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対話随想余滴 №13 [核無き世界をめざして]

        対話随想余滴⑬  中山士朗から関千枝子様

                作家  中山士朗

 このたびの関さんの闘病記を読みながら、やはりもの書きの人が書いた文章だと感心いたしました。
私なぞは、最近、私たちの『対話随想・余滴』を読んでくれている親しい人に「文章に脳軟化の兆候が表われていると思ったら、教えてください」と依頼している有様です。それに較べて、大変な手術を受けられ、そのリハビリも苦痛を伴うにも関わらず、自分自身を客観的に観察されている文章の鋭さには敬服いたします。そのような状態のなかにあって、仕事のことが念頭から離れない新聞記者の魂のようなものを感じました。それにしても、お怪我をされた後の日程の詰りには驚きました。このたび出版されました私たちの『ヒロシマ対話随想』の帯に、「行動の人」と日高さんが命名されたのもむべなるかなと思いますが、これからは少しご自分の時間を持たれるようにされてはと念願しております。
 そのことを感じながら読んでおりますと、被爆直後の私の姿が彷彿としてきました。
 そして、いつかも『往復書簡』の中で書いたと思いますが、原爆の放射能と熱線を浴びて顔や手足に火傷を負った私が、現在では看護師長というのでしょうか、外科病院の看護婦長から三ヶ月の間、毎日治療を受けた日々のことが鮮明によみがえりました。それは、火傷した顔や手足の焼け剥がれ、爛れた皮膚の下の組織から滲出するおびただしい膿液を拭い、チンクオイルを塗布するだけの治療でしたが、クレゾール水溶液を含ませた消毒綿が触れただけでも飛び上がるような痛みを感じました。
 気丈な婦長さんは、私を押さえつけ「身体じゅうに蛆をわかせ、臭くなって死んでもええと言いんさるか」と語気を強め、額に汗を浮かべながら私の体を押さえ続けるのでした。私は私で「こんとに痛いんなら、死んだ方がましじゃ」と叫んでいました。おしまいには、家人が手伝って私を押さえつけ、ようやく治療が終了するという始末でした。
 ですから関さんが術後に身体をひねったり、前にかがんではいけないと看護師の方から注意され、介護ヘルパーさんに支えられての生活に気落ちされたことは、よく理解されます。私も治療が終わった後で「よく頑張りましたね」と褒められたことを、関さんの闘病記を読み終えて思い出しました。
今後、日常生活において色々と支障を来たすことがあるかもしれませんが、乗り越えて下さい。関さん流に言えば、「目」、「耳」、「口」が達者なら大丈夫です。私は、それに「手」を加えております。吉村昭さんが、作品は「手」で書くものといわれた意味が、最近ようやくわかるようになりました。そして「手」は、生命維持の 根源の機能をもっていると思うようになりました。
お手紙の冒頭に、私の肺炎後の健康状態についてご心配を頂いておりますが、つつがなく暮らしておりますのでご安心下さい。けれども、最近、新聞の訃報欄を眺めておりますと、高齢者の肺炎による死亡が多いことにあらためて気づいているところです。幸い命が助かったものの、気をつけなければならないと思っております。
このたびのお手紙の締めくくりとして、元号「令和」の典拠の歓迎ムードについての考察が述べられていました。私も関さん同様に、新元号発表後の安部首相の談話には腹立たしさを覚えました。
 初春令月 気淑風和(初春の令月にして、気淑く風和ぎ)「萬葉集」巻五、梅花の歌の序を典拠したことを告げた後で、「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められている」と説明し、国書からの典拠と説明しました。その結果、異様な歓迎ムードが高まったのでした。政策的にも、効果をもたらしたのです。
こうした決定の談話を聞いておりますと、安倍首相はやはり戦争を知らない世代の人だなと思いました。知らないというより、歴史から学ぼうとしない宰相としか思えません。
戦争の最中に育った私たちは、萬葉集と聞けば、
海行かば水清く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ
と、事あるごとに歌わされましたが、学徒勤労動員で派遣された工場でも、日本軍玉砕のニュースが伝わった際には、作業を中止して斉唱し、必勝祈願したことがまず頭の中に浮かんできます。
また「令」という文字を見た瞬間、私は「命令」という文字がイメージされました。それは、私たちが戦時中に、国民学校令、学徒出陣命令、中学生の勤労動員令、女子挺身勤労令、ひいては勅令、召集令状、戒厳令などの言葉に出会ったからだと思います。その他に朝令暮改、巧言令色鮮仁(論語)という言葉もあり、「令」という文字に関しては良い印象がないのです。戦争を体験した世代がやがて消滅すれば、「令」は安部首相の言う麗しい時代を象徴する言葉になるのでしょう。
「令」という言葉は、関さんの言われるごとく、中国の古典の影響を受けているのはまちがいありません。萬葉集は、日本が律令国家を形成していた頃、つまり随・唐にならって七世紀半ばから形成され、奈良時代を最盛期とし、平安初期の一〇世紀までとされていますが、その間三百五十年間にわたって詠まれた長歌、短歌、施頭歌など約四千五百首も収められているのです。
「律令」は辞典によれば、律と令。律は刑法、令は行政法などに相当する中央集権国家統治のための基本法典、と示されています。律も令も古代中国で発達、随・唐時代にともに完成し、日本はじめ東アジアに広まったとされていますから、やはり萬葉集からの典拠として決めつけるのは無理があるような気がします。




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