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雑記帳2021-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-10-15
◆奇想の画家「伊藤若冲」の絵画とゆかりの地を訪ねました。

この夏、皇室私有の財産だった美術品のいくつかが国宝になったことがニュースになりました。その中に、狩野永徳の『唐獅子図』や小野道風の書に混じって、伊藤若冲の『動物彩絵』がありました。
コロナ第5波の緊急運事態宣言が解除された10月はじめ、京都に伊藤若冲ゆかりの寺を訪ねました。

最初に訪れたのは大津市膳所(ぜぜ)にある義仲寺(ぎちゅうじ)です。
その名の通り、平家討伐の兵を挙げて都に入ったものの、頼朝軍におわれて粟津の地で壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬った寺です。
江戸時代までは小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉がたびたび訪れ、後に芭蕉が大阪で亡くなったときは、遺言によってここに墓が立てられました。
境内には芭蕉の辞世の句である「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句碑のほか、本堂の朝日堂、翁堂、無名庵、文庫等が立ち、境内全域が国の史跡に指定されています。
そして、この寺の翁堂に、若冲の15枚の天井絵があるのです。

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     旧東海道に面する義仲寺 昔は門の辺りまで琵琶湖だった
      室町時代の創建、現在は住職も檀家も無い寺だが、市が大切に守っている。

翁堂には壁一面に芭蕉の多くの弟子たちの肖像がかざられています。
ここに、もともとは京都伏見の石峰寺のために若冲が描いた130枚の内の15枚の天井絵がありました。現在、堂にあるのはレプリカ、実物は大津氏の歴史博物館に所蔵されています。残りは京都信行寺にあるということですが、公開されていません。

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翁堂の天井絵

若冲最晩年の作と言われる天井絵がなぜここにあるのか、長い間、明治の廃仏棄釈の結果だと思われていました。それが、最近の研究によって、若冲の母の実家が滋賀にあったことから、江戸末期の安政期に大津の商人が買って、寺に寄進したことが分かりました。
古美術の世界では、これはワクワクするような大発見なのだそうです。
また、若冲の絵が1.2cmの方眼紙の上に描かれているのは、親戚に友禅織を営む家があり、小さいころから親しんでいたことと無関係ではないだろうという話を聞きました。
もちろん若冲自身が方眼をひいたわけではない、工房には大勢の弟子たちがいたはずだから。

若冲は、絵を生活の糧にする画家ではありませんでした。
絵の具や紙、絹布など、当時の最高の画材を全て自分のお金で購入し、全て無償で寺に寄贈しています。こんな事ができた絵描きはいない、世界を見渡しても宋の徽宗皇帝がいるのみだということです。

京都の青物問屋桝屋の長男として生まれた若冲は、40歳で弟に家督を譲り、絵に専念することになります。当時、青物問屋というのは株をもち、相当の財力を誇っていたようです。家業が裕福な商人であったことで、コストを考えることなく好きな絵を描くことができた、幸せな人だったと言えるでしょう。

京都御所の近く、同志社大学の隣に建つ相国寺(しょうこくじ)には若冲の「釈迦三尊像」があります。絵の描かれた絹は一枚絹です。当時、国内にはこれだけの幅のある絹織物は作られていませんでした。当然、2枚か3枚の布を継ぎ合わせなければなりません。それでは描きにくいということで、若冲は身銭を切って中国から取り寄せたのでした。
若冲と住職。大典善治との親交は深く、相国寺には「釈迦三尊像」」と同時に24幅の「動植綵絵」も寄進しています。

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狩野永徳の天井衛がある相国寺法殿、建物自体も国の重要文化財
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動植彩絵の1枚(全部で30幅ある)
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釈迦三尊像の1枚 絹も絵の具も最高のものを使った

金閣寺、銀閣寺を山外塔頭に持つほどの相国寺も、実は明治時代、廃仏毀釈によって寺の存続がおびやかされるほどに困窮しました。それを救ったのが「動植綵絵」でした。
この絵を皇室が1万円で買い上げてくれたことで、相国寺は生き延びることができたということです。その「動植綵絵」がこの度、皇室の手を離れて国宝になったというのも面白いで巡り合わせのような気がします。
金閣寺にも若冲の50面の障壁画が残されています。

◆閑話休題
この日の宿は、今京都で一番新しいと言われるJR西日本直営の「梅小路ポテル」でした。インバウンドめあてに、ホテルながら日本の旅館の気分も味わえるように、ホテル本体の外に居酒屋や町の風呂屋を併設、セパレートの部屋義で移動可能という、カジュアルな創りでした。夕食もフレンチではなく、イタリアンです。

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ホテルの横に路地を作って左右に居酒屋やまちのお風呂屋さん
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各部屋のベランダからは、早朝の公園を散歩する京都人のくらしがかいま見える
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夕食の前菜 季節魚(今日はタイ)のカルパッチョ
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メイン(子牛の炭焼きボルチーニ茸ソース)
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朝食はバイキング。つけものをはじめ京野菜がたっぷり。

◆2日目は伊藤家の菩提寺、宝蔵寺へ。
伊藤家の菩提寺ではありますが、若冲本人の墓はありません。江戸時代、厳しい檀家制度のもとでは、途中で家督を譲って隠居したり、改宗したりした若冲は、菩提寺に墓を立てることが許されなかったのです。とはいえ、弟の白斎は若冲の絵の弟子として若冲派に名を連ねており、兄弟の仲は決して悪くはありませんでした。

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宝蔵寺
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伊藤家の墓 ここに若冲の墓はない

ここには拓本画の「即路図」と「竹に雄鶏図」が残されています。
「竹に雄鶏図」は若冲初期の作品。長い間本人の作品とは見なされていませんでした。
「若冲の絵は眼光を見よ」という言葉があるそうです。普通、鳥を正面から描くことはないが、この絵の雄鶏は正面を向いています。そのため、若冲の他の作品に比べて一見元気が無いようにみえました。しかし、正面を向いた鶏の眼には力があると、2016年の没後200年の「若冲展」で本物と判明しました。当時のどの画壇にも属さずに、型にとらわれず、自由奔放に描いた若冲の面目躍如ではありませんか。

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眼光鋭い雄鳥の図

若冲は江戸時代を通じて人気の画家でした。それが明治以降、専門家以外には殆ど人眼に触れることなく忘れられていました。2000年、京都国立博物館で生誕300年の若冲展が開かれたことが今の若冲ブームにつながりました。
今回の旅の講師、狩野博之さんは、大学の教員だった40年ほど前に請われて学芸員として国博に赴任し、若冲を世に出してブームに火をつけた仕掛け人です。一人のスターを生み出したことは何ものにも代えがたい勲章だと感慨深げでした。

嵐山ではちょうど、福田美術館と嵯峨嵐山文華館が共同で「京(みやこ)のファンタジスタ~若冲と同時代の画家たち」を開催中です。いずれの美術館も渡月橋に近く、桂川を望む景勝の地にあります。

福田美術館は金融会社アイフルの社長が作った美術館。相当数の若冲を所蔵しているようでした。
若冲と同じ年に生まれた与謝蕪村、同時代を生きた円山応挙や池大雅の作品が展示されています。
嵐山文華館では若冲・応挙・芦雪・呉春など、18世紀から19世紀にかけて活躍した画家たちの絵と共に、宝蔵寺所蔵の先出の「竹に雄鶏図」や若冲派の絵が貸し出されていました。

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福田美術館
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嵐山文華館
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若冲の屏風絵の展示も

若冲の晩年、中国の僧、隠元が京都の宇治に黄檗宗万福寺を開きました。
衰退しかかっていた禅の復興のために、幕府の認可を受けての事でした。新しい風は江戸でも流行しました。徳川が終わると同時に衰退するのですが、若冲は黄檗宗の粋に魅かれて得度、伏見にある海宝寺、石峰寺で晩年を過ごしました。

隠元と共に来日したのが普茶料理です。
もともとは法事の後に皆で食べる、中国の会席料理でした。普茶料理はダイニングテーブルで大皿からとりわけながら食事をする文化をもたらしました。
お昼に海宝寺の「若冲筆投げの間」で普茶料理をいただきました。
海宝寺には若冲の襖絵があったことで知られています。

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海宝寺
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      コロナのため、大皿から取り分けるスタイルではなく、

石峰寺は黄檗宗の禅道場として建立された寺です。寛政年間、若冲は石峰寺の門前に庵をむすび、五百羅漢を作成しました。当時は千体あったといわれますが、現在は四百数十体が裏山に残されています。明治の廃仏毀釈にあい、無住になったために、盗まれた羅漢は数知れません。現在は再興されています。
義仲寺で見た天井絵は石峰寺の薬師堂にあったものです。

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石峰寺の山門 黄檗宗独特の門の形をしている
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石峰寺の裏山をおおいつくすように五百羅漢が

伏見といえば、当時も今も京都では片田舎。明暦の大火で家を失った若冲は相国寺を離れて、石峰寺門前の庵で妹と二人で晩年を過ごし、この地で亡くなりました。享年85歳。石峰寺の墓地には、生涯描き続けた若冲を象徴するように筆の形をした墓石が並んで立っています。

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石峰寺の若冲の墓


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雑記帳2021-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-10-1
◆府中に古代武蔵国の国府がおかれた理由は地形にあった!

かって国府のおかれた府中は政治だけでなく文化の中心地でもありました。中心となった理由の一つがその地形にあったというのです。
当時の多摩川は今より北を流れ、府中崖線の崖下からは豊富な水が湧き出していました。崖上の台地は誠司や文化の舞台としてふさわしい場所だったのでしょう。

大國魂神社はまさに府中崖線の上に達ち、神社に対面するように建つ国府跡は、眼下に多摩川を見下ろして、対岸の彼方に、多摩の横道と呼ばれた多摩丘陵を見晴るかす場所にありました。
京王線府中駅に降り立てば先ず目に入るのは「馬場大門のけやき並木」。ケヤキ並木としては国内唯一の国指定の天然記念物です。
起源は古く、1062年、源頼義・義家親子が東北遠征の祈願成就のお礼として1000本のケヤキの苗木を寄進したと伝えられています。 江戸時代にはここに馬場がたち、家康もケヤキを寄付しています。府中と馬の歴史は競馬場だけではなかったのです。
ケヤキ並木はまた、大國魂神社の参道になっています。

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馬場大門のケヤキ並木

鳥居をくぐり、拝殿に入る直前の隋身門の前を旧甲州街道が通っています。
旧甲州街道は東山道を経て京都まで繋がり、江戸時代は「京所道(きょうずみち)」とも呼ばれていました。門前の狛犬の台石には、江戸時代のこの地の宿場の名前(番場宿)や旅籠の名前(左右に箱屋、東屋)がきざまれています。

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石に番場宿、箱屋の名前が刻まれているのが見える。

大國魂神社は鎌倉海道を歩いたときにも登場しました。高天原に出雲の国を譲った大国主神を祭神として祀っています。大国主神は此の地の守り神として、人々に衣食住の道を教え、又医療法やまじないの術も授けました。境内には江戸名所図会にも載っている鶴石亀石や、水神社のさざれ石など、面白い石のほか、鼓楼は神仏集合の名残を残すものでした。

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拝殿(本殿はそのうしろにあり、通常は入れない)
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水神社のさざれ石

面白い社もいくつかあります。その一つ、宮之咩(め)神社は、安産の神様、天鈿女命(あめのうづめのみこと)をまつっています。絵馬の代わりにそこの空いた柄杓を奉納します。
もう一つは松尾神社。醸造の神様なので、小さい境内には多摩の酒屋さんの樽が積んでありました。

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                宮之咩神社に奉納された底の開いた柄杓
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松尾神社に奉納された東京の地酒の樽

大國魂神社に面して、武蔵国府跡国司館跡があります。古代武蔵国の国府に赴任した国司が居住した館です。府中崖線の段丘面が南に張り出した絶好の場所でした。
江戸時代には家康が鷹狩りをする際に宿泊・休憩した「府中御殿」が置かれていました。

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無左飛国校区府国司館跡

ここから坂を下っていく途中にある妙光院は、江戸時代には20を越える末寺を抱えていたと言われる古刹です。
周辺には地獄坂、天神坂と呼ばれる坂があり、いずれも由来ははっきりしないが、と石の案内板がたてられています。府中市内には他にもたくさんの坂があり、市は説明版や石段を整備しています。天神坂に隣接するのは日吉神社。大國魂神社の末者として古くから祀られていたようです。
府中市内には縦横に府中用水が流れていました。いま、多くは暗渠になっています。天神坂をくだりきっ平地に出ると、東京競馬場の前を走る道路に出ますが、この道路も用水の暗渠の上につくられています。

府中崖線の崖を背にして、妙顕神社、馬頭観音、馬霊塔が並んでたっていました。
馬霊塔は競走馬の供養の為に建てられた塔です。塔の両側には名馬の名前が刻まれた十数基の墓石がおかれています。脇の馬頭観音菩薩は、競馬の開催される期間中は各厩舎の紅白の幟が奉納されるそうです。

競馬場の中に入ることはできませんでしたが、場内には16世紀末に府中を開拓した井田是政の墓があるそうです。是政の名は西武多摩川線の終点、是政駅に残っています。

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場霊の塔

東京競馬場からみあげる坂の上は京王線東京競馬場正門前駅。駅から一直線に競馬場に下りてくる坂の名前は普門寺坂です。
説明版によると、この坂名は,坂の西側にある真言宗普門寺の寺名に由来しています。別名を「薬師の坂」といい、これは普門寺にまつられている薬師如来からついた名のようです。この薬師様は「目の薬師様」として有名です。奉納された絵馬が「め」なのも面白いですね。
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普門寺に奉納された「め」の絵馬

普門寺から京司道(旧甲州街道)をたどれば、大國魂神社の東側にある武蔵国府国衙(こくが)地区に出ます。
「国府」とは、奈良時代の始めごろから平安次代の中頃にかけて、全国60か所におかれた役所です。その国の政治はいうに及ばず、行政、文化、経済の中心地でした。武蔵国の国府は府中に置かれました。

武蔵国は、現在の東京都、埼玉県のほぼ全域と神奈川県の川崎市・横浜市の大部分を含む広大な地域で、21の郡を管轄する大国でした。
「国府」の中心の役所である「国庁」では、国司が政治や儀式をおこなっていました。国庁の周辺には行政事務を行う建物群があり、それが「国衙」でした。
今から30年ほど前に発掘された国衙跡からは、大型の掘立柱や礎石の跡、武蔵国内の郡の名前が刻まれた瓦や煉瓦が発見されました。
ちなみに、都から赴任してきた国司が最初にする仕事は、地域の祭神に参拝することでした。武蔵国には一の宮から六の宮までが広い地域に散在していました。全部回るのはめんどうというわけで、1か所に合祀してお参りしたのが大國魂神社です。大國魂神社を六所宮といい、総社と呼ぶのはそのためです。

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武蔵国国府国衙跡 掘立柱が建つ

旧甲州街道を西へ進んで、街道が旧相州街道(現在の府中街道)と交わる地点にたつのは高札場跡です。 日本橋をはじめ、江戸幕府が法度や禁止令の通達を掲示した高札場は宿場や交通の要衝にたてられました。庶民でも読むことが出来るように、簡易なひらがな交じりで書かれた文章は、寺子屋の教科書がわりにもなって、意外にも、庶民の教育に一役買ったようです。明治になって廃止されましたが、高札場跡は多摩地域には府中の他にもう1か所、東大和市蔵敷にもあるそうです。

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高札場跡(街道交差する地点で高札は斜めを向いている)

高札場から府中街道を南に下っていくと、崖線の崖際に善明寺という寺があります。崖下にはJR南武線が通っています。小さな寺ですが、よく手入れされた庭がきれいでした。寺に安置されている鉄造の阿弥陀如来座像は、国分寺の「刀鍛冶・藤原助近の手になる日本最大級の鉄仏で、国の重要文化財に指定されています。

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善明治 山門の間から手入れのゆき届いた庭が見える

明治43年(1910)、多摩川の砂利採取と運搬を目的に、国分寺と下河原館に鉄道が敷かれました。東京砂利鉄道です。競馬場への支線も開設されましたが、昭和48年(1973)、武蔵野線の開業によって廃止されました。跡地は自転車と歩行者専用の緑道になっています。

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砂利鉄道跡

再び旧奥州街道にもどって西に向かうと、以前にも紹介したことのある高安寺です。

平将門を打ち取った藤原秀郷の居館であったことから、境内には秀郷稲荷が鎮座しているほか、崖下には義経と弁慶が般若心境を書き写すために井戸の水で墨を摺ったという伝説にちなんだ古井戸が残っています。崖上の高台にあって眺望がいいことから鎌倉時代から室町時代にかけてたびたび合戦の本陣になりました。足利尊氏が寺を再興して、護国禅寺としたと伝わっています。
本堂や山門、鐘楼は東京都の歴史的建造物に指定されています。
高安寺からJR南武線分倍河原駅まではすぐです。

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高安寺山門
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弁慶の硯の井

府中から調布まで続く府中崖線は、国分寺崖線ほど高低差がなく、歩きやすい散策路だと言えます。コロナで自宅待機が長かっただけに、なまった体にはほどよい3時間でした。



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雑記帳2021-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-9-15
◆レストランヴァンセットはコロナ下でも元気です。

『旬の食彩 僕の味』を連載した大澤聡さんは27歳の時、立川駅近くにフレンチレストランを開きました。27歳だったので店の名も『RESTRANT 27(ヴアンセット』。
『知の木々舎』には折に触れて便りが届き、『旬の食祭 僕の味』は100回を越える連載になりました。パリで修行中に、ソムリエ酒豪中だったマダムとしりあったという、出逢いもロマンチックなご夫婦です。店は花屋さんの2階にあります。

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シェフの大澤さん

便りには面白いトピックがいくつもありました。
最近人気の出てきたジビエ料理も、閉店後スタッフ総出で毛抜きをする場面があって、出来上がりはおしゃれなジビエも現場はwildだなあと妙に納得したのを憶えています。
数年前に減圧調理器にであって、レパートリーが増えたことも紹介されました。この調理器を使って試作を繰り返す様子が『知の木々舎』に載っています。
研究熱心なことも合わせて平成30年には立川市の「輝く個店」に選ばれました。

