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対話随想余滴 №2 [核無き世界をめざして]

  対話随想余滴 ② 中山士朗から関千枝子様へ

                            作家  中山士朗

 お手紙の始めに、<書き残したことを書きたいと「余滴」と名付けたのですが、どうも昨今の状況、日本だけでなく世界が「右寄り」になっているようで、余滴どころではない、怒りの炎になるかもしれません>とありました。私もそのような思いも致しておりますが「水の一滴、岩をも穿つ」と言いますから、「余滴」でもよいのではないかと考えたりしています。
 それにしても、米国トランプ大統領の「アメリカ第一主義」は、第三次世界大戦の勃発を予感させてならないのです。第二次世界大戦の始まる動機となった日本に対する経済封鎖、ABCD包囲網、現代における北朝鮮、イランに対する経済封鎖、ひいては米中貿易摩擦には、不吉な予感を抱かずにはいられません。
 話が後先になりますが、偶然とは言え、同じ発言に出くわしたことについて書いてみたいと思いました。
 私たちの「続対話随想』の№44(2018年7月)で、資料の保存について、「実は私も最近になって、自分の書き残した作品の全てを保管してくれるところを探しているところです。子どもがいない私には。死後は他の書籍同様に廃棄物として処理されるだけです。現在、二、三人の人に相談しておりますが、母校である広島一中の同窓会の会館がいいのではないかという話も出ておりますが、いずれにしても生涯かけて被爆体験を書き続けてきた私にとっては生きた証でもあり、亡くなった人たちの記憶を消さないためにも、何とかして後世に委ねたいのです」と書いています。そして関さんには、種々お骨折りいただいた経緯がありますが、その時、私がその動機について述べたのと同様な言葉を、作家の村上春樹さんが記者会見で説明されている記事が十一月四日の朝日新聞に掲載されていて、不思議な思いにとらわれたのでした。
 村上さんは、このたび母校である早稲田大学に原稿や自身の蔵書、世界各国で翻訳された著作や膨大なレコードコレクションなどの資料を寄贈することを発表されましたが、その理由として「子どもがいないので、僕がいなくなった後、資料が散逸すると困る」と説明されていました。村上さんは、現在六十九歳の若さですが、子どもがいない人の思いは、残した仕事への深い愛着がこめられていることをあらためて知った次第です。
 大学は資料を活用し、村上さんの名前を冠した研究センターの設置を検討していますが、来年度から資料の受け入れを始め、施設の整備を順次進め、蔵書やレコードが並ぶ書斎のようなスペースも設置する計画だと発表しています。
 この記事を読みながら、いつか『ヒロシマ往復書簡』の中で、関さんが村井志摩子さんの没後の資料について書いておられたことを思い出しておりました。広島にも原爆に関する文学や芸能の資料センターのような施設ができないものかと思っております・
 話が前後してしまいましたが、竹内良男さんの「ヒロシマ連続講座」六十回目の「被爆者に寄り添っての暮らし――被爆証言に向き合う」というテーマでの居森公照さんの証言を読み、深い感動を覚えました。そして、居森さんの亡くなられた妻、清子さんが、爆心地から410メートルという至近距離にあった本川国民学校(当時)で被爆され、二〇一六年に亡くなられたことを初めて知りました。ずっと以前、本川国民学校で被爆された方がご存命だということは聞いたことはありましたが、現実にその生涯を知ったのは初めてです。その苦難に満ちた人の日常を支え、寄り添ったご主人の証言には胸衝かれるものがありました。
 清子さんは、原爆で家族全員を奪われ、自身は、膵臓、甲状腺、大腸癌、多発性髄膜種を患い、夫に支えられ、奇跡の生存者として六十歳くらいから体験を証言し続けたと手紙にはありました。今は、夫の公照さんが亡き妻のことを語り続けておられるそうですが、関さんの言われるように、妻に寄り添い続けた一生は、もはや被爆の継承者というよりヒバクシャそのものかもしれません。
 生涯を放射能障害で苦しんだ清子さんのことを手紙で読んでいる時、私は、爆心地から七〇〇メートル離れた広島一中で、倒壊した校舎から脱出することができた生徒の一人が、その後、多発性癌に侵され、九回も手術したという話を思い出さずにはいられませんでした。
 私は昨年、大腸がんが発見され、そのことによって六年前に否認された原爆症の認定を受けることができました。爆心地から一・五キロメートル離れた地点で被爆し、顔に広範囲の火傷を負いましたが、後遺症のケロイドに悩み、自殺を考えながら暮らした少年から青年期にさしかかった頃のことが痛切に思い出されるのでした。ましてや、多臓器癌に侵された人たちの苦悩は、到底はかり知ることはできないと思いました。
 このたびのお手紙の中でさらに驚いたのは、広島大学の湯崎稔先生の名前が出ていることでした。私は、湯崎先生とは、京都・比叡山麓の一条寺の里仁ある円光寺でお会いしたことがあるのです。
 このお寺には、昭和一八年に来日して広島文理科大学に留学した南方特別留学生、マレーシア出身のサイド・オマールの墓地があるのです。原爆が投下された日、爆心地からほど近い大学の寮にいて被爆し、昭和二十年八月三十日、東京の国際学友会に引き上げる途中で、病状が悪化したために、京都駅で途中下車して、京都大学付属病院に入院しましたが、九月三日に死亡しました。享年十九歳でした。遺体は市の民生局に引き取られ、大日山の共同墓地に埋葬されたのでした。後に、園部健吉氏に引き継がれて回教様式の墓が円光寺に完成したのでした。その墓の前面の碑には。

    オマール君
 君はマレー半島からはるばる
 日本の広島に勉強しに
 来てくれた
  それなのに君を迎えた
  のは原爆だった  嗚呼
  実に実に残念である
  君は君を忘れない
  日本人のあることを
  記憶していただきたい
        武者小路実篤
 
  と刻まれていました。
 私が湯崎稔先生と初めて会ったのは、園部健吉氏からオマール忌の案内状を頂き、その法要に参列した折のことでした。湯崎先生は、学長に付き添って見えておられたのです。
 
  母をとおくにはなれてあれば、
    南に流るる星のかなしけり
 
 オマールの遺詠です。
 

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