないでしょうか。
   

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