どの店もシェフには食材にこだわりがあるようですが、大澤さんのこだわりも相当なものです。野菜も肉も魚も、産地を尋ねながら味わう一皿にはドラマがあって、まるで日本中を旅している気分になります。 レストランでゆっくりと味わう2時間は、私のようにアルコールを飲めない場合でさえ、料理を食べる時間だけでない楽しみがあるのだとしみじみ思うのです。飲めたらもっと楽しいだろうと思うと癪ですが。

で、コロナ自粛でもちょっと旅気分を味わいたくてヴァンセットへ出かけました。
9月10日過ぎの、季節が変わり目のとき、メニューは夏の名残と秋の入り混じったコースです。

最初の一皿・・・キャビア・オーベウジーヌとグージェール

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(手前) シュー生地の中に茄子のピューレがはいっている
(奥)オリーブとグリエールチーズのパウンドケーキ

桃の冷製スープはヴェんセットの夏の定番です。

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桃は山梨県古谷農園のゴールデンピーチ 固形のものはコンソメゼリー

前菜盛り合わせは目が覚めるほどカラフルな一皿です。

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●30種以上の野菜はそれぞれこだわりの産地から(ブロッコリーは静岡、カリフラワーは香川、茄子は新潟などなど)
   ハーブ系は静岡、エデイブルフラワーはなんと立川産。
●中央には対馬産アナゴと新潟県産十全茄子のセルクル仕立て
       ゼリー状のアナゴは圧力なべで煮たそうです。
   セルクルは洋菓子の型枠のこと。お菓子のように二層になっている。
       十全なすは昭和初期からあった新潟県のブランド茄子。一般には浅漬け用。
●総州古白鶏の減圧ハム
     65℃で30分 低温では長時間煮ても味ははいらないが、減圧なら味が入るそうです。
●イベリコ豚のテリーヌ
    
メインは仔鴨のコンフィ、牛ひれ肉のステーキ、鮮魚のポワレから選ぶ。
今日は仔羊の煮込み、ビーツのソースを。いちぢくは淡路島産。

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デザートは秋らしく和栗のモンブランでした。 

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中はチョコレートのアイスクリーム。栗は熊本産。
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コーヒーカップはウエッジウッド。

◆今年もアール・ブリュット展が開かれました。

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2021年のポスター

アール・ブリュットとは「加工されていない、生(き)のままの芸術」という意味のフランス語で、画家のジャン・デュ・ビュッフェによって考案された言葉です。英語では「アウトサイダ―」と称され、伝統や流行教育などに左右されず自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現した芸術と言われています。。 

福祉施設に通う子どものお母さんたちが実行委員会をたちあげたのは2015年。メッセージは「障害のある人もない人も共に生きる社会の実現につながるように」というものでした。今年で7回目になりました。

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第1回アール・ブリュット展のポスター

例年、秋に百貨店や多摩都市モノレールの駅を会場に作品展が開かれていますが、コロナ下の今年は開催方法が変わりました。
6月、昭和記念公園の花と緑の文化ゾーンに設けられた展示や体験コーナーは、大勢の参加者で賑わいました。そして、9月、例年より規模を縮小して、高松学習館で作品が展示されました。
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        今年のポスターになった関山隆之さんの「しまうまの山」
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曼荼羅を思わせる玉川宗則さんの「From a corner of Asia」
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柴田将人さんの「虹色の魚」
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坪井勇馬さんの「お花畑」
        
アール・ブリュットという芸術分野は、「表現の可能性」「人の果てしない想像の力」を体感させ てくれるとして、現在欧州を中心に世界で展示会が行われています。作品を見ると、その自由な想像や表現は、障害の有無に関係のないことに気づかされます。芸術はそもそもが障害の有無をいうものではないのだと改めて気づくでしょう。 

◆駅コンコースは魅力がいっぱい!

駅のコンコースでは駅ビルにはいっていない店が出ることがよくあります。
急いで通りすぎるので、ゆっくり見ることは少ないのですが、この日は面白い出店がありました。「東京NEO  FARMERS!」の旗がたっていました。
イケメンの若いお兄さん(マスク越しなので誰もイケメンにみえる!)に尋ねると、異業種から農業に参入した若者のグループだとか。

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今、都市の農地関連の法改正を受けて、都内では新規農業者が次々に誕生しています。農地の貸借の規制が緩和されたため、職業としての農業に魅力を感じて取り組む若者がふえているのです。都会に住みながら、地方の農業とは一味違った東京農業をつなぎ、どのように成長していこうとしているのか、なかなか面白いではありませんか。現在50名を越えるメンバーが活動しているそうです。
ちょっと珍しい野菜もありました。コリンキーというカボチャは生で食べられるそう。
写真下はこれもまだ珍しいバターナッツ、おなじくカボチャの仲間です。

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neo farmers バターナッツ のコピー.jpg


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雑記帳2021-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

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◆知り合いから、このたび、立川の隣の東大和市にある戦績、旧日立航空機変電所の案内人になることが決まったと報告がありました。
それも、ボランテイアではなく、週2日勤務という、非常勤ながら職員待遇ということです。東大和市の、戦争や平和の取り組みの姿勢がうかがわれるようではありませんか。

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日立航空変電所

日立航空株式会社立川工場(通称 日立変電所)はこの雑記帳でも一度紹介したことがあります。当時は公開されていませんでしたが、この数年の間に、市は戦績として公開に向けた整備をすすめ、ようやく一般公開出来るまでになったのです。

変電所は、西武線玉川上水駅の北側、団地とならぶよう位置する都立東大和南公園の一角に、おびただしい数の機銃掃射や爆弾の爆裂痕を残して建っています。
この建物は、昭和13年(1938年)、当時の東京府北多摩郡大和村に建設が開始された飛行機のエンジンを製造する軍需工場に電気を供給する重要な施設でした。

太平洋戦争末期になると、軍需工場が集中していた多摩地域は、数多くの空襲を受けることになります。この工場でも昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けて、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える犠牲者を出しました。4月24日の空襲では、工場は8割方壊滅したといわれています。

変電所の窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。が、鉄筋コンクリート造りの変電所は幸いにも決定的な損傷を受けることなく、戦後の平和産業の受電施設としてその後も稼働し続け、平成5年(1993年)まで変電所として働き続けました。しかも、爆撃を受けた生々しい痕跡を残したままの状態で使われていたのです。

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壁中に弾痕が残っている

平成5(1993)年、変電所を含む工場の敷地は、都立公園として整備されることになり、建物は変電施設としての役割を終えました。

しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのままの場所で保存されることになりました。
戦争で多くの尊い命が犠牲になったことを、誰よりも雄弁に物語ってくれるこの変電所を、東大和市はその年、文化財に指定し、後世に伝えることにしたのです。

公開をまえにして、残念なながらコロナ下の緊急事態宣言にあたってしまいました。
建物の前には公開延期の張り紙と、秋の平和学習の講演会のお知らせがありました。

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◆立川にも山中坂に、戦争の傷跡を残す戦災供養地蔵尊があります。

陸軍飛行場を中心に陸軍航空工廠や軍需工場が集中していた立川は、米軍からは重要拠点とみなされて、昭和20年には13回に及ぶ空襲を受けました。

立川市富士見町5丁目にある通称「山中坂」は、残掘川の崖に面した坂です。
この地には崖を利用して横穴式の壕が掘られていました。もともとは役所の重要書類を退避させるために掘られた所蔵庫だったのを、使われなくなったので近所の住民が防空壕として活用をしていたそうです。

昭和20年4月4日は 第二波の空襲が特に激しく人々は山中坂の防空壕に避難しました。
このとき、B29が投下した250kg爆弾が防空壕の入り口付近に命中し、防空壕の中にいた全員が犠牲となりました。犠牲者は42名ともいわれています。

山中坂が被弾した理由は諸説あります。
立川陸軍航空工廠と立川飛行機砂川工場を狙ったものが逸れた、中央線の鉄橋を狙ったものが逸れた、などと言われる他に、防空壕の入口付近を出入りしていた子供たちが照明弾で発見されたとの説もあるそうです。
大勢の子供たちが亡くなったことを思うと、なんとも痛ましい理由です。

防空壕のあった跡には亡くなった人々の霊を慰めるために「戦災供養地蔵尊」が建立されました。

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戦災供養地蔵尊の祠と碑
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祠の中のお地蔵さん

          山中坂悲歌 (エレジー)
      作詞 小沢長治  作曲 新田光信

      夜明けが遠い 闇の中 
      山中坂の防空壕に
      息つめよりそう四十一人
      子ども年より女の人 
      爆弾つんだ飛行機がくる
      闇をひきさき とどろく音 
      防空壕に爆弾が落ちた
      埋められた四十一人
      子ども年より女の人 
      二度とかえらぬみんなの命

      ああ 悲しみが坂を流れる 
      桜の花がなきがらに降った
      あの日のように花びらが舞う
      山中坂よ 小さなほこら 
      お地蔵さまに祈る誓い

      あの悲しみを くり返さない 
      あの悲しみを くり返さない 

戦後76年がたち、各地で戦災の記憶や遺構をどう保存し伝えていくかが問われています。戦争を経験した世代がほぼ80代に入り、次々と亡くなっていく中で、残す作業がいかに大変か、携わる人々の絶え間ない努力を思い、私たちが関心を持ち続けることの大切さを思わずにはいられません。

◆コロナ下のオリ・パラリンピック喧噪のうちに夏が過ぎようとしています。久しぶりに訪れた薬用植物園は、人影もなく、ひっそりとしていました。

梅雨明けから続いた猛暑のあと、8月中旬には東京は1週間もの長雨に見舞われました。線状降水帯の被害が各地に出ていたころです。8月中旬を過ぎると例年ならぼつぼつ咲き始める秋の七草も、今年はその気配は薄く、僅かにオミナエシが元気でした。初秋の数少ない花を拾いました。

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オミナエシ
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ヘビウリ(花弁のふちがレース状になっているのはカラスウリの仲間の特徴、若い果実は食用に)
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トロロアオイ(オクラの仲間。粘液は和紙の材料や漢方薬の成型に利用された)
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ノゲイトウ
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ヘチマ    

炎天にさらされて、夏のおわりには園内もすっかり疲れてしまったように見えます。コロナ下では、イベントもボランテイアさんのガイドもありませんが、昨年は緊急事態宣言中ずっと閉園してていたことを思うと、開園しているだけでももうけものと思わなけえばなりません。変わらないのは温室でした。

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カカオの実
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パパイアの実
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使君子(珍しい名前のこの植物も殺虫作用、消化促進、鎮痛作用、精神安定、食欲増進などの生薬の原料になる)

◆ノウゼンカズラは9月1日号の表紙にするにはちょっと遅かったので・・・

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真夏の炎天にひけをとらない、あの悩ましい色は何なのか、名前さえも悩ましい、と思っていました。調べてみても意外にあっさりと、夏から秋に美しい花をさかせる、しか書かれていない。8月20日過ぎ、ひとまず、玉川上水口に咲くノウゼンカズラの写真を撮ることに成功したので、雑記帳で紹介することにしました。


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雑記帳2021-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

202-8-15
◆すずかけ三兄弟の保存運動の歴史が銅人形になりました。

戦後米軍に接収されて立川基地が全面返還されたのは1977年(昭和52年)のことです。
跡地の一部は1983年に国営昭和記念公園にうまれかわりましたが、そのあとも町の再開発は続きました。
1999年、開発のために伐採される計画だったのが、3本のプラタナスの木でした。終戦の年に進駐してきた米兵が、基地の中に日米友好の印にと植えたアメリカスズカケノキは。立川の50年の歴史を見つめてきた木でもありました。それを知った市内に住むアーティストや子どもたちが保存を求める運動をはじめ、直線の道路をほんの少しカーブさせて、木は残ったのでした。立川の土地に合ったのか、50年の間にスズカケノキはすっかり巨木になっていました。
見る角度によっては2本にみえる3本のプラタナスはいま、「すずかけ三兄弟」と呼ばれて親しまれています。

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すずかけ三兄弟、街路樹としては老木なので、しっかり補強もされました。

保存を呼びかけた一人が銅板造形作家の赤川政由さんです。そして、赤川さんの友人の音楽家たちが、2006年からこの保存運動を構成に伝えるコンサートをひらいています。
赤川さんは、市民運動によって保存された歴史をモチーフに、3人の奏者が木管楽器を演奏する姿を銅板作品に仕上げました。作品名は「三本のプラタナスとしあわせな三楽士をつくった人々」。オーボエ、ファゴット、クラリネットの三重奏をイメージしたものです。「スズカケを守った歴史をこども達に伝えたい」との思いが形になったのです。像は、立川で一番新しい街「グリ^ンスプリングス」の一角に設置されました。ちょうど、すずかけ三兄弟と向かい合うような場所です。

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三本のプラタナスとしあわせな三楽士(腰かけているのがプラタナス)

赤川さんは全国各地に銅板造形作品を提供しています。立川市内には、駅北口の「風に向かって」や女性センターの「指揮者」、幸学習館の「セロ弾きのゴーシェ」など30体以上もあります。埼玉県行田市には「童」の像が36体、これは行田が足袋の町でさかえていたころの子供の姿をイメージしたもの、などなど。行田の童はこの『雑記帳』でも何体か紹介したことがありました。大きいものでは愛知県半田市の「新実南吉さんのお話の木」でしょうか。童話作家・新実南吉の故郷は半田市です。『知の木々舎』で紹介した作品はたくさんあります。

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「風に向かって」は戦前、青森県三沢基地から飛び立って世界初の太平洋無着陸横断飛行に成功した「ミス・ビードル号」を題材にした。ビードル号はまず立川飛行場を出発して三沢まで飛んだのです。

赤川さんの師匠は彫刻家の故・藤原吉志子でした。かって米兵の住居だった「ハウス」に住む赤川さんはいま、ハウス内のアトリエ・ボンズ工房で弟子を育てています。
実は「三本のプラタナスと幸せな三楽士・・」の制作中、完成まじかにご本人が体調を崩して入院、というハプニングも起こりましたが、5人のお弟子さんたちが協力して完成させたそうです。完成した像の設置にはもちろん退院したご本人も立ち合いました。友人の音楽プロデューサー、しおみえりこさんは 「お弟子さんにとってもいい機会だったのではないかしら」と話していました。弟子の一人、安東けいさんは『知の木々舎』の『赤川BONZEと愉快な仲間たち』にも何度か登場しています。

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    師匠の藤原吉志子の「兎と亀」(ファーレのパブリックアートから)
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安東ケイさんの作品

◆緊急事態宣言中ではありますが、国営昭和記念公園は開園しています。今回はあまりなじみのない「こどもの森」を紹介しましょう。ところどころに子ども向けの説明版もついています。

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園内を走るパークトレイン 色も形も違うのが数台走っている。乗車料金は一回300円。
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メインゲート  ワクワク広場
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風車(かざぐるま)のゲート 木道の下は季節の花畑になる
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    森のトイレ
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特に禁止していないのかテントが随所にからrている。
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ゴムでできた小さい子でも遊べる大きなトランポリン!
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太陽のピラミッド
(説明版)遠い空のかなたにある太陽が見えますか。太陽は地球上のすべての現象の源となる、ばくだいなエネルギーをもっています。こどもの森で一番高い太陽のピラミッドに登り、太陽に一歩でも近づいてみましょう。

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地底の泉
(節寧番)ここは古くからある「まいまいず井戸」と同じ、すりばちの形をした泉です。泉の水は地中の水が自然にしみだしてきた地下水で、雨の量によって水の量が変わります。カタツムリの殻の形に似たうずまきの道にそって下の方におりてみましょう。上を見上げると、ほら、空が丸く見えます。大自然を感じませんか。

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    光の道路 メタセコイヤの並木は秋になると金色に光る

◆ステイホームのつれづれに、一茶の句を拾いました。 

    毒草やあたり八間はびこりぬ 
    うら窓や頭痛にさはる草いきれ 
    昼顔にふんどし晒す小僧かな
    夕顔やはらはら雨も福の神
    夏の雲朝からだるう見えにけり     
    夏山の膏ぎつたる月よ哉            
    御地蔵や花なでしこの真中に

そういえば、昭和記念公園でもこの季節、楓風亭の献茶のお菓子は撫子でした。

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雑記帳2021-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-8-1
◆青山霊園には外人墓地があるのを知っていますか。

地下鉄千代田線乃木坂駅の近くにある青山霊園は、明治5年(1872)に日本最初の公営墓地として開かれました。広さは東京ドーム5.5個分。都心にあり、交通の便にすぐれていることから、大変な人気で、1区画440万円の墓地には、公募の度に10倍以上の応募があるそうです。開園当初は神道のみを受け入れていましたが、まもなく宗教を問わなくなりました。

一角に外人墓地があって、ここを巡れば何人もの興味深い人物に出逢うことができます。ガイドさんが最初に連れて行ってくれたのが、ジョセフ・ヒコ(浄世夫彦)の墓でした。
ジョセフ彦は日本名浜田彦蔵。13歳のとき、乗っていた漁船が嵐で難破、アメリカに渡って教育を受け、帰国して通訳も務めたという、ジョン万次郎とほぼ同じ時代を生きた人です。(万次郎のほうが帰国が10年早い)

時代は幕末、ペリーの日本来航とダブって帰国に際してはいろいろ紆余曲折ががあったものの、運よくスポンサーに恵まれて洗礼を受け、時の大統領リンカーンにも会って言葉をかわしたりもしています。アメリカの民主主義を肌身に感じ取ったことが、のちに日本で初めての新聞「海外新聞」の発行につながりました。彦は日本の「新聞の父」なのです。

日本人にとってジョセフ彦の名はジョン万次郎ほど知られてはいません。
帰国の時期や係わった人物・事件が万次郎を有名にしました。ジョセフ彦は主に貿易商人として活躍し、神戸に住んで多くの事業をてがけましたが、帰化したアメリカの国籍を終生変えることはありませんでした。そのことで日本人の偏見にさらされることも少なくなかったようです。アメリカ人ジョセフヒコとして、彼の墓は外人墓地にあるのです。

