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雑記帳2022-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-8-1
◆埼玉県は『鎌倉殿の13人』ゆかりの地です。『知の木々舎』』では、原田感爾さんの『多摩のむかし道と伝説の旅』で、武蔵嵐山一帯の、悲運の武将の里道が紹介されました。

北条氏を執権として幕府を動かす体制が固まるまでには。NHK大河ドラマで見るような抗争が繰り返されたことが推察できます。
『吾妻鏡』以外に正史のないこの時代は謎の部分が多く、小説家や劇作家の縦横無尽な想像力と相まって誠にドラマッチック。史実でなくとも伝説を訪ねてみたくなりますね。

武勇に優れ、「坂東武者の鏡」と称された畠山重忠は、頼朝の鎌倉幕府創立に大いに活躍しましたが、頼朝亡き後は宿老による合議政治に加わらず、中枢とは距離をおく選択をしました。が、実権を握った北条氏に謀反の疑いをかけられ、討ち死にしました。鎌倉に異変ありとの知らせに居城から鎌倉へ向かう途中の二股川(現・横浜市旭区)で大軍のまちぶせにあい、非業の死を遂げたのです。

時政の娘を妻とし、武勇だけでなく文芸にも秀で(今様を謡ったり、静御前の舞にあわせて銅拍子を演奏するなども)、人望もあった、それでも、生き残ることが出来なかった。まさに悲運の武将です。『吾妻鏡』では、重忠の死が時政の謀略だったことに気づいた義時が時政を伊豆に追放したとあり、事件は、義時が時政に代わって幕府を動かしていく重要な場面になるのです。

鎌倉殿の13人の一人になったものの、御家人たちの反感を買って追放され、命を落とした梶原景時とは対照的で、後世、景時がが讒言を用いて同僚を陥れる悪徳的な人物として描かれるのに対し、重忠は優れた武将、かつ誠実で思いやりのある人格者として描かれています。
ちなみに、立川市の隣、国分寺にある姿見の池に縁の人物が畠山重忠であったことを、今、思い出しました。

畠山重忠の父、重能は秩父氏の出。重能がかまえていた居館跡が、現在の深谷市にある畠山重忠公史跡公園として整備されています。重忠の産湯に使われた井戸や、二股川で討ち死にした重忠主従の5基の五輪塔が残されています。
木曽義仲を慕い、義仲寺(滋賀県大津市)で句を詠んだ松尾芭蕉は、ここでも重忠を偲んだ句を残しています。「むかしきけ ちヽぶ殿さへ すまふとり」。
朝の目の前で、相撲取りを負かしたこと事があるそうな。義経に従軍した一の谷の合戦では、愛馬を背負って崖をかけおりたという逸話のある重忠です。当時としてはなかなかの偉丈夫だったに違いありません。

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愛馬を背おう重忠の像
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畠山主従の五輪塔
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芭蕉の句碑

重忠の居城、管谷館(すがややかた)は、武蔵嵐山町にありました。県立嵐山博物館がたっています。遺構は戦国時代のものとされ、重忠時代のものはまだ発掘されていませんが、空堀のいくつかははおそらく菅谷館時代から引き継いだものと思われ、本丸は鎌倉時代の館の中心部だったと推定されています。

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館あと全体はほぼ山林状態のまま
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二の廓あと 写真奥は県立嵐山博物館
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空堀跡が随所に遺っている

嵐山町にある班渓寺(はんけいじ)は木曽義仲、義高親子の墓があります。義仲の妻山吹姫が創建しました。。
山吹姫は「平家物語」にもその名が記されており、巴御前と共に義仲軍に従軍していたが、体を壊して京都に残ったという記事があります。義仲の息子、義高の母親ともされ、非業の死を遂げた義仲・義高の菩提を弔うために寺を創建したのでした。
寺には山吹姫のものとされる位牌や、墓とされる五輪塔があり、毎年3月には義仲等を弔う慰霊祭が行われているそうです。

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班渓寺
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本堂の屋根に義仲の家紋(五七の桐)が見える
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墓所

