SSブログ

対話随想・余滴 №1 [核無き世界をめざして]

   対話随想余滴① 関千枝子から中山士朗様へ

                      エッセイスト  関 千枝子

 「対話随想・余滴」を始めさせていただきます。「続対話随想」が50回で終わり、一冊の本にまとめることができました(本になるのは来年になるかもしれませんが)。
 ヒバクシャ物書きの端くれとして死ぬまで原爆のことは書き続けたいので、書き残したことを書きたいと、「余滴」と名付けたのですが、どうも昨今の状況、日本だけでなく世界が「右寄り」になっているようで、余滴どころではない、怒りの炎になるかもしれません。
 核兵器禁止条約の署名など、考えもしない、忘れてしまったような安倍さん、憲法改悪にはますます熱心なようです。日本ばかりではありません。トランプさんのやり方は、核軍縮どころか、新たな核兵器の開発であり、中国との貿易戦争とも合わせ、まるで、新たな冷戦というか、戦争前夜を思わせます。トランプ氏のやり方には、さまざまな国々から批判が出ているようですが、ブラジルの新大統領に南米のトランプ・ボルソナーロ氏が当選するし、「批判派」の代表のように言われるドイツのメルケル首相の政党が選挙で支持率を落とし、メルケルさんも21年には引退など聞くと、とても不安に思えます。メルケルさんがここへ来て人気が急落したのは難民へ寛容な政策をとっているからですが、ヨーロッパの国々では、難民に対し、厳しく対応する国々が増え、EUの行き方へも批判厳しいといいます。
 まことに、難民の問題は大問題で、あれ程多くの人たちが流れ込むと、これはたまらんということになります。ヨーロッパでも貧しい国々は、難民のために、決して金持ちでない自分の国がなぜ人を助けなければならなにのだ、ということになり、独り勝ちのドイツへの反発になり、経済安定のドイツでもいくら何でも、もう満杯だ、という声が起こるのも無理もない面もあります。
 難しいことですが、でも「自分の国ファースト」は、独りよがりのナショナリズムになり怖いのですが。貧困層の人びとがこうした考えになびきがちなのも、恐ろしいことです。
 私は、私たちの生まれたころ、(1930年頃)、不況(大恐慌)、そして不作、飢饉の日本で、「生命線」と言われた満州に「希望を見出した」人々と、それからの恐ろしさを思い出さざるを得ないのです。

