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続・対話随想 №47 [核無き世界をめざして]

     続対話随想47① 関千枝子から中山士朗様

                                     エッセイスト  関 千枝子

 酷暑と大雨、台風。二〇一八年の夏は、ひどい夏でした。モリカケも、文書偽造など様々な官庁の悪事も、いい加減なまま。核兵器禁止条約は「無視」され、,改憲にはあくなき執念の安倍総理。腹立たしい限りですが、私個人にとっては、新しい「出会い」もあり感激的なこともたくさんありました。
 七月十九日、ある都立高校にヒロシマ修学旅行の事前学習に行ってまいりました。原爆のことを話すのに、ヒロシマ修学旅行は最高の場だと思うのですが、一九七〇年代から九〇年代までの最盛期を過ぎ、今、東京の公立高校では、広島修学旅行など壊滅の状況です。私が話に行くのは私立の中、高校、それも女子校ばかりです。都立高校(それもなかなかの進学校)のお招きにはまず「感激」。「ヒロシマ修学旅行」は久しぶりです、などと言われるので、戦争のことなどあまり知らないのでは、など緊張したのですが、静粛に、よく話を聞いてくれ、質問も核兵器禁止条約への政府の態度など大変鋭く、感心しました。
 担当の先生に伺うと、広島は久し振りだが、沖縄にはずっと行っていたし、去年は長﨑だったと。なんでも近頃東京都の教育委員会は、修学旅行の費用の上限を決めていて「うるさい」のだそうです。沖縄だと往復飛行機なので金がかさみとても駄目。長崎は,行きは飛行機を使えるが、帰りは列車になる、長崎から東京まで列車だと今時の高校生は退屈するので、広島にした(往復列車で費用に問題なし)ということでした。そんなこともあるの!と驚き。
 この修学旅行の責任者の先生は社会科の先生で、きちんと歴史を教えておられるようです。東京都の教育委員会は石原都政のころからめちゃめちゃで、私など、もう公立校はだめとあきらめていたのですが、きちんと平和教育をやっておられるところもあるのですね。うれしかったです。
 八月三日から広島入りしましたが、早朝出発、昼ごろ広島着、ホテルで、広島大学の客員研究員の楊小平さん(中国人)と待ち合わせ、楊さんの車で広島をまわる大変忙しい日でした。私の若い友人・堀池美帆さんも、同行しました。堀池さんは往復書簡でも紹介しましたが、彼女が高校一年生のとき、広島で出会い、原爆に興味を持っている近頃珍しい女子学生ということで友人となりました。彼女も来年は就職です。八六のヒロシマ旅行もこれが最後になるかもしれません。今回の広島はなるべく私と一緒にいたいというので楊さんに了解してもらい、三人の「旅」になったのです。
 そこで、楊さんですが、この人に会えたのは、驚きでした。彼、中國、四川省成都の人で来日、広島大学に留学一二年目だそうですが、日本語ペラペラ、ほとんど完璧です。
 楊さんには、七月に上京された時一度会っています。彼は、もともと文化人類学が専攻で、中國にいたころは原爆についてあまり知らなかったそうです。たまたま広島大学に留学したことで、原爆という凶悪な兵器のことを.深く知り、今は資料館のボランティアにもなっています。もちろん中国人のボランティアは彼一人というか、初めてのことでしょう。しかし、広島の人の、原爆に対する激しい怒り、廃絶への念願に反して、あの戦争に対する加害の意識の薄さ、殊に中国への侵略戦争を忘れている人もいる状況に、楊さんは、違和感をもち、私の作品を読み、ぜひ私に会いたいと言ってきたのです。広島の少年少女たちの靖国の合祀のことなど、問題にしたのは私しかいませんから。
 また、彼は「外国人被爆者」について関心を抱いていて、あなたの『天の羊』もきちんと読んでおられました。そして中国人留学生の被爆についても詳細なレポートを書いています。私は、朝鮮半島出身者、アメリカ人捕虜、ドイツ人(キリスト教関係、神父)そして南方特別留学生のことは知っていましたが、中国人のことは考えもしませんでした。台湾や旧満州から来た学生が、南方特別留学生と同じで、東京が空襲で危ないので、広島に来させられるのですね。広島に高等師範、文理大があったことが留学生の広島行きになったようです。
 現場で話すのが一番、ということで、まず、原爆ドームのすぐ南の「動員学徒慰霊碑」に行き、その傍で話しました。この碑を建てた廣島県動員学徒等犠牲者の会の人々、決して戦争が好きな人びとではありません。原爆を廃絶したい気持ちは人一倍です。それが自分の子どもの死のことになると、「お国のため」に作業して死んだのだから、「国に殉じた」のであり、靖国神社に合祀されてありがたい、となる。何十年経っても子どもの死は悲しい、忘れられないと涙する人々が、靖国神社に詣でると「神々しかったよ」と陶酔する。一瞬、悲しさがありがたいことに変るのです。靖国神社がどんな役割を果たしたか、そんなことを考えたこともないでしょう。この「信仰」はどこから来るのか。
 長い時間話し込みました。そのあと、どこへ行くかいろいろプランがあったのですが、宇品、千田公園(彼は千田さんの銅像を見て彼に興味を持ったようです)に行くことにしました。これ、簡単そうで大変でした。今、広島の市内、あちこちで右折禁止、左折禁止で、面倒です。つい目の前なのに大回りしたり。楊さんも広島市内の運転は慣れておらず、大苦労です。結局一番わかりやすい電車通りを宇品に向かいました。