平家討伐に挙兵し京都に攻め込んだ木曽義仲が嵐山の生まれであったことは意外でした。出生の地は、大蔵館跡(大蔵神社)にありました。
義仲の父、源義賢は、源氏の棟梁、源為義の次男として生まれ、近衛天皇が皇太子の時に東宮警護にあたるも、部下の不始末によって職を追われ、、北陸から上野と回って武蔵に進出、秩父重孝の娘をめとって、大蔵館に移り住みました。当時武蔵の国で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことで、関東で義賢の力が増大することを恐れた兄、義朝は息子の善平に義賢を討たせました。(大蔵合戦)この時2歳の駒王丸(のちの木曽義仲)は畠山重能らの計らいで乳母父・中原兼遠に抱かれて信濃国木曽谷へ逃れ、兼遠の庇護の下に育ったことが『吾妻鏡』に見えます。

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雑草の茂る原っぱに大蔵管跡の説明版だけが立っている

さて、宿老の一人となった比企一族は、頼朝の乳母だった比企尼いらい、源家とは深い繋がりを持っていました。能員(よしかず)の娘若狭の局は頼朝の長男頼家に嫁ぎ、長男一幡をもうけています。能員は比企の尼の甥にあたり、頼家の乳母夫でもありました。
一方、、幕府内には頼朝の妻・政子の父・北条時政を頂点とした北条家の勢力がありました。北条と比企はまさに宿敵の立場にあったと言えるでしょう。
頼朝の源氏再興の旗揚げまでは比企が。旗揚げ後は北条が頼朝を支えた形ではありますが、共に天をいだかぬ運命。頼朝亡き後、3代将軍を巡る抗争の中で、比企氏は敗れ、頼家は出家して修善寺に幽閉されました。比企氏の乱とよばれています。
先の畠山重忠がこの乱で功のあったことが『吾妻鏡』には記されています。

その頼家も暗殺された後、頼家の妻だった若狭の局が位牌とともにたどり着いたのは、かって父能員の館のあった比丘尼山((東松山市)。若狭の局はここに夫・頼家の追福のため、壽昌寺を建立しました。
1592年(文禄元年)に、関東を治めていた徳川家康から武蔵国比企郡を与えられた森川氏俊が比丘尼山の壽昌寺を現在地・扇谷に移して再興し、宗悟寺と改め菩提寺としました。市指定の森川氏の墓地が整備された寺には、頼家の位牌や蛇苦止観音像が残されています。境内には地元有志による比企一族顕彰の碑がたてられていました。
また、近くの串引沼には彼女が頼家の形見の櫛を捨てたという伝説も残されています。

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扇谷山・宗吾寺
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墓地

滅亡したとはいえ、能員の一子である員茂はかろうじて逃れ、岩殿観音堂の別当の子として養育されたのちに北面の武士となり、1221年承久の乱に敗れた順徳院に従って佐渡へ渡ったとされ、その子員長は密かに越後から比企郡にもどったことが伝わっているのですから、何とか命脈はたもっていたのですね。

比企氏に縁のある金剛寺が比企郡川島町にあります。天正年間に15代比企則員が中興したとされ、15代以降の一族の墓があり、比企氏位牌堂の大日堂は国登録有形文化財になっています。

寺のご住職が作った系図によると、比企尼と夫、比企遠宋の長女・丹後局が薩摩家初代当主・島津忠久を産んだとあります。28代の島津斉彬の家臣、西郷隆盛らが活躍し江戸幕府をたおすことになるのを思えば、武家政治の始まりにも終わりにも比企一族はからんでいたのかと驚きます。ちなみに比企家滅亡の1203年に生まれ、万葉集研究に功績のあった仙覚律師は比企能員の内室の子という伝承もあります。
寺の本堂は最近建替えられた様子で、寄進者の名盤には比企一族の名がつらねてありました。

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大日堂
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比企一族の墓

私たちが学校で歴史を学んだ頃、鎌倉時代と言えば、頼朝ら3代の将軍と執権の北条氏くらいしか出てこなかったので、比企氏など知る由も無かった。それが今、ちょっとしたブームになるなんぞ、さすが大河。地元の期待は大きいようです。