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ジョセフヒコの墓

ヘンリー・スペンサー・パーマーは日本初の近代的水道である横浜水道を完成させた、イギリス陸軍の工兵少将です。当時のお雇い外国人のひとりでした。
住民わずか数十名だった寒村が開港して外国人の居留地となった横浜にとって、水の確保は喫緊の課題でした。300年前に家康が幕府を開いて江戸のまちづくりに着手したのと同じです。海辺なので、掘れば塩分の混じった水の出てきたという状態も江戸そっくりです。相模川支流の道志川から引いた水道の巣水にはイギリスから取り寄せた蛇口が使われました。完成後も横浜港、横浜ドック、大阪水道、神戸水道、函館水道、東京水道など、日本の近代化に足跡を残しました。退職後は日本に落着き、日本人女性と結婚しています。

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パーマーの墓

お雇い外国人といえば、グイド・フルベッキの名に思い当たる人は多いのではないでしょうか。
ガイドさんはふれませんでしたが、ヘルマン・フルドリン・フェルベックは大隈重信の英語の先生です。余り知られていないものの、大隈重信の英語力は本場でも非常に高く評価されています。通訳を交えず対外交渉にあたり、長時間議論を戦わせてほぼ完ぺきな英語だったと相手が舌をまいたという話が伝わっています。佐賀藩士だった彼の英語能力を開花させたのは、当時長崎で私塾をひらいていたフルベッキだったのです。
その縁で、もともとは宣教師として来日したにもかかわらず、明治政府の下で、法律の整備や学校の設立にかかわりました。多くの政府要人と関係を持ち、東京大学の前身の開成学校で教師を務めたり、早稲田大学では開学の祖とも呼ばれています。彼の華々しい活躍は宣教師仲間からは大いに嫉妬されることになったのですが・・・

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フルベッキの墓

青山霊園には外人墓地のほかにも、多くの著名人や一族の墓があります。たとえば、斎藤茂吉や志賀直哉の一族の墓、乃木希典の乃木家の墓など。中でも大久保利通の墓は出色です。

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大久保利通の墓は鳥居の億に

維新の立役者、大久保利通は紀尾井坂で暗殺されました。西南戦争で亡くなった西郷隆盛と比べられることの多い人物ですが、生涯、友としては変わらず、最期の懐にも西郷からの手紙をしのばせていたそうです。明治政府の事業はほぼ大久保の借金で始められたので、死後莫大な借金の証文がでてきたといいます。大久保自身のくらしは贅沢なものではなかったようです。
神式の墓は、巨大な墓石を亀(贔屓)が背負っている形をしています。中国では碑文の石の下で支える亀を「贔屓」と呼んでいました。俗にいう「ひいき」の語源とされていますが、もちろん特定の人の肩を持つという意味上の語源ではありません。

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墓を背負っているのは亀(贔屓)

大久保が暗殺されたとき、乗っていた馬車を曳いていた馬も殉死(?)しました。大久保家ではその馬を供養して隣に墓を建てています。

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暗くて写真にはうまくとれなかったが、奥のほうが馬のレリーフのある墓

青山霊園を出て、外苑のイチョウ並木を横目に青山通り行くと、オリンピック開幕前の国立競技場が見えて来ました。
準備段階から出鼻をくじかれたTOKYO 2020ではありました。世界中の建築家が競った競技場のデザインは、採用されたのちにお金が掛かりすぎると白紙撤回され、隈研吾氏らのデザインに落ち着きました。高度成長を象徴する壮大な建築は、もはや時代暮れになっていたのでした。新しい競技場は高さを抑えて木材を多用し、外壁にも全国から集められた各県を代表する木が使われています。ゆったりとした観覧席は満員でなくても気にならない、まるで密を避けたコロナ禍を先取りしたようです。ご本人も「これからの建築は環境と調和したものでなければならなり」と言っています。一方で、競技場を「黄昏の時代の象徴」と言った建築批評家もいました。建築が時代を映すことを人々が改めて認識したことはレガシーになり得ると思います。競技場に限らず、現在の五輪の負の側面がさまざまな形で露呈されたこと、それこそがTOKYO 2020のレガシーではないでしょうか。ともあれ、アスリートには責任はなく、この稿がアップされる8月1日はオリンピックの真っ最中。人々がテレビ観戦に一喜一憂していることはまちがいないでしょう。

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競技場のコンクリートのように見えるポールは全国から寄せられた各県の木

この日は(7月10日)4回目の緊急事態宣言が出る直前、オリンピックミュージアムも中に入る事はできません。テレビで毎日目にする五輪のモニュメントだけは、写真を撮る家族連れでにぎわっていました。

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ミュージアム横の五輪のモニュメント

五色のモニュメントと並んで、競技場前の芝生には、近代オリンピックの父・クーベルタンと、少し離れて、嘉納治五郎の像がたっています。昨年の大河ドラマのおかげで、嘉納治五郎が柔道だけの人でないことが知られるようになりました。彼が日本に招致しようと奔走したオリンピックが、その後も政治に翻弄され、今や金まみれになった状態を見たら何と思うのでしょうか。

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嘉納治五郎の像

競技場を後にして明治通りへすすむ途中で立ち寄ったのは鳩森神社です。860年に慈覚大師(円仁)が正八幡宮として創建したという、鎌倉の鶴岡八幡宮よりもずっと古い八幡さまです。境内にある「千駄ケ谷の富士塚」は東京都の有形文化財になっています。本殿前には時節をうつして茅の環がたてられていました。この夏、須佐之男命を祭神とする神社は、コロナという疫病退散を願う恰好の場になるのでした。

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千駄ケ谷の富士塚
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鳩森神社の茅の環

鳩森神社のとなりには将棋会館。藤井聡太君の活躍でいちやく人気の出た将棋界です。将棋盤の脚にくちなしが使われているのは、「将棋刺しに口を出すな」という意味からだと教えてもらいました。

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将棋会館の2階は将棋道場になっている

TOKYO2020では、ソフトボールやサッカーで,日本はメキシコと対戦しました。目白通り、トルコ大使館の近くにメキシコ料理のレストラン「フォンダ・デ・ラ・マルガレーダ」があります。1993年にオープンしました。シェフがメキシコ人という店の内装もメキシコ風。これでも日本人向きにアレンジしたという、スパイシーな味とボリュームたっぷりの皿を堪能しました。

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前菜奥左 グアカモレ(アボガドのディップ)とトトポス(トルティーヤのチップ)
メキシコの代表的なアボガドのデイップ。チップにしたコーンのトルティーヤに漬けて食べる。トルテイーヤは世界遺産。メキシコはアボガドの生産量世界一です。
前菜右 ケセデイーヤ  大きめのタコスの皮にチーズを包んだメキシコのファストフード
前菜手前 プルポアルアビージョ(タコの唐辛子炒め) ニンニクたっぷり、辛い!
この3点だけでおなか一杯になりそう。

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コンソメデポジョ 鶏肉、アボガド、米、トマトのはいったコンソメ味のチキンスープ

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メイン左 ポジョコンモーレ 30種類のスパイスとチョコレートを使ったモーレソースで食べるグリルチキン
 メイン右 カマロネスアラテキーラ  エビにテキーラをきかせたクリームソースをかけている。ライスと混ぜて食べる

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デザート カサデフラン   卵、コンデンスミルクを使って焼き上げたたメキシコのホームメイドプリン




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雑記帳2021-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-7-1
◆立川の隣町、昭島は、昔、鯨が棲んでいました。青梅線戦線にも見どころはいっぱい。

JR青梅線の昭島駅でおりて大師通りを進むと、足元にはクジラのマンホールが目に入ります。更に行けば拝島高校生が寄贈したという鯨の壁画がみえてます。
昭和36年に多摩川河川敷で160万年前の鯨の化石が発見されました。多摩川が生まれるずっと以前、ここは海の底だったのです。
その後、クジラはアキシマクジラと命名されて、昭島のシンボルになったようです。市内には、クジラ通り、クジラ公園のほか、店の看板や交番など、様々なところでクジラが顔を出しています。

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拝島高校生が制作した鯨の壁画
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昭島市のマンホールはクジラ

大師通りは旧奥多摩街道にあり、その名の通り、拝島大師へ向かう通りです。
拝島大師の正月のだるま市は、多摩地域では深大寺に負けないくらい人気があるのです。
正式名称は本覚院。本尊に天台宗中興の祖、慈恵(じえ)大師像をまつっています。

以前、深大寺でも紹介した慈恵大師は、僧良源の送り名です。正月3日に入滅したので元三大師とも呼ばれて、多くの信者を集めました。大師を祀る神社は近隣では先の深大寺のほか、川越の喜多院が有名です。

大師像は良源がみずからの姿を刻んだ物とされ、本来は比叡山横川に祀られていましたが、寺伝によれば、元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、持ち出された大師像が諸国放浪の末、天正6年(1578)にこの地に安置されて本覚院が創建されたそうです。桃山様式の本堂は最近たてなおされて新しくなっていますが、南大門や竜宮門など、なかなかに見ごたえがあります。堂宇内の八角堂には聖徳太子像を中心に弁天、毘沙門天の脇侍仏が並び、これは天台宗の伝統的な祀り方です。

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南大門
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八角堂

拝島の名は、今から1,000年余り前、多摩川の大洪水の折、川の中州(島)に流れ着いた大日如来の木造を、村人が祠を建てて拝んだことから付いた地名です。その後、八王子の滝山城築城にともなって、城の鬼門除けとして、奥多摩改装に面した今の地に移されました。
天正年間、北条氏の家臣、石川土佐の守が娘於ねいの眼病平癒を祈願、井戸で目を洗ったところ治癒したので、土佐の守は大日堂の堂宇を再建、8つの寺院を建立しました。
天性19年(1591)には徳川家康より主因地10石を下賜された、由緒ある寺です。

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大日堂

大日堂に隣接するのは日吉神社。天正年間の大日堂の再興にともなって守護社として建立されました。神仏習合の時代には山王社と呼ばれて大日堂を管理していましたが、明治2年の神仏分離令により山王社は日吉神社に改称され、大日堂の管理から離れました。枠年はコロナで中止になりましたが、秋に行われる榊祭は280年の伝統を持つお祭りです。拝島大師とならんで、この日吉神社、大日堂境域は歴史的建造物などの旧態をよく保持した、都内でも数少ない貴重な存在として東京都史跡に指定されています。

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日吉神社

街道沿いにある日吉神社の鳥居のそばに、小さなお地蔵さまがたっています。坂下地蔵と呼ばれています。奥多摩街道は日光街道の脇往還でもあり、拝島は宿場として発展していました。地蔵は宿場の東の入り口にたって、西をむいています。今、拝島に宿場の面影はありませんが、「中宿」という地名だけが残っています。地蔵はもう一体、宿場の西の入口にもありました。

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西を向く坂下地蔵

大日堂の子院は拝島大師の他にもあり、普明寺は、上述の石川土佐の守が再建した8寺院のひとつです。江戸時代には大日堂領として朱印状が与えられていたそうです。

龍津寺(りゅうしんじ)は曹洞宗のお寺です。
東京の名湧水57選にも選ばれ多湧水があり、本堂には天井板絵と杉戸絵があります。55面の天井板絵は竜を中心に花や鳥獣が配置され、天保14年に大岡霊峰によって描かれました。杉戸絵は16面。飲中八仙(中国唐時代の酒豪8人)が描かれています。天井板絵と杉戸絵は昭島市の市指定有形文化財に指定されています。運よく天井画を見せていただくことができました。ご住職のはなしでは、近隣に仏師の屋号を持つ家があるそうです。

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龍津寺の天井画

奥多摩街道は立川崖線の崖の上を行く街道です。
街道に沿って歩けば崖線の下に広がる街並みが多摩川につづいている地形がよくわかります。
昭島、福生、八王子3市の市境でもある多摩川の河川敷に、今も残る「九ガ村用水取水口」は、近代の土木遺構です。取水口そのものは室町時代に原型があるとされ、江戸時代に完成しました。元は上流の福生市にあったものが、江戸時代末期から明治にかけて、いまの地に移ったとされています。現存する桶管は明治44年製。ここで採り入れられた多摩川の水は、江戸時代以降、昭島市と立川市の9ケ村の水田をうるおしてきました。
昭和の始め、村山、山口両貯水池の完成後、多摩川の水位が下がったため、昭和6年に下流に新らしい堰(昭和取水堰)がもうけられましたが、これも昭和48年頃に役目を終えました。

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       九が村用水取水口

公園になっている河川敷をすすんで、福生市に入ります。福生市には玉川上水からひかれた熊川用水が流れています。
この地にある熊川神社は、平安時代、多摩川で産鉄を営んでいた部族が、鉄神として白蛇神を祭ったのが起源とされています。多摩川のエリアにも鉄を算出する場があったとはドラマチックです。祭神は大国主命。

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熊川神社

熊川といえば、あたりを流れている熊川分水をぬきにすることはできません。
熊川分水は、玉川上水の水を牛浜幸楽縁東側から取り入れ、奥多摩街道と並行するように熊川地域の中心を流れて、どうどう橋から下の河に流れ込んでいます。全延長 約2000m。
玉川上水は今から約350年前、承応3年 (1654 ) 開かれました。 
熊川地区は水が乏しかったため、人々は玉川上水から水を引きたいと考え、寛政三年( 1791)に分水の工事願いを提出、その後約100年の間、さまざまな困難を乗り越えて、明治23年 (1890 ) にようやく完成したのです。
工事の期間中に延べ7000人あまりの人が労働に従事しました。
分水の水は、まず各家庭の飲用水・生活揚水に、そして水田に引く灌漑用水に、また酒造、製糸業などの工業用水にも使われました。水車も四ヶ所にあったと記録されています。
地域の人々は、この分水を「ホリ」と呼んで親しみ、水の浄化に努めてきました。
福生市では、先人が苦労した歴史の上からも、石積みや掘割の技術の上からも、市の誇る歴史的文化財として、大切に守っていくよう市民によびかけています。

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球磨川分水の流れるせせらぎ遊歩道

古来、水を求めて井戸を掘るのもそれを利用するのも大変な労作業でした。
地表面をすり鉢状に掘り下げる「まいまいず井戸」は武蔵野台地に数多く残されています。現在のような直下型に掘る技術が確立したのは、ようやく江戸時代になってからでした。熊川地域で「地頭井戸」と呼ばれている井戸は、江戸時代、熊川鍋が谷戸地区を知行した徳川幕府の旗本、長塩氏が、水不足に悩む領民に掘り与えたと伝わっています。領主と村民の支配体制や当時の社会構造を考える上で貴重な資料だと言われています。

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伝地頭井戸

福生院は小さな寺ですが、足利四代将軍義持を開基として創建されました。市内で二番目に古いという板碑を見ることができます。この板碑は剃刀のように薄いのにびっくりしました。

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福生院の板碑

最後におとずれたのは玉川上水沿いにある青岩院です。山号は福生山。
白鳳時代と推定される仏像は市の有形文化財。池泉式庭園には東京の名湧水57選の湧水が巡っていました。

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清巌院本堂
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東京の銘湧水57選の池



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雑記帳2021-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-7-1
◆清澄庭園はさながら石の博覧会場。スペイン料理はフルコースでもお手軽でした。

地下鉄大江戸線と半蔵門線が乗り入れる「清澄白河」の地名は、此の地の造成し移り住んだ住民が安房・清澄村の出身であったこと、白河は白河藩主、松平定信の屋敷があったことに由来しています。ここには都立清澄庭園と、深川江戸資料館があります。

清澄庭園は、泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉庭園」として知られています。
もとは、紀州の豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷であったところ、享保年間に、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、今の庭園の原型が作られました。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として改修、整備されました。

関東大震災の折には、災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。庭園の持つ防災機能を重視した岩崎家は、園用地として東京市に寄付、現在の都立清澄庭園になったのでした。
ちなみに、東京には浜離宮、六義園、旧岩崎邸庭園、旧古河邸庭園など、9か所の都立庭園があり、以前紹介した殿ヶ谷戸庭園もその一つです。

見どころはいくつもありますが、なんといっても園内の石の多さに驚きます。
伊豆磯石、伊予青石、紀州青石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石・・・。この ほか敷石や橋、前述の磯渡りの石を含め、園内には無数の石が配置され、さながら「石庭」の観があります。これらの石は、岩崎家が自社の汽船を用いて全 国の石の産地から集めたものでした。三菱が財をなした一因が海運業でああったことを思い出しました。西南戦争のおりには、政府軍の兵器・物資の輸送で巨額の富を得たのでした。

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伊豆の磯石
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佐渡の赤石

池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物は「涼亭」です。涼亭は明治42年国賓として来日した英国のキッ チナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたもの。今は改修されて集会場として利用されています。
庭園で最も高く大きな築山は「富士山」とよばれています。。関東大震災以前はこの築山の山頂にサツキ・ツツジの灌木類を数列横に配して、富士山にたなびく雲を表現したものだと言われています。

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涼亭
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庭園の「富士山」

川と海に近いこともあって種々の野鳥がくることでも知られています。
この日、池にはゴイサギの姿がありました。

深川江戸志朗館は清澄庭園のすぐ近くです。ここでは江戸時代の深川佐賀町の町並みが実物大に再現されています。
八百屋、米屋などの商店とともにあるのは掘割に面した船宿。舟は水上タクシーでした。火事の多かった江戸には火の見櫓や日除け地は欠かせません。日除け地にはてんぷら屋・二八そばの屋台があつまっていました。江戸の職人はせっかち、ハンバーガーよりずっと前から江戸にはファストフードがあったのです。
3畳から4畳半のコンパクトな長屋は庶民のつつましい暮らしぶりをうかがわせました。この広さで寝室にもなり、食事をする場にもなり、子育てやおけいこごとをする場にもなったというのですから、誠に合理的です。

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舟つき場、この前に舟宿が建つ
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てんぷら屋の屋台

