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続・対話随想 №45 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想45 関千枝子から中山士朗様へ

                      エッセイスト  関 千枝子

 このたびの手紙は少し昔のことなどを思い出して書いてみようと思っていました。というのは前回コピーをお送りした「知の木々舎」の表紙のハスの絵からの想い出。蓮の花と蓮田、私の原爆への思い、そのものだからです。 
 ところがそこへ。あの西日本大水害です。災害の酷さ。想定外だか、千年に一度だか知りませんが、ただ息を呑むだけです。特に広島県は一番被害がひどかった。多くの人は四年前の広島市安佐南区の災害を思い出したようですが、私は、あの原爆の後の枕崎台風の惨禍を思い出さすにはいられませんでした。
 あの年、八月十五日までカンカン照りだった天気は急変し。雨の多い日が続き、急に涼しくなってきました。私は十五日の夜から熱を出し寝込んでいました。それが原爆(放射能)に関係するものか、疲れから来たものか、あるいは風邪をこじらしたのか、まったくわかりません。それくらいのことで医者を呼べるわけでもなく、健在な医者がどこにいるのかも分からず、とにかくどうにもならない中で私は寝込んでいました。
 その時すでに、まったくケガのなかった人が、歯ぐきから血が出たり、髪の毛が抜けたりして死んだ、といううわさは伝わっており、私は寝床の中でそっと髪の毛を引っ張り、抜けないので安心した覚えがあります。
 八月の終わりごろ、少し良くなり熱も収まったので、起き上がっていますと、近所(と言っても歩いて七、八分かかりますが)に住む東組の級長の菅田さんが、訪ねてきました。私は彼女と玄関の外で話しました。彼女の話は、「西組は全部死んで、坂本さん一人だけが生き残っている。先生の死もあり学校は当分開かれない、家で待機しているように」というような内容でした。あの前日の五日、二年生も一年生も全部雑魚場(市役所裏)で建物疎開の後片付け作業をしていました。その日の午後どこからか命令が来て、その一年生と二年生の半分は東練兵場に行くことになったのです。二年はどちらの組が東練兵場に行くか、級長同士で話し合って決めなさいということで、西組の級長の火浦ルリ子さんと東組の菅田さんが話し合い、何でも東西東西で東が先だから東組が先に東練兵場に行きなさいと火浦さんがいって東組が東練兵場に、西組が雑魚場に残ることになったそうです。それが二つの組の生死を分けた。菅田さんもその重さがこたえているようで、すぐれない顔色でした。その時何だか寒くて、玄関の外で話したので私は震えが来て、菅田さんを帰して家に入った途端また寝床に倒れこみ、寝込んでしまいました。
 私はこの時菅田さんを家の中に入れず外で話したため寒い目に遭わせたことが大変気になっており、その時の詫びを数十年たってから言ったことがありますが菅田さんはそんなことを覚えておられず、大笑いになった覚えがあります。記憶というのは、そんなものでしょうね。
 元気になり起き上がったのは枕崎台風が通り過ぎてからで、その時広島中は水浸し、特に埋め立て地の宇品は床上浸水。我が家は前にも書いたことがありますが、アメリカ帰りの方が、全財産つぎ込んで作った理想の家。洪水のことも考え長年の資料を参考に家屋の部分は非常に高く土盛りしたので我が家は浸水しなかったのです。でも庭も道も水につかり、水道が止まって大変だというので私と姉は、張り切ってバケツを担いで翠町に行けば井戸があるというので水くみに行ったのを覚えています。
 その時、広島は、新聞はまだ来ないし、ラジオだけが情報源、それも停電になったらアウト、まったくひどい情報過疎の中で暮らしていたわけで、台風であちこちの崖が崩れひどいことだったというのは後からだんだん知ったことでした。我が家の一番の被害はツテを頼ってどこかの農家の蔵にいくつか荷物を疎開させたのですが、その蔵が大水で流されてしまい、パーになったことでしたが、そんな“損害〝は原爆で焼けず、誰も死ななかった幸運な一家では言ってはならないことで、私なども、ああそうかと思ったくらいでした。
 あの時も大変な被害だったようですが、山崩れなどの被害の多さは、山の松の木を松根油をとるため切り倒したからと言われ、私もそう思い込んでいました。四年前の水害のとき、広島の山間の土地は花崗岩で、弱いという話を聞かされびっくりしたことがあります。そんな弱い土地の川沿いを開発して…・無茶ではないかと言ったのですが。
でも今年の災害であちらでもこちらでも水道が止まり、困っている、復旧の見通しが立たないと悩んでおられる話を聞きました。これは本当に困るだろうと思います。それにつけてもあの原爆のとき、広島で水道が止まらなかったのは、すごいことだったと思います。もし、水道が止まったら…‥。宇品など水道が掘れないところです。どんなことになったか。
 浄水場の方々の苦労と努力があったように聞いています。
 枕崎台風のときも、広島の川にはたくさんの流木が流れてきたようですね。あれを拾ってバラックを建てたという話も聞いています。でも今度、大水で府中町がやられたそれも川を流木がせき止めたから、という話には驚きました。府中町など、災害に関係のない豊かなところだと思っていましたから。
 それに、坂、小屋浦という地名がよく出てくる、それも胸が痛みます。坂、小屋浦には海軍の施設があった。似島がいっぱいになると何人かの人が坂や小屋浦に移された。私のクラスでも似島から坂、小屋浦(鯛尾)に移され、亡くなった人が三人います。ここの悲しさは遺族が子どもの死に目に遭えた人がいないことです。誰も、そんな遠いところに運ばれているなど思えなかった。宇品の桟橋で似島に連れていかれたという人の中に名前を見つけ飛んで行ったが、もうすでに坂に移されていて、すでに死んだあと。遺骨もなくて(みな一緒に焼くので、遺骨があっても仕方ないということで)髪の毛が少し残されていた、という話でした。昔、坂など遠い遠いところでしたから、ね。まさかあそこに子どもが連れていかれたなど思わなかった。坂の話は辛いです。
 坂にも原爆の慰霊碑があるのだそうですね。朝日新聞の宮崎さんの記事で知りました。本当にあそこでたくさんの人が亡くなったから.。

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