SSブログ

雑記帳2021-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2020-4-1
緊急事態宣言解除の予報が出た週末、久々の街歩きにでかけたのは日本橋川クルーズ。

例年になく早い桜の開花でしたが、まだ満開には遠く、川風も冷たい週末のことでした。
乗船場は日本橋の南東詰にありました。ここは江戸時代、近くの小伝馬町に収容されていた罪人の晒し場でした。

乗船所2 のコピー.jpg
乗船所 奥に見えるのは野村證券のビル

日本橋川の9割は首都高速の下を流れています。
40年前の東京オリンピックに合わせて用地買収の不要な川の上に高速道路を作ったためでした。なんとも無粋な景観だと嘆く声も聞かれましたが、高速道路のなかった時代を知る人は少なくなりました。

日本橋 のコピー.jpg
日本橋のアーチ 川の上を首都高速が走る

それでも、江戸のまちを川から眺めるクルーズでは、地上を歩いているときには見えないものが見えてきます。先ずアーチの橋梁にある獅子のレリーフ。獅子は東京を守護する、日本橋のシンボルです。

日本橋レリーフ のコピー.jpg
橋にかかる獅子のレリーフ

乗船場を出てまもなく見えてくるのが一石橋です。以前雑記帳でも紹介しましたが、日本銀行の前にある一石橋は、江戸時代、迷子のお尋ね場所でもありました。金座や商店、魚河岸の並ぶ繁華街はさぞかし迷子も多かったのでしょう。この橋の再建を援助したのが2軒の後藤家だったので、「五斗+五斗」で「一石」だともじったのが由来です。

大正12年(1923)に起きた関東大震災後の復興事業では東京市内の川に架かる橋の再建も大きな課題でした。日本橋川に架かる橋には昭和に再建された橋も多い中で、復興橋梁と呼ばれる橋がいくつか残っています。1925年から32年に架けられたものです。

復興橋梁2 のコピー.jpg
復興橋梁にかかる「復興局」の印

常盤橋御門のあった常盤橋公園には澁澤栄一の像が立っています。奥州街道につながる重要な地点として設けられた常盤橋御門でしたが、明治維新後にとり壊されるところを、保存に尽力したのが澁澤だったのです。

鎌倉橋は、江戸城の石垣の石を伊豆から運んで荷揚げした場所、その舟が鎌倉を通って来たからというのが名の由来です。橋には空襲の跡が残っています。
当時からにぎわった橋の周辺は今、再開発された大手町。コロナ前の昼間の人口は23万人を数えたそうです。テレワークが普及した現在はどれくらいなのでしょうか。

歴代将軍が上野寛永寺へ参詣する時に渡ったで御成橋と呼ばれた神田橋やアールデコの錦橋を過ぎれば一ツ橋です。
錦橋辺りから続く石垣の雑な摘み方は後世に修復された証、当時のまま残っている一ツ橋の石垣は、石工の心意気を見せて、隙間のない見事な積み方です。

石垣2 のコピー.jpg
石垣が続く

靖国神社につづく靖国通りにかかるので幅も広い俎板橋。神田川開削の折に埋め立てられたため堀がここで終わっていたというので堀留橋(埋め立て地は1903年に再び開削されて日本橋川と神田川はつながりました)。次に来るのがあいあい橋です。「あいあい」の名は飯田橋の「IIDA」からとったのだそうです。

あいあい橋を過ぎて、JR総武線中央線が走る鉄道橋が見える三崎橋で日本橋川は神田川と合流します。運よくゴミ運搬船にであいました。自力では動けない運搬船は毎日、ひき舟に曳航されて中央防波堤まで通っています。くらしに欠かせない仕事を人知れず黙々とこなす運搬船(と乗組員)に思わず拍手が起きました。

ゴミ運搬船 のコピー.jpg
ゴミ運搬船 カラフルな曳舟が後方に見える。

神田川にかかる小石川橋から水道橋一帯は水戸徳川家の領地でした。
水道橋は神田川の掘削と同時に架けられた橋で、本橋の下流に神田上水掛樋があったことに由来しています。掛樋は江戸時代に作られた上水道で、神田上水の水を江戸市中に通水するための水道管の橋でした。
水道橋を過ぎればお茶の水。崖すれすれにあるようなJRお茶の水駅のホームを川から見上げれば、正にここはその名の通りお茶の水渓谷だということがよくわかります。2代将軍の時代、神田川の原型を作ったのは仙台藩でした。幕府には東北の雄藩の力をそぐ狙いもあったのでしょう。重機のない時代、台地を削り水路を掘る工事はすべて手掘りでした。