小川町にある割烹旅館二葉は創業200年を数えます。千坪の敷地には登録有形文化財の築80年の数寄屋創りの建物、離れ茶室等が立ち、回遊式の日本庭園も見事です。

名物の「忠七めし」は旅館の主と親交の深かった山岡鉄舟が名付けたそうで、忠七とは8代当主八木忠七の名前です。

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二葉の庭
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鉄舟ゆかりの展示室もある

忠七めしは海苔を加えた温かいご飯に、つゆをかけてお茶漬けのように食べる料理で、わさび、柚子、さらし葱などの薬味がそえられていました。
東京・深川めし、大阪・かやくめし、などと並び、「日本五大名飯」の一つだそうです。。天下の鉄舟が気にいったくらいですから、なるほど、味はお墨付き。おいしかったです。

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土瓶に入ったつゆをかけて食べる

ちなみに、日本五大名飯とは、下の5つをさすようです。
忠七めし(埼玉・小川町)・深川めし(東京・深川)・さよりめし(岐阜・山岳地法)・かやくめし(大阪・難波)・うずめめし(島根県・津和野町)



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雑記帳2022-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-7-15
◆埼玉県越生町にある「山猫軒」で、赤川ボンズさん作品のデッサン展がひらかれています。 7月初めの土曜日、会場を覗かせてもらいました。

『知の木々舎』』6月上号で、赤川さんは山猫軒の為に作った猫ドアを紹介していました。
名前を聞いて誰もが思う、店の主人は宮沢賢治に強い思いを持っているに違いない。まさにその通り、ご主人の南達夫さんはこのギャラリーで宮沢賢治の『注文の多い料理店』を再現したのだそうです。
街道とは名ばかりの小さな越生街道をさらに外れた、自然豊かな山の中に、山猫軒はありました。勿論、路線バスだって通ってはいません。

写真家の南さんがここに自身のフォトスタジオを開いたのは1985年。ときを経て、住居の古民家とともに、現在のカフェギャラリー山猫軒になりました。

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猫ドアと赤川さん

出迎えてくれたのは丸々太った烏骨鶏。猫も鶏も放し飼いなら、畑にはいろんな野生動物も自由に出入りりするのだとか。幸い埼玉県の山にはまだ熊は出ないということでした。

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山猫軒のあるじ、えむくん。3匹いる猫の中で一番人懐こい。

古民家に用いられている木材は、山に育った環境そのままに、北にあった木は家の北側に、南になって木は家の南側に用いているので耐久性も抜群だそうです。柱も釘を使わずに組み立てられていました。

週末だけ開いているギャラリーは、月に一度はライブハウスになります。2階も加えると、70人ははいれるそうです。外のデッキで、自然の風に吹かれながらランチするのも良し。森の木々に囲まれて少し標高もある山猫軒では吹き抜ける風もなんとも心地よい。

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デッキ
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吹き抜けの2階から1階のダイニングフフロアをみおろす
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ライブ風景

バスも通わぬ山の中とあって、客はカーナビ便りにたどりついた人達です。日によっては淋しいときもあるそうですが、この日は大入りでした。
ランチのメニューはピザと古代米のカレーライス。私は赤米のカレーをいただきました。リピーターも多いらしい。

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南さんの職業柄、訪れる客にはカメラマンやアーティストが多いようです。
馴染みの客同士で交わされる会話に様々な人間模様が浮かびます。
同じテーブルにいたのは、結婚して今はアメリカ、シアトルに住むしほこさん。
「久し振りだね。どこ、いってたの?」
「宮古よ。サンゴとさがり花見てきた。ほら。」
カメラマンのしほこさんはスマホのの写真を見せながら
「サガリバナは夜咲くの。一夜しか咲かないというから見られたのはほんとにラッキイだったのよ。」
夜咲くサガリバナは朝になると散ってしまう、散った花を楽しむのもサガリバナの魅力だそうです。
宮古島の美しい海岸と一緒に見せてくれたのはサンゴ礁です。温暖化で白化が進んでいると言われながら、宮古ではまだまだ見られる、貴重な写真でした。

