So-net無料ブログ作成

対話随想余滴 №7 [核無き世界をめざして]

   対話随想余滴⑦ 関千枝子から中山士朗様

             エッセイスト  関 千枝子

 さまざまな大事な用事、つまらぬ雑事、雑用、立て込んでいまして、手紙を書くのがひどく遅くなりまして、すみません。
 実は昨日、一月二十三日、跡見学園という古い歴史を持つ私立の女子中学に平和学習(原爆)に行ってまいりました。なんだか、これが終わるまでそわそわして、じっくり手紙も書けない気分でした。
 跡見中学に行くのはこれが八年目です。
 「夏の会」という会があります。原爆の詩や手記の朗読を女優さんたちがなさっている会です。地人会の「この子たちの夏」というのがあり一九八五年から二〇〇七年まで二十三年間も行われていたのですが、地人会の解散により中止となった。これを惜しんで、女優さん十八人が新しい会を立ち上げ、新しい脚本で「夏の雲は忘れない」という朗読の公演をはじめ、今年で十周年になります。その最初の年、跡見学園の講堂で立ち上げ公演があり、私も招かれて行きました。女優さんだけでなく、跡見の高校生たちの朗読グループも参加し、一緒に舞台を作り大変感動的だったのです。私は跡見という学校が平和や原爆の問題に熱心なことを知り感心したのですが、その時跡見の学校の方から、跡見のいろいろな資料をいただいたのです。その中に当時の学園長の方が跡見という学校の歴史や、平和学習への取り組みなどいろいろなことが書かれていたのですが、私はこの文章に大変感動しまして、この先生にお手紙を差し上げたのです。当時から跡見は中学三年生が広島へ修学旅行に行くことになっていたようですが、園長先生は、修学旅行に行く学年の主任を呼び、事前学習にこの方の話を聞けば、と言ってくださったのです。
 こうして、私と跡見との縁が始まりました。修学旅行は中三の年ですが、二年生の三学期・一月に、生徒たちに話をしてほしいということになったのです。
 二年の学年主任・矢内由紀先生は大変熱心でしたし、私は中二が対象ということで感激してしまいました。私のクラスは女学校二年生で全滅しました。昨日まで楽しく笑ったり冗談を言ったり、そんなクラスメートが全員大やけどを負い死んでしまう、そんなことが起こったのですよ、それがあなたの年齢なのですよ、というと、皆、顔が引き締まります。私は夢中で話しました。そして、その後も毎年私は跡見に行くようになりました。
 「夏の会」も毎年、スタートは跡見でということが定着し、私は毎年一月と夏に跡見に行くのが習慣になりました。中二の学年主任は毎年変わるのですが、最初の矢内先生は,以来ずっと年賀状をくださいます。こんなに丁寧な先生は珍しいです。
 この学校の素晴らしいところは、単に私を呼んで話をさせてくださるだけでなく、その前から事前学習を行っていて、私の「広島第二県女二年西組」を全員に読ませてくださるのです。生徒さんたちはそれでレポートを書き、毎年素晴らしいレポートがあり、感動しています。今年は矢内先生が、生徒たちに二年西組の生徒から、特に記憶に残る一人を選び感想を書くよう言ってくださったそうです。この現物はまだ見せていただいておりませんが、どの人に一番関心が集まったか、それこそ、私、興味を持っております。
 そんなことで、今年も跡見に張り切って、というより少し緊張して参りました。この学校は茗荷谷にあるのですが、我が家からは少し遠く、また私の歩き方が少し遅くなっていますので、十分時間をみなければなりませんが、講演の時間が朝の一時間目なのです。遅れては大変です。目覚めましなどをかけ、前の晩から緊張です。
講演時間は一時間です。今年は私の話(体験)は短めにし、原爆全体のことを知っていただくためヒバクシャの絵を十六枚ほど見せました。絵を見せるのは毎年のことなのですが、今年は少し内容を変え、沼田鈴子さんと、佐伯敏子さんの描いた絵を入れてみました。有名な「証言者」のことを言っておきたかったのですが。こんな証言者たちがもはや出ることはないと思いながら。沼田さんの絵は、沼田さんが麻酔もなしで足を切られる手術をされるところ。佐伯さんの絵は、自分が見た被爆者たちの絵。このヒバクシャは、怖い顔をして鬼のようです。あまり怖い顔で、色なしのデッサンということもあって、ヒバクシャの絵としては、あまり「人気」がないのですが、佐伯さんには傷ついたヒバクシャの顔が鬼のように見えたのでしょうね、と話しました。その後、矢内先生が代表していくつか質問してくださいました。これからどうすれば、の質問に、ヒバクシャの証言を忘れず、一部分だけでも胸にとどめて来るださい。そしてまたもっと若い世代に語り継いでください。核兵器は人類と共存できない最悪の兵器、なんとしてもこの兵器を禁止したい。その世論を強めてくださいと言いました。

