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対話随想余滴 №5 [核無き世界をめざして]

  対話余滴⑤ 関千枝子から中山士朗様へ

             エッセイスト  関 千恵子

 二〇一九年の年明けですが、素直に「おめでとう」と言えず、なんとも不安いっぱいの世界の情勢です。でも,もう、できないのではないかと思っていた我が家の正月行事(子どもたちが来てくれる)も、とにかく正月の料理も作れましたし、(例年より支度を早く始める)などいろいろありましたが、とにかく無事終えました。しかし、この味でいいのだろうかなど不安に思ったり、年相応の衰えは如何ともしがたい。多分来年はできないだろうなど子どもたちに言ったのですが、まあ、どうなりますやら。
 とにかく、今年は絶対に頑張りたいと思います。そして、物書きとして、死ぬまで書き続けたいと思います。もし、体が動かなくなっても、頭だけはしっかりして、物が書ければいいなと思っております。

 これからは昨年の報告の積み残しです。なんだか少しずれて申し訳ないようですが、昨年はいろいろありすぎました。
 十二月一日、例の竹内良男さんの学習会に行きました。石浜みかるさんのお話でした。重いお話ばかりで、三時間の例会に収まらないような話でした。
前にもお話したことがあると思いますが、石浜さんのお父さん・石浜義則さんは、キリスト教の無協会派の小さな教団の信者で、歯医者さんですが、街頭で戦争反対を説き、治安維持法違反で捕まり、広島の吉島刑務所に収監され、そこで原爆にあったという方です。   この方は被爆の手記を書いていますが、どうしてか、その手記が掲載されたのが長﨑の証言集で、この方のこと、広島の原爆関係者もあまり知らないのではないかと思います。
 刑務所の高い塀に阻まれて石浜さんのお父さんはケガもなかったようですが、刑務所の建物も壊れ重傷者も多く、囚人同士で助け合ったとのこと。翌日から囚人たちは救援活動に駆り出されるが(二次放射能)、政治犯は数珠つなぎにされて山口刑務所に連れていかれる(広島に置いておくと暴動でも起こし危ないと思った[?])のです。この政治犯の中には朝鮮半島出身者が多くいた、独立運動のためということですが、ちょっとしたことに、言いがかりをつけられたということが多かったようですね。とにかく、石浜さんは山口に連れていかれ、戦争が終わって広島に戻されるが十月ごろまでそのままにしておかれたそうです。
 釈放になるが、朝鮮出身者修身の人びとはどこかへ行けと言われても行く場所がない。仕方なく石浜さんは、妻子を山口県の大三島の妻の実家に預けていたので、そこへ朝鮮人たちを連れて行くのです。治安維持法違反の政治犯などというと大変なので、妻の実家にはことをごまかしていたので、朝鮮人たちを連れて行くのは大変だったようです。
 ようやく朝鮮半島出身者たちを、数日食わせ、彼等も帰るルートが見つけられ帰国。石浜さんは歯医者をしようとするのですが政治犯だったため免許が取り上げられ歯医者ができない。仕方なく歯科技工でしばらく過ごしたそうです。戦前歯科技工士という職はなく、歯医者さんたちが自分でやっていた。歯科医の中にはそれが得意でない人もいる、石浜さんは結構これがうまくて、技巧の仕事で糊口をしのいだというのですが。やっと免許を取り戻すまで生活も、大変だったようです。
 帰国した韓国人たちとはそれきり連絡がつかなかったが、そのうちの一人が韓国でヒバクシャ運動をはじめ、一九七七年最初の使節団で日本に来られた時、石浜さんと再会、石浜さんの証言で被爆者手帳をとれたとか。
参加者の皆さん、びっくりして聞いておられました。
 石浜みかるさんは、今キリスト教の満蒙開拓団のことを調べておいでです。満蒙開拓団に加わらなければ、という状況に追い込まれる。それを進めた人たちの中には、賀川豊彦もいるとかのことです。これも重い話なのですが、こちらは時間もなく、石浜みかるさんの新著も年明け早々出るということで、またもう一度話を聞きたいということになりました。
