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対話随想余滴 №10 [核無き世界をめざして]

対話余滴⑩ 関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子
 
 予想もつかないことが起こりました。
 3月1日の夜、コンサートを聞きに、市ヶ谷のルーテルセンターに行きました。国泰寺高校時代の同級生水戸栄子さんのお子さんの水戸博道さんのピアノリサイタルがあったのです。水戸博道さんは明治学院大学の音楽教育学の先生ですが、ピアノの演奏会も時々されているようです。演目がとても面白かったし(私の好みに合う)、水戸さんとも不思議なつながりがありありがたく招待券を頂いたのです。
 水戸さんは有朋高校(第一県女)からいらした方で、学校のスターでした。栗村麗子さんとコンビを組み、軟式テニスをやっていたのですが、このコンビなかなか強くて、高校選手権で全国制覇、大スターだったのです。軟式庭球というと若い方はなんだそれと言われますが、当時テニスなどと言えば大金持ちのスポーツで軟式のボールでも、高くて、皆大変と言っていましたから。第二県女など、校庭は広島女専の借用だし、小さい学校で校友会費も少なく、テニス部はなかったという時代ですから。テニス部と言えば、みなのあこがれでした。
 だから、私の記憶にある多山さんと言えば、真っ黒になってテニスをしている姿でほかの想い出はあまりなくなく、卒業してからも余り縁はなかったのですが、60余年たって、お姉さまは能の金剛流の家元に嫁ぎ(お子様は今、家元)、お子様はピアノ。音楽教育の先生、であることを知り、なんと芸術にかかわりの深いお家だとびっくりしました。私は、父が能が好きでなかなか上手でしたから、結構、話は通じるのです。
 七、八年前になるかしら、広島の国泰寺高校第一期の同窓会が、実務の担い手がなくて閉会になるという時、水戸さんにお会いしました。お連れ合いが亡くなり、東京の御長男(博道さん)のおうちに居を移すということで、本家の広島が閉会になっても東京の同窓)会は続けるということが決まっていましたので、喜んで、東京の仲間に入っていただくことになりました。東京の仲間も一人減り二人減り、久しぶりの新会員でみな大喜びです。東京の同窓会は、本家の同窓会の何周年の年に、皆さん参加しませんかと、私が呼びかけたところ、皆から「広島に行くのは大変だ」「広島に行くことはあるが、同窓会の日に合わせるのは無理や。いっそ東京でやらないか」という意見続出。それで私が「ほんとに参加する?」と確かめたところみな「参加する」と言います。それじゃ、と私が行きがかり上幹事をすることになり、以来私、万年幹事なのです。
 私が東京の同窓会を始めるのに、慎重だったのは理由があります。中山さんもご存知と思いますが、1949年(昭和24)、広島県全部が学制改革で新しい高校を作ることになり大騒ぎ。特に広島市は普通科の中学、女学校が三校ずつ、そのほかに商業や工業、それが全部一緒になって、完璧に地域割り、広島市に、地域性、総合性、男女共学の六つの公立高校ができました。準備も遅れて開校式が五月、てんやわんやのスタートでした。先生たちも始めての経験で、大変、大忙し。その中で私たち3年生は自分たちの手でこの新しい高校を素晴らしい高校につくりあげようと奮闘しました。自治会に、クラブ活動に、数校のメンバーが一緒に協力したクラブもあり、寄せ合い所帯は大変うまくいったのです。そんな中で、私はどこの学校にもできる人がおリ、リーダーがおり、クラブ活動などに熱心な人がいる(中等学校に入る時、輪切りがあるのですが、勉強の点数はともかく、世の中で役に立つ人とは別物)、ということも学びました。私などあの1期の同級生、同志のような感覚で懐かしいのです。
 でも何しろ実質8カ月の付き合いです。東京在住者は数が少なく、互いに名前も覚えていない人もいる。卒業後全くあっていない人も多い。心配しながら手紙を出してみたのですが、8割以上12人だか参加がありびっくりしました。でも当時は男子ばかりでした。私以外に一人女性はいるのですが、彼女は就職したこともなく、男ばかりの中に一人いても会話もないからと言います。それでずっと男の中に女は私一人でした。
 でも、この東京同窓会の第一回をやった時、期せずして皆が原爆体験を話しだし、4時間もの集まりになったことを忘れられません。「それは、ヒバクシャ、仲間内の集まりじゃ。当たり前じゃ。どこでもそれが通用するものじゃないで」とある方に言われたことを思い出します。その方の意見ではヒバクシャでも話したがらない方が多いと。
