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対話随想余滴 №6 [核無き世界をめざして]

   対話随想 余滴⑥中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山史朗

 まずは、新年おめでとうのご挨拶をもうしあげます。
   めでたさも 中の下なり おらが春
 私たちの「往復書簡」が始まってから七年の歳月が経ったことに、改めて驚いております。このような長い時間をかけて途絶えることなく続いている「往復書簡」は、過去に例がないのではないでしょうか。しかも、二人の被爆者によって紡がれた、証言の記録、核なき世界への希求が述べられた手紙の往復は、二人の生命が続く限り続くものと願っております。
 昨年は暮れの十二月二十四日に、NHKテレビで、たまたま『天皇運命の物語②』「いつもふたりで』を観ておりましたら、関さんが出演しておられる場面に出合わせ、そのあまりの偶然のことに驚きながら、拝見させていただきました。
 この番組は、天皇の平成最後の誕生日を記念して作られた、二夜にわたる特別番組でした。関さんは、▽日本中が沸いた世紀のご成婚▽その裏にあった強い決意とは、その場面で解説されていました。当時、毎日新聞に入社して間もない関さんが、取材チームに加わって取材されている写真や記事が出ておりました。淡々と解説される関さんは、堂々として見事でした。二十三年ぶりにお会いした関さんでした。
 この番組を観始めた時、大分県日出町に住む女性の方から電話が入り、「関さんが今テレビに出ておられる」と教えてくれました。「私も今観ているところです」と答えると「安心しました」と言ってすぐに電話が切られました。彼女は『往復書簡』の読者でしたが、嬉しい話でした。
 年頭のお手紙を読みながら、関さんがお正月の料理を調えてお子様たちも迎えられる、温かい光景が伝わってきました。そして、「たぶん、来年はできないだろう」という関さんの年相応の衰えの予感、それは私にも共感されるものですが、深くつたわってきました。
私の新年は、四日にかかりつけの医院、九日には別府医療センターの診察ということからはじまりました。いずれも、ボランティアの人に付き添ってもらっての病院通いですが、身体のあちこちに支障をきたし、まさしく明日をも知れぬ身を感じざるを得ません。
 昨年末、広島の中国新聞の客員編集委員・富沢佐一さんから電話取材がありました。その記事は、十二月二十八日の『高校人国記』国泰寺高校(広島市中区)に、核兵器廃絶へ思いを一つに生きた学者・医師が取り上げられていました。その中の一人として、私も加えられていました。その見出しは、
  <愚直の一念。被爆者の痛みを死ぬまで書く>
 となっていました。
 また、余滴②で爆心地から七〇〇メートル離れた広島一中で、倒壊した校舎から脱出することができた生徒が、その後、多発性癌に侵され、九回も手術をしたという話を書きましたが、このたびの記事によって、その生徒の名前は児玉光雄(86)君と言い、一九回もがんの手術を受けながら、広島市被爆体験証言者として、語り続けていることが分かりました。
 私たちの対話随想で何度か書きました片岡脩君も児玉君同様に倒壊校舎からの脱出組の一人でしたが、原発不明の癌で亡くなっていることをあらためて思いました。
 こうしたことを振りかえりながら手紙をしたためておりますと被爆死ながら八八歳の今日まで命長らえたことが不思議としか思えません。戦時中は、二十歳の命と教えられ、陸軍幼年学校や海軍兵学校が憧れの対象でした。原爆が投下された広島は、六十五年間は草木も生えぬと言われ、ましてや、被爆した者の生命は短いとされました。そうして歳月を経てこの年齢まで生きていることは、死者によって生かされているというよりも、罪深さのようなものが私の内部に沈殿していることも事実です。
 最近、平成最後の年、戦争がなく災害の多かった三〇年ということがしきりに言われるようになりました。けれども、今年は昭和九十四年と換算する私にとっては、昭和の戦争は、敗戦で終わったとは思っていないのです。したがって、このたびの関さんのお手紙を読みながら同じ思いで筆を執っておられることを感じました。
 石浜みかるさんによって、お父さんのキリスト教の信徒である石浜義則さんが、治安維持法違反で捕まり、そこでン原爆に遭った話。獄内での朝鮮半島出身政治犯との交流。そのうちの一人が韓国でヒバクシャ運動をはじめ、一九九七年に最初の使節団で来日した際、石浜さんの証言で被爆者手帳を取得した話。石浜みかるさん本人は、目下、キリスト教の満蒙開拓団のことを調べておられ、間もなく出版される予定であるとの報告がありました。
 その他に、NHKの山上博史さんとピアノの先生長橋八重子先生(以前往「往復書簡」に掲載)との追憶。宇都純子さん(原爆の詩や手記の朗読)が復活公演として、佐伯敏子さんお手記を一時間半にわたって朗読された話。武蔵大学で行われた被爆遺産継承の会の報告、韓国被爆者たちの手記の朗読、その運営に当たった同大学の教授・永田浩三氏(元NHKディレクター)は広島の被爆二世という宿命がありました。お母さんは、被爆後縮景園を通って、原民喜と似たようなコースをたどって避難されたとのことでした、
 手紙の末尾には、「二世の方々、若い方々、ヒバクシャでなくて原爆の問題に熱心な方々と知り合い、私は改めて勉強しなおしました」
 と結ばれていました。
 この言葉のように、関さんは今もって大勢の被爆関係者を訪ね、話を聞いておられます。
  私自身を振り返ってみても、関さんとても年齢から来る体力の衰えはあると思われますが、知れを克服しながら話を聞きに行かれる姿勢には敬服せざるを得ません。そこには辛い歴史を埋もれさせず、戦争の悲劇を伝え、核なき世界を後世に伝えるという強い意志の表れだと思います。国策が生んだ惨禍を記憶に残し、証言できる最後の世代の発言だと思っています。

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