SSブログ

シニア熱血宣言 №106 [雑木林の四季]

戦後73年夏・脳裏の残像

                         映像作家  石神 淳

 大東亜戦争の終結から、73年目が巡ってきた。
 歴史的に節目の年ではないが、八月十五日を、「終戦のの日」として迎えるか、また「敗戦の日」として、再び心に刻むのか、毎年心の中で対話を繰り返している。
 私にとっては、毎年、脳裏に幻影を迎える節目の日だ。
  八月十五日は、やはり「敗戦の日」がふさわしい。八月十五日を境目にした残像が、腐るほど脳裏に秘められているからだ。
 無駄話だが、もし日本が戦勝国になっていたら、どうなっていただろうか。当時の世界情勢から推察して、世界平和の均衡が保たれたとは思えない。例え敗戦が遅きに失しても、負けてよかったと納得せざるえ得ない。
 普段は幽閉した脳裏から、冷凍保存した幻影を導き出し、いちいち文章で描写するのは、難しいことだから、脳裏に浮かぶ幻影を羅列してみたい。言わば、幻影の「虫干し」である。
 もしも今日にでも寿命が尽きたら、脳裏に凍結した幻影を抱きながら、この世と決別するのだろうか。
 過去に、黄泉の国と俗世の境界を、我が肉体から離脱して浮遊したことがあるが、せっかく迎えに来てくれた、黄泉の国から迎えに来てくれた、ご先祖と父母に迎え入れて貰えず、俗界に留め置かれた。
 ご先祖たちが、どうして俗世で生かしてくれたのだろうが、それ以来、恩に報いる生きたかをしていない。
 脳裏に幽閉した幻影は、言わば残滓のような存在だから、できることなら、残像をサッパリと消去して、黄泉の国に旅立ちたいと願っている。
 
  敗戦73年目夏の幻影を無差別に羅列------。
 
  ●昭和19年3月、東京大空襲の夜。灯火管制下の炬燵の中。「負けかも知れんな」と、くぐもった声で呟くオヤジの声。東側の窓のすりガラスが、夕焼け空のように真っ赤に染まった。翌日、火の見やぐらを背景に、魔法瓶のような爆弾が、頭上に・・・瞬間、防空壕がまっ逆さまに・・・湿った赤土のいが壕に立ち込め・・・それでも生きて
いた。
 ●集団疎開した、群馬県新里村の善龍寺庭先の篠竹の林の向こう側の空が真っ赤に染まった。一カ月余り入院していた前橋の病院を退院してから、6時間そこそこ。いまも、猛火に包まれ階段を逃げまどう夢をみる。あの夜の地獄絵図を、誰が予知していたのか・・・。まさしく九死に一生。
 ●小さなマッチ箱のような爆弾で、広島の街が焼け野原になった。噂が群馬県の疎開先の小学3年生の耳にまで伝わってきた。新聞もない。ラジオをすら聞けなかったのに、どうして・・。東京大空襲の夜、灯火管制で真っ暗な炬燵で聞かされた、「負けかも知れんな」オヤジの呟きが・・・。
噂、千里を走る・・・。
  ●敗戦の年の8月15日。空は深海のような紺色に染まっていた。いまだ、あんな空の色を見たことが何い。
 朝食を済ませ寺の庭に出る。小机と折り畳んだ白い布が、寺の縁側に置かれ、見慣れぬ男が庭を掃き清めていた。何時もと違うピリピリした雰囲気だった。
 その時突然・・。重低音を響かせ、ピカピカなロッキードP51と、紺色の艦載機グラマンが、超低空で善龍寺の屋根すれすれに旋回した。笑顔で手を振る操縦士の顔がはっきり見えたが、怖さは感じなかった。
  玉音放送----。天皇陛下のお言葉は、ザァー・ザァーと雑音で聞き取れず、勿論、子供にには意味不明。ただ、下駄の鼻緒を見つめ、硬直していた敗戦の日の炎天下。
 篠竹の林の小路を駆け下りて、澄んだ小川の渕に飛び込む。ぐんぐん渕の底をめがけて潜る、キラキラと輝く小魚の群れ、キーン・キーンと、底に転げ落ちる小石が、微妙な音階を刻んでいた。
 あの深い紺碧の空と、渕の底から発する微妙な音階は、敗戦の日の記憶として、脳裏の奥底から消えない。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。