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続・対話随想 №46 [核無き世界をめざして]

続・対話随想46 中山士朗から関千枝子様へ

                                作家  中山士朗

 このたびの西日本豪雨がもたらした悲惨な光景をテレビで観ながら、関さん同様に被爆直後に広島を襲った枕崎台風を思い出さずにはいられませんでした。伊勢湾台風に次ぐ猛烈な大型台風でした。このことは何時か『ヒロシマ往復書簡』で、水浸しになったバラック小屋の中で家族が必死で私を支えてくれた話を書きました。そして、間一髪、潮の流れが引き潮にかわり事なきを得ましたが、その間、全身火傷を負った私の病床を蒲団で囲って守ってくれた家族のことは、今でもはっきりと記憶に浮かびます。
災害のもっともひどかった広島では、人々は四年前の広島市安佐南区の災害を思い起したとされていることについて、関さんが被爆直後の枕崎台風について思いを新たにしていられたのは、私も同じです。
 そしてその頃、関さんが寝床の中でそっと髪の毛を引っ張ってみて、抜けないので安心されたという話は私にも同様な経験があります。私の場合は、私が寝ている間に母がそっと私の髪の毛を抜いてみたというのです。
 また、関さんの学校の一年生と二年生の半数が建物疎開作業中に急遽、東練兵場に行くように命令された際、級長どうしの話し合いで、何事も東西東西で,東が先と決まっているという理由から東組が東練兵場に行くことに決まったという話、大変興味深いものがありました。これと似た話が私にもあるのです。私たちは、通年動員で軍需工場(東洋工業、現マツダ)に通っていましたが、三学級がA班、B班に分けられて工場に配属されていました。今から思うと、敵性語とて英語の時間が無くなったのに、なぜアルファベットのローマ字が使われていたのか、理解に苦しみますが、その班別で、臨時の一日交替の建物疎開に出動していました。原爆が投下された八月六日の月曜日は、私が属するA班の日でした。ことほど左様に、人間の運命は簡単に左右されるものであることを関さんの手紙を読みながら感じたことでした。そして、七十三年経って初めて客観的に話せる時間が持てたことを実感しております、
 そのような思いにとらわれているとき、このたびの台風で被害の大きかった坂町小屋浦地区で、危機一髪、母と娘が避難して命が助かったということがテレビで報道されている場面にたまたま出会いました、その女性は、平素、祖母から枕崎台風のことを聞かされていて、その状況を察知し、いち早く近くに住む祖母のところに避難して命拾いしたのでした。その話を聞きながら、私たちと同時代に育った者に刻まれた記憶は、容易に消えるものではないと思いました。
 ただちがう思いは、枕崎台風の後は、
 国破レテ 山河アリ
という思いがしたのに対して、今回の西日本豪雨による災害は、
 国乱レテ  山河マサニ荒レナントス
というのが正直な印象です。
 話が途切れてしまいましたが、坂町小屋浦に、似島からも移送されて死亡した人たちを悼む「原爆慰霊碑」があることを知ったことも、またその記事を書いた人が朝日新聞の宮崎園子さんであったことも驚きでした。
 たまたまのご縁で知ったのですが、このところ宮崎さんの書かれる記事をしばしば耳にしております。
 ご縁と言えば、前回の手紙に書きました、「旭川原爆被爆者を偲ぶ市民の集い」の実行委員の石井ひろみさんもその一人です。
 先の手紙で、私の広島一中時代の同級生だった学友が、旭川の施設に入ったことを石井さんからの連絡で知った話を書きました。その時、名前を伏せて書きましたが、砂子賢介君のことでした。その後で石井さんからこの七月三十日に行われた「しのぶ市民の集い」の会のレポートと砂子君に関する資料を送っていただきました。お礼かたがた電話で話しておりますと、今回、私に連絡したのは、濱田平太郎さんの消息を知るためでした。送った郵便物が戻ってきたために、私のところに問い合わせがあったという次第です。石井さんの説明によると、濱田君は、たびたび北海道を訪れ、そのつど旭川にいた砂子賢介君に会っていたとのことでした。登山家でもあった濱田君は、世界各地の山岳を訪ね写真を撮っていましたので、北海道に行ったのも、そうした目的の旅だったのかもしれません。
 今回、石井さんから頂いた資料の中に、砂子君が被爆体験を語った記録がありました。その中に、夫人の絹子さんが語っておられる個所があり、砂子君の病状がそれとなく知らされていました。
