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シニア熱血宣言 №109 [雑木林の四季]

新・元号に向けて
                           映像作家  石神 淳

  平成三十年十一月の或る日。福島県南会津町の水引集落の茅葺き集落は、茅葺き屋根のふき替えに備え、刈り取った茅で取り囲まれていた。

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 新しい元号に茅葺きの集落。其処に佇むと、なぜか奇妙に清々しい気分になった。明治の火災で集落の全戸が消失し、それ以来、「火の用心」の心がけを頑なに徹底し、さながらタイムスリップした如き、山神さま敬い、(農村の伝統)を守り続ながら暮らし続けている。都会には都会、そして水引には水引の暮らしが、距離感そのままに活きずいている。
 その水引集落には、『離騒館』と呼ばれる民宿があるにはあるが、人生の修行の場と考えた方がよいかも知れない。 しかし、春は山菜、そして渓流の岩魚や山女、集落の畑で採れた新鮮な野菜にふれると、都会での暮らしは、いったい何なのか、時代錯誤の暮らしとは言えない何かが、あなたの心に、芽生え始めることだろう。
 冬場は豪雪地帯だから、行き着くのに容易ではないが、年に一度は訪れ、静かに反省の時を過ごしている。
 思えば、『平成』と呼ばれた時代は、人の心が離散し人情が消え、心が破綻し、追い詰められた時代でもあった。
 都会に人が集中し、全国各地の過疎地に「限界集落」が生まれ、住処を失った高齢者が放浪しはじめた。
 最も悲しむべきは、親子の絆が希薄になり、茫漠たる都会の砂漠の中で、「自分だけよければ・・・」と親を排除してまでも、自分の生活圏を死守する姿が哀れとも写る。
 特別養老人ホームにも入居させて貰えず、介護付老人ホームに入る資力もない。途方に暮れる老人たちを見捨て、高級マンション・高級ホテルが林立、何のために。
 老後の僅かな年金は、介護保険や何やかやと、チビリチビリ毟りとられ、「悪いやつほどよく眠る」。いったいどうなっているんだこの國は・・・・・。
 政治の売り言葉だった「福祉」はどこ吹く風で、日々に憤懣やるかたなし。その上、百歳までの人生設計なぞ、非現実的だ。その馬鹿さ加減に、怒れ老人諸君。俺だって齢八十三の老人だが、憤る場は今や選挙ぐらいしかない。
 この年になって、立派な屋敷に住みたいとも思わないし、贅沢な食生活をしたいとも思わない。
 しかし、脳梗塞で倒れると、命長らえても認知症を発症する危険性が高いとも聴く。不幸なことに、ご本人の意志確認が出来なくなり、延命治療を余儀なくされる。
 そのような事態になると、ほんとうに不幸きわまりない。
 現在は自分の意志が伝えられない、寝たきり老人が病院のベッドで、明日への希望も虚しく、ただ生きているのみ。意志表示が出来ない老人も不幸だが、付き添う親戚縁者もまことに気の毒だ。
 一昔前、尊厳死のあり方が、マスコミの話題になったが、難しいテーマには、誰も触りたくない。
 昨今では、「死」への導き方への概念も変わってきた。
 いざ事態に直面すると、うろたえざるを得ないと思うのだが、終末期医療の決断は、動転せず、己の生き方を明確に世間に伝えるのが、最善の策であろう。
 いざとなると、即、救急車に119番で依頼するのが常套手段だったが、「延命治療を受けるか否や」を自分で明確にしておく必要がある。
 その為には、いざと言う時、いちばんに頼れる、高齢者対応の訪問医師を決めて置くことが、日常的に肝要だ。
 慌てて、救急車で病院に担ぎ込まれでもすると、そのまま延命治療に繋がりかねない。
 ここら辺りの判断は、微妙なところを含むが、難しいだけに、「延命治療」を否定する、当事者の判断が必要だ。
  新しい元号を前に恐縮だが、すっきりとした気持ちで新年と新・元号を迎えたい。
 人口の都市への集中化現象、格差社会は心の貧困が加速させる。
 増加する認知症問題を、社会の裏側に積み残してはならない。これからは、ますます住み難い社会がやってくる。
 ゆたかな暮らしって、いったいなんなのだろう。そして、人間の絆、そして親子の絆って何だろう。
 来年は、新・元号が迎える。人の心の絆と温かさをを、新・元号の社会に迎え入れてもらいたい。

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