 四日に、もとNHkのいらした山上博史さんという方から連絡があり、会いました。この方のお父様が音楽関係の方で広島大学の教授だった方ということです。このお父様が、私のピアノの先生長橋八重子先生に大変お世話になった、長橋先生の写真があるから見てほしい、自分は長橋先生の顔を知らないからと言われるのです。長橋先生の顔分かるかしら、とふと心配になりました。前に、長橋先生のこと、「往復書簡」でも、話に出ましたね、その時中山さんから長橋先生のお宅という新川場町の家の写真を送っていただいたことがあり、これは違うとお申しました。新川場の家の写真は古い家のようで、先生の家は確か小町(一中の裏の方)、とにかく素敵なおうちでしたから。私は長橋先生のお家についてよく覚えており、「広島のわずかに残る文化だ」、と思っていました。だから家についてはいくらでも思い出を語れるのですが先生のお顔、はっきり言えないのです。子どもだし先生の顔をそんなにじろじろ見られず、ただ老婦人ということしか(老婦人と言っても多分先生五十代ではないかと思うのですが)言えないのです。
 でも写真を見ると先生だとすぐわかりました。先生の小町の素敵なお家のテラスで撮っておられるので。先生に間違いないとわかりました。
それから山上さんと長いことしゃべりました。不思議な縁です。山上さんは戦後の方でお父様が長橋先生の弟子(長橋先生の夫君の弟子ではないかと思いますが)戦前のことは御存じないのに、なんでこんなに話が弾むのか。
 最愛の息子さんを失くされ、悲しみの中にいらした長橋先生、先生のおうちのグランドピアノの傍で遺体が発見されたそうです。ピカの瞬間、何と思われたか。
 十二月十四日、宇都純子さんの復活公演に茅ケ崎に行きました。宇都さんが原爆のことに打ち込まれ、十数年にわたって夏に、原爆の詩や手記の朗読をされていることは、何度も書いたと思います。それが二〇一七年は乳がんのため公演できなかった。昨夏もできず、とても心配していたのですが、12月になって復活公演となったのです。
 佐伯敏子さんの手記を朗々と読まれました。佐伯さんは身内十三人を失くし、手記もとても長く一時間半はかかります。でも、皆、じっと身じろぎもせず聴き入っていました。宇都さんの声は、病気の前よりかえって通り、よくなったような気がしました。本当に感動しました。
 十五日、武蔵大学に行きました。西武線新桜台というところにあり綺麗なキャンパスですが景色を観る暇もありません。道を尋ねながら行ったら二時間半以上かかりました。
 例の被爆遺産継承の会のセンター設立資金集めの第一号の会らしいけど、それにしては地味ですね。でも、若い方のいろいろな活動を聞け、悪い会ではなかったのですが。
このキャンパスで次の週も(土曜日)催しがありました。今度は在韓被爆者関係です。詩の朗読が中心の会なのですが、武蔵大学の学生たちの朗読が新鮮でした。韓国人被爆者たちの手記の朗読ですが、二十人くらいの朗読(群読は少なく、ひとりひとりかわるがわる読むスタイルですが)若い人がこれだけ集まると迫力があります。
 この武蔵大の生徒たちを指導し、また大学の教室を貸してくださるのも同大学の教授永田浩三さんがいてこそなのですが。永田さんは昔、NHKの有名なディレクタ-ですが、よく、原爆関係の会に来られます。広島局にいたことはないのに、と不思議に思っていましたら、会の後、お茶を飲んで話し合ったら、彼、広島の被爆二世なのですね。お母様は被爆後縮景園を通って、原民喜と似たようなコースをとって逃げておられるのだそうです。広島問題に熱心なわけわかりました。
 二世の方々、若い方々、ヒバクシャでなくて熱心な方々と知り合い、私も改めて勉強しなおしました。

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