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立川陸軍飛行場と日本・アジア №172 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

    陸軍少年飛行兵制度始まる  

                     近現代史研究家  楢崎茂彌    

  それでも飛行学校に入学志望

 立川からの移転先が決まらずに困っている御国飛行学校の始まりは、“空の宮様”山階宮武彦殿下が大正14(1925)年に開設した御国航空練習所でした。連載NO34とNO37で「日本航空史(明治大正編)」を参考にして“御国飛行練習所”と紹介しました。読者の横川さんから“飛行練習所”ではなく“航空練習所”だよ、と指摘をいただきながら訂正もせず、そのままにしてしまい申し訳ありませんでした。
 大正14年7月3日付けで皇族附武官が陸軍大臣宛に“御国航空練習所の件”という文書を提出しています。その文書には概要や志願者心得が添えられており、練習所の目標を、1年で三等飛行操縦士に次の1年で二等飛行操縦士に育成すると謳っています。連載NO.37には「東京朝日新聞」の記事にもとづいて“希望者は予備陸軍士官に志願し、一朝変事の際には戦場に立つことが条件とされたので、女性は応募出来なかったのが残念です。”と書きました。たしかに女性は応募出来ませんが、予備陸軍士官の下りは、概要にも志願者心得に書いてありません。しかし心得の諸注意事項に“練習員志願に関する事項の詳細は御国航空練習所に就き直接又は書面を以て照会すること“とあるので、詳細を問い合わせるとこの条件が示された可能性はありますが、こんなに大事なことが志願者心得にないのは不自然ですよね。可能な限り原史料にあたることの大事さを思い知らされました。御国航空練習所は山階宮の病状悪化もあり大正15(1926)年7月に突如解散となり、御国飛行学校に引き継がれま172-1.jpgす。
 昭和8(1933)年9月30日までには立川を引き払わなくてはならなくなった御国飛行学校では、16歳の少年村尾圓君が学んでいました。二等飛行士の受験資格は17歳以上なので、9月生まれの村尾君はもうすぐ受験できます。彼は、3年間で70時間の飛行をこなしており、大人の生徒顔負けの操縦技術を習得しています。村尾君は次のように語ります“九月早々に受験しますので、学校が立川を立ち退く前に二等飛行士になれます。二等に合格したら十一月に陸軍の予備下士を志願し、万一不合格の場合は明年海軍の予備下士になりたいと思います。” すると矢張り陸軍の予備士官になることは条件だったのでしょうか。
 一方、日本飛行学校にはアメリカンスクールの卒業生山本たつ子さん(18)が志願してきました。学校側は移転先が決まったら入学するように通知を出しています。移転先が決まっていないのに志願者があるとは心強いことです。