 <結婚して四十年余り(昭和四十三年結婚)、定年退職した夫と過ごす時間が長くなり、数年前から、夫の被爆した事実を聞いておかなければ…・、という気がしてならなくなりました。長い教員生活の中で、時々は子どもたちにその日のことを話したりしていたようですが、私は十七年前、ご縁があって東川のお寺で体験を聞かせてくださいということで、話しを聞いたのが、最初で多分最後だと思います。今は、だんだん昔の記憶がはっきりしなくなってきて…・。もっと早く聞いておくんだったなあと残念に思っています。>
 夫人との対話の中で、砂子君は学徒動員で東洋工業に通い、旋盤工として働いていたが、一日交替で市内に戻り、鶴見橋近くで立ち退き家屋の処理をしていたこと、八月六日のあの日も鶴見橋近くの作業に出動していて被爆した話を冒頭に語り、その後の避難状況や、熱線と放射能を浴びたひどい火傷、家の下敷きになって行方不明となった祖母。母と弟、妹の三人が東練兵場に避難したことなどを説明しています。そして昭和二十二年六月に北海道の従弟が迎えに来て、美深の叔父の家に着いた時の話、一度は郵便局に就職したが復員してこない先生がいるというので、恩根内小学校の代用教員として勤めることになった経緯を語っているのです。
 この対談を企画された石井さんに,私は不躾にも「石井さんは広島、長崎いずれの地で被爆されたのでしょうか」と質問したのでした。すると、「私は戦後生まれで、まだ六十歳です」という返事がもどってきました。聞けば東京で十六年間、演劇の勉強をしておられたということでした、現在も『テアトロ』を購読していて、村井志摩子さんの逝去を知ったと語ってくれました。資料に添えられた手紙には、
<私は戦後生まれですが、ヒロシマ・ナガサキそしてフクシマの体験を、記憶しておくこと、記録しておくこと、それが大事なことだとおもいます、>
 と書いてありました。
「旭川原爆被害者を偲ぶ市民の集い」はこうした人たちによって支えられていることに深い感銘を受けました。
 このたびの集いには、広島、長崎、旭川の各市長からメッセージが寄せられ、道北で故人となられた方々の紹介がなされていました。そして、手紙の末尾には、『原爆供養塔』の筆者の堀川恵子さんに来ていただく予定になっております、と書いてありました。また、電話での話のなかで、「集う会」では、担当者を決めて、毎月一日と十五日には私たちの
『ヒロシマ往復書簡』を検索することにした、との知らせがありました。
 このようにして、私たちの仕事が伝わって行き、 ありがたいことだと思っています。
 往復書簡(第Ⅲ集)の「鶴見橋――炎の古里」で紹介しました相原由美さんが、八月十五日付の朝日新聞≪記録と記憶 消された戦争>に、七一年経て届いた父の「最期」―-冷戦下に埋もれたシベリア抑留という見出しで大きく紹介されていました。
 往復書簡では、戦友の話からシベリアに抑留されていた父親は、バイカル湖近くの収容所で、伐採作業中に倒木の下敷きになって死亡したことになっていました。二〇一六年に初めて抑留による犠牲者を追悼する会に出席した際、申請によってロシアから厚労省に引き渡された、カルテや、捕虜となった前後の状況など詳細な記述がある個人資料が得られることを相原さんは知りました。自ら厚労省に問い合わせ、資料を入手することができたのでした。送られてきたのは、「病院で死亡」という通知でした。二二枚のロシア語の文書を翻訳してもらうと、それは病院のカルテでした。それには、腰椎骨折、睡眠不足、食欲不振、不整脈、うわごとを言うなどと記されていました。
 それまで、冷たい土の上でン亡くなったと思っていた父が三四日間、手厚く看護されていたことが判り、気持ちが少し楽になった、と相原さんは語っていました。
 私は新聞を読み終えると、すぐに相原さんに電話しました。相原さんは、厚労省に自己申請した経緯を語ってくれましたが、私は聞きながら改めて戦争の記憶と記録について考えなければいけないと思いました。
終戦から七三年を経た今日、戦争、原爆を直接知る世代が減る中でどのように当時を検証し、記憶を継承すればいいのかと考えさせられます。
これも朝日新聞に掲載されていたのですが、立命館大学の福間良明教授(歴史社会学)によれば、
決まり文句のように「平和は尊いと結論付けたり、感動的に仕立てたり、メディアで繰り返されてきた予定調和的な語りでは、見えなかった「過去」や「ものの見方」もある。
戦争を「正しいもの」としてしまった社会や政治のメカニズム、誰かを悪人にして、思考停止するのではなく、どう多角的に解き明かし、現代と照らし合わせるか、わかりやすい話にはならなくても、従来と違う視点が提示されれば、意外性を感じて興味を持つ若い人が出てくると思う。
と示唆的な言葉が綴られています。

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