 まあ、こんなことを考えているだけでなくて毎日いろいろ忙しいのですが(楽しい催しもあります。演劇や、能狂言も楽しんでいます)、「核なき世界」のコーナーなので、先日,行われた竹内良男さんの『ヒロシマ連続講座」の話からいたしましょう。この講座のことは前にも伝えましたが、はじめ月一回くらいでやっていたのが今は月二回三回やることもあり、先日私が参加しました十月二〇日の会は六〇回目でした。六〇回という数にも.驚きますが、とにかく毎回二〇人から三〇人くらいの方が参加、テーマも原爆から,広く戦争、平和へと広がっていて、リピーターも多いのですが、毎回新しい方も来ます。この日は久し振りに、広島原爆そのもの、「被爆者に寄り添っての暮らし―被爆証言に向き合う」でした。「寄り添う」など言うと、何だか、天皇、皇后の「公務」のようで嫌ですが、今日話された居森公照さんは、まさにヒバクシャに、いえ、反原爆に、「寄り添った」方でした。
 居森さんの妻清子さん(2016年没)は、なんと爆心地から410メートル、本川国民学校の生き残りです。多分、原爆に一番近いところで被爆した方です。本川国民学校に生き残りがいるということは私も前から聞いて知っていました。しかしこの方が一九六二年ごろから横浜に来て暮らし結婚し、ずっと横浜暮らしだったなど全く知りませんでした。私も横浜に住んだこと長いです。間にアメリカに住んでいたこともありましたが三十年余横浜で暮らしました。でも、居森清子さんが横浜に住んでおられることなど全く知りませんでした。このことだけで胸を締め付けられるような思いとなり、原爆については、いろいろ知っているつもりでも知らなかったことが無数にあるのではないかと、反省もし、胸も痛みました。
 居森清子さん自身が書かれた証言記録によると、清子さんは当時本川国民学校六年生、同級生の多くは学童疎開に行っていましたが、彼女は、お父さんが死ぬときは家族いっしょがいいと言われたので、集団疎開に参加しなかったそうです。
 あの日、学校につき靴脱ぎ場で上履きに履き替えようとした時、あたりが真っ暗になった、彼女はピカの光も見ず、音も聞こえなかったと言います。本川国民学校は広島では当時珍しい鉄筋の建物で、コンクリートの壁の陰になって火傷もしなかったようです。真っ暗な中、周りが少し見えるようになったので運動場に出た、その時ものすごい熱さを感じたと書いておられます。校舎の全ての窓から炎が出燃え上がり、二人の先生が校舎から出てきて、川に逃げようと、校舎のすぐ裏の元安川に向かった。体全部が黒焦げになった友を助けて川に入った。暑さから逃れるため水をかぶり続け、火が少し収まるのを待って校庭に這い上がったがその時黒い雨が降ってきた。家のことも何も考えられず、ただふらふら歩いていたそうです。そこで救援のトラックに助けられ、町内ごとに決められていた避難先の田舎に行来ましたが、そこで一週間何も食べられず寝ていたそうです。父母や弟がどうなったか全くわからず、呉のおばさんに引き取られましたが。髪の毛は全部抜け、放射能障害に悩まされ、食糧難で、ひもじく、辛い毎日でした。いつも両親のことを思い、涙を流していたとかいてあります。
 どうやら中学を卒業、美容院で住み込みで働くようになりましたが、体がだるくて起きていることもできない日が続いたそうです。一九六二年ごろ新しい生活を求めて横浜に出、いろいろ仕事をしましたが、その時今の夫のお母さんに会い、優しく助けてもらった。そして、被爆者であることを承知のうえで、夫は結婚してくれました。
 居森公照さんのお話では、その頃原爆症のことが大分言われるようになっていたが、自分も清子さんが好きで、結婚されたそうです。
 横浜市鶴見区生麦の会社の社宅に住んでいた一九七二年頃、広島大学で原爆の調査をしていた湯崎稔先生がたずねてこられて、本川国民学校のその後のことも教えてもらいました。清子さんの両親も被爆直後郊外の寺に運ばれなくなり、弟は母の目の前で焼け死んだということも、その時湯崎先生に教えてもらい知ったそうです。
 その後膵臓、甲状腺、大腸癌、多発性髄膜種と病気続きでしたが、夫に支えられ、奇跡の生存者として六〇歳くらいから体験を証言し続けました。今は夫の公輝さんが亡き妻のことを語り続けておられます。清子さんは二度流産し、お子様はないそうです。「亡き妻の思いを大勢の人に伝え、戦争はしてはいけないということ、;核兵器の恐ろしさを伝えたい」。
と、公照さんは言われます。妻に寄り添い続けた一生、もはや被爆の継承者というよりヒバクシャそのものかもしれません。
 しかし、清子さんは、まだまだ言えない思いがあったのではないか。呉のおばさんの所でひもじかったと書いていますが、それ以上に辛かったかもしれませんね。呉のおばさんの家族構成もわかりませんが、その方も小さい子どもさんがあったら。あの時代、自分の一家だけでも暮らしにくい時代です、親類の子を育てるのは苦痛ではなかったか。
原爆だけでなくほかの空襲でも、たくさんの孤児を生み出しました、公的な施設ではとても間に合わない。この国の政府は、その世話を「親類」に押し付けた。そんな戦争孤児の中で今でもそのころのことを言えない、書けない人が多くいます。預かった方も大変だったのですから。とにかく育ててくれた人を悪く言えませんからね。
清子さんの詳しい事情全く知らないのに勝手な事書いてしまいました。
 しかし、清子さんは素晴らしい夫にめぐり合い、寄り添ってもらい、生きた。それは本当に幸せでしたね、と言いたいです。 でも、家族全部を奪われ、自分も放射能障害で、一生苦しみ、原爆さえなかったら、と思い続けられたでしょう。本当に、世界から核核兵器を廃絶し、恒久の平和の日を、と思わざるを得ません。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。