しほこさんといっしょにいたのは、娘のはなちゃんです。
夏休みなので宮古島のおばあちゃんの家に遊びに来て、シアトルに帰る途中にたちよったのだとか。大学生の彼女の専攻は環境学。私はつい最近、環境は科学だと認識したばかりだったので、思わず「環境は科学よね」と口走ってしまいました。
日本では気候変動もプラスチックごみも、環境といえば道徳だと思われています。科学的に数値化し見える化しなければ説得力を持たない。対策も考えられるというものか。だからといって科学だけでも人はついてこない。極めて日本的ではあるけれど、モラルに訴えることだって大切です。頑張れはなちゃん。頑張れ日本のグレタたち。

「Mさん、退職してなにやってるの?」
「何もしないでおさんどんやってるよ。」
「私、彼のところにいそうろうしてるの。」
「この人の作ってくれる料理がすごいの。ほら、これ見て。野菜のてんぷら。」
デッキでロッキングチェアにゆれながら
「世田谷でこんな空間、もちたいなあ」
「ライブもできる、ね」
「それだと、退職前のキャリアも生かせるんじゃないの」
Mさんは現役時代、オーディオの専門家でした。

南さんは京都出身。カメラマンとして世界をあるいて感じたのは人の生きる基は農にあるということでした。そこで、多摩の地で土地をかりて米づくりにとりくんできたところ、多摩ニュ―タウンの開発で借りていた田圃はなくなり、人づてに越生に移り住んで、自給農業の生活を再スタートさせたのでした。
山猫軒を開くには亡くなった奥さんの千代さんのサポートが大きかったとききましたが、その千代さんが、猫と暮らす森の生活や山猫軒での様々な人との出逢いをエッセイ『山猫軒ものがたり』に書いています。いつか紹介したいと思いました。

住居である古民家も、無料で地域の住民に開かれた空間になっています。南さんの例に学んで町に移り住む新住民が増えているということです。
そして、「マナーと良識のない方には来訪をご遠慮いただきたいというのが、”注文の多い”料理店の意味だそうです。

山猫軒には赤川さんのデッサン展を見るために来たのでした。
会場内には50点のデッサンが展示されていました。
なかでも大きいのは、写真下真中の1枚。川口市の町おこしにと、鋳物の町・川口をイメージし最初のデッサンでした。数年前になりますが、『知の木々舎』のスタッフだった小林マサさんが80才を記念してひらいた個展に作ってもらった作品のデッサンも見付けました。
小さいものは行田市の童たち。見かけによらず、赤川さんの作品のルーツは子どもたちなのです。

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山猫軒からさらに坂を上った所に龍隠寺(りゅうおんじ)があります。
山号は長昌山(ちょうしょうさん)。室町時代より曹洞宗の僧録司として知られています。

江戸時代初頭には徳川家康より関三刹に任命され、3,947寺(1635年時点)の寺院を統治し、曹洞宗の宗政を司ったとあるからには、江戸時代にはなかなかの寺だったと思われます。僧たちの学問所として、格式の高い寺でした。明治の廃仏毀釈によって一時参拝者もなく寺は荒れていたということですが、今は復興しています。境内には太田道真・道灌親子の墓があります。逸話の多い道灌ゆえ、越生町は道灌を町おこしに活用しようとしているようです。山門、梵鐘、経堂の3つが県指定の文化財になっています。

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山門
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池越しに本堂を見る
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太田道灌像



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雑記帳2022-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-7-1
◆「食とくらしと環境を考える会」の6月の講座で、ルーを使わない「夏野菜たっぷりチキンカレー」を作りました。たたき胡瓜のサラダを添えて。