企画展示室で開催中の企画展「こうとう浮世絵づくし」と同じフロアーに、現在の江東区で制作された工芸の品々を、職人の世界として紹介しています。東京の下町に江戸時代から続く職人の伝統が今も受け継がれているのが感じられるコーナーでした。

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開催中の企画展
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工芸展示品の一つ

江戸資料館に隣接する霊巌寺には松平定信の墓の他、5番目の江戸六地蔵が建立されています。この六地蔵は江戸で一番大きいお地蔵さまとして知られています。

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霊巌寺の六地蔵

深川にある寺や神社は江戸一、日本一と言われるものが少なくないようです。
深川閻魔堂で知られる法乗院には日本最大の閻魔さまがいます。
本堂1階には江戸時代に描かれた『地獄極楽絵』が展示されているほか、境内には「日本三大仇討ち」で知られる曽我五郎の足跡石が置かれています。

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深川閻魔堂の日本一の閻魔様

江東区はその名のとおり、東京の東に位置しています。江戸市中に比べて幕府の統制が比較的緩やかだったことから、自由を求めて移り住む文人も多かったとか。芭蕉もその一人でした。伊賀藩に仕え、神田川改修で人足を差配した芭蕉は、将軍が代替わりした綱吉時代に、弟子の杉山杉風の招きで深川にやってきました。芭蕉は仙台堀川のたもとにある、杉風の庵室「採荼庵(さいとあん)」から、奥の細道に旅立ったのでした。

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採荼庵から旅立つ芭蕉は令和のコロナ下でマスク着用

江戸の東南は、干支方位でいえば「辰巳」に当たります。深川八幡や永代寺の門前町としてにぎわうようになったこの地で、粋できっぷのいい辰巳(巽)芸者は誕生しました。岡場所の遊女と芸者の区別のなかった時代に、男顔負けの装いや、芸は売っても色は売らない心意気は大層な評判となり、芸者の社会的地位を高めたと言われています。

その深川八幡は江戸最大の八幡宮で、正式には富岡八幡宮、東京で最大の八幡さまです。応神天皇をモデルにしたと言われる八幡菩薩像を安置する八幡神社は全国に7,800もあるそうです。八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つになっています。

以前この紙面でも紹介しましたが、伊能忠敬の像があることでも知られています。一日1万歩歩くのがやっとの現代人に対し、忠孝は測量のために一日8万歩歩いたと言われています。
境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。江戸勧進相撲発祥の地でしたが、明暦の大火の後は勧進相撲は両国の回向院に移りました。

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深川八幡宮

その大火で紀伊国屋文左衛門が奉納した神輿も焼失、今の神輿は佐川急便の会長が寄付したそうです。重さは4.5トン、純金の屋根とともに鳥の目にはダイヤやルビーがはめこまれた豪華賢覧の神輿です。あまりの重さに担ぐことはできず、のちに、重量を半分にした二宮神輿が作られました。・

門前仲町から月島を目ざして通りを進むと、隅田川の手前に海洋大学越中島キャンパスが見えてきます。海洋大は元の国立東京商船大学と東京水産大学を統合してできた大学です。商船大学の前身は明治政府が助成して岩崎弥太郎に作らせた三菱商船学校でした。越中島キャンパスには昭和初期の重厚な建物が多く残っていて、百周年記念資料館、日本最古の鉄船明治丸、日本で2番目に古いというプラネタリウムなど、見るだけでもおもしろい。明治丸は、明治天皇が東北・北海道巡幸に利用して、これが海の日の由来になりました。

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明治丸(重要文化財)

海洋大に隣接して、人目を引くこともなく建っているのは明治天皇聖蹟の碑です。皇紀2600年(昭和16年)を国をあげて祝い、さらなる国威掲揚のために建てられました。皮肉なことに、この年、日本は太平洋戦争から敗戦へとつきすすむことになるのです。
明治天皇が行幸でおとずれた地に建てられた聖蹟の碑は史蹟として全国に数多くありましたが、終戦とともにすべて史蹟を解除されました。聖蹟など今は気に留める人も無いと言うのは、先の海洋大のキャンパスに女子学生の姿が見られたことと合わせて、いい時代なのかもしれません。

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明治天皇聖蹟の碑 写真奥に明治丸の帆のポールが見える。

さて、ここから左手に佃島を喪ながら相生橋を通って隅田川をわたると、いよいよ月島です。清澄庭園から歩いてきて、今回のお目当てはスペイン料理。開店して27年になるというレストラン「月島スペインクラブ」でちょっと遅めのお昼をいただきました。

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前菜(タコのアリオリ(ガーリック風味)、イベリコ豚の生ハム、鰯の酢漬け。                 スープはコンソメタイプのあっさり味

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メカジキのソテー・エスカベッシュ(野菜の南蛮漬け添え、この後に出た肉料理は子羊の肩肉の煮込み

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魚介とお肉のミックスパエリア

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デザートのクレマカタロナ(クリームブリュレに似ているが、コーンスターチをつかう)

スペイン料理と言えばパエリアしか知らず、イタリア料理と区別もつかない私ですが、随所にサフランが使われているのは気付きました。実際に、スペイン料理と一口に言えないくらい、その土地その土地に特色ある料理があるそうです。

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厚さ15cmほどもあるドアや調度品はスペイン製、できるだけスペインの空気を感じてほしいと店長さん。

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雑記帳2021-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-6-15
◆深大寺は武蔵野台地の標高50mラインのオアシス。

東京の西郊、調布市に在る深大寺は日本三大だるま市の一つとして知られ、多くの人々の信仰を集めてきました。

開山は奈良時代の733(天平5)年,開祖は満功上人。東京では浅草の浅草寺に次ぐ古刹です。境内の深沙堂は、上人の両親が恋の成就を祈願した深沙大王が祀られており、深大寺の名の由来になったといわれています。開山時は法相宗、平安時代に天台宗に改宗しました。深沙大王は水の神様です。
慶応年間の火災で堂宇の大半を焼失しましたが、山門は唯一火災を免れています。

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山門
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深沙堂

天台宗となった深大寺には中興の祖、慈恵大師(良源)が祀られています。良源は命日が正月三日であることから、元三大師(がんざんだいし)とよばれて親しまれています。
元三大師はまた、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集めるようになりました。角大師とも言われ、境内には角のはえた元三大師の石像が見られます。人気を繁栄してか、火災のあと一番先に再建されたのは本堂ではなく、大師堂でした。毎年3月に大師堂で行われる「厄除け元三大師大祭」、通称「だるま市」には10万人以上の参拝客が集まるそうです。コロナ禍の今年、密を避けてだるま市は中止になりました。
釈迦堂には、国宝の、都下最古の白鳳仏がありますが、コロナ禍で見ることはできませんでした。

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大師堂
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大師堂のだるま

明治以降、多くの文人墨客がおとずれたようで、高浜虚子や中西悟道の胸像、石田波郷の句碑なども見受けられました。中西悟道は日本野鳥の会の創始者です。

深大寺は湧水の多い国分寺崖線の崖面に抱かれるように立地し、現在でも境内にいくつもの湧水源を持っています。湧水を利用した「不動の滝」は「東京の名湧水57選」にも選定されているのです。 門前の側溝にも豊かな水量の水が流れています。湧水は大切に管理されて、カワニナを放つなどホタルの育つ環境がつくられていました。

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不動の滝は2つあり、もう一つのほうが東京の名湧水57選に選ばれている。
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湧水の流れの一つ

武蔵野台地は日本最大級の洪積台地です。
多摩川が造り出した扇状地上に、火山灰の関東ローム層がつもり、各所で湧き出す地下水はほぼ標高50mで連なっています。なかでも、井の頭池、前夫生地池、三宝字池は武蔵野三大湧水地として知られています。深大寺の湧水もこのラインにそっているのです。旧石器時代や縄文時代、武蔵野台地で人々が住んでいたところは、水が得やすく食べ物に困らない、池や川に近い日当たりのいい高台でした。
崖線から湧き出す豊富な水に、やがて、人びとは素朴な信仰を抱いたのではないでしょうか。深大寺によれば、水源地であるがゆえに霊場でもあったこの地が仏教の伝来以降あらためて注目され、“水神「深沙大王」”ゆかりの深大寺建立に至ったのではないかということです。

「深大寺そば」が名物として発達したのも水の恵みと無関係ではありません。蕎麦の栽培、そば打ち、釜茹で、晒しに湧水が利用されただけでなく、水車を利用してのそばの製粉も行われました。そば観音の像も在る深大寺には復元された水車がまわっています。

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復元された水車

寺を出て多門院坂をのぼると三鷹通りに面してたつのは青滑(あおい)神社です。
江戸名所図絵にも描かれている青滑神社は延喜式式内社に載る古社です、「あおなみさま」と呼ばれて地元の人々に親しまれてきました。此の地に青波をたてる大池があったことに由来しています。深大寺町の総社であり、神仏混合の江戸時代には、隣接する深大寺は青滑神社の別当寺でした。青滑神社は稲城や青梅にもあります。
御神木の大欅は樹齢600年を越え、調布市の天然記念物になっています。

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青渭神社
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青渭神社の大欅

三鷹通りを挟んで青滑神社の前に広がるのは東京都立農業高校神代農場です。
コロナのため、中に入ることはできませんが、谷戸地形と豊富な水を利用した広大な敷地内にはワサビ田もあるそうです。崖を下って行った農場裏にも湧水が流れ、地域の農地や水田を潤しています。

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都立農業高校神代農場正面

中央道の高架の下をくぐると深大寺自然広場、ここには調布市立野草園があります。4,000平方メートルの野草園には多摩地域に自生する野草を中心に、現在300種以上の野草が植えられているということです。咲いていたのはカンゾウでしょうか。

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野草園

農場や自然広場をぐるりとめぐって戻ってくると、深大寺小学校の下に広がっているのは水生植物園です。都立神代植物公園の分園として、昭和60年に開園しました。深大寺に隣接する神代植物公園は、都立で唯一の植物公園として広く知られ、特に薔薇の季節は大変な人気ですが、深大寺をはさんで後からできた水生植物園の方は訪れる人も少ない様子でした。6月の今は、ちょうどハナショウブの季節です。


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水生植物園の木道 右手の森の向うに深大寺城があった
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ナハショウブ

深大寺城跡はこの水生植物園の付属施設です。
深大寺城は、国分寺崖線と谷戸に囲まれた舌状台地に築かれた天然の要塞でした。築城時代は明らかではありませんが、戦国時代の1537(天文6)年、扇谷上杉氏が小田原の北条氏との決戦に備えて古い館を再興したものです。しかし北条氏は深大寺城を迂回して直接川越城を攻めたために、上杉氏は松山城に敗走しました。敗将の城は廃城にはなったものの、戦いが行われなかったことが幸いして、土塁と空堀をめぐらせた「ふるき廓」の貴重な遺構が残されることになったのです。2007年には国の史跡に指定されました。
ちなみに、廓(くるわ)とは城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称をいい、曲輪とも書きます。門や堀、櫓のほか、兵糧を備蓄する蔵も備え、戦時、それぞれの廓には守備を担当する兵たちが駐屯しました。

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城郭の柱のあともそのままに

深大寺に来て「深大寺そば」を食べない手はありません。コロナ下とはいえ、昼時ともなれば込み合います。弁天池のそばに立つ茶店でいただいた二八そばは、思いの外量もたっぷりで、満足、満足。
小学校前や深大寺城跡の一角にはそば畑があり、どれほどの収穫が期待できるかはおぼつかないものの、「深大寺そば」の伝統を伝えようとしていました。

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深大寺城跡のそば畑

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雑記帳2021-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-6-1
◆江戸時代、玉川上水から引かれた多くの分水が武蔵野台地を潤し、新田開発が進みました。

立川にも2本の分水が引かれています。そのうちの1本、柴崎分水をたどってみました。
今では数軒の屋敷や農家の畑に取り込間れた流れを除いて、殆どが暗渠になっているため、街中で見ることはできなくなりました。それでもかろうじて当時の面影を探せる場所があるのです。

羽村取水口で多摩川の水を取り込んだ玉川上水は羽村、福生を経て、昭島、立川に流れてきます。西武拝島線の西武立川駅から歩くこと数分、上水に架かる松中橋の上流側に柴崎分水の取水口はあります。

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松中橋にある取水口

松中橋を出た柴崎分水は工業団地を流れながら、まもなく昭和記念公園の中にはいります。
記念公園から出てきた分水が見られるのは農業試験場そばの崖の下、残堀川と並行するように流れています。残堀川は大きな川ではありませんが、埼玉県から多摩川に注ぐ一級河川です。この川も昭和記念公園の中を流れてくるのです。

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取水口のすぐ近く、グリコの工場前を流れる柴崎分水
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記念公園を出て農業試験場近くを流れる分水

分水はすぐに暗渠になってしまうので、ここからは残堀川にそって歩きます。
ほどなくみえてくるのがJR中央線。立川駅を過ぎると、多摩川の手前まで電車は谷間を走っているのですが、ここでのクライマックスは、この中央線の上に架かる「水路橋」です。線路をまたいで水を通すために作られた橋は、今は空中に浮かぶ、ただの水道管になってしまいましたが、工事前はまだ水の流れる様子を見ることができました。電車が走るその上を、実際に水が流れていると知って驚く人は多いのではないでしょうか。正確には「柴崎分水中央線跨線樋」というのだそうです。明治時代に甲武鉄道(現在の中央線)によって架けられた初代の橋は、煉瓦アーチの「めがね橋」でした。

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電車の上、線路をまたいで走っているのが元水踏橋
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明治のめがね橋(立川村十二景より)

中央線をまたぐ街道の橋(こちらは人や車用のふつうの橋)を渡ると、分水の名前にもなっている柴崎町です。柴崎町4丁目には立川の古刹・普済寺があり、寺の周辺に分水が再び顔を出しています。寺の六面石幢は市内唯一の国宝として知られたいますが、コロナ禍の今は見ることはできません。

六面石幢は、立川唯一の国宝で阿金剛・吽金剛の仁王像と、持国天・増長天・多聞天・広目天の四天王像を、それぞれ緑泥片岩の板石に刻み、この六面を六角の柱状に組み合わせ、六角形の笠石と台座で固定した石幢です。1361年の造立。

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普済寺 この建物の中に六面石幢がある
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六面石幢
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普済寺そばを流れる柴崎分水

普済寺をあとにして、モノレール通りに出ると、坂の下は根川緑道です。
以前にも紹介した緑道は、春の桜とともに、カワセミやチュウサギ、アオサギも観察できる、市民の憩いの場です。今は鳥たちの子育てをする季節。運よくアオサギの巣に出会えました。どうやら1本の大木に複数のアオサギの家族が住んでいるようでした。残念ながら私のデジカメでは樹のあいだのアオザギの姿を撮ることができませんが、肉眼で親鳥を確認でき、独特の、低音の鳴き声でそれとわかったのでした。歩いたのは早朝、町が動き出せば騒音に消されてしまう鳴き声です。まさに、「早起きは三文の得」でした。

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この樹にアオサギの複数の巣がある

緑道を歩けば体育館。体育館の前にある公園に、柴崎分水の最後尾を見ることができます。
昔、この一帯はガニガラとよばれ、崖下から湧き出る湧水に恵まれて、蟹がたくさん生息していました。ガニは蟹の古くからの呼び方です。遊具のある広場やビオトープを中心に、子どもたちの環境教育もできる場にしようと、市は長い時間をかけて整備し、2017年に「立川公園ガニガラ広場」としてオープンしました。麦秋の今、小さな体験農園に、麦が実っていました。

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木道の向うにみえるのがガニガラ広場のシンボルツリー、メタセコイア
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ガニガラ広場を流れる柴崎分水
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広場のそばをモノレールが走る。

松中橋から流れてきた柴崎分水はここで根川と合流し、その根川もほどなく多摩川に注ぐのです。

福生市にあるレストラン「シュトーベン・オータマ」は、素材と製法にこだわったドイツ料理の店です。

ドイツといえばソーセージ、誰もが知っているので珍しくもありませんが、ここでは地産地消をうたい、隣接する工場で作られるハムやソーセージ、ベーコンの原材料にとうきょうXを使っているのが目玉です。
大多摩ハムは1932年創業の老舗で、ドイツの伝統製法を基本に、無添加のハムやソーセージも作っています。

とうきょうXは言わずと知れた東京ブランドの豚です。青梅にある畜産試験場で生まれました。肉質の良い黒豚とバークシャー、ヂュロックをかけあわせた豚肉は、味の良いのが自慢です。立川でも飼育している農家はありますが、生まれた子ブタの多くは関東の他県に委託されています。量が少ないので売っている店もすくなく、値段が牛肉並みとあって、普段はなかなか口にできません。近隣のレストランでとうきょうXを売りにしている店をみかけた事はありませんか。

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ドイツっ風の店の外観
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後ろ2本は2日間燻製したドイツ式ベーコン
中央のハーブの下のソーセージは市内にある石川酒造の地ビールをねりこんである
手前はとうきょうXのカットステーキ
パンは自家製のジャーマンロールパン

この日たのんだのは、上の写真のミックスグリルでしたが、もう一つ、店のメニューに「アイスバイン」が載っていました。
アイスバインはドイツの伝統的な家庭料理のひとつで、ローリエなどと一緒に塩漬けした骨付きの豚すね肉を、じっくり煮込んだものです。サラダにあわせたり、ポトフなどのスープに入れたりとドイツの家庭では欠かせないメニューです。長時間煮込むことで、すね肉の余分な脂がなくなり、意外にあっさりしているので、日本人にも食べやすいと注目されているそうです。オーブンも要らず、鍋で煮込むだけの調理は簡単です。

ちなみに我が家は昔から牛のすね肉を煮込んで、土鍋でビーフシチューを作っています。あの固いすね肉(しかも安い!)が、圧力なべがなくても時間をかけて煮ることで驚くほど柔らかくなります。そのうえ、アイスバインは骨付きとくれば、おいしいことは請け合いです。

