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検証 公団居住60年 №24 [雑木林の四季]

大資本奉仕の実態と黒い霧 4

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

4.工場用地、流通業務用地、研究学園都市建設
 日本住宅公団法31条は、公団の業務範囲を「住宅の建設および宅地の造成、その賃貸または譲渡」と定めた。しかし2年後の1957年には31条を一部改正して、「宅地」を「住宅の用に供する宅地」および「学校、病院、商店、工場等の用に供する宅地」と規定しなおし、工場用地等の造成を業務範囲にくみいれた。どの辞書でも宅地とは、家屋の敷地とあり、公団は住宅団地をつくるのだから、宅地に学校、病院、商店の用地がふくまれるのは当然であるが、宅地の名による工場用地造成への拡大は、「住宅公団」設立の名目が早くもなし崩し的に変えられていく現われの一つといえる。工場ができれば社宅も必要になり、住宅を建設するのだから、と公団は言い訳していた。公団の「宅地」開発の対象は「住宅用地」のはか「工業用地」「流通業務用地」「研究学園都市」からなる。
 57年に法改正をすると、すぐその年度内に、八王子、相模原、大宮地区をそれぞれ内陸工業団地、市原・五井地区に臨海工業団地、計4地区の工業用地の開発に着手し、その後63年度までに、深谷、高崎、青梅・羽村、川越・狭山、総和、佐野、真岡など首都圏本部の15地区、関西支社の湖南、九州支社の小倉、計17地区に工業団地の造成をおこなった。58~63年度の5年間に取得した工業用地の面積は計1,195haに達した。ちなみに同63年度までに取得した住宅用地の面積は2,264ha(うち44%が公団住宅の建設用地、56%が個人分譲、社宅、店舗等の利便設備、学校等の公益施設の用地として処分された)であるから、工業用地は、短期間にもかかわらず公団の用地総取得面積の34.5%、処分面積では40.7%を占めるにいたっている。
 公団は初期の10年間に、住宅用地68地区7,678ha、工業用地20地区2,219haの宅地開発をした。開発地区の地形は、当初は比較的平坦地であったが、60年代半ばからは山地、丘陵地が多くなり、起伏の激しい山地や低湿地帯がふえたという。高度経済成長にともなう工事費単価の上昇にくわえ、山地、湿地帯が多く整地工事費は急増した。また道路工事は、モータリゼーションが進行しはじめた時代で工事内容が多様化し、工事費もいちじるしく増加している。宅地の造成であるから、水道施設、排水施設、終末処理施設は欠かせない。
 公団資金によって基盤整備された、この広大な工業用地の譲渡を受けるのは、さきにみた社宅用の特定分譲住宅と同じで、いずれも主として大企業にはかならない。
 大都市への人口、産業の過度の集中を防ぐには、産業の分散立地をはかるための工業用地の開発が必要であるとして57年に法改正をして、住宅公団の業務範囲にくわえた。つぎには66年に、大都市および周辺地域における流通機能の向上と道路交通の円滑化を目的に「流通業務市街地の整備に関する法律」を制定し、公団業務をさらに拡大した。
 公団は69年に東京・足立区、71年に板橋区に33.3ha、31.4haの流通業務団地を造成した。足立地区は、都市計画公園となっていた舎人緑地の用地であり、板橋地区は公団が住宅地として開発してきたものであった。そこにトラックターミナル、卸売市場、倉庫、卸売業、コンテナデポ用地を整備し、企業に分譲した。そのはか越谷市に70年、地区面横116ha、鉄道貨物駅をもつ東日本最大規模の流通業務団地をつくった。98年になって岩手県花巻市にも43haの団地を施工している。
 公団は、このように巨額の資金を投じ、公園、緑地、住宅用地を犠牲にしてまで、大企業の流通基地づくりをも主導した。
 1960年代にはさらに、公団は大規模宅地開発にのりだし、筑波研究学園都市i(2,696ha)の建設に着手し、新住宅市街地開発事業を展開する。その代表的事業が、愛知県春日井市の高蔵寺地区(702ha)にはじまる、東京都多摩(全3,020haのうち1,335ha)、横浜市港北(1,317ha)、兵庫県北摂・北神(1,529ha)などのニュータウン事業である。公団は巨大な怪物と化しつつあった。ここでは、公団がいかに大企業奉仕の役割を担っていたかを確認しておく。
 ただ広大な土地の取得については、あとで述べることとも関連して、高山英華が筑波研究学園都市の「苦い経験」として回想しているエピソードを引用しておこう。

 やはり土地の選定は非常に政治的な形で決まるということです。初めから富士の裾野が一つの候補地で、そのほか榛名山、那須が大きな候補地でした。おのおのうしろに有力な政治家が2、3人くっついておる。たぶん河野一郎さんが建設大臣だったと思いますが、ヘリコプターに乗せられて方々に見に行くと、知事はじめ有力代議士が出迎えにきていまして、候補地を売り込むわけです。結局、ひょんなことから茨城県のところがあいているというので、橋本登美三郎さんとかいろいろな人たちがあそこへ誘致したわけです。
 そこで、マスタープランを書いたんですが、土地を買う段になるとプランはずたずたになって、現在あるようにやたらにばらばらな土地を買って、これを何とかしてくれというのが都市計画学会に来ました。どうまとめてもうまくまとまらない。だから、いまあるように、細長い道路にいろいろなものが張りついているような図になっておるわけです。ですから、あれは、計画者としてはそういう土地の問題の後始末をした一つの例だと思います。
 もう一つ悪いことは、各省は自分の敷地は一生懸命ですが、全体の調整をとっているところがない。
 その後、ぼくは大規模年金保養地というのを厚生省の仕事で全国に十何カ所つくりましたが、そのときも全部政治家が決め、後始末を技術者がするというパターンになっております(前出『私の都市工学』)


『検証 公団居住60年』 東信堂

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