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立川陸軍飛行場と日本・アジア №168 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

  立川町に朝鮮人町会議員誕生・慰問袋が届いた先は…

                     近現代史研究家  楢崎茂彌
  
  立川町に、日本で初めての朝鮮人町会議員誕生
  連載NO80にも書きましたが、日本が支配していた朝鮮半島出身者も台湾出身者も、内地に寄留(寄留法 第一条 九十日以上本籍外ニ於テ一定ノ場所ニ住所又ハ居所ヲ有スル者ハ之ヲ寄留者トス)して一年経っていれば“帝国臣民”として、選挙権・被選挙権を得ていました。そして昭和7(1932)年の第20回総選挙では、東京第4区から立候補した朴春琴168-1.jpg氏が当選を果たしています。
  1933年4月1日、立川町会議員選挙が行われ即日開票、金潤秀氏が中島舜司前町長と同票の75票を得て堂々当選しました(最高得票は163票)。「東京日日新聞・府下版」(1933.4.2)は、棄権が意外と少なかった為に大番狂わせが生まれ、“朝鮮人も盲人も轡をならべ当選”と報じています。盲人の当選者は連載NO63に登場した大川熊吉氏です。当時立川町には朝鮮人有権者は20余人しかおらず、50余票は日本人の票でした。残念ながら金潤秀氏がどのような人物であるかは分かりませんが、在日韓国朝鮮人の人権確立のために運動を続けている田中宏一橋大学名誉教授によると、この年には全国で3人の朝鮮人が町会議員に立候補し、1人が当選しています。彼が日本初の朝鮮人町会議員であったことは間違いないようです。因みに市会議員は、もう居たようです。
 
  三多摩を含む東京都制案、衆議院に上程
  僕が子どもの頃、斜め前の並木さんの門に「東京市世田谷区新町」という小さな札がかかっていました。当時の世田谷区は区部で言えば辺境に当たっていたし、子どもの僕らには“東京市”の意味が分からなかったので“東京市のボロ門”などと呼んでいたのですが、この門が建てられた時期が分かりました。昭和7(1932)年、東京市の範囲が拡大され、それまでの15区から世田谷区を含む35区からなる“大東京”が実現したのです。東京都が誕生するのは昭和18(1943)年ですから、この間に建てられたのですね。
  この東京市拡張の際、取り残されることを恐れた三多摩の代議士・府会議員・町村議会議員たちは“八王子市三多摩郡東京都市区域編入期成会”を結成し、東京市編入に向けて運動します。しかし、府知事は“同地方の沿革ならびに財政上の見地から之を観れば同地方が東京市に編入を希望するは首肯すべき理由あるも、都政施行と市域拡大とは自ら個別の問題にして、この際東京市域に編入することは種種の事情上適当とならずと認め之を除外する”として、三多摩は東京市には入れませんでした(「東京百年史」東京都1974年刊)。しかし、北多摩郡千歳村と砧村は、4年後にちゃっかり世田谷区に編入されています。それにしても、今の東京都が一つの東京市なんて、いくら何でも大きすぎますよね。
  昭和8(1933)年に、政府は補則などを加えると321条に及ぶ“東京都制案”を議会に上程します。東京都から除外されては大変だと“三多摩都政包含期成同盟会”の代表として八王子市会議長、北・南・西郡会町村町会長などが上京し、内務省に出かけて、議案提出の陳情を行いました。
  3月12日法案の説明に立った山本達夫内務大臣は、“残る所は、ただ三多摩並びに島嶼部分をいかに取り扱うかという問題であります。而して之に付きましては、沿革その他の理由に依りまして、之を都の区域に編入することを適当なりと認めたのであります“
  と説明します(1933年3月12日衆議院本会議)。そのあと議案は都政案委員会に付託され、3月14日の委員会で政友会の中井一夫議員が次のような質問をします。
中井議員:この案によると三多摩及び島嶼も含んでいるようであるが、何の必要があってこれを包含するのであるか。丸で東京市が東京府に吸収されたようではないか。
  与党に反対議員がいるのですね。大臣は次のように答弁しています。
山本内務大臣:警察、交通、衛生その他東京府を最も適当な区域と考えたからからで、殊に三多摩は東京市の水源地として重要な関係をもち、また府にも不離な関係なり区別は実際上不可能である
  また中井議員は次のように政府を追求します。
中井議員:知事にすら公選論がある今日、都長を官選にすることは時代逆行も甚だしい
山本大臣:ご意見はしごく尤もで、私共もそう思ってはいるが、官選にした理由はいろいろのことがある。しかし、ここでその理由を明瞭にすることはちょっと出来かねる。
(「東京日日新聞・府下版19933.3.15」)
  浜田国松委員長は、一番の問題は都長官選だと指摘し、政府が公選に同意すれば法案は可決されるかも知れないと述べますが、結局、都政案は本会議に上程されないままに葬りさられます。
  
  慰問袋が届いた先は…
  今年制作したビデオ「戦争と立川の子どもたち」の取材で、小学校の時に送った慰問袋を受け取った兵士としばらく文168-2.jpg通を続けた佐藤さんのお話を伺いました。そんなこともあって慰問袋を送るのは小学生や女性だと思い込んでいましたが、「東京日日新聞・府下版」(1933.3.25)は、立川にあった日本飛行学校の学生たちもが慰問袋を送ったことを報じています。写真を見ると皆立派な大人です。
  送った慰問袋の中身は、缶詰、キャラメル、手帳、歯ブラシ、雑誌キングに現金一円で、それに手紙を添えました。手紙の文面は“缶詰はいくら急いでも決して剣で開けたりしてはなりません。剣は兵器ですから、損傷したら大変です。キングは為になるものですから暇があったら読んで下さい。一円は少ない金ですが、私達気持ちですから受け取ってください”というものでした。
168-3.jpg  3月24日に、慰問袋を受け取った相手から返事が届きました。文の書き出しは“貴殿より御恵贈下され候慰問袋、小生に配給相成り有り難く頂戴”とあり、差出人は満州に派遣されている陸軍飛行第五連隊隊長辻邦助大佐です。軍隊に不慣れな初年兵にでも届くつもりで手紙を添えた一同は、この返事を受け取ってビックリ。飛行学校の生徒と大佐では天と地ほどの差があります。慰問袋を送る中心になった中村君は“あれを書く時少し注意し過ぎた書き方かと思ったのですが、皆で相談した上で送ったのですが…、仕方がない、隊長も悪く受け取らないでしょう”と語って、弱った心を慰めていると「東京日日新聞・府下版」(1933.3.25)は報じています。こんな偶然もあるのですね。
  では、辻大佐がこの時点で所属している関東軍が何をしていたのかは次回紹介します。
 
写真1番目  立川町新議員 金潤秀  「東京日日新聞・府下版」 1933.4.2
写真2番目  問題の慰問袋を送った日本飛行学校の人々 「東京日日新聞・府下版」             1933.3.25
写真3番目  辻大佐   「東京日日新聞・府下版」  1933.3.25

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