◇チキンカレーを作る
≪材料≫
鶏モモ肉1枚(約250g)、塩小さじ1/4、カレー粉小さじ1で下味をつける。
サラダ油 大さじ1、玉葱1個。
ニンニク(みじん切り)1片分、ショウガ(すりおろし)大さじ1/2、
クミンシード小さじ1/2。カレー粉大さじ1.5、 
トマト(完熟)大1個、プレーンヨーグルト150g、塩小さじ1/2
好みのスパイス追加も可。(ローリエ、コショウ、コロアンダー等適宜)
≪作り方≫
①鶏もも肉は2~2.5cm角切り、塩・カレー粉をまぶして20分おく。
②玉ネギはみじん切り、トマトは横半分に切りヘタを取り除き、1cmの角切り。(トマトは皮・種を取り除くとよりまろやかになる)
③鍋にサラダ油大さじ2とクミンを入れて火にかけ、ゆっくり炒め、香りが立ったら玉ネギ・ニンニク・ショウガを入れて、しんなりするまで炒める。蓋をして中火の弱火でときどき鍋底から混ぜながら20~30分、茶色になるまで炒める。
④フライパンにサラダ油大さじ1を熱し①の鶏肉を入れ、中火の強火で両面を焼きつけて③の鍋に移し、カレー粉を加えて炒める。
⑤ヨーグルト・トマト・塩を加えて混ぜ、(この時好みのスパイスがあれば加える)蓋をしてときどき鍋底からかき混ぜながら弱火で20分ほど煮込む。
チキンカレーの出来上がり。
◇トッピング(焼き/揚げ野菜)を作る
≪材料≫
野菜 カボチャ、ズッキーニ、パプリカ等適宜
サラダ油大さじ1、塩一つまみ
≪作り方≫
①野菜はそれぞれの特徴を生かして、薄切りまたは角切りにする。
②フライパンにサラダ油大さじ2を熱し、野菜は固い順からフライパンに入れ、中火の弱火で薄い焦げ目がつくように焼く。最後に塩で味を調える。
◇盛り付け
 器にご飯と野菜を添え、チキンカレーを盛る。

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◇たたきキュウリと夏野菜のサラダ≫
≪材料≫
キュウリ1本、塩小さじ1/2、パプリカ1/4個、ミニトマト4個、
ミント、バジル、コリアンダ―など適宜
ドレッシング用に、酢小さじ1、砂糖小さじ1/2、オリーブオイル小さじ1/2
≪作り方≫
①キュウリはところどころ皮をむき、両端を切り落とす。まな板の上にキュウリを置き、塩を振り板ずりする。4等分に切り、小分けしてボールに取る。
②パプリカは2等分して8mmの細切り。ミニトマトは横に二つ切り。
③ミント(緑の葉)はちぎっておく。
④①②③とドレッシングをサッと混ぜて、出来上がり。

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◆東京都農林総合研究センター(農総研)を知っていますか?

立川の西端、すぐ隣は昭島市という場所に東京都農林水産振興財団の農業試験場があります。財団は農林総合研究センターとして、青梅に畜産試験場をもっていますが、立川では都市農業の支援、推進として、出来るだけ農薬を使わない病害虫防除の研究や、最近の温暖化にともなう暑熱対策にとりくんできました。
ハウスを使い、狭い農地でも生産性を上げることのできる、先進技術を活用した栽培方法はスマート農業と呼ばれ、この農法の推進もセンターの重要な役割りです。
設立から120年を迎えました。

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東京農林総合研究センター(旧農業試験場)の事務棟

小池都知事は先般、「10年で東京の農家の所得倍増プラン」を打ち出しました。これを受けて、センターでは、地方に比べて圧倒的に土地の狭い東京で稼げる農業を目指す研究が求められています。

そこで注目されるのが、ITを活用した「東京フューチャーアグリシステム」と呼ばれる東京型スマート農業なのです。
ハウスの温度、湿度や採光はコンピューターで管理され、水やりも家にいながらタブレット操作で行えます。農家の後継者や新規就農者が、少ない負担で農業を始められるように技術開発がおこなわれているのです。
ハウスの屋根には小型のソーラーパネルが設置され、ハウス内の電力をまかなうしくみにもなっています。

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ハウスの屋根にもソーラーパネル

農総研が開発したオリジナルