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続・往復書簡 №48 [核無き世界をめざして]

     続対話随想47の② 関千枝子から中山士朗様

                       エッセイスト  関千枝子

 五日、朝から「建物疎開作業で亡くなった動員学徒の碑巡り」です。この碑巡りフィールドワークも広島YWCAの主催事業になってから五回目になります。暑いときに参加者を歩かせるのですから、私が楽をしてはいけないと、少し辛くても自分も歩くことに意味があると思っていたのですが、今年は酷暑ということもあって、主催者からはっきり言われてしまいました。昨年私があまりのろのろ歩くので、参加者の「若い」皆さまはかえって疲れてしまい、予定の時間より遅れて主催者は困ったらしいのです。慰霊碑から慰霊碑まで私は車で移動するように、と言われてしまいました。高齢の参加者がいらしたらその方も車に乗せようということになりました。暑くて外に立っているだけで暑いのですが、車で移動すると、まあ、楽なこと。用意してきた「水」もほとんど飲まずに案内出来ました。申し訳ないと思いながら、皆さまに、「慰霊碑もない学校、死者の数も名前もわからない人がいる(国民学校の高等科に多い、朝鮮半島主審者が多いと推察される)、その人たちのことも偲んで歩いてください、と叫んでいました。
 午後、主宰の方々と昼食、懇談しました。懇談にはYWCAでフィールドワークの責任者でもある難波さんの経営している本屋さんの部屋を使わせていただきました。涼しくて大助かり。フィールドワークの間、あまり汗もかかず水も飲まなかったのに、飲みだすといくらでも水が欲しくなり、がぶがぶ水を飲むこと、やはり少し脱水だったようです。夕方になったら急に疲れて、行こうと思った会は失礼して、ホテルでお休み。堀池さんは、NHKの出山さんが造った映像を見る会に行きました。
 六日朝、例年通り、私の学校の追悼の会に参ります。昔の雑魚場、国泰寺中学の南に、この地の町内会の持つ荒神様の境内があり、ここに山中高女と第二県女の慰霊碑があります。第二県女の同窓会は解散(何しろ一番若い同窓生でも八十四歳ですから、もう動けない)なので、追悼会は町内会と山中の継承校になる広島大学福山分校付属中学校の主催です。今年は、少々ショックでした。参加者が少ないのです。会場にテントを張り椅子を並べるのですが、今年は空席が目立ちました。かっつてないことで、「歳月」を感じました。 
 今年、「追悼の式」が終わった後私は一言しゃべらせてもらいました、これには実はいきさつがあり,去年も私は、碑の歴史と町内会に感謝の言葉を述べたいと申しでたのですが、式の実行委員の福山中学の先生に、町内会と打ち合わせをして式次第を決めている、時間もない。雑魚場の被災の状況は僕らも勉強して知っているなどと言われるので、ではこのあたりに何校の(どの学校の)生徒がいたかわかりますか、と聞くと、沈黙。でも絶対に飛び入りの発言を認めようとしないので、去年はそのまま引き下がり、今年あらかじめ福山分校付属中学に申し入れ、話していいということになったのです。
 式の後「迷惑」にならぬようなるべく短く、私は話しました。
 この碑は昭和二十八年、当時の町内会長荒谷輝雄さんが、多くの学徒が死んだこの地に碑を建てたらと思い、各校に話を持ち掛けられた。しかし多くの学校は(一中、修道。女学院,山陽など)は自校内に建てる(すでに建ててある)と言い、結局母校を学制改革で失った山中と第二県女の二校が建てることになった。荒谷さんの申し出がなかったら母校を失った二校は碑を建てるなど思いもつかぬことであった。当時復興期に入った広島で、このあたりは市の中心に近い高級地、そこに慰霊碑を建てることに反対もあったらしいが、荒谷さんの力で慰霊碑が実現した。荒谷夫人は山中の卒業生で、夫妻で碑の建設に熱心だった。
―――ここで私は、少し声を張り上げ福山中学の生徒たちに言いました、「そこの折り鶴の置き場を見てください、プラスティックの大きな布で覆ってあるでしょう?こんな覆いのある折り鶴の置き場を見たことありますか。ちょっと屋根のようなものがある所はありますが、こんな覆いのある置き場はみたことがないと思います。
一九七〇年代後半から八十年代、ヒロシマ修学旅行の全盛期、ここは大人気の慰霊碑でした。折り鶴もたくさん集まります。荒谷さんは雨が降ると折り鶴を毎日ご自宅まで持っていかれる。せっかく皆様の善意の鶴を濡らしては申し訳ないと言われるのです。しかし折り鶴はどんどん増え、運ぶのも大変。そこで荒谷さんは覆いを作らせたのです。今広島は千羽鶴が増えすぎリサイクルしていますが、この雑魚場の折り鶴は七十年代の折り鶴が色もあせずに見られますよ。
 高校生たちが私の話をどう受け止めてくれたかわかりません。私は、碑が今そこにあるには、当たり前のように思っているかもしれないが、碑づくりにあたった人びとの「思い」苦労、そんな歴史があったことを言いたかったのです。
町内会の方はとても喜んでくださいました、第二県女の同窓会は解散のとき残ったお金を町内会に寄付し、永代供養を頼んだのですが、このあたりの町内会は住民も減り、福山中学の力はあっても、当日の準備や維持費の問題、その他町内会の苦労は大変だと思います。私が感謝の気持ちを申し上げますと、「頑張りますから」といってくださいました。 
