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続・対話随想 №44 [核無き世界をめざして]

 続対話随想44  中山士朗から関千枝子様へ

                           作家  中山士朗

 このたびのお手紙を読みながら、私の身辺でも老人ホームに入った友人のこと、難聴の症状が出て意思疎通ができなくなった友人のこと、認知症になった知人のことをあらためて思い出しました。
 ごく最近も、旭川原爆被爆者をしのぶ市民の集い実行委員会の一人である石井ひろみさんから、広島一中の一年生の時同じクラスにいた友人(旭川在)が施設に入ったとの知らせをいただいたばかりです。この知らせは、「第32回旭川原爆被爆者を偲ぶ市民の会」開催通知に添えられた便せんに書かれたものでした。
 案内状には、次のように式次第が書かれていました。

 開催日   2018(平成30)年7月30日
 会場    旭川市民文化会館小ホール
 参加    無料
 日程    午後4時ロビーにて被爆資料展示
       午後6時     開場
       午後6時30分  開会
       道北の被爆者朗読
       道北の原爆死没者紹介
       「ナガサキ・語られなかった思いを紡いで」
       合唱・黙想
       午後8時30分   閉会予定
 後援   旭川市・旭川市教育委員会・北海道新聞社旭川支社
       北のまち新聞社(あさひかわ新聞)

 案内状には、昨年の三一回しのぶ会に参加したのは一四〇余名と記されていました。
 今年の7月四日付の大分合同新聞に発表された二〇一七年末の生存被爆者数は、最小一五万四千八百六十九人で、広島七万二百二十人、長崎四万四百四十九人、福岡五千八百九十二人、大分五百四十七人で、平均年齢は八二,〇六歳となっていました。この数字から判断して、北海道全体ではかなりの被爆者がいたのではないかと推察されるのです。
 こうし記事の中に、共同代表の一人であった伊藤豪彦さんの死が報じられていました。
 伊藤さんは原爆が投下された時に、兵士として救援活動に当たり被爆されたということ出した。その時に目にしたむごたらしい様子に触れ、「二度とあのようなことが繰り返されてはいけないのです」と強い口調で訴えられておられたそうです。
 私はこの個所を読みながら、被爆直後に比治山の山頂でうずくまっていた私を背負い、東側斜面の中腹にあった臨時救護所に連れて行ってくれた兵士の顔や姿を思い出さずにはいられませんでした。家族と連絡が取れるまでの六日間、その兵士は何くれとなく私の介護に当たってくれました。井戸端に私を背負って連れて行き、冷たい水で私の体を拭ってくれました、ちょうどその時、娘さんを探しに来た近所の人の姿を認めたので、兵士に頼んでその人を呼び止めてもらい、家への連絡を依頼したのです。その日の夜遅く、父が訪ねて来て、翌日の昼に,母が雇った荷馬車に乗って私を迎えに来ましたが、その時も私を背負って山の麓で待つ荷馬車まで送ってくれたのでした、私と母は、兵士の姿が見えなくなるまで、頭を下げていました。
 私のいつもの悪い癖ですが、話がすっかり横道にそれてしまいました。
 村井志摩子さんの死は新聞で知りましたが、同年代の被爆者の死去がこのところ続いておりましたので、私自身の余命に思いをはせていたところです。特に言語による表現活動を続けた人の死は、とりわけ身近に感じられ、心がえぐられる思いがするものです。
 関さんと村井志摩子さんの深い交友関係を初めて知りましたが、同時に亡くなられる数カ月前の関さんとの電話での会話の内容には、慄然とするものがありました。関さんの胸中を考えますと、どんなに辛かったことかと思わざるを得ません。
 そして、資料の保存、記憶の継承について、改めて考えておかなければならない事だと思いました。実は私も最近になって、自分の書き残した作品の全てを保管してくれる場所を探しているところです。子どもがいない私には、死後は他の書籍同様に廃棄物として処理されるだけです。現在、二、三の人に相談しておりますが、広島一中の同窓会館がいいのではないかという話も出ておりますが。いずれにしても、生涯かけて被爆体験を書き続けてきた私にとっては、生きてきた証しでもあり、亡くなった人たちの記憶を消さないためにも,何とかして後世に委ねたいのです。
 近ごろ、私は広島を旅だった日のことをしばしば思い出すようになりました。
 関さんの手紙の中にも、昭和二十年三月に村井志摩子さんの東京女子大、姉上様の広島女専入学のことが書かれていましたが、その個所を読みながら、私自身の廃墟からの旅立ちの日を思わずにはいられませんでした。駅頭に見送りに来てくれた、母の涙を思い出すたびに、年老いた現在でも涙が滲んでくるのです。
 私が早稲田大学の文学部に遊学して、文学を学びたいと言った時、父も母も反対しませんでした。二人が読書家であったせいかもしれませんが、私が将来もの書きになりたいと言った時にもあえて反対はしませんでした。ただ、「苦労が多いぞ」、と父が言っただけでした。
 被曝して顔にケロイドを大きく残した私が、社会人になった時に普通に歩める状況にないことを父も母も察知していて、私が文学の道を選んだことにあえて反対しなかったのだと思います。駅頭での母の涙は、私を不安に思う涙でした。汽車が動き始めた時、原爆症で紫色がかった母の唇が震えたのを今でも鮮明に記憶しています。この廃墟から廃墟への出発が、現在も私が書き続けられる原動力になっているのではないでしょうか。
   

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