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対話随想余滴 №3 [核無き世界をめざして]

   対話随想 余滴③関千枝子から中山士朗様

                      エッセイスト  関 千枝子

 “暑い夏”、“温かい秋も、ここへ来て少し涼しくなり活気づいてみれば師走です。
 あれから色々ありました。行事も多く、何やかやとせわしく、折角始めた「終活作業」も少しも進まず、再来年の予定も入って、あと二年くらい死ねないぞ、など思っています。
 参加した行事も、偲ぶ会あり、出版記念会あり、さまざまですが、私たちの同世代、とにかく戦争の痛みが心に残っていて、傷ともなり、あるいは出発点でもあり、あの15年戦争の意味を、もう一度考えたりしました。
 その中で十一月十七日に行われた加納実紀代さん(歴史研究者、彼女の肩書は色々上げられますが、この言い方が一番ふさわしいと私は思います)の出版記念会。彼女は戦争中、女も戦争を担ったことを最初に言いだし、グループを作り、研究誌(銃後史ノート)を出し続け、大学の先生になります。私は彼女の仕事を取材し続け四〇年近くになります。彼女はその名前が示すように紀元二六〇〇年の生まれ、私よりずっと若い彼女が、肺気腫で体が悪いことをきき、心配していました。このたび一冊新刊を出され、出版記念会と聞き、彼女の最後の本での別れの会と思い込み、出かけたのですが、彼女想像していたより、元気で、声もよく出、新しい本の企画なども言われ、少し安心しました。
今度の新刊の本のタイトルは『「銃後史」を歩く』です。銃後史の研究のことが中心なのですが、冒頭がヒロシマでの被爆の体験談なのです。やはり彼女の人生、そして生き方の始まりが広島原爆だったのだな、と思いました。
彼女は三歳の時、二葉の里で被爆しています。屋外で遊んでいて被爆。でも、運よく日陰で火傷はしなかったのですが、彼女はピカを鮮明に覚えています。近所の少女が疎開作業に行って傷つき、ジャガイモのように皮膚が剥けているのをはっきり記憶しています。
 でも、私が、この話を聞いたのは彼女と知り合ってから大分後で、私が被爆者と彼女が知ってからも、なかなか自分のことは言ってくれなかった。しかし彼女の被爆の思いは深く、放射能への恐れも持っています。何しろ爆心から2キロ、そして屋外ですから。複雑な気持ち、よくわかります。
 とにかく彼女の研究に、紀元二千六百年と原爆が深く関係していたことは間違いありま)複雑な気持ちよくわかります。せん、そして、彼女は,女たちの被害と加害(それまで誰も言わなかった)に目を向けて行った。これは、私の思いとも重なり、私が「銃後史ノート」の取材に夢中になり、多くのことを教わるのですが。
 
 加納さんの会の前、十一月十一日は大阪に劇団大阪のお芝居を見に行きました。この会の前代表・熊本一さんとは深いおつきあいで、いつも公演のプログラムを送っていただいているのですが、なかなか大阪に行けずにいたところ、今回は井上光晴さんの原作の「明日」だというので急に行く気になったのです。
 井上さんの「明日」、素晴らしい作品だと思います。一九四五年八月八日の長﨑。その日に結婚式を挙げる人。お産をした人。牢屋にいる夫に会いに行く人…様々な人が暮らし、その日を送っています。この人々が明日(八月九日長崎原爆の日)どうなるかわからない、明日をそんな日と想像する人もいない。”明日“どうなったか何も書いていませんが、この人々の暮らしているところから無事であったとは思えないのですが。
劇団大阪も「明日」は二〇年ぶりの上演、二〇年前の脚本で演ずるそうです。
 私、井上さんには「恩義」がありまして。これも三十余年前のことです。井上さんが個人誌「辺境」の第二次を出すという話を新聞で読み、思い切って手紙を出してみました。”辺境”の中でも最も崖淵のところにいるのが母子家庭、その貧困の現実を書きたいと書いたのです、すぐ井上さんから電話がかかってきました。「書きなさい、すぐ!」と言われるのです。私がくどくどと、自分は『広島第二県女二年西組』という本を出していて、などいうと、「わかっている、もう読んだ」と言われるのです。そして「一〇〇枚書きなさい!」
 驚きました。雑誌に書く文章など大体二〇枚か三〇枚です。え、と驚く私に「ちまちましたことを考えるな、一〇〇枚書きなさい!」。結局、七〇枚ずつ三回書かせてもらい、これがもとになり『この国は恐ろしい国』(農文協)という一冊になりました。
 