 この後、私、堀池さん、森沢紘三さん、藤井幸江さんとお茶を飲み、それから藤井さんの車で平和公園の供養塔まで送っていただきました。これは変なメンバーです、恐らくこの日以外考えられない組み合わせというか。藤井さんは二年西組でただ一人奇跡の生き残りの坂本(平田)節子さんが、段原中学で最初の担任をしたときの教え子、資料館のボランティア。今だに節子さんをしたい、彼女がいかに良い先生だったか物語ってくれる方です。森沢さんは亡くなった級友森沢妙子さんの弟さん、彼等のお父さん森沢雄三さんは豪快な地方政治家で県議として広島市の助役として浜井信三市長を助けて平和都市ヒロシマの復興に尽くした人。しかし、大柄で豪快だった森沢さんと、小柄で生真面目一本やりの節子さんとあまり接点はなく、不思議な取り合わせですね、堀池さんは呉線沿線坂の大雨被災地のボランティアに行ってきたばかりですが、暑いので,十分働いたら十分休みで作業を進めた、だから大丈夫ですが。と元気。呉のボランティアに行くという彼女に坂に行けと進めたのは私。坂、(鯛尾、小屋浦では、似島に運ばれたクラスメートが転送されたところです。まさかこんなところまで運ばれたと知らない友人たちの家族は、死に目に遭えなかった。歎きの地です。慰霊碑は鉄道の傍で土砂をかぶっていたがとにかく無事で,お参りをしてきたそうです。
 供養塔の傍で竹内さんと会いました。森沢さんはお父さんが供養塔の建設に力を尽くしたことから、必ず待ち合わせの場に供養塔を指定します。竹内さんは女子学院の先生のMさんといっしょです。この大勢に森沢さんは昼飯をごちそうすると言います。初対面の堀池さんたちは遠慮するのですが森沢さんは聞きません、お父さんに似て豪快な森沢さんは言い出したら聞きません、流川の小料理店、頂いた瀬戸内の魚料理,おいしかったです。竹内さんは、前にも申しましたが、ヒロシマ修学旅行から、広島に深い関心を持ち関わり続け、私より広島のことに詳しいと思う方です。広島のフィールドワークはたびたび試み、今年は九日に草津を歩くそうです、森沢さんが被爆したのは草津、何だか、いろいろ縁が続き不思議ないことです・
 八六の広島はタクシーをつかまえるのも大変ですが、お店で苦心してくださり「ひとまちプラザ」に直行。私の講演会「書き、語り、怒りをもちつづけること」があります。
 これも不思議なことである日、竹内さんの携帯から電話がかかり、村上俊文さんに紹介されたのです。「靖国神社の話を聞きたい」と言われるのに驚きました。建物疎開の少年少女たちの靖国神社合祀の問題を取り上げたのは、私が最初で最後だと思います。靖国神社や護国神社大好きの人が多い広島では私の問題提起は「無視」されてきました。靖国の話を聞きたいという方は初めてで、うれしかったのですが、この方がどういう方かさっぱりわかりません、竹内さんもよく知らないが伝承者のグループの方らしいと言います。どういう方かよくわからぬままメールでやりとりして話を詰めてきました。一時間や一時間半の話ではとても語りつくせないから、できたら私の本を売ってくださいと頼みました。会場では売ることが難しいから予約を取りましょうということになりました。
 あまり売れ行きには期待しなかったのですが『広島第二県女二年西組』『ヒロシマの少年少女たち』二〇冊ずつ四〇冊送れというメールがきました。本を売っていただくのはありがたいのですが、こんなに売れるのかしら。「押し売りしなくていいから余ったら返してください」と手紙を付けて送りました。
 この日この時刻に、広島でI CAN の川崎哲さんの講演もあるそうで私の話などに人が来るの!と心配してくださる方もありました。しかし村上さんは強気で予約がもう四〇人入っていると言われます。とにかく熱心な方で、メールもたびたび。五日のフィールドワークにも参加され、そのあと「打合せ」をいたしました。来られる方は伝承者や資料館のボランティアが多いそうで「次世代への継承のあり方」がやはり大テーマになるようで、心して話さなければなりません。
 会場に着くと会場にはもう一杯の人、驚いてしまいまた。六十人は見えたようです。会はまず映像で被爆者の絵で建物疎開学徒を描いたもの、基町高校の生徒が被爆者から話を聞いて描いた絵で学徒関係の者が紹介され、私はなぜ、私が全滅したわがクラスの話を書こうとしたか。話したくない人も取材したのか。話さない人の悲しみも書きたかった。私だけの経験でなくひとクラス全部を書くことで、全体を写したい、とりわけなぜあの若い少年少女たちが「小さな兵隊」として動員され、しかも「戦神」として靖国神社に合祀されたか、それを多くの遺族たちが喜んでいること、それへのこだわりを話しました。村上さんも靖国問題についていろいろ質問してくださいました。最後に私が言ったことは、「もしあの時私が欠席せず、作業に言っていたら間違いなく死んでおり、靖国の神になっている」、「たぶん私が今靖国にいたら、いやだ、私はここにいたくないと思っているだろうから」と言いました。靖国のことを皆さまはどう思われたか、でもその中で広島の護国神社が少年少女たちを神として祀っていることをたたえ、靖国と護国神社は違うと言っていた方が、帰りに私のところに来られ、「もっと靖国や護国神社のこと勉強します」と言ってくださいました。
 伝承は大事ですがが、ただの伝承ではなく,日本が犯してきた加害の歴史、それを踏まえての「核兵器廃絶、そして絶対の平和を願う」のだという私の気持ちをわかってくださればうれしいのですが。
 この夜は早くホテルに帰りました。ホテルには平和式典での広島市長の宣言が号外に刷られておいてありました。一応核廃絶平和を訴えながら、遠慮しいしいの宣言、いつもながら腹立たしいです。この思いは九日の長﨑市長の見事な宣言を読み、さらに思いを強めました。


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