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続・対話随想 №50 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想№48 中山士朗から関千枝子様へ

                            作家  中山士朗
 
 私たちの『ヒロシマ往復書簡』から始まった『続対話随想』も、関さんから№47の3が送られてきて、最終回となりました。掲載の順番によって、私がなんとなく「あとがき」を書くことになりましたが、私がなんとなく『あとがき』を書くことになりましたが、荷の重さを考えております。
 このたびの関さんの手紙を読みながら、以前手紙に引用しました立命館大学の福間良明教授の言葉、
 <「平和は尊い」と結論付けたり、感動的に仕立てたり、メディアで繰り返されてきた予定調和的な語りでは、見えなかった「過去」や「ものの見方」もある。戦争を正しいもの」としてしまった社会や政治のメカニズム、誰かを悪人にして、思考停止するのではなく、どう多角的に解き明かし、現代と照らし合わせるか、わかりやすい話にはならなくても、従来と違う視点が提示されれば、意外性を感じて興味を持つ若い人が出てくるであろう.>
 この示唆的な言葉が実感として伝わってくる、それぞれの内容でした。
 冒頭にありました近年の高校生の修学旅行においては、これまでの広島や長崎の甚大な原爆被害を後世に伝える建物や資料館、沖縄戦の惨劇を伝える戦跡や祈念資料館などの歴訪が、予算を理由に削られ、また「悲しみの記憶」からマイルドな方向の旅へと変えられようとする現実を関さんは指摘されました。
 手紙には、
 広島大学の文化人類学が専門の楊小平さんが、広島大学に留学したこと、原爆という凶悪な兵器のことを深く知り、今は資料館のボランティア活動をしているが、広島の人の原爆に対する激しい怒り、廃絶への念願に反して、あの戦争に対する加害の認識の薄さ、特に中国への侵略戦争を忘れた人もいる現実の問題を感じている楊さんの内面。そのことが関さんの靖国問題に繋がっていく過程。ひいては「動員学徒慰霊碑」と靖国神社の思いについての考察。
 朝日新聞の、原爆のことを説明した新聞に、広島市の建物疎開のことが全く書かれていないことから、記録の正確な警鐘を指摘。
 学制改革で母校を失った山中高女と第二県女に被災地での碑を建てることを進言し、以後、その慰霊碑と折り鶴を収めたケースは町内の人びとによって大切に守られ、追悼式が行われてきた話。
 八月十一日、北杜市のやまびこホールで行われた「Peace Concert 2018」での、早川与志子さんの平和への思い、テレビ人として、またフリーのジャーナリストとして生きてきたことが凝縮された3時間の内容が、感動的に伝わってくる話。
 八月十八日、大田区区民プラザで開かれた「平和のための戦争資料展」における、関さんが構成された「似島」を長澤幸江さんが朗読されたこと、また、彼女は、六月の「沖縄の日」の式典で女子中学生が読んだ素晴らしい詩(私も鮮明に記憶しています)を墨書されているという感動的な話。
 が書き連ねてありました。
 長編になってしまったことを気にしておられますが、これでもまだ足りなかったのではないかと推察しております。読み終えて、関さんの生命を燃やし尽くすような行動力、それにともなう人々との交流の濃さに感嘆しております。外出もままならず、ひたすら読み、書いているわが身が思われてなりません。
 けれども、お手紙の中で拙著『天の羊』に出てきます南方特別留学生、原爆供養塔などの話が出てきますと、日本各地を取材して回ったころの元気さがよみがえって参ります。」
 『天の羊』は、副題が被爆死した南方特別留学生となっていて、昭和五七年五月十五日に三交社から出版されたものです。帯には、次のような解説が添えられていました。
 <それら歴史的事実の中には、大勢の人間の苦悩、悲しみ、死がこめられているはずであった。…・かつてこの場所に、東南アジアからの留学生たちが、アジアの国生み、八紘を一宇とする肇国の大精神という、他国の戦争遂行の理念に従わされ、飢えに耐えながら勉学したのも、すでに人々から忘れ去られていた。>
 この大東亜省招致による南方留学生は、昭和一八年に日本の占領下にあった南方諸地域から一〇〇名、昭和十九年には一〇一名が来日しましたが、そのうち、広島に原爆が投下された時、広島文理科大学の留学生のうち二名が被爆死したのでした。その二人の死をおって書いたのが『天の羊』でした。
 そしてお手紙の中でとりわけ強い記憶となったのは、人と会う時に原爆供養塔の前を待ち合わせの場所に選んだ森沢さんの話でした。実は私は、森沢さんの父・森沢雄三さんが建設に力を尽くされた供養塔の内部を訪れ、無名の死者の霊位に合掌させてもらったことがあるのです。この時の話が『天の羊』の中に詳しく書かれていたことに、私自身その偶然性に驚いています。 
 余分なことだと思いますが、文中から.抜粋してみました。