 劇団大阪の本拠・谷町劇場は、谷町六丁目、ビルの一角にある稽古用舞台といった小さな劇場です。芝居だけでは到底採算がとれないこうした劇団がともかくやっていられるのは、この劇場を持っているからと言います。谷町は昔、中小の町工場が立ち並んでいたところで、それが再開発され今の街になったそうで、工場は今一軒もありませんが、下町風庶民的です。地下鉄の駅から劇場まで歩く道すがら空堀という通りがありますが、そこに、「ハイカラ通り」という看板が掛けてあります。なるほど。しゃれた感覚。いいね!。
劇場に着くと、小さな劇場ですがほぼ満員です、この日だけでも二回、全部で六回も
公演するのに立派なものです。
皆さん、とにかく熱演で、感動しました。服装も戦争中らしいもので、苦労があったろうと思いました、男の人にもちゃんとゲートルを穿かせていましたが、(今の人ゲートルと言ってもわからず、テレビのドラマでも戦中なのにしゃんとした背広、ネクタイなどして笑ってしまうことがあります)、ゲートルには困ったのでしょう、手作りでしたが、ゲートルらしからぬ布地で、これはどうしようもありませんかね。「明日」が原爆と一言も言わない舞台、見る人がピンと来るかしらと心配になりました。おそらく二〇年前初演の時は、大半の人がピンと来ていたのでしょうが。
 
 熊本さんには私個人的にも大変お世話になっています。最初の出会いは三十年前でした。私の『広島第二県女二年西組』を、関西芸術座というところでドラマ化してくださいまして、熊本さんは企画で演出もされたと記憶しています。脚本は関西演劇界の大御所で、うまい台本で皆さん満足だったと思いますが、原作者としては少し違和感があったのです。そして大変不躾だと思いましたが、もし私が書いたらという台本を熊本さんにお渡ししたのです。それから四半世紀、そんなこともすっかり忘れていた私に、熊本さんから、今こそあの台本を生かしてみようと連絡がありました。二〇一五年のことです。手書きでくしゃくしゃ書いた台本を、熊本さんは捨てずにとっておいてくださった、そして原爆で死んだ少年少女たちの靖国神社合祀の問題も今こそ、世に問うべきだと言ってくださったのです。そしてその台本を全日本リアリズム演劇会議の機関誌「演劇会議」に載せてくださり、ご自分が指導しておられるシニア劇団(現役退職の人びとのための演劇講座を修了した人たちの劇団)で上演すると言ってくださいました。シニア劇団は大阪、奈良で講演し、このドラマを引っ提げ、シニア劇団の全国大会にも出場。雑誌を見て上演してくださったところもあり、被爆の事実を訴えた朗読劇の輪が少しずつ広まっているのです。熊本さんには改めてお礼を言いたいと思ったのです。
 熊本さんも私を歓迎してくださり舞台終了後、劇団の方々と会食の場を設けてくださいました。そこで、シニア劇団の方々が夏に京都の教会で「第二県女…」を演じてくださったこと、皆様とても喜んで素晴らしい感想が来ていることなど、伺いました。そして驚いたことに、シニア劇団の方々、全国どこへでも出張公演しますよと『広島第二県女二年西組』を宣伝してくださっているのだそうです。そして、明後年、ちょうどオリンピックのとき、東京で第二回のシニア劇団全国大会があるのだそうですが、これに「第二県女」を出したいと言われるのです。私は驚き喜び、「それまで頑張って生きています!」と言ってしまいました。
 この後、奈良に行き例の「原爆地獄」の本を出された河勝さんに逢いました。(と、偉そうなこと言いますが、初めて同然の土地、熊本さんに連れて行っていただきやっと行けたのですが)。
 河勝さん、八九歳。ますますお元気です、被爆の証言をした中学時代からの親友岡田悌次さん、同じく学友の栄久庵憲司さんもなくなり、もうお金の面でヘルプしてくれる人が亡くなり、本を出すのは無理、それで電子本を作るのだそうです。今までの「原爆地獄」の本の集大成。英語版。アマゾンなどにも出し、世界中で読んでもらえると気宇壮大な話です。
 そんな活動の一方、長唄、謡、詩吟、書道、絵を習い、長唄は名取り。皆半プロの腕前、絵は今書いておられるのを見ましたが、大きなキャンバスに被爆死した人々のことを少しシンボリックな筆使いで書いておられます。とにかくお元気な事驚いてしまいました。
本当にすごい人です。私も体が弱っただの、原稿を書くのが遅くなっただの言ってはおられません。二〇二〇年まで頑張らなければと思いました。


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