アイスバインは元はラテン語の座骨を意味する言葉だそうです。アイスと聞くと氷をイメージしますが、長時間肉を煮込むと、肉から溶け出したゼラチン質などが鍋の中で冷えると固まって、氷に見えるという由来もあるといわれています。
後日、再び店を訪れて食べたアイスバインの写真です。骨月のすね1本がごろんと皿に横たわる様はいかに存在感があって、付け合わせのザワークラフトもたっぷり。写真写りはよくありませんが、ゼラチンにつつまれた赤身の肉は確かにヘルシーです。骨離れもよく、ナイフとフォークできれいにはがせます。塩味はちょっときつめ、ビールにあいそうでした。2~3人分とある通り、ボリューム満点。食べきれなかった分は持ち帰りました。

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福生は横田基地の町です。市内のレストランが、米兵に馴染みのホットドッグを競い合って町をPRしています。名付けて「福生ドッグ」。
シュトーベンの福生ドッグのフランクフルトソーセージは勿論とうきょうXです。

ところで、アメリカが発祥だと思われているホットドッグは、実はドイツからの移民がもちこんだものだそうです。ホットドッグは元はといえば、ドイツ料理なのですね。

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シュトーベンの福生ドッグ

絵本作家エリック・カールさんが亡くなりました。

絵本の赤や緑の鮮やかな色彩は、戦争を体験した人の色への憧れ、とりもなおさずそれは平和への希求だったといいます。我が家の3人の子供たちも「はらぺこあおむし」が大好きでした。
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はらぺこあおむし

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雑記帳2021-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-5-15
◆第3次の緊急事態宣言下、コロナ自粛中です。おうち食が大流行なので、春休みに実施した親子料理教室「簡単手作りピザ2種」のレシピを紹介します。

ピザ生地が驚くほど簡単にでき、サクサクして市販のものに引けを取らないことと、子どもでも全部、親の手を借りずにできることがミソです。ピーマンや玉ねぎは量が多いと思ったが、山盛りにのっけて焼いてみると結構いけますね、と、参加したお父さんの感想でした。リンゴにハム、チーズが合うというのも発見でした。材料は2人分。

◇材料 
  (生地) 薄力粉 125g、うち粉(薄力粉)大さじ1、ベーキングパウダー 3g
      オリーブオイル 大さじ1、 水60~65cc、 塩 小さじ1/2
 (野菜のピザ)  ベーコン1枚、 玉ねぎ1/4個、ピーマン1個 ミニトマト4個
   (くだもののピザ) りんご 1/4個、 ハム 2枚、
  ピザ用チーズ  60g
  ピザソース   適量

◇作り方
1.薄力粉とBP、塩を合わせた後、オリーブオイルを加えてさっと混ぜ合わせる。
2.水を入れてひとまとまりになるまでこねる。
    丸めてボウルに入れ、ラップをして、生地を30分ねかせる。
3.ベーコン、ピーマン、ハムは5ミリ~8ミリの細切り。
    ミニトマトは2つに輪切り、大きいときは3つに輪切りにする。
    玉ねぎは繊維に直角に3ミリ~5ミリの細切り、リンゴは3ミリ~5ミリのイチョウ切り。
4.オーブンを230℃に予熱しておく。
5.生地を4分割し、それぞれ2分割してうすく丸くのばす。
6.オーブン皿にクッキングシートを敷き、生地4枚をならべ、ピザソースをぬる
7.やさいのピザは、材料を好みにのせたあと、チーズをのせる。
    くだもののピザは、リンゴ、ハムをのせたあと、チーズをのせる。
8.230℃に熱したオーブンの上段で10分焼く。
  表面にかるい焦げ目がついてきたら出来上がり。

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くだもののピザ
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野菜のピザ

※簡単ピザソースの作り方
◇材料(2人分) ケチャップ 大さじ3、醤油 小さじ1/2、砂糖 小さじ1
◇作り方   材料全部をボウルに入れて、よくかき混ぜるだけ

◆東京は世界中の料理が味わえる。こちらは目黒で見つけたエチオピア料理です。

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エチオピア料理店クイーンシーバ

シーバはエチオピアの女王の名前ですね。旧約聖書を読めば、ソロモンとシバの女王の物語にいきあたる。奥さんは日本人、店のご主人の名はソロモンでした。

本日のメニュー
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 コンビネーションサラダ
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 エチオピア料理の盛り合わせプレート
(手前)ブラウンレンズ豆のサモサ
            (中央左)カイワット(ビーフの辛口シチュー)
              水はつかわない、水分は玉ねぎのみなので味は濃厚
            (中央右)ミスール(レンズ豆のターメリックシチュー)  
         (奥左・灰色の3枚)インジュラ(エチオピアの代表的なスチームブレッド)
          (インジュラの右2枚)ダボ(エチオピアのハーフブレッド)
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デザート パンナコッタ

主食のインジュラとバルバレという香辛料がエチオピア料理の特徴です。強い辛味のバルバレは何にでも使われ、カイワットというビーフカレーにも使われていました。
インジュラはテフと呼ばれるイネ科の穀物から作った主食、グルテンがなく、栄養価が高いそうです。、そのテフの粉をねって2~3週間発酵させて作ります。
エチオピアは1980年代に多くの餓死者を出した食糧危機を経験しています。このため、食糧難に備えて国外には輸出しないという国策をとっているので、店ではすべて手づくりだということです。ご主人はテフの粉を調達するため、年に2か月ほどは母国エチオピアに帰るそうです。
クレープのように焼いて作るインジュラは柔らかく、見た目よりずっとおいしかったのですが、時間がたつとまずくなるということなので、こっそりもちかえるわけにもいきませんでした。

エチオピアはコーヒーの起源だと言われています。
昔、エチオピアの羊飼いが、山羊が赤い実(コーヒー豆)を食べるのを発見したのがはじまり、その羊飼いの名前がカレデイだと、先日、コーヒー豆を買いに行ったカルデイの店頭で見つけました。最初は飲料としてではなく食用だったのですね。徐々に飲料に変わっていく中で、エチオピアにコーヒー文化は根付き、庶民に深く愛されるようになったのです。17世紀ごろからはコーヒーの輸出国になりました。
この日はご主人の淹れてくれた正真正銘のエチオピアコーヒーです。残念ながら他のコーヒーと区別がつくほど通ではありませんが、食後の香りを楽しみました。

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エチオピアは、アフリカ大陸では珍しく、歴史上、植民地になっていない国です。
高原の国なので、気候的には島国の日本と似ているところがあるとは、ご主人の言葉でした。
この地に店を開いて31年。代官山、目黒は大使館が多いので、ここはアフリカ系大使館職員のたまり場になっているのだそうです。

◆兼題に「朧月」をもらってつくった俳句です。

    山の端(は)もかすみてあわしおぼろづき

もともと縦書きの俳句をパソコンでつくるのもなやましいところです。これを、大谷鬼禿氏が添削して色紙を描いてくれました。明かりにすかして見ると月が出るという仕掛けになっているのがブログ紙面では紹介できないのが残念ですが、左クリックして拡大してご覧ください。

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雑記帳2021-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-5-1
◆江戸城外堀歩きは4回目。漸く古地図が読めるようになりました。今回はJR四谷駅から水道橋駅までを歩きます。

前回、JR中央線の四ツ谷駅の麹町口で四谷門の石垣を見たところからの出発です。
四谷門は江戸城外堀の門のなかでも大きい門でした。現在の新四谷見附橋の場所に橋がかかっており、その東粟にありました。今も城門の一部が残っています。

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四ツ谷駅
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四谷見附橋からJR中央線を見下ろす

江戸時代、五街道の一つ、甲州街道は江戸から甲府を経て下諏訪まで続いていました。四谷門をう回して道は直線ではなかったのですが、大正2年(1913)に四谷門跡の道の敷き直しが行われ、それまでの屈折した道から一直線になったのでした。
甲州街道の敷き直しにともなって、四谷見附橋が外堀に架けられました。

橋をわたった四谷駅の北側の外堀は埋め立てられて鉄道用地と外堀公園になっています。
外濠公園は、江戸城外濠の土手や濠の跡を利用して作られており、堀に沿ってJR中央線四谷駅北側から飯田橋駅付近までの約2kmにわたって細長く続いています。

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外堀公園入口

公園入口に立って道路向かい側に一番に目にはいるのが、ひときわ高いCOMORE YOTSUYAです。
約2.4ヘクタールの土地にオフィスやマンション、商業、教育などのはいる複合施設です。災害時には帰宅困難者の一時滞在場所や地域住民の一時集合場所にもなります。名前は「木漏れ日」と「common 」をかけた造語だそうです。元四谷第三小学校跡に建ち、工事中に江戸時代の町や糀室が出土しましたが、埋め戻されています。

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COMORE YOTSUYA

入口を入ってほどなく土木学会の建物が見えてきました。
土木事業の発展と技術者の育成目的とする土木学会は、全国の橋梁の状態を定期的に調査し、必要があれば整備の要請もするという所です。その土木学会の本部がこの外堀公園にあるというのも縁を感じますね。

外堀は四谷門のあった場所が最高地点で、そこから南北に水が流れ下っていました。従って、外堀沿いの道も下り坂になっています。現在メグミルクの本社がある所に旗本高力家の屋敷があったことから高力坂と呼ばれていました。長い、緩やかな坂です。

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高力坂

まもなくJR市ヶ谷駅。駅は市ヶ谷門の跡地にたっているのです。地下鉄南北線市ヶ谷駅構内には江戸歴史散歩コーナーがあり、南北線建設工事の時に発掘された江戸城の石垣が復元、展示されています。

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堀のむこうに見えるのがJR市ヶ谷駅

亀岡八幡宮は全国に数多くありますが、市ヶ谷の亀岡八幡宮は太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請して建てたと伝えられています。令和の今も地域住民の信仰を集めているほか、新宿区に残る江戸時代唯一の銅の鳥居や狛犬、境内の力石、几号水準点(水鉢台座)など、見るものはたくさんあります。(ちなみに都内には37か所の几号水準点が現存しています。)周辺は尾張徳川家の屋敷跡、辿っていけば佐内坂です。

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亀岡八幡宮

外堀側から見れば、この辺りから東に向かって神楽坂まで、台地がせり出しているのがよくわかります。それに伴って幾筋もの坂が見えます。いわく、左内坂、浄瑠璃坂、逢坂、庚嶺坂(ゆれいざか)、神楽坂の中にも坂は何本もあります。そして、それぞれに係わった人や事件が伝わっているのです。
奈良時代の武蔵守と少女の悲恋が伝わる逢坂。近くには平将門伝説の残る築土神社。中国の梅の名所に因んだ庚嶺坂。浄瑠璃坂の仇討は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入る30年前のことでした。この事件では仇討に成功した主人公を召しかかえた藩主がいましたが、忠臣蔵ではそうはいきませんでした。
庚嶺坂の上にある若宮八幡宮は、この神社の御神楽の音が坂まで聞こえたからだという、神楽坂の由来にもなっています。

神楽坂はかって花街として栄えました。今もお洒落な店や飲食店が立ち並び、若者でにぎわっています。
坂の上にある善国寺は商売や技芸の神様、毘沙門天として知られ、江戸時代から参拝客がたえません。毘沙門天は寅年のとらの刻生まれということから門前にいるのは狛犬ならぬ狛虎です。

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善国寺の狛虎(!)
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神楽坂に4軒残る料亭のひとつ「うを徳」

お昼は路地の「鳥茶屋」で親子御膳を。江戸風のしっかりした味付けは、関西風とは言っているものの、これはくだらない味かなあと思いました。

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鳥茶屋の親子御前

「くだらない」は決して差別用語ではありません。江戸時代、上方から荷揚げされる品々は下り物と呼ばれ、対する江戸産の品々はくだらない物でした。初期にはくだらない物はその名の通り、品質は劣っていましたが、江戸の人口がふえるにつれて made in Edoも腕を磨き、下らない物は次第に上方の下り物を凌駕していくことになったのです。

JR中央線の飯田橋駅は長かった改修工事を終え、すっかり明るくなっていました。
ここには牛込門がありました。牛込の名はかって牛の牧場があったことに由来しています。台地の名前も牛込台地。明治27年に御門跡に牛込駅ができ、関東大震災後に飯田橋駅になったのです。
駅に隣接する飯田橋セントラルプラザ(通称ラムラ)の1階には、千代田区と新宿区の境をしめすプレートが床に埋めこまれています。
そして、現在のJR中央線と総武線は外堀の土塁の上に敷かれているのです。

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ラムラのステンドグラスは今の若者には珍しいとあって人気らしい。
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新宿区と中央区の区境のプレート

水戸徳川家の上屋敷は外堀の北側にありました。明治時代にはそのほとんどが陸軍の兵器工場である東京砲兵工廠になりました。関東大震災で砲兵工廠は小倉に移転、その跡地は現在、東京ドームやホテルになっています。

その上屋敷の庭園が今の小石川後楽園です。東京ドームに隣接する、東京で最も歴史のある都立庭園です。上屋敷が兵器工場になるにあたり、工場建設に係わったフランス人ジョルジュ・ド・ボーンが時の宰相、山形有朋に保存を強く訴えたことにより、現在まで庭園が残ることになったのでした。この小石川後楽園の塀の石垣には江戸城外堀の石垣の石が使われています。

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小石川後楽園の塀には外堀の石が使われている。

水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させました。名前の由来は中国の「岳陽楼記」の「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられたといわれています。光圀の中国趣味は随所に現われています。コロナ禍で残念ながら休園していましたが、隣接する遊歩道を歩いて庭園を偲びました。

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小石川後楽園横の緑道公園

水戸徳川家の門の正面には小石川門がありました。そのあと地に架けられている鉄橋は1904年製のドイツ、ハーコート社のものです。
明治時代、鉄道建設が始まった日本では、土木技術を諸外国にたよっており、ハーコートは甲武鉄道にも採用されました。会社はなくなりましたが、技術は100年以上たった今でも現役です。旧甲武鉄道の昌平橋や万世橋に同じものがあるということです。
土木技術を頼られた当時のお雇い外国人技術者たちは、競って自国の技術を導入しました。面白いところでは私の郷里、愛媛県の別子銅山(今、マイイトピア別子)にもハーコート社の鉄橋が残っています。

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水道橋駅近くのハーコート社聖の鉄橋

この地点で、日本橋川と神田川が合流しています。先日の日本橋川クルーズでは川面から合流点を見ましたが、今度は橋の上から眺めることができました。橋の名前は三崎橋。おなじみのゴミ運搬船も橋の上から撮ったほうがきれいに撮れました。

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ゴミ運搬船と曳舟

ここまでくれば終点の水道橋駅はすぐそばです。
駅は明治37年に甲武鉄道がお茶の水まで延長したときに、江戸城外堀の土塁の上にできました。

今回の旅の終わりは水道橋駅そばの三崎稲荷神社。
2代将軍秀忠の時代、神田川の改修・整備を命じられたのは伊達藩でしたが、そのおり、藩主伊達綱村は工事の無事を三崎神社に祈願しました。無事完成したのちに綱村は新たに土地を寄進し社殿を新築しました。その場所が外堀の土塁の上にあったことから、明治37年の水道橋駅建設あたり、現在の場所に移転したのでした。旅の安全を祈ったり、無事の帰還を報告するにぴったりではありませんか。

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三崎稲荷神社

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雑記帳2021-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-4-15
◆妙義神社の円空仏と名水が流れる織田家ゆかりの城下町甘楽を歩く

1682年岐阜羽島に生まれた円空は、幼くして長良川の洪水で母を亡くし、天涯孤独になります。僧を志して白山に修行に入り、修行の一つとして仏像を彫り始めました。
貧困や病気に苦しむ人々のよすがに仏像を分け与えることにしたのです。
36歳の時、12万体の仏像を発願、最後の1体は飛騨・高山の神社にあるそうです。
ナタでわり、ノミのあとも残る素朴な仏像は、琵琶湖一帯から北海道まで、広く残っていますが、現在発見されているのは約5300体。寺の秘仏ではなく、手にとって撫でて、一緒に風呂に入って、子どもにすれば友だちのような円空仏は使い古されて薪になったり、行方が分からなくなったりするのは当然かもしれません。その円空仏が今、見直されているというのです。

全国いたるところ、法隆寺にさえあるという円空仏も、琵琶湖より西にはないということから、四国出身の私には馴染みはありませんでした。亡くなった夫は美濃の人だったので円空は身近な存在だったようです。
個人では見られない円空の不動明王が妙義神社にあるときいて出かけました。

富岡市にある妙義神社の主祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真、桑蚕の神様でもあります。
妙義山の主峰白雲山の東山麓に位置し、創建は約1500年前とわれています。元の名「波己曽(はこそ)神社」は「イハコソ神社」に通じ、御神体は妙義の岩山だった事がわかります。初期の神祇信仰の対象が岩であることはよく知られるようになりました。
本社は全国的にも珍しい黒漆権現造り。唐門、総門と並んで国の重要文化財になっています。関東一と称される総門の高さは12m。1683年建。上州の東照宮と言われるのもむべなるかなです。

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関東一の高さを誇る総門
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波己曽社
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黒漆塗の本殿

神仏習合の時代、神社の境内に僧房がおかれ、別当寺と呼ばれました。妙義神社の別当、石塔寺は寛永寺の末寺でした。寛永寺の住職は代々天皇家に縁の宮様が務めており、戊辰戦争では江戸を逃れた輪王寺宮の隠居所となりました。現在の宝物殿は宮様御殿と呼ばれ、御座所の配置や城のような石垣、借景庭園など見どころは沢山あります。金具類にはすべて菊の御紋がはいっていて、格式の高さを誇っています。そこに円空の不動明王はありました。

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宝物殿(宮様御殿)
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意外に小さかった円空の不動明王

富岡市にほど近い甘楽町は織田家ゆかりの城下町です。
鎌倉時代からこの地を治めた小幡氏は、南北朝時代には上杉氏の重鎮として活躍しました。
秀吉の小田原攻めで北条氏が滅ぶと甘楽を家康に明け渡して信州にのがれました。
その後の小幡城にはいったのが、信長の次男、信雄でした。城は当時、陣屋と呼ばれていました。