 昭和四六年二月に、私は広島に行ったが、当時、広島平和記念資料館長であった小倉馨氏の紹介で、広島市役所年金援護課の高杉豊氏に会い、供養塔の地下安置室の内部を見せてもらったことがある。/供養塔は、公園の北外れにあった。以前は、土饅頭の上に『広島市原爆死没者諸霊位供養塔』と書かれた木碑が一本立っていただけのように記憶していたが、今見ると、美しく芝生が張られた直径一〇メートルほどの円墳の頂きに五輪の塔が置かれ、正面入り口の左右には石灯篭が据えられている。その手前の祭壇の前に立つと、背景の緑が目にしみる。/私たちは供養塔の裏側に回った。すると、中央の一部分が鋭く切り取られていた。そこから、内部に通ずるコンクリートの階段が下に伸びていた。人ひとりがやっと通れるほどの階段をもった通路と、白く塗られた銅製の扉が正面にあった。扉のところには、「安置所」と書かれた表示板が取り付けられていた。・
 扉が開かれると、高杉氏は入口の左側の壁に沿って手を動かし、点灯のスイッチを探した。明かりが点って安置室に入って行くと、まず最初に私の眼に映ったのは、祭壇と、その中央に置かれた高さ一メートルほどの多宝塔であった。高杉氏が最初に合掌し、その後で私も祭壇に向かって手を合わせた。---―なんという静けさであろう。私は安置室の内部に視線を移しながら、次第に言葉を喪失していった。/正直なところ、安置室というより、遺骨を収納した、すこぶる近代的な倉庫と言った感じが強かった。/三方の壁に沿って設けられた、床から天井まで届く高さの鋼鉄製の棚には大小の木箱が隙間もなく積まれていた。左手の棚には、一合枡に木の蓋を取り付けたような四角い箱が整然と並べられていたが、これには氏名を書いた紙が貼りつけられている。そして、正面と 右手の棚には、縦一メートル、幅三十センチメートル、深さ八十センチメートルほどの木箱がならべられ、はみ出した木箱は、その棚の前の床に直かに積み重ねられていた。/わたしは高杉氏に断って、左手の棚の中から一合枡に似た木箱を取り出し、掌の上に載せてみたが、私が想像していたよりはるかに軽い物体であった。/この個別の名前があるのは、各町内会長が預かっていたものを移送したもので、その数は、約二千柱におよんでいた。/大きな箱の一部には、「進徳高女」とか、「己斐小学校」とか言ったように、学校名を記載した紙が貼られていたが、これらはその学校の校庭で荼毘に付された人たちの遺骨であった。/高杉氏はすぐ近くにあった床の上の木箱の蓋を開き、その内部を見せてくれた、蓋の表面には「住所氏名なし」と書かれた札が貼られていた。/「あの時大勢の人が似島に送られて来ましたからね。そこで亡くなられた方で、しかも、名前が分からないといった人たちのお骨なんです」と高杉氏は言った。/内部を覗くと、骨片というより、むしろ骨粉と言った方がはるかに適切な、焼け砕けた遺骨がびっしりと詰まっていた。/こうした箱の数は、約八十もあり、十二万から十三万人の遺骨と推量されている。/安置室の中は静まりかえっていた。/乾燥空気を送り出すかすかな機械音が耳の底で振動していたが、やがてその振動が安置室の中の全ての遺骨から伝播する振動と共鳴し、室内全体が死者の声で満たされていくのを感じた。箱の中の骨片がいっせいに空間を漂いはじめ、組み合わされ、死者の言葉となって私をつつみ始めた。/「人間のものとは思えません。哀れなもんです。」と高杉氏は最後にしみじみ語った。/
 このたびの関さんの手紙を読みながら、過ぎ去った時間を慈しみながら思い、返事をしたためました。ひっきょう関さんも私も<生かされた生命≫を生きて来たのだと改めて思います。そして、このことが二〇〇〇年から始めた『ヒロシマ往復』(第Ⅰ~Ⅲ集)から対話随想として完結をみたと私は信じています。原爆について語られることが少なくなった現在ですが、私たちが成し遂げた仕事は、被爆者が生きた記録と記憶として必ず継承され、後世の人に読み伝えられていくものと信じております。

 関千枝子中山士朗「続対話随想」を読んでくださいます方々に

「続対話随想」はこの48で終わらせていただきます。次回から「対話随想・余滴」という形で、書かせていただきます。
 関、中山 二人の手紙のやりとりは2012年から始まりました。当時中山さんが原爆症の認定から外されたことへの怒りでした。中山さんが1,5キロの至近距離の被爆でケロイドに苦しんでいるのに、持病が心臓疾患では原爆症と認められないというひどいものでした。ここから始まった往復書簡ですが、原爆について書きたいことは尽きることなく今まで続いています。その中で往復書簡は本になり2016年夏までを3冊の本にしました。現在の出版の状況で売り上げだけで採算をとれることは見込めずいくらか資金を用意して出版したのですが、それもなくなり、第Ⅲ集をもって終わりにします、と書きました。
 その後も知の木々舎のブログでのやり取りは「続対話随想」として続いていますが、この間、中山さんが癌を発病しました。熟慮の末、中山さんは手術をせず、抗がん剤も使わず、自宅で療養していますが、不思議なことに体調は悪化せず、元気に書き続けています。皮肉なことですが、がん発病のため、6年前はすげなく断られた原爆症の「認定」を受けられることになりました。中山さんはこれを非常に喜び「これで自分はヒバクシャとして死ぬことができる」と言っています。そして、この「認定」の金で「続対話随想」2018年夏48までを本にしたいと申されました。
とにかく私たちの原爆、戦争、平和に対する思いを、後世への証言として残したいということです。今編集にかかっております。できたら今年中に出版できたらと思います。
 幸い私たち、まだ生きられそうな気がします。生ある限り、書きたいと思います。やっと核兵器禁止条約ができたのに、我が国の政府は署名もしないのですから。怒り続けるしかありません。次から「余滴」が始まります。ヒバクシャの執念におつきあいください。


※続・対話随想は№47が①②③と続いたため、今回は実質№50となります。(編集部)  

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