 陸軍少年飛行兵制度始まる
 連載NO.160で触れたように、この年に陸軍少年航空兵募集が始まりました。「東京日日新聞・府下版」(1933.5.6)は次のように報じています。“陸軍初の少年航空兵 麻布連隊区司令部から、五日北多摩郡町村に少年航空兵募集のポスターを配布して来たので、各町村とも一斉に貼付したが立川町ではすでに申し込み廿名に達し、さすが空の都らしさを示した。この陸軍最初の少年航空兵は、現役志願廿歳未満、陸軍部外十七歳より十九歳未満で、明年三月末申し込みを締め切る。”
 この少年航空兵(1940年からは正式名称が“陸軍少年飛行兵”となる)制度は、この年の4月26日に所沢陸軍172-2.jpg飛行学校令が改正され“飛行学校に於ける生徒教育”が加わることで始まったものです。受験資格は、操縦生徒は17歳以上19歳未満、技術生徒は15歳以上18歳未満とされています。願書の受付は昭和8(1933)年5月31日までだったので、まだ16歳の村尾君は受験できませんでした。
 身体検査に合格した受験者は、筆記試験を受けます。科目は国語・作文・算術・地理歴史・理科で、学力は高等小学校卒業程度とされました。こうして難関を突破した操縦生徒70名、技術生徒100名は翌年2月1日、所沢陸軍飛行学校生徒隊1期生として入校しました。操縦生徒は2年間の教育・訓練を受けのち陸軍航空兵上等兵となります。技術生徒の教育・訓練期間は3年間でした。
 昭和11(1936)年2月26日、二・二六事件が起こります。所沢陸軍飛行学校1期生の技術生徒だった高橋常吉さんは、当時飛行学校の敷地に新設された陸軍航空技術学校で学んでいました。高橋さんは二・二六事件に動揺する学校の様子を日記に残しています。1期生の貴重な体験記として引用します。
 “二月二十六日 水曜日 雪
 午前十一時中隊より急遽帰隊すべき命令あり。将集(ママ)方面より帰り来れる将校の顔色も只事にあらず。時将に来り露国との宣戦の詔、次いで我々の動員ならんと心秘かに思えり。皆の心中亦同じならん。完全軍装入組品、装具などは勿論、数日の戦闘に支障なき様にと指示あり。急いで服装を整え整列せり。
 校長閣下より「本朝東京に於いて暴動ありて、既に帝都は戒厳令下にありて専ら軍隊の力に依り治安を維持せられしあり。此に於いて当校亦警戒の必要を認め生徒を非常召集せり」と。
 実包及び空砲も小哨毎に分配せり。戦時の警戒と同様に行動し得るに就き命令あり。…その後の状況不明にて各所に流言飛べる如く、警戒亦異常の緊張を加え士気上れり。校長閣下はじめ将校営内にあり。
 二月二十七日 木曜日 曇
 本日午前十時まで警戒勤務一服せり。陸軍省発表に依れば、岡田首相、斉藤内大臣、渡辺教育総監は即死、高橋蔵相 鈴木侍従長は重傷、牧野前内府は行方不明の由にて…
 二月二十九日
 午前零時三十分非常呼集あり…中西少尉以下二十七名北格納庫小哨に赴く。沿道所沢町内の要所に於ける飛行機操縦下士官学生並びに地方警官の物々しき警戒要領をみつつ愈々時期到れりとの感を深くせり。北格納庫に於いて実包各五十発を分配せられ厳重なる警戒勤務に服せり。飛校中央格納庫に於いては飛行機装備の固定機関銃を以て地上射撃に任ずる等…、午前七時警戒は解除せる。
 午後中隊長殿より本事件に関して特に訓話あり。生徒として戒心を要すべき点左の如し
 一 軽挙妄動せざること。信義の項を良く理解すべし。
 二 目的遂行の最後に於いて汚名を残さざる如く日頃の修養に勤め武士道を全うすべきこと。”
 (「陸軍少年飛行兵史」少飛会歴史編纂委員会編集 少飛会1983年刊)
 陸軍の緊張ぶりが伝わってくる日記です。
 高橋さんたち1期生の技術生徒は昭和11(1936)年11月27日に卒業し、少年航空兵の制度が、まさに時代の要請に応えて創設されたことを象徴するかのように、翌年7月7日には日中戦争が始まります。

172-3.jpg 東京陸軍少年飛行兵学校
 昭和13年9月、立川陸軍飛行場のほぼ真北に建設中だった東京陸軍航空学校に第6期生が熊谷陸軍飛行学校から移ってきました。
 東京陸軍航空学校の敷地は、もともと陸軍の土地でした。飛行場の真北にあるせいか、これまではまことしやかに、“この土地は陸軍飛行第五連隊射爆場用地だった”などと伝えられ「武蔵村山市史」もこの説を採用しています。しかし、近衛師団経理部の資料により、この土地は昭和12(1937)年に“立川小爆撃場用地”として買収されたことが分かりました。(「武蔵村山市に設置された主な軍事施設について」武蔵村山市文化財保護審議委員楢崎由美著・「武蔵村山市立歴史民俗資料館報、資料館だより 第58号」2017.3.31発行による)
 昭和16(1941)年にアジア太平洋戦争が始められました。陸軍は少年飛行兵の拡充を急ぎ、昭和18(1943)年には“陸軍少年飛行兵学校令”が公布され、“東京陸軍航空学校”は“東京陸軍少年飛行兵学校”と改称されます。また大津分校はこの年、翌年には大分分校も、それぞれ少年飛行兵学校として独立します。
 武蔵村山市にあった東京陸軍少年飛行兵学校の跡地には“陸軍少年航空兵 揺籃之地”碑が建っています。碑文172-4.jpgには
 “ここを中心に二十万坪の地は、東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。陸軍少年飛行兵制度は昭和九年、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充要請により昭和十三年、この地に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校した。終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において、大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大義に殉じた。戦没者は四千五百余柱を数う。… 
        平成二年十月十日  陸軍少年飛行兵出身者一同  少飛会“
 前出の「資料館だより第58号」によると、戦没者の約1割にあたる457名が特攻隊で亡くなっています。少年飛行兵の制度は複雑なので、この「資料館だより」を読んでもらうと理解が深まると思います。
 今回も横道にそれてしまいました。
写真1番目  村尾少年   「東京日日新聞・府下版」1933.6.7
写真2番目  所沢陸軍飛行学校正門      「雄飛」2005
写真3番目  陸軍航空工廠の合成航空写真 米陸軍航空軍制作 1944.11.7撮影 
写真4番目  陸軍少年飛行兵 “揺籃之地”碑   2005.8.11  著者撮影

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