信雄は、本能寺で信長と長男信忠が討たれるも山崎合戦には参戦しませんでした。このため、信長のあとに秀吉がかついだ信忠の嫡男・三坊師の後見人にとどまります。
賤ケ岳の合戦で三男信孝が柴田側に付いたのに対し、信雄は秀吉側につきます。
その後も小田原攻め、関ヶ原、大阪の陣など戦のたびに、家康についたり西軍についたり、はたまた東軍についたりと、のらりくらり。結局、大和宇陀郡と上野甘楽郡の、合わせて5万石の領主となり、4男信良に甘楽を譲って宇陀に隠居、1630年に73歳で没しています。あまり知られていませんが、長女の小姫(おとめ)は幼少の秀忠の正室でした。死別だったかどうかは定かではなく、成人した秀忠の正室はご存知、豪姫です。
のらりくらりは日和見のせいか、言われるように無能だったのか。織田氏が明治になるまで生きのびたのは無能ではなく、失敗から先を見る智恵があったのかもしれません。

その小幡藩は信良が藩主となって、7代にわたり甘楽を治めましたが、内紛(明和事件)で改易にあい、織田氏が出羽高畠に移封した後には松平氏が入りました。そのころは陣屋は城になっていたということです。

富岡と甘楽を流れる雄川から取水した水路が、小幡城下に全長20キロにわたってめぐらされていました。雄川堰は、日本の名水百選にも選ばれています。
用水は藩政時代以前にすでに「古雄川堰」が存在していたと推考されています。現存する用水は1865年(慶応元年)、7か月と250人の労力で造られ、当時の高い土木技術をしめしています。
豊かな水は感慨用水や生活用水、防火用水に利用され、両脇の208戸の家に洗い場がもうけられていました。
水を生かしたまちづくりは今に続き、各戸につながる洗い場では生活用具だけでなく、養蚕器具の洗浄にも使われました。現在でも日常的な農作物の食材洗い場として利用されています。

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名水100選にも選ばれた雄川堰 幅2mもある
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雄川堰に沿って裕福な養蚕農家群の街並みが続く

養蚕最盛期を象徴する建物が歴史民族資料館です。
煉瓦造りの、元繭倉庫として使われた建物は、町の重要文化財になっています。
富岡製糸場の煉瓦は甘楽町で焼かれました。
資料館の2階に円空仏が3体ありました。

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かっては繭倉庫でもあった歴史民俗資料館

1Fには富岡製糸場絵馬や養蚕に使われていた道具類が展示されています。
2Fには織田家ゆかりの品々。小幡家の赤備具足の展示をみることができます。赤備といえば武勇のぢ名詞、彦根の井伊家、信州の真田家が有名ですが、北条氏が小幡家の武勇を認めていたことがうかがえました。

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小幡氏の赤備具足
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3体の円空仏

小幡の陣屋に入城した織田氏が造った庭園が「楽山園」です。
戦国時代から平和な時代に移る過渡期の大名庭園と思われます。雄川堰の水を引いて造られました。池泉回遊様式は京都の桂離宮と同じ特色だといわれています。
中央に広い池を堀り、48の大石を配して、築山に四阿を建て、周辺の山々の借景をとりいれて庭園美を盛り上げる造り方は当時の大名の趣向をよく表しています。

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楽山園
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築山の四阿

織田家は武勇の家柄だとばかり思われていますが、有楽斎に代表されるように、実は、茶の湯に通じた文化人の側面があることを思い出さなくてはなりません。
楽山園の名は「論語」の「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」からとったといわれています。複数の茶屋があることからも「織田氏と茶事」の関係がうかがえます。信良は大叔父の有楽斎に師事していました。

楽山園は明治以降、畑同然になっていたのを近年復元し、園内には拾九間長屋も復元されています。
近辺には今も人の住む武家屋敷が連なります。城下で上級武士と下級武士が出逢ったとき、顔をあわさなくてすむように作られた「食い違い廓」も残されていました。

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復元された拾九軒長屋
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大名屋敷の石垣

元和元年(1615年)から織田氏の所領となって以来152年、初代信雄から七代信富に至る7代の墓が崇福寺の旧境内にあります。風化を防ぐため墓石はそれぞれ屋根のある囲いに納まっていますが、かっては7基の五輪の塔が並ぶ姿が見られたそうです。
4代目信久の時に織田家の菩提寺になりました。

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遠景に7代の墓石が並ぶ
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信良の五輪の塔が中にある

織田家の最初の菩提寺は菩提寺です。
有楽斎に茶道を習った信良が寄進した茶釜を見せてもらいました。
200本の桜、1500株のアジサイ、300本の紅葉を有して、東国花の寺とよばれています。
鎌倉時代に天台宗の寺として創建され、室町時代からは曹洞宗になりました。建物は230年前のものです。

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花の寺・宝積寺
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親良寄進(?)の茶釜

旅の最後は雄川堰取水口です。豊かな水量は今も絶えることがないようでした。

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雄川堰取水口





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雑記帳2021-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-4-1
緊急事態宣言解除の予報が出た週末、久々の街歩きにでかけたのは日本橋川クルーズ。

例年になく早い桜の開花でしたが、まだ満開には遠く、川風も冷たい週末のことでした。
乗船場は日本橋の南東詰にありました。ここは江戸時代、近くの小伝馬町に収容されていた罪人の晒し場でした。

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乗船所 奥に見えるのは野村證券のビル

日本橋川の9割は首都高速の下を流れています。
40年前の東京オリンピックに合わせて用地買収の不要な川の上に高速道路を作ったためでした。なんとも無粋な景観だと嘆く声も聞かれましたが、高速道路のなかった時代を知る人は少なくなりました。

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日本橋のアーチ 川の上を首都高速が走る

それでも、江戸のまちを川から眺めるクルーズでは、地上を歩いているときには見えないものが見えてきます。先ずアーチの橋梁にある獅子のレリーフ。獅子は東京を守護する、日本橋のシンボルです。

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橋にかかる獅子のレリーフ

乗船場を出てまもなく見えてくるのが一石橋です。以前雑記帳でも紹介しましたが、日本銀行の前にある一石橋は、江戸時代、迷子のお尋ね場所でもありました。金座や商店、魚河岸の並ぶ繁華街はさぞかし迷子も多かったのでしょう。この橋の再建を援助したのが2軒の後藤家だったので、「五斗+五斗」で「一石」だともじったのが由来です。

大正12年(1923)に起きた関東大震災後の復興事業では東京市内の川に架かる橋の再建も大きな課題でした。日本橋川に架かる橋には昭和に再建された橋も多い中で、復興橋梁と呼ばれる橋がいくつか残っています。1925年から32年に架けられたものです。

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復興橋梁にかかる「復興局」の印

常盤橋御門のあった常盤橋公園には澁澤栄一の像が立っています。奥州街道につながる重要な地点として設けられた常盤橋御門でしたが、明治維新後にとり壊されるところを、保存に尽力したのが澁澤だったのです。

鎌倉橋は、江戸城の石垣の石を伊豆から運んで荷揚げした場所、その舟が鎌倉を通って来たからというのが名の由来です。橋には空襲の跡が残っています。
当時からにぎわった橋の周辺は今、再開発された大手町。コロナ前の昼間の人口は23万人を数えたそうです。テレワークが普及した現在はどれくらいなのでしょうか。

歴代将軍が上野寛永寺へ参詣する時に渡ったで御成橋と呼ばれた神田橋やアールデコの錦橋を過ぎれば一ツ橋です。
錦橋辺りから続く石垣の雑な摘み方は後世に修復された証、当時のまま残っている一ツ橋の石垣は、石工の心意気を見せて、隙間のない見事な積み方です。

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石垣が続く

靖国神社につづく靖国通りにかかるので幅も広い俎板橋。神田川開削の折に埋め立てられたため堀がここで終わっていたというので堀留橋(埋め立て地は1903年に再び開削されて日本橋川と神田川はつながりました)。次に来るのがあいあい橋です。「あいあい」の名は飯田橋の「IIDA」からとったのだそうです。

あいあい橋を過ぎて、JR総武線中央線が走る鉄道橋が見える三崎橋で日本橋川は神田川と合流します。運よくゴミ運搬船にであいました。自力では動けない運搬船は毎日、ひき舟に曳航されて中央防波堤まで通っています。くらしに欠かせない仕事を人知れず黙々とこなす運搬船(と乗組員)に思わず拍手が起きました。

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ゴミ運搬船 カラフルな曳舟が後方に見える。

神田川にかかる小石川橋から水道橋一帯は水戸徳川家の領地でした。
水道橋は神田川の掘削と同時に架けられた橋で、本橋の下流に神田上水掛樋があったことに由来しています。掛樋は江戸時代に作られた上水道で、神田上水の水を江戸市中に通水するための水道管の橋でした。
水道橋を過ぎればお茶の水。崖すれすれにあるようなJRお茶の水駅のホームを川から見上げれば、正にここはその名の通りお茶の水渓谷だということがよくわかります。2代将軍の時代、神田川の原型を作ったのは仙台藩でした。幕府には東北の雄藩の力をそぐ狙いもあったのでしょう。重機のない時代、台地を削り水路を掘る工事はすべて手掘りでした。

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お茶の水渓谷 右手前方に見えるのがお茶の水駅ホーム

聖橋は御茶ノ水駅のホームから一番美しく見えるようにデザインされているそうです。、神田川両岸の湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖堂をむすぶことから名付けられました。アーチ型の美しい橋はライトアップもされています。

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聖橋

昇平橋、万世橋にはかって、それぞれ、中央本線の駅がありました。橋に因む名前の駅は廃駅になりましたが、どちらも東京駅よりも古く、駅舎は都内最古の鉄道駅遺構です。煉瓦造りの重厚な昌平橋駅は今はカジュアルな飲食店が入るビルになり、万世橋駅はホームが残されてカフェやショップの並ぶ商業施設になっています。

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万世橋駅あと

舟が隅田川にちかづく頃見えてくる柳森神社は太田道灌が江戸の鬼門よけに設けた神社です。椙森神社、烏森神社と並んで江戸三森の一社と呼ばれました。
浅草橋の歴史は古く、1605年頃にはすでに存在していました。

上方から来た荷は江戸湾から隅田川(大川)に入り、いくつもの水路を通って荷揚げされました。荷揚げ場だった柳橋は神田川のほぼ入り口にあります。賑わいは柳橋芸者の名に残り、今でも船宿が残っています。

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柳橋には今も船宿が残り、屋形船が並ぶ。

柳橋から隅田川に入ると、広い川幅といきなりの波。カメラをもってうっかり立ち上がれないほどの揺れに驚きました。隅田川が海につながっていること、江戸の人々が大川と呼んだことが実感できるのでした。

その隅田川は全長23,5キロ。一部ではありますが、両国場や隅田川大橋、清洲橋、名だたる橋をくぐりました。

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隅田川大橋

両国橋は武蔵と上総の2つの国にまたがる橋です。千住大橋以外に橋のなかった隅田川に。明暦の大火で大勢の死者を出したことから、2番目の橋として架けられました。
隅田川大橋からはスカイツリーの絶景が見られます。

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隅田川大橋から振り返って見た清洲橋とスカイツリー

永代橋(1609年頃)から佃島を眺めれば、タワーマンションの林立する光景はまさに東京のマンハッタン。佃は徳川家康が江戸の町づくりを進める中で、摂津の佃から漁師を呼んで住まわせた地として知られています。佃煮発症の地です。

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東京のマンハッタン・佃島

神田川、隅田川を渡ってきた舟が豊海橋から日本橋川に入ると、日本橋袂の船着き場までは残りもわずかです。

湊橋のそばにたつミツカンは、江戸時代から此の地にありました。
ゆりかもめの群れとぶ岸辺を見ながらさらにすすむと、萱場橋や鎧橋。萱場橋はカヤの荷揚げをしたことから名づけられました。鎧橋のあたりは兜町です。鎧に兜とは言いえて妙ですね。そして、最後の橋が江戸橋でした。

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鎧橋の傍には澁澤栄一の邸宅だった日証館がたつ。

明治44年に架けられた石造りの日本橋は、今年、110歳になります。
江戸時代には度重なる火事や水害で15年に一度はかけ替えられたという日本橋でしたが、石造りになってからは長寿の橋になりました。

橋の両側にある麒麟と獅子の像の作者渡辺長男(おさお)は彫刻家・朝倉文雄の長兄です。
獅子は東京を守護し、麒麟は繁栄を意味すると言われています。獅子は東京都の紋章を抱えています。

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江戸時代、日本橋は国内五街道の起点だったことから、橋の中央に「日本国道路元票」が埋め込まれています。首都高速の高架橋上にも道路元標地点碑のモニュメントがあります。

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この下に道路原票がある安愛は高速道路にもかあけられている。

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「道路原票」の字は佐藤栄作なら「日本橋」の字は徳川慶喜。

橋北詰には魚河岸がありました。一日に千両の金が飛び交うといわれた魚河岸は、大正12年(1923)関東大震災で築地に移るまで、300年間、江戸・東京の庶民の台所でした。
魚河岸記念碑の反対側には高札場の跡。明治10年に廃止されるまで、撰銭や切支丹、火付けや駄賃などの一般法令を周知させるために江戸市中に幕府が設けた高札の一つです。

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日本橋高札場の跡

およそ2時間の船旅はなかなかに充実したたものでした。お昼は高札場あとのそばの「イチノイチノ」で鯛飯をいただきました。




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雑記帳2021-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-3-15
◆水の郷、日野を歩く

立川に隣接する日野市は水の豊かなまちだと聞いていました。
多摩川と浅川の二つの川に囲まれて、台地や丘陵地の崖線に湧水を多くもち、用水路が縦横に流れる田園風景を歩いてみました。

JR中央線の豊田駅は不思議なかたちをしています。
改札を出て階段をのぼり、北の出口に出ると、そこが台地の上だという事がわかります。駅前広場が台地の上にあるので駅舎はまったく見えない、地下鉄でもないのに、こんな駅はほかにないくらいめずらしい地形なのだそうです。

駅から北東方向に細長くつづく約1.7キロの段丘崖は、東京都の「東豊田緑地保全地域」に指定されています。崖下から染み出る湧水を活用して、黒川清流公園は昭和60年頃に整備されました。
冬は雨が降らないので湧水の量も減っているとはいうものの、池にはコイの姿も見られます。

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なだらかな段丘崖がつづく東豊田緑地保全地域
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池には鯉の姿も

緑地の中ほどにある施設は、その名も「カワセミハウス」。日野市の豊かな環境情報を発信する場です。同時に市はここが市民の新たなコミュニティになるのを期待しているのだそうです。カワセミは日野市の鳥なのです。
ちなみに都内には50の緑地保全地域があり、立川にも矢川緑地が指定されています。

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カワセミハウス

黒川清流公園からいったん駅にもどり、駅の南側にでます。そこから500mほどの所に市立中央図書館があります。図書館の窓越しに見えるのは八幡神社。実は図書館は八幡神社の敷地にたっているのです。
神社の鳥居は台地の下です。湧きだす水量は市内でも2番目だということで、泉には誰が植えたのか、ワサビがそだっていました。かっては湧水のいたるところに見られたワサビでしたが、水温が高くなった今ではほとんど見られなくなったということです。

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八幡神社の社
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神社の鳥居は崖下にある。崖上の建物は中央図書館
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崖下の湧水

八幡神社下の湧水は東京の名湧水57選にも選ばれています。
湧水の流れのそばにたつのはNBC.メッシュテック、旧日本篩絹の工場です。
篩絹とは昭和初期に開発された生活用・産業用の絹の篩(ふるい)です。この地で製粉用篩絹の製織から出発した会社は今、その技術を生かしたグローバル企業になっています。そして、篩絹の製織には豊富な水が必要だったのです。

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NBCの本社工場

流れはやがて浅川から取水された豊田用水に注ぎます。
幅2メートルの石積み護岸がつづく用水は、段丘沿いをゆったりと流れています。
今はなくなりましたが、かって周辺には広大な水田がひろがっていました。四季折々の植物や野鳥とともに、コイヤハヤの泳ぐ水路はまちに溶け込み、人々の心に潤いをもたらしました。

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幅2メートルの石積みの用水路
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用水路にはサギやカモも観察できる。

用水沿いに、歴史を偲ばせる黒塀や蔵、欅の大木のある家を見つけました。明治の終わりごろ、豊田の耕地整理や駅の誘致に尽力したY邸です。豊富な地下水を利用してビールを作っていた時期もあったそうです。残したい風景ですが、残念なことに、区画整理によって、家を取り囲んでいた生垣や浅川の石を使った石積みの塀も取り壊されたのだそうです。

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Y邸

市内は今、あちこちで区画整理がすすんでいます。
市民生活の安全を優先すれば、新しいまち並みには2メートルもの水路はもはや望めず、風景もかわっていかざるをえないのでしょうか。

自宅裏の崖下から出る湧水で、野菜などの洗いものに利用している家がありました。
昔はもっと水量も多く、飲み水にも利用されていたのだそうです。洗い場は「カワド」と呼ばれていました。

豊田用水から浅川へむかう堀之内緑道沿いに日枝神社があります。
境内のムクノキは樹齢300年をこえるといわれています。

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日枝神社本殿の裏にある樹齢300年を超えるムクノキ

かっては汚染されていた浅川は、下水処理場が整備されてからは水もきれいになり、生物の住みやすい環境になりました。アユがのぼり、メダカやコイのほか、10種類以上の川魚が住んでいます。歩いたこの日、カワセミこそ見なかったものの、コサギやチュウサギ、カモの姿を見ることができました。
浅川からは豊田用水の他にも、日野用水、上田用水など、何本もの用水がとりこまれて市内を縦横にながれているのです。

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向島用水の取水口

中でも向島用水は、かってはコンクリート護岸でしたが、素掘りの親水路として再整備され、市民の憩いの場になりました。
500mの遊歩道沿いには水車やあずまやがあり、子どもたちが水遊びや魚とりもできるように工夫されています
向島水車は臼が2基ある本格的な水車です。これを活用しようと、有志が集まって、精米や発電の実験を公開しながら、昔の智恵を伝える活動を始めました。