 水戸さんが来てくださって皆、大喜びでしたが、なんと彼女、女の参加者をもう一人増やしてくださったのです。渡辺、かつての栗村麗子さんです。
 栗村さんは、国泰寺の同窓会に出たことがありませんでした。なんでも彼女のお連れ合いが、熱烈に彼女を愛し、猛烈に嫉妬し、男子のいる同窓会に出てもいけないというのですって!「だからあの人有朋の同窓会には出るけれど国泰寺には出られないのよ」というのを聞いて大笑いしたことがあります。それがお連れ合いの具合が悪くなって、施設に入られることになり、『自由もできて』国泰寺東京同窓会にでる、といわれるのです。
これは、水戸さんとの友情がずっと続いていて、水戸さんとは家族ぐるみの付き合いがあること、息子さんが、医者で茅ヶ崎に住んでおられるので出やすいことなどあります。
 これで我が同窓会、女の参加者は私一人、殺風景な同窓会から女性が半分近くいる「にぎやかな」会になったのですが、栗ちゃんの張り切りようと言ったら。広島のお菓子『紅葉饅頭』やら何やら段ボール箱いくつかを宅急便で送りつけ、みなびっくり。「うちは、主人に尽くせるだけ尽くしたけん」今度は少し自分が遊ぶぞ、といった口ぶりでした。
 ともかく私が感心したのは水戸さんとの友情が、70年も続いていることです。幾ら高校時代のペアと言いながら凄いですね。昔、私がいくつか聞いた女性を蔑視する言葉がありますが、その一つが「女には友情はない」でした。
 こんなに驚いた言葉はありません。誰だって仲のいい友はいると思うのに、その方の言うには、女学校時代どんなに仲が良くても、結婚すると環境が変わる、環境があまり変わると話があわなくなったり、また互いに交際しづらくなるというのです。つまり女は結婚相手次第ということなのですね。私はその話に反発しましたが、反論しようにもデータがありません。五十年ののち。新しい友・運動する女友達はずいぶん増えましたし、少女時代に別れた友とも歳月を経て今同じことを思っていることが判り、大の親友になっている人もいます。要するにものの考え方が問題。環境でなく互いの心の問題だとはっきり分かります。言い換えれば、それだけ昔の女は、心の付き合いをする、あるいは社会的なことを話す機会に恵まれなかったというか。
 ともかく、栗ちゃんと、たーこのむかしながらの親友ぶりは「美談」でもあります。
 まあ、こうして高校時代の物語は楽しいのですが、その水戸さん(多山さん)から昨年手紙がきがまして、私はすぐ行くと返事を出しました。息子の博道さんは明治学院大学の音楽教育の先生ですが、一方、コンサートピアニストでもあるようです。しかし、東京でのコンサートは始めてのようですし何とか成功させたいというお気持ちもくみ取れるので、遠慮なく招待券を頂くことにしました。
 とてもポピュラーな選曲なのですがちょっと変わっていて面白いと思ったのです。まず始めはべートーベンが二つ並ぶのですが、最初は「イギリス国歌による八つの変奏曲」、イギリス国歌など誰でも知っていますが、なぜこれがオープニングなのか。その次は月光奏鳴曲これもポピュラーな曲ですが、なぜこれをここに据えたのかちょっとわかりかねましたが、非常に熱情的な演奏でした。次にラベルが入って、ここで休憩。この後ショパンのスケルツオなのですが、ここで失態、観客席からホール真ん中の通路に出るところで転んでしまったのです。私、杖を使いだして、もう20年になりますが、転倒はなく、私の杖を嗤う仲間のことを嗤っていました、杖がみっともなくても転ぶよりいいと威張っていました。この、ときも急激な転倒にまずいと思ったのですが、その瞬間あまり痛さはなくて、大したことでなくてよかったと思ったぐらいです。驚いた人々がかけよってきて、立ち上がろうとしたのですが、まったく立ち上がれないのです。多くの人々の助けで、ロビーに出て、椅子に座り、ちょっと落ち着いたところで、と思ったのですが、体が動かないのです。そこに水戸さんの友達で介護士の方が来ておられて私の体を動かしてみて、「これは大変」と直ぐてきぱきと救急の方に連絡してくださいました。担架に載せられるまでの痛かったこと。私もやっとけがの酷さが分かりました。近いところということでしょうか東京新宿メディカルセンターに運び込まれ、しばらくしてそこが昔の厚生年金病院だと気づきました。私・むかし、ひじの痛みがあって一度行ったことがあるのですね。記録が残っていて「昔横浜にいた方ですね」といわれてびくうりしました。
 たくさんの検査をされ、夜中のことでなかなか連絡が付かず、困りました。病院というのはいまだに家族の連隊責任とかめんどうなのですね。

 とにかく今日はここまで。後いろいろあるのですが、続きで書くことにします


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