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対話随想余滴 №11 [核無き世界をめざして]

    対話余滴11 中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 今回の国泰寺高校の同窓会にまつわるお話は、私たちの旧制広島一中同窓会の現況を思い出させるものでした。
 学制改革で昭和二三年に旧制最後の一中(この後、鯉城高校となり、関さんが一期生となられた国泰寺高校になるのですが)を卒業した私たちの同窓会は「二三会」と称し、広島在住の世良邦治君が世話役で、これまでは年一回開催の会が運営されていました。昨年を最後にその呼びかけが中止されることになりました。世良君の説明によると、年々、高齢化による疾病などで出席者が減ったためということでした。私も、折角の案内状をもらっても出席できない者の一人でした。
  したがって、昨年、世良君の提案で、広島における最後の「二三会」が開かれました。案内状を送ったのは九〇名でしたが、出席者は十五名ということでした。私達の学年は、入学時には五学級二五〇名が在籍していましたが、一学級が爆心地近くの建物疎開作業に出動していて全員被爆死しましたので、生存した生徒数は二〇〇名ですから、現存者数はその45%ということになります。
 最後ということで、校庭のユーカリの前に集合し、被爆死した学友の名前が刻まれた「追憶の碑」の前で黙祷した後、男女共学の時代ではない当時は、近くに広島第一縣女があったために禁止されていた通学路、現在は平和大通り近くに門柱のみが遺跡として残されていますが、その道筋をたどったり、私たちが建物疎開の作業で出動していて被爆した鶴見橋に立ち寄ったりしながら逍遥し、黄金山の麓にある「半兵衛」という料亭にたどり着くという趣向が凝らされたものになりました。そして、席での近況報告では、通常病気の話が多くなりがちなために、それには触れないという申し合わせで行われ、好評だったそうです。年齢を重ねた同窓会は、なにかと気を遣うことが多いようです。
 関さんにもこうした同窓会の変化がありながら、個別的な交友関係が残されていることがお手紙に記されていました。それによって、関さんのお怪我の原囚がよく分かりました。
 それにしても、この場面の描写が、実に生き生きと、かつユ-モラスに描かれていることに感心いたしました。
 そのようなことを考えながら暮らしております時、広島から一中時代の友人である定政和美君が見舞いがてら、日帰りで訪ねて来てくれました。それは、私が大腸に癌が見つかったことを電話があった時話していたので、自身も体調不良にもかかわらず見舞いに来てくれたのでした。
 定政君のことは、これまで『私の広島地図』、関さんとの共著『ヒロシマ往復書簡』の中で書いておりますので、ご承知のことと思います。
 彼は、小学校に上がる年にアメリカから帰国し、昭和一八年にー中に入学した時に私と知り合いになったのでした。三年生になった時、学徒動員先の軍需工場からの指示で、建物疎開作業の現場である鶴見橋の西側の袂(爆心地から1.5㎞)に集合していて、共に被爆し火傷を負ったのでした。
 彼の家は、現在の原爆慰霊碑に近い中島本町にありました。家業は菓子の卸、販売をしていました。原爆が投下された日、家には病身の母、その介護のために勤労奉仕を休んだ父がいましたが即死。広島女学院の大學で英文学の研究をしていた姉は、第二総軍に動員されていて、縮景園にあった通信部にいて被爆、行方不明。
 その後に海軍経理学校生徒でありた兄が戻って来て、二人は鷹匠町で暮らしていましたが、昭和二十Ξ年に兄の友人を頼って一人アメリカに帰って行きました。その別れに彼が訪ねて来た日のことは、今でも鮮明に思い出されてきます。今から七十年前の話です。
 アメリカに帰ってからは、雇われての農作業、兵役に従事するなどの苫労がありました
が、除隊後はユナイテッド・エアライン、日本航空に勤務し、日本から妻を迎えてサンフランシスコ近郊に居を構えました。そして2013年10月に最終的に広島に帰国したのでした。ひっきょう定政君は、二つの故国で生きたことになるのではないでしょうか。つまり、原爆を落した国と落された国を二往復して暮らしたことになるのです。日本の例では、広島・長崎の二つの縣で二重被爆した人の例がありますが、定政君のような経験者は他にはいないだろうと思います。
 このたび会った時に、彼がしみじみと語った言葉が、私の脳裏にこびりついています。
 それは、疎開の荷物を父とー終に己斐の親戚の家に預けに行く途中で、「一人になってはだめだぞ」と諭されたということです。そして、原爆が投下された日の朝、父が「今日は休んだらどうか」と言ったことの意味があらためて思い出されると語りました。アメリカで長く暮らしていた父親は、日本は戦争に負けると常々語っていたそうです。
 別府駅で別れる時、「元気な顔を見て安心した」と彼は言ってくれました。
 私は、「お互い、も少し生きてみよう」と言って別れました。
 それから八日後に、突然の電話で中国新聞の西本雅実氏が別府に見えたのでした。
 西本氏は定政君の取材中に私の病気のことを知り、門司に取材に来られた機会に別府に足をのばされた様子でしたが、私の無事を確かめて帰って行かれました。その際、私たちの『対話随想』が四月中旬に出ることを伝えておきました。取り上げて下さるようでした。
 できるだけ癌のことは忘れて暮らしたい、と私は願いながら生きているのですが、思うようにはいかないものです。


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