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親水路に変わった向島用水
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遊歩道の周辺は向島緑地
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向島水車

もともと農業用に造られた用水は活用されなければやがてきえていく。
水車活用プロジェクトをを立ち上げた佐藤美千代さんは、向島用水がそばを流れる畑を借りて「せせらぎ農園」を開きました。 近隣約200世帯の生ごみを回収して堆肥化し、無農薬・無化学疲労で野菜や花を栽培する自然循環型のコミュニテイガーデンです。2008年のことででした。2015年には田んぼも復活させて稲づくりも開始しました。

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せせらぎ農園入口の看板

農園は市の委託金170万円で運営され、週3日の農作業日には誰でも気軽に参加することができる。決まりはなにもないのだそうです。参加者はお礼に作物をもらって帰ります。
近隣の保育園や幼稚園児の農体験の場にもなっていて、異なる世代が集える場、地域に開かれた農園として親しまれています。
堆肥は直接畑にまいて土と混ぜた生ごみをシートで覆って発酵させるのがミソ。手間もかからず、好気性のバクテリアがよく働いてくれるそうです。

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発酵している土は暖かい

残念なことに、せせらぎ農園も区画整理の対象になって、13年続いた農園は、来年3月には閉園になるそうです。それでも佐藤さんは、場所を変えても活動を止めるわけではないと元気でした。
日野市は「水辺のある風景 50選」を策定、「水の郷、日野」のまちづくりに活かそうとしています。   

  

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雑記帳2021-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-3-1
◆今年は近場で雛祭り。

立川には市指定文化財の古民家があります。川越道に接する緑地にある古民家園には、江戸時代に組頭を務めた小林家の住宅と須崎家の内蔵が移築復元されています。
麦刈や脱穀など昔の農作業の体験学習や、毎月のお茶会などの市民参加の年中行事も、コロナの昨年からはすべてとりやめになっていましたが、令和3年の今年は桃の節句が公開されました。

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ナカノマに飾られていた八段飾り(上部は神棚)
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オカッテに飾られていた内裏雛

小林家は江戸時代、砂川九番組の組頭を務めていました。住宅の母屋は、六間型(むつまがた)と呼ばれ、台所をのぞいて6部屋(ザシキ・ナカノマ・トバノオク・ナンド゙・オカッテ)で構成されています。母屋北西の「オク」と呼ばれる座敷は、床の間・違い棚・付書院が配置され、当時の武家屋敷に匹敵するほどの高い格式をもっていました。

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建築されたのは嘉永5年(1849)とのことですが、この年は徳川幕府12代将軍徳川家慶の時代で、ペリーが浦和に来航する1年前にあたります。江戸後期の優れた建築技術と材料が使われています。
平屋に見える住宅は実は3階建てで、2階はここで働いていた男衆と女衆の部屋、3回は物置で、江戸末期の富裕な上層農家の生活様式を今に伝えています。

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砂川八番組の組頭を務めた須崎家の内蔵は、江戸時代末期から明治時代初期頃に建てられた、数少ない木造3階建ての土蔵です。須崎家はかっては質屋を営み、蔵は質蔵として利用されていたものです。
この時代、砂川村は、養蚕業、とりわけ桑苗の特産地として栄えました。以前にも雑記帳で紹介しましたが、砂川の桑苗は全国の養蚕農家から取引されていた時期もありました。蔵はその時代の盛んな商業活動を象徴する建物です。もとは内蔵でしたが、移築復元の際に、外蔵になりました。

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竹林の向うに見える蔵

古民家園に収納されているもう一つは砂川十番組の大幟(のぼり)です。
幟は神社の祭礼時に参道や氏子区域にたてられました。今から170年前に制作された幟は長さ14.6メートル、幅2.2m。近隣のものに比べて大変大きなものだったようです。今なら機械の力を借りなければたてられないほどの大きな棹と幟を、どうやって作り、たてたのか、昔の人の智恵と心意気をおしはかるだけですが、当時の地域共同体の社会経済活動を知る貴重な資料です。
現在、立てた幟はめったに見ることはできませんが、昭和記念公園のこもれびの里では砂川5番組の幟のレプリカを毎年春と秋に1種間ずつ掲揚しているそうです。

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幟が収納されている

◆歴史民俗資料館でも雛祭り。
この時期、古民家園の本館にあたる歴史民族資料館でもロビーで市民から寄付された雛飾りを公開しています。
こちらも大正時代以降のもの。御殿びなは昭和30年代に流行したそうです。

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立川市歴史民俗資料館
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御殿びな
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2月の市の広報で羽衣町の向郷(むかいごう)遺跡が紹介されました。
JR南武線西国立駅周辺に広がる26,000㎡もの大遺跡で、多摩川に面する段丘の上にありました。南には湧水を集めた矢川が流れており、日当たりの良い段丘は古代人にとっても快適な住宅地だったようです。
歴史民族資料館では小規模ながら、遺跡の出土品を常設展示しています。市内には他にも二十か所に及ぶ古代・縄文時代や奈良平安時代の遺跡のあることがわかりました。

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向郷遺跡の墓穴からは縄文土器や石器の他に、コハク製の垂飾りが出土しています。コハクは千葉県の銚子や岩手県の久慈が主な産出地でしたから、縄文時代の人々の往来を思い起こさせて興味をひきます。
そのほか、縄文の住居跡だけでなく、奈良・平安時代の住居跡もみつかった遺跡もある一方、下大和田遺跡の掘建柱建物は小古代の役所跡と推測されています。

◆日野宿本陣の雛祭り。
古民家と歴史民俗資料館をまわって、隣の日野市まで足を延ばしました。日野宿本陣でも恒例の雛が飾られているのです。

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床の間に飾られているのは、日野市の旧家、有山家の古今雛です。明治時代のものだということです。カラフルな装束をまとい、歌舞伎役者のような顔立ちの、江戸生まれの古今雛は、上方の雛より人気があり、今のお雛さまの原型になりました。
雛段の前には雛祭りのルーツである流し雛が再現されていました。                    
会場には手作りのつるし雛も随所に飾られています。大根は毒消し、兎は神様のつかい、柿は長寿、ヒョウタンは無病息災など、つるし飾りもそれぞれ意味があるそうですが、建物全体を使っての雛飾りはなかなか見ごたえのあるものでした。

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明治の古今雛
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米粒で流しびなを再現
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各地の土雛もそろっています

日野宿は江戸時代、規模の大きい宿場ではなかったものの、多摩川の渡し場を管理する、甲州街道の重要拠点でした。そのため、幕府の支配は緩やかで、2人の名主と配下の組頭による農民自治の伝統が長くつづきました。本陣には江戸末期、名主の佐藤彦五郎の開いた佐藤道場があり、新選組の隊士たちが稽古に励んだ事は広く知られています。

彦五郎の日記によると、既に京都で活動していた土方俊三や近藤勇がこの建物を訪れたことが記録されています。京都から所用で江戸へ戻る土方は何度か日野宿に足を運んで義兄と語り合いました。鳥羽伏見で敗れて江戸にもどった近藤勇や土方俊三が、甲陽鎮部隊として甲州へ向かう途中でこの本陣で休憩したという建物を見ようと、訪れる新選組ファンの若者は多いようです。

現存する本陣は、嘉永2年の火災で焼失した後に再建されたもので、築150年余。都内に残る、唯一の木造本陣として、市指定の有形文化財になっています。
有山家は先の日野宿の名主佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先です。明治36年の大火で焼失したため、本陣の母屋の一部が有山家に曳屋されて、今に至っているということです。

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◆2月21日、関千枝子さんが亡くなりました。
『核なき世界をめざして』に連載中だった関千枝子さんが亡くなりました。広島で被爆し亡くなった女学校の同級生を訪ねて書き残すことが自分の使命だと、生涯、核のない世界を呼びかけました。『知の木々舎』には、『県立広島第二高女二年西組』以来、絶えることなく原稿を届けてくださいました。同じ被爆者だった作家、中山士朗さんとの往復書簡はまとまると本になり、西田書店から出版されました。その落穂ひろいのような『はるかなる呼び声』が2月15日号で最後になりました。『知の木々舎』にとっても、創刊以来大切にしてきたこのコーナーを守りたいと思っているのですが・・・。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

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雑記帳2021-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-2-15
◆「感染症は農耕社会を選んだ人類の宿命」?

オンラインセミナー「パンデミックを生きる指針」に参加しました。
講師の京都大学准教授の藤原辰史さんは、『浜田山通信』で紹介された斎藤幸平さんとならんで、気鋭の若手研究家。ふたりとも関西在住で、対談もしています。パンデミックは今が初めてではなく、それが起きた時代背景を振り返ることは今の私たちが今後どういう社会を望むのかの指針になると思います。

先ず指摘されたのは、感染症は農耕社会を選んだ人類の宿命だということでした。10万規模の都市が形成されることで、感染症は多発することになります。鼠が媒体となるペストの流行は何度もおきましたが、最たるものはヨーロッパ全土を覆った14世紀のペストでした。あまり知られていませんが、その時にもユダヤ人の虐殺がおきています。
その後の大航海時代、コロンブスの新大陸発見はヨーロッパの病原菌を新大陸に運び、植民地政策と相まって感染症はグローバル化していきました。

ちょうど100年前のスペイン風邪はまだ記憶に新しく、その時代の背景や社会の反応を見ると、なんだか身につまされます。
時は第一次世界大戦末期。兵士は世界中から参戦していました。そこでインフルエンザに感染したアメリカ兵が母国に持ち帰ることによって感染が爆発的に広がりました。感染者数は18億人、死者は4000万人から1億人にも上りました。(新型コロナでは感染者数は1月4日現在で77億人、死者は184.3万人。)運び屋が当時は帰還兵だったこと、今はツーリストですから、感染のグローバルな実態がわかるというものです。

感染症は病気の流行だけですむわけではなく、複合禍をともないます。
戦争とスペイン風邪は世界に飢餓や貧困をもたらしました。(第一次大戦は食料戦争だとさえ言われています。)コロナでも同じように貧困が指摘され、周辺では地震や津波、水害などの自然災害が起きています。そして、今また、世界の食糧危機が叫ばれているのです。
また、リスクにさらされやすい対象が、コロナの今は高齢者に対し、当時は元気な若者だったという点こそ違うものの、低所得者、清掃業従事者、ケア労働従事者だった点は今と変わりません。
アメリカではフェイクニュースがはびこり、マスク反対や精神主義が結構広く支持されました。また、アフリカなどの植民地でのずさんな管理ものちに明らかになりました。

遠く離れた日本にもスペイン風邪はやってきました。国内では米騒動が起きた年でした。
当時日本も台湾、挑戦、中国関東州、樺太に植民地をもっていました。植民地のインフルエンザの死亡率は、内地の8%に対し、13~35%というきわめて高い数字を示しています。
残された個人の日記や新聞記事から、右往左往する企業や人々の姿が昔も今も変わらないということがうかびあがってきます。

スペイン風邪から約半世紀後の1970年代に生まれたのが新自由主義の考え方です。
緊縮財政の強制、競争原理の徹底、生命領域(労働力と自然)の商品化をうたった、サッチャー、レーガン、竹中平蔵氏らに代表されるものです。
資本主義の利潤が増えないことから、新たな商売を求めて「規制」を突破しようとしたのでしたが、その結果、気候温暖化とともに起きた様々な問題に直面しています。
日本でも、小さな政府を目指して、中曽根内閣の民営化に始まる構造改革は着々とすすめられてきました。菅内閣の下では、いまも中小企業の再編やベイシックインカムがとりざたされています。政策はコロナ禍に対応できるのでしょうか。

新型コロナウイルスという「抜き打ちテスト」で、様々な問題点が明らかになりました。
1. 大規模自然破壊とそれに由来する気候変動
2. 非正規雇用労働形態の脆弱さ
3 男性中心社会の暴力性
4. 都市と大企業一極集中の脆弱さ
これらはすべて新自由主義の限界を示しているではありませんか。
興味深いことに、藤原さんはさらに言葉や文化の側面もあげていました。
5 言葉の破壊(詭弁に矛盾、「総合的、俯瞰的」の多用、など)
6 人文学・文化の軽視(政治と経済に集約された社会では歴史と批判が希薄)

一方、コロナと期を一にして鳥インフルエンザが猛威をふるっています。
鶏は摂取したエネルギーを肉に持って行きやすいように品種改良され、ゲージに詰め込まれ、免疫力が落ちているので、その結果インフルエンザにかかりやすくなり、抗生物質が与えられ、抗生物質に耐性をもつもっと強烈なウイル スに突然変異する可能性が出てきている 。コロナでも変異種が次々見つかっていますが、鳥インフルの変異にどれほど危機感を抱けているのでしょうか。

藤原さんは. 戦争の兵士と産業の「兵士」の類似的構造や、雇用者と被雇用者の搾取の関係、人間と自然の搾取の関係は、本来同根ではないか、といいます。
そして、 労働に関心をもつ人と、エコロジーに関心をもつ人は、結びつきが弱いけれども、衣食住、特に食べものが蝶番になると見ています。

ファストフードに席巻された食の根源をとらえなおす3つの視点として、藤原さんは植物の思想、分解の思想、縁食の思想を揚げました。①植物の知性に学べ(植物の根はすさまじいほどの知覚を持っているのです!)、②微生物の力を借りたエネルギー革命、③孤食と共食のあいだの縁食(えんしょく)の勧め、です。縁食の例にとりあげたのは、地魚や地場野菜を利用した今治市の学校給食でした。

小規模の共同購入、地産地消をすすめる学校給食、子ども食堂・・・、新自由主義に取り込まれることなく食を取り戻す活動は、今、地道ながら、様々なところに広がっています。
食の根源をとらえなおすことは、食量を他国に頼ることのない、持続可能な農業につながります。類まれな多様性を持つ小農列島、日本が世界をリードしていけるかが問われます。

◆アーノルド・ローベル展が立川で開かれています。
アメリカ生まれの絵本作家アーノルド・ローベルの日本初の展覧会が、立川市の「PLAY! MUSUEM」で開かれました。

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PLAY MUSIUMの正面

ローベルは「がまくんとかえるくん」シリ-ズで知られています。子どもが幼稚園の頃、我が家の本棚にもありました。
「ふたりはいっしょ」、「ふたりはともだち」の、「きみがいてくれてうれしいよ」という言葉にほのぼのとした想い出を持った読者は数しれません。 その「がまくんとかえるくん」のスケッチ約100点と同時に、隠れた名作の版画やスケッチも初公開されていました。

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ローベル展のポスター
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同時開催されていたエリック・カールの「はらぺこあおむし」の看板

PLAY! MUSUEMは絵とことばをテーマに、大人も子どもも楽しめる美術館として生まれました。
ローベル展でも随所にローベルの言葉がかかげられていました。勿論「きみがいてくれてうれしいよ(I'll be glad not to be alone)」もありました。. 
コロナ禍のわたしたちにぴったりのメッセージではありませんか。

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I am on my way!  「ぼくは自分の行く道を見つけたよ。」
幼い頃両親が離婚して母方の祖父母に預けられ、孤独な少年時代を過ごしたローベルが自分の才能にめざめて、絵本作家として立って行く決心をしたときの言葉です。

Don't preach me.  「お説教はまっぴら。」
求められてイソップの絵本を作ったとき、その教訓臭さが嫌だったローベルは、絵本の中で教訓をずらした落としどころを探したといいます。

I am the stage directer, the costume designer, the man who pulls the curtain.
  私は舞台監督、衣装デザイナー、幕を引く者だ。」
高校生の頃から舞台にあこがれていた作家の言葉の端々には、舞台につながる言葉が出てきます。

がまくんシリーズで、人は誰かとつながり、孤独でないことがどんなに大切せかを描くいっぽうで、かえるくんのこんな言葉が紹介されているのも面白いですね。
    しんあいなるがまくん
     ぼくはいません
     でかけています
     ひとりきりに
       なりたいのです

作品が出来上がったとき必ず自分で声に出して読み、作品のリズムを大切にしたというローベルにふさわしく、会場内には朗読のコーナーがありました。丸みをおびた木の壁や緑色の薄いカーテン、段ボールの展示台など、他所にない雰囲気を持つ美術館のスタッフは、みな驚くほど若い人たちでした。新しい形の美術館の今後が楽しみです。

「PLAY! MUSUEM」のある「PLAY!」は、昨年、立川市の一番新しい街、GREEN SPRINGSに誕生しました。子どものための屋内広場「PLAY! PARK」を併設しています。
CAFEではMUSIUMに関連したオリジナルスイーツも提供されます。コロナ下でも子ども連れの若いお母さんたちの姿が絶えませんでした。

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かえるくんのイラストが浮かぶカフェラテ
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同時開催中の「はらぺこあおむし」に因んだプチケーキ
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壁にはローベルの本のコーナーも。客は自由に手に取ることができる。


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雑記帳2021-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-2-1
◆温暖化がわたしたちの食べ物を変える?

オンラインセミナーで、温暖化が動植物に与える影響を学びました。今でも21世紀の地球が寒冷期にあると信じている人もいる中で、農業に現われた具体的な現象は温暖化を考える上で大いに参考になると思いました。

地球はこの100年で気温は1.2度上昇しました。一貫して上昇してきたものの、1970年代、80年代にくらべると90年代以降は急上昇しています。

1.2度は感覚的には大したことはないように思われるし、3~4度の振れ幅は昔からあっりました。冷害の年もあれば高温の年もあった。問題は、冷害の被害が減って、高温被害が多発しているということです。

人間の体温は36度で一定しており、気温による変化はありませんが、植物は温度に敏感です。わずか1度でも高くなれば高温被害はでるのです。
家畜は哺乳類ですから人間と同じ。気温が高いと餌の摂取量が減ったり、繁殖性が低下するといったことはありますが、早く大きくなる事はありません。動物でも昆虫類には変化がおきていて、それは畑の害虫の被害にあらわれています。

雨はどうか。実は降水量に変化はありません。が、降り方が変わってきたのです。
年単位で見れば降水量は変わってないのに、月単位で見ると、降り方が極端化して、少雨のために旱魃がおきる一方で、集中豪雨になったりして、治水の施策が必要になってきました。

植物の発育速度には最適速度があります。早すぎてもおそくてもだめなのです。
米の場合、出穂後20日間高温が続くと、デンプンが十分詰まらずに白未熟粒になります。デンプンが詰まらなかった細胞に空気の隙間ができて食べてもおいしくありません。

露地野菜、例えば夏撒き冬取りのキャベツは、高温になると生育のスピードが早くなって、普通30日かかるところを今年は20日ごとに収穫しなければなりませんでした。収穫時期が集中して値段が下がるし、その後に獲れるキャベツがなくなってしまいました。

温暖化の影響を一番受けているのは果樹です。
開花が早いと着色が進まないため収穫が遅れます。生育期間が長いと光合成の期間も長くなり、糖度が増えて酸度は下がります。今の果実は全体に甘くなっているのです。昔の味を知っている高齢者は味が呆けてきたと感じますが、最近の消費者は甘いのを好むので、問題にはならないようです。

越冬の為に寒さに強い体質を作らなければならない植物は、秋の気温が高いと成長が早すぎて耐冬性の獲得が遅れます。春の開花に向けた準備の休眠もできなくなります。
秋まきの小麦は秋の気温が高いと越冬がむつかしくなり、ソメイヨシノの開花が九州より東京の方が早いという逆転現象もおきています。さらに温暖化が進むと開花しない。すでに沖縄ではソメイヨシノは咲きません。
そのような現象は果樹でもおきていて、ハウスでの発芽不良や、ブラジルではふじは葉より先に花が咲きます。いずれ日本でも起きてくる現象です。

病害虫はどうでしょうか。
3種類のカメムシはそれぞれ東日本、西日本、九州にすみわけていましたが、その境界線が北にあがってきています。斑点米や、高温になると出やすいりんご輪紋病が増え、逆に低温になると出やすいイモチ病は減っています。

こうした現象に対して、被害を軽減する様々な対策がうまれました。
作付けの時期を移動したり、遮光資材や水を利用するなどして温度を下げる。凍害対策として、越冬する樹木や野菜の細胞から水を抜いて成長しにくくする。チッソ肥料を減らしたほうが着色いいことから、収穫が終わってすぐ撒いていた肥料を春になってから撒く。等の工夫です。
福島、山形が北限だったモモは青森でも栽培されるようになりました。
さらに、温暖化対応の品種の開発もすすんでいます。
白未熟病にならない米、温帯性の温州ミカンと亜熱帯のスイートレモンを掛け合わせたハイブリッドのみかん、受精しなくても発芽するナスなどの例があげられます。

海外では四大穀物の収穫量が低下していますが、適応策は普及していません。コストが吸収出来ない、誰がコストを負担するのががネックになっているのです。

過去100年で1.2度上昇した気温は今後100年間で1.1~4.4度上昇すると言われています。温室効果ガス排出制限は大きな問題です。
日本は耕作放棄しておいて世界の森林の農地転換に加担すべきではありません。
気象庁は、現在の4週間先の予報を長期化して3か月、4か月先まで出せると、対応策として、品種の更新や果樹の栽培適地の北上を進めることができます。今、亜熱帯果樹への期待がたかまっています。アボカドなどはそのいい例でしょう。

国は2005年までは日本の農業に温暖化への影響はないと考えていました。被害が出ている認識が次第に高まって、ようやくCO2排出制限への動きがでてきました。2018年、温暖化適応法が制定され、昔と比べれば対策の姿勢が見られます。お金もでるようになりましたが、十分ではありません。対応策の普及とコストをどう考えていくかが課題です。

◆ネコ展に行ってきました!

しおみえりこさんからネコ展の案内をもらって、出かけました。会場は多摩都市モノレールの「柴崎体育館」駅近くのスタジオLaLaLaです。

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ねこ展のちらし
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坂をくだって木立の中にあるスタジオは看板がなければ迷いそう。
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LaLaLaの入口に飾ってあったねこ展ののれん

―そもそもなんでネコ展を?
―発信元は(赤川)ボンズさんなんです。 去年おくさんのそのこさんの偲ぶ会をやったの、おぼえているでしょう? 亡くしてからずっとボンズさんはハウスでひとりくらしをしていたの、猫と一緒に、ね。
高齢になると、お風呂でうとうとしてしまうことってあるじゃないですか。
(ああ、私も、しりあいにそれで亡くなった人がいる。)
ボンズさんもうとうとしてたら猫が起こしてくれたんですって。普段ぜったいお風呂になんか入ってこない猫よ。それが風呂場のボンズさんのそばに来て鳴いたんですって。どうやってお風呂のドアあけたのかしら。少し隙間があったのかしらね。

―猫は命の恩人ですね。
―そう、命の恩人のネコ展をぜひやろうというので知人に呼びかけたら、31人もの参加があったのよ。

狭い会場いっぱいに飾られたねこ、ネコ、猫・・・

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来場者も猫を描かされる。

銅板造形作家の赤川ボンズさんに始まって、フェルト作家、アクセサリ-作家、服飾デザイナー、イラストレーター、舞台美術家、様々なジャンルのアーティストたちが猫をよせてくれたのです。3月にLaLaLaでコンサートをする予定の、歌手の庄野真代さんの作品もありました。(コロナ次第で予定は未定です。)

来場者にはお茶を出すのがえりこ流。お茶をいただきながらひとしきり猫談義に花がさきました。
―猫ってどうしてあんなに可愛いのか。
―NHKの「チコチャンに叱られる」でやってたね。大きくなっても顔の目鼻のバランスが変わらないんだって。普通は成長すると大人顔になるのに、猫はこどもの時のままだそうよ。
―顔だけじゃなく肉球もしぐさもかわいいよ。
―うちには猫が2匹いるんだけど、保護猫を見に行って1匹見付けたら、その猫と仲のいいという猫も一緒にくっついてきちゃった。仲がいいといってもそれぞれにテリトリーはあって、住み分けているみたいだ。

―うちの猫は夜必ずお布団の中にはいってきた。あさ起きたらまくらに頭をのせて私と同じ向きで寝てた。

―猫100匹も飼っている友人がいるの。家の外に50匹、中に50匹。2階のフロアー全部猫の居場所にしているの。エサ代だけで10万円以上かかるそうよ。
―今は猫を室内で飼わなくちゃいけなくなって、トイレなんかどうしているんだろう。
―エイジがいた頃、ちょうど家の前に耕作放棄の畑があって、そこがエイジのトイレだった。見てると、それはそれは恍惚とした表情で、あれは至福のときだったのだはないかしら。終わった後、入念に土をかける様子は儀式みたいだった。

そういえば、街猫の姿が消えました。
20~30年くらい前までは野良ネコもいっぱいいて、ゴミ出しも猫に袋を破られないよう注意が必要でした。ボスがいて、夜の猫の集会というのもあったようで、エイジも時々朝帰りでした。
避妊が進んで野良猫は急速に姿を消しました。今我が家の近所に1匹だけいます。あんなにいた友だちがみんないなくなっていくのを彼はどんな気持ちで見ていたんだろう、と姿を見るたび思います。




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雑記帳2021-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-1-15
◆豊泉喜一さんの「こもれび講話」を聞きました。

国営昭和記念公園の一角にあるこもれびの里は武蔵野の農の風景を保存しています。

長屋門のある大きな古民家を中心に、ボランテイアさんが伝統的な農作業をしながら、希望者は古民家での年中行事を体験することができます。そこでは月に一度、定期的にボランテイアを束ねる豊泉喜一さんによる「こもれび講話」が実施されていています。コロナ禍で年末から昭和記念公園も臨時休園になっていますが、休園になる直前、2020年最後の「こもれび講話」に運よく参加することができました。

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こもれびの里小屋で講話をする豊泉喜一さん

今回参加したのは「立川深層」と題する立川の歴史第11回目。「所沢海道八店」でした。八店は「はちてん」、店の名前です。

立川には明治時代の立川の風景を描いた「立川村十二景」が市の有形文化財になっています。そのうちの一つが明治38年の様子を描いた「所沢街道八店」です。
場所はJR立川駅から直線で300m、立川通りと南北通りの分岐点。姿は変わっているものの、店は今もこの地に残っています。
画面中央に今をさかりと咲きほこっているのは、武蔵野の雑木林の中でまっ先に咲くといわれる「こぶし」の花で、こぶしは現在、市の花に指定されています。
ちなみに、駅から八店までの現在のメインストリートの街路樹はこぶしに代わり、欅です。

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立川市指定有形文化財 馬場吉蔵画「立川村十二景 所沢街道八店 明治三十八年時代」

絵が描かれたのは、明治22年(1889)に甲武鉄道(言中央線)が開通して17年後。駅からわずか300m離れたこの八店は、砂川、小平、所沢方面への分岐点でした。立川へ出入りする人や荷馬車の馬方の休憩場所であり、往来する人々の休憩場所としてにぎわいました。

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八店のあった現在の場所。右が高松通を抜けて所沢方面へ、左は砂川方面へむかう。(基地時代はフィンカム通りとよばれていた。)

絵の左下に白く描かれている流れは、玉川上水から引いた芋窪新田用水の分水です。分水は現在の立川駅の西地下道付近まで流れ、左折していました。この水を線路際にあったタンクにくみ上げて甲武鉄道の蒸気機関車に供給するために掘られた分水でした。一説によれば、この分水によって立川駅の北口が開設されたのだそうです。駅の南側には柴崎分水がありましたが、蒸気機関車の為に貴重な農業用水を分けるのを嫌がったのだと言われています。

大正11年(1922)には立川飛行場が誕生しました。
八店のあるこの分岐点西側に立川飛行場正門ができて、この付近は大変賑やかな場所になりました。飛行場出入りの関係者や軍人たちのための土産物屋、記念写真を撮る写真館や飛行場郵便局もできました。

戦後飛行場はアメリカ軍に接収され、極東地区の補給基地になり、この付近には米兵相手の横文字の店が立ち並び、景観は一変します。
昭和52年に全面変換されるまで、立川は基地の町として全国に名をはせましたが、返還後は跡地利用が進んで、業務地区としての整備が進みました。
おりしも日本はバブル崩壊前、基地跡の整備と共に駅前の再開発も進んでいました。

基地跡地で整備された地区は図書館や女性センター、ホテルや百貨店などさまざまな機関が林立し、立川のビジネス街になっています。恵比寿ガーデンプレイスと同じ頃にオープンしたこの街区はその名も「ファーレ立川」。FARETファーレはイタリア語の「FARE(創造する)」に立川のTをくわえて名づけられました。完成して20数年になりました。

平成3年、飛行場の正面だった場所に、市政50周年を記念して憩いの広場が作られました。公園には噴水が設置されましたが、周辺のビルに噴水のしぶきがかかるということで、あまり使われることなく廃止されました。噴水の後は埋めたてられて芝生になっています。その奥に、先に紹介した「立川村十二景」が陶板で展示されています。残念ながらそれに気付く人は少ないようですが・・・。

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芝生になっても市章の五角形の形を残した公園
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立川十二景の陶板レリーフ
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陶板の一枚「多摩川雑炊渡船」
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「甲州街道多摩川渡し雪景」

この「ファーレ立川」のもうひとつの自慢は街角アートです。アートプランナーの北川フラム氏が選んだ世界36か国の著名なアーティストの作品が109点も展示されています。これもバブルのおかげでしょうか、今なら手の出ない作家たちの作品も少なくありません。
作品の見学ツアーにはボランテイアさんの解説に耳を傾ける子どもたちの姿が屡々見かけられます。

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高島屋の前に酋長が勢ぞろい
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これもアートです。

立川は飛行場があったために基地になり、発展が遅れていました。30年余り前に移り住んできた頃、「基地と競輪の町」のイメージは、お隣の「学園都市・国立」とは格段に差がありました。大手銀行の支店も八王子に行かなければならなかったくらいです。が、その後の様子を見ると、発展が遅れていたことが良かったのか悪かったのか、一概には言えないと、豊泉さんは言います。基地があったために細切れの開発を免れた手つかずの土地が残されていたのですから。

多摩都市モノレールの開設と合わせて(そのおかげで、今や立川は中央線では新宿に次いで2番目に乗降客の多い駅です!)、返還後の整備が順調に進んだことは時代の流れで幸運だったといえるでしょうか。

当時、政界を牛耳っていたのは金丸信さんでした。基地跡の一部を昭和記念公園にしたのは多分に金丸さんの功績だったといいます。立川にはその金丸信さんと親交のあった市議さん(故人)がいたのです。(何かと噂のあった人ですが。)昭和天皇記念館も立川に作られました。「政治家は私たち市民と違う目線で動く、2足す2を5にする力が政治にはあるのかなあ」と豊泉さんは感慨深げでした。

その豊泉さんは実は立川市議会の議長も務めた方ですが、自分の仕事は武蔵野の伝統的な農業を後世に伝えることだと、早々に引退したのでした。『知の木々舎』にも30回に渡って、『上農は草を見ずして草を取る~農に見る人生の極意』を連載しました。それを目にした大学生から論文に使いたいと問い合わせがあったのをおぼえています。勿論気持ちよく了承してくださいました。

豊泉さんが最後に紹介したのは、立川の文化人として知られた三田鶴吉さんの言葉です。「家廻り20種(の鳥)、路傍60種(の木や草花)」。
その気でいればたくさんのものが観察できる。 何気なく歩いていては何にも見えないし聞こえない。おぼろにではなくいつもそのつもりでいなさい。
それからもうひとつ、「道端の柿は旅人のもの、梢の柿は鳥たちのもの」も、三田さんから聞いたのだそうです。

◆ファーレのパブリックアートをいくつかご紹介しましょう。

コンセプトは「世界を映す街」「機能(ファンクション)を美術(フィクション)に」「驚きと発見の街」の三つです。広さ6haの街を森にに見立てて、森にいきづく妖精のように作品を置いたということです。

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タン・ダ・ウ(シンガポール) 「最後の買い物」(換気口)
素材はグラスファイバー。

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ニキ・ド・サンファル(フランス)  「会話」(ベンチ)
本当にベンチとして利用され、退色すると塗りなおしもしています。

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藤原吉志子(日本) 「ウサギとカメ」)(車止め)
  子どもがよじ登ったり大人が腰かけたりして、てっぺんピカピカがいいのだそうです。



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雑記帳2021-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2021-1-1
新年おめでとうございます

  新型コロナに振り回された年があけました。
 何でもない日常が奪われて、あらためて人が寄り添うことの大切さを思い直した年でした。今年は牛年。走らなくてもいい。牛のようにゆっくりだけど誠実に、着実に、一歩一歩進んでいけたらいいと思います。
 執筆者のみなさん、読者のみなさん、ことしもよろしくお願いいたします。

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              (写真はスイスのベコ)


◆国営昭和記念公園のお正月です。

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古民家長屋門
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古民家外蔵の正月飾り
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こもれびの里「武蔵野の農ここにあり」にもしめ縄
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日本庭園の松飾


◆おせちにあきたら韓国料理はいかが?

チャプチェ(春雨と野菜の炒め物)

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◇材料 干しシイタケ2枚、きくらげ3g、玉ねぎ小1/2個、きゅうり1本、ピーマン1個、
    にんじん1/2本、卵1個、牛もも肉100g(切り落としでもなんでもいい)、
    春雨100g(さつまいも由来がベター)、いりごま適宜、塩少々、こしょう少々
◇野菜炒め用の調味料
    塩1つまみ、こしょう少々、ごま油適宜
◇牛肉炒め用の調味料
      醤油小さじ2,砂糖大さじ1/2,ごま油大さじ1/2,すりごま大さじ1/2,
      にんにく 1/2かけ(すりおろす)
◇春雨炒め用の調味料
      醤油大さじ2,ごま油大さじ1、砂糖大さじ1,すりごま大さじ1,酒小さじ1,
  にんにく1/2かけ(すりおろす)
◇作り方
①干しシイタケは戻して軸をとり、千切り。きくらげは戻して固い部分を取り除き千切り。玉ねぎは縦に3cm、人参・ピーマンは千切り。きゅうりは縦半分に割斜め薄切りにして塩をふり、搾って水気をきっておく。卵は薄焼きにして長さ4cmの千切り。
②春雨はたっぷりの熱湯にほぐしいれ、2分間茹でて火をとめ、芯がなくなるまで2分ほど蒸らす。冷水にとり、
るにあげて水気を切り、食べやすい長さに切る。
③フライパンにごま油少々を熱し、玉ねぎ・にんじん・きゅうり・ピーマン・きくらげの順に加えて炒め、塩・こしょう少々をふり、とりだす。
④牛肉炒め用の調味料を混ぜ合わせて、牛肉を加えて炒め、肉の色が変わってきたらシイタケを加え、煮詰めて皿にとっておく。
⑤春雨用の調味料をあわせてフライパンに入れ、春雨を炒める。
⑥炒めた春雨に、牛肉・野菜を加え、全体を炒め合わせる。
⑦塩・こしょう各少々で味をととのえ、卵の千切り・ごまをふり、かるく和え、器に盛る。

※文字に起こすと面倒にみえますが、実は野菜を切って炒めるだけの簡単料理。フライパン1個で効率よく調理できるので苦になりません!

ヤッチェサム(野菜巻き)

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◇材料  豚肉150g、レタス 適宜、にんじん1/2本、大根適宜、きゅうり1本
◇味噌ダレ
        赤味噌100g、玉ねぎすりおろし大さじ2,にんにくみじん切り小さじ1,
        コチュジャン小さじ2,砂糖、みりん,ごま油各小さじ1
◇作り方
①たれ用の材料をよく混ぜ合わせてみぞだれを作る。
②野菜は太目の千切り、または細めの短冊に切る。
    (生で食べられるものなら何でもよい)
③豚肉は食べやすい大きさに切り、軽く塩コショウして焼く。
④レタスに豚肉・野菜・味噌だれをのせ、巻いていただく。
    (サラダ菜など、巻ける野菜なら何でもよい))

※野菜はなんでもよいので味噌だれがミソ。試してみたところやっぱり赤味噌があうようです。

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