 それにしても、今年、わが世代というか、戦争を知る世代の死が続きます。樹木希林さん、兼高かおるさんに続き、市原悦子さん、その同じ紙面に梅原猛さんが出ていて、うーんと思っていたら、今度は松本昌次さんの死去が新聞に出ていて、少しおちこみました。松本さん、一月十五日死去、腎臓がん、九一歳。松本さんは、知る人ぞ知る未来社の大編集者、後、影書房を作り,この時代に井上光晴さんの第二次「辺境」を編集。だいぶ前の手紙に井上先生に「書け」とはっぱをかけられたことを書きましたが、それで、出かけたのが影書房、同社がまだ大塚にあった時です。
 松本さんにはお世話になりました。落ちこんだとき行っては一緒に酒を飲みました。ここには金はないけれど、いつも不思議に酒はあるという松本さん。「編集者には人を癒す才能もあるので」と言われたのも忘れられません。それから長い編集者生活、儲かることは一度もなかったけれど、いい本を出し、頭も体も衰えず、最後まで健筆をふるわれた。「9条連ニュース」に昨年までコラムを書いておられたと思います。九十一歳だから、まあ仕方ないと思うけど、寂しいです。

 昨年暮れのNHKテレビ「天皇 運命の物語」の件ですが、どうも、見た方が多くて少々困っております。当時の毎日新聞の皇太子記者はもう皆亡くなっていますし(一人存命)、ぜひ当時の証言をと言われたら、出ざるを得なかったのです。ほとんど半日くらい録音した中であの部分だけ編集されると、少し、違うなと思うこともあり、困るのですが。「皇太子の恋」までの大きな流れがあり、それが見えないと困るのですが、
 ともかく、一番驚いたことは、あれを見た人の多さで、まあ、びっくりです。天皇のこと、皆そんなに興味があるのかと思ったり。それがかなり進歩的なインテリばかりだったのに驚きました。面白いことに、私の住む地域の女性たち、「皇室アルバム」に夢中になってみている方々が多いのですがこの方々はあの種の番組は見ていないのですね。あまりごちゃごちゃ言われなくてほっとしたのですが。この話、詳しくするとこんなスペースでは書けません。必要なら(中山さんがもっと知りたいと言われるなら)、また改めて書きます。
 追記 これで⑦はおしまいのはずでしたが、今、平岡敬さんからお葉書を頂きました。奥様が亡くなったので「喪中欠礼」のお葉書いただいていたので、私、新年になってから寒中見舞いを出しておいたのですが、そのお礼の手紙です。平岡さんの奥様第一県女と聞いておりましたが、一年生だったのですね。私と同じで体調を悪くし、作業を休まれ、助かったそうです。苦しかったこと、推察できました。作業を休んで助かったものは、単純に「運がよかった」など言えない思いがあります。「私は運が良かったとして、死んだ友は運が悪かったのか!」という思いです。生き残りの辛さ。実は私、跡見の二年生にも、この思いを語ったのです。
 多分、平岡さんの奥様も同じ思いを抱えながら、亡くなられたのではないか、と思いました。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。