 宇品港のあたり、停留所の場所も変わり、昔、父の会社のあったところなどもどこかよくわかりません。ただ、暁部隊のあったところ、凱旋館のあったところは、見当がつきました。
 今、広島の人は、宇品港に暁部隊(船舶運輸の部隊)があったことを知っている人も、宇品港が陸軍の港であったこと。陸軍の港はここと大阪の築港だけ(宇品の方が古い。日清戦争以来だから)という重要な場所だったことなど全く知りません。しかし、ここは、戦前、兵隊を朝鮮や中国に送り出す港であり、死んだ兵の遺骨が返ってくる港でした。昨年亡くなった友・戸田照枝さんは御幸通りの傍に住んでいたので、宇品港に行きかえりする兵隊の行進の軍靴の音で育った、とよく言っていました。
 私は、中山さんに教わった山頭火の宇品港を詠んだ句を披露しました。
 「いさましくも かなしくも 白い函」
 楊さんも堀池さんも白い函の意味がすぐ分かって憮然としていました。
それから御幸通りを北上するのですが.御幸通りがどこか、わかりません。多分この通りだと見当をつけ進みました。その道は、間違いなく御幸通りだったのですが、きれいなしゃれた家ばかりで見違えるようでした。宇品最北部に近いところ、通りの右手に千田公園があります。楊さん、前にこの公園と千田さんの大きな銅像を見て何だろうと思ったらしいです。私も久しぶりに千田像を見て記憶より大きくて立派なのに改めて驚きました。千田貞暁は明治期の知事、宇品の埋め立てを考えました。広大な埋め立て、当時としては超巨大な事業で、千田さんは私財を投げ出して埋め立てをしたと言います。完成した宇品、そこへ日清戦争が起こる。朝鮮半島に大量の兵隊を送らなければなりません。宇品は陸軍の港となり、明治天皇は行幸して兵を鼓舞し、広島に大本営が造られ、広島は「軍都」になったのです。
 千田貞暁(男爵)はローカルな有名人で、広島以外の人は、名前を聞いたこともないかもしれません。しかし広島の人は宇品を作り広島を発展させた千田さんのことを絶対に忘れませんでした。あの戦争中、あらゆる銅像や金属がお国のために献納させられた時、広島の人は千田さんの銅像だけは,守り抜いたのです。千田さんが造った宇品、それが陸軍の港になった、それがいいことだったかどうか。多分千田さんは瀬戸内海交通の要の港としての宇品を考えていたと思います。陸軍の港になるとは思っていなかったかもしれませんね。
 そのあと、私が住んでいた家のあとが近いので回りました。これも想定外のできごとですが、私の家のあったところは、今老人施設になり沼田鈴子さんが最期まで暮らしたことで有名です。
全日空ホテルまで取って返し、朝日新聞の宮崎園子さんに会いました。私も宮崎さんにお願いしたいことがあったのですが、宮崎さんも私と堀池さんと二人一緒の写真を撮りたかったのですって。堀池さんは明日(四日)、坂の大雨被害地にボランティアに行くことになっています。宮崎さんに坂の慰霊碑の所在地を聞くといいと思ったのです。
 私が宮崎さんに頼みたかったのは、朝日新聞が出しているタブロイド型の原爆のことを説明する新聞「知る原爆」、あちこちで原爆の学習に使われていますが、それに広島市の建物疎開作業のことが全く書かれていません。あの作業がなければ、学徒だけで六千、大人の「義勇隊」や、身内を探して広島に入った二次被爆者を足すと優に一万人の死者が減っていると思うのに、獲物疎開作業のことが一言も書いてないのはどうしたことか。広島市はどうもこの建物疎開作業のことをあまり言いたくないのではないか、それに乗るように新聞までが、警戒警報が解除されて日常が戻ったと書いているのはおかしい。一万人以上の人間が市の中心地の露天で作業しているのが日常と言えないでしょうと言いました。実はこれは宮崎さんの前任者に頼み、彼も直すと言っていたのですが、直っていないので、改めて宮崎さんにお願いしましたわけです。私はどうしてもあの「作業」に拘らざるを得ないので。
 四日は、資料館と市立図書館などに行きました。資料館は本館の改修が遅れていて、まだ東館しか見られないので、主に地下の展示室を観ました。一室で被爆体験を「伝承者」が語っていましたので覗いてみました。写真や被爆者の絵などを映像で見せながら語るのですが、少し違和感を感じました。
 この「伝承者」というのは広島の新しい試みらしく、個々の被爆者の伝承をする、まず「論文(感想文?)」を書き、その被爆者が承諾(合格点?)を出せば伝承者と認められ、その被爆者の体験を語ることができる。その被爆者が亡くなってもその体験を永久に語り継ぐことができるというわけです。なお、これには広島市の何とかいう課も関わって、伝承者を増やすことを試みているらしいのですが。なんとなく私はこうした方法に抵抗を感じるのですが。いかに勉強をしても、本人と同じ思いで語れるかしら、と思い、今まですでに行われている手記の朗読などの方が自然でいいのではないかという気もするのですが。
 この伝承者のこと、次の日もいろいろな方と話し合う機会があったのですが、私と同じ違和感を持っておられる方も多かったです。
 

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