お茶の水渓谷 のコピー.jpg
お茶の水渓谷 右手前方に見えるのがお茶の水駅ホーム

聖橋は御茶ノ水駅のホームから一番美しく見えるようにデザインされているそうです。、神田川両岸の湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖堂をむすぶことから名付けられました。アーチ型の美しい橋はライトアップもされています。

聖橋 のコピー.jpg
聖橋

昇平橋、万世橋にはかって、それぞれ、中央本線の駅がありました。橋に因む名前の駅は廃駅になりましたが、どちらも東京駅よりも古く、駅舎は都内最古の鉄道駅遺構です。煉瓦造りの重厚な昌平橋駅は今はカジュアルな飲食店が入るビルになり、万世橋駅はホームが残されてカフェやショップの並ぶ商業施設になっています。

慢性橋駅 のコピー.jpg
万世橋駅あと

舟が隅田川にちかづく頃見えてくる柳森神社は太田道灌が江戸の鬼門よけに設けた神社です。椙森神社、烏森神社と並んで江戸三森の一社と呼ばれました。
浅草橋の歴史は古く、1605年頃にはすでに存在していました。

上方から来た荷は江戸湾から隅田川(大川)に入り、いくつもの水路を通って荷揚げされました。荷揚げ場だった柳橋は神田川のほぼ入り口にあります。賑わいは柳橋芸者の名に残り、今でも船宿が残っています。

柳橋3 のコピー.jpg
柳橋には今も船宿が残り、屋形船が並ぶ。

柳橋から隅田川に入ると、広い川幅といきなりの波。カメラをもってうっかり立ち上がれないほどの揺れに驚きました。隅田川が海につながっていること、江戸の人々が大川と呼んだことが実感できるのでした。

その隅田川は全長23,5キロ。一部ではありますが、両国場や隅田川大橋、清洲橋、名だたる橋をくぐりました。

隅田川新大橋2 のコピー.jpg
隅田川大橋

両国橋は武蔵と上総の2つの国にまたがる橋です。千住大橋以外に橋のなかった隅田川に。明暦の大火で大勢の死者を出したことから、2番目の橋として架けられました。
隅田川大橋からはスカイツリーの絶景が見られます。

大橋よりスカイツリー のコピー.jpg
隅田川大橋から振り返って見た清洲橋とスカイツリー

永代橋(1609年頃)から佃島を眺めれば、タワーマンションの林立する光景はまさに東京のマンハッタン。佃は徳川家康が江戸の町づくりを進める中で、摂津の佃から漁師を呼んで住まわせた地として知られています。佃煮発症の地です。

佃島 のコピー.jpg
東京のマンハッタン・佃島

神田川、隅田川を渡ってきた舟が豊海橋から日本橋川に入ると、日本橋袂の船着き場までは残りもわずかです。

湊橋のそばにたつミツカンは、江戸時代から此の地にありました。
ゆりかもめの群れとぶ岸辺を見ながらさらにすすむと、萱場橋や鎧橋。萱場橋はカヤの荷揚げをしたことから名づけられました。鎧橋のあたりは兜町です。鎧に兜とは言いえて妙ですね。そして、最後の橋が江戸橋でした。

澁澤栄一邸跡日証館 のコピー.jpg
鎧橋の傍には澁澤栄一の邸宅だった日証館がたつ。

明治44年に架けられた石造りの日本橋は、今年、110歳になります。
江戸時代には度重なる火事や水害で15年に一度はかけ替えられたという日本橋でしたが、石造りになってからは長寿の橋になりました。

橋の両側にある麒麟と獅子の像の作者渡辺長男(おさお)は彫刻家・朝倉文雄の長兄です。
獅子は東京を守護し、麒麟は繁栄を意味すると言われています。獅子は東京都の紋章を抱えています。

日本橋麒麟 のコピー.jpg

江戸時代、日本橋は国内五街道の起点だったことから、橋の中央に「日本国道路元票」が埋め込まれています。首都高速の高架橋上にも道路元標地点碑のモニュメントがあります。

日本橋高架道路原票 のコピー.jpg
この下に道路原票がある安愛は高速道路にもかあけられている。

日本橋名 のコピー.jpg
「道路原票」の字は佐藤栄作なら「日本橋」の字は徳川慶喜。

橋北詰には魚河岸がありました。一日に千両の金が飛び交うといわれた魚河岸は、大正12年(1923)関東大震災で築地に移るまで、300年間、江戸・東京の庶民の台所でした。
魚河岸記念碑の反対側には高札場の跡。明治10年に廃止されるまで、撰銭や切支丹、火付けや駄賃などの一般法令を周知させるために江戸市中に幕府が設けた高札の一つです。

高札場跡 のコピー.jpg
日本橋高札場の跡

およそ2時間の船旅はなかなかに充実したたものでした。お昼は高札場あとのそばの「イチノイチノ」で鯛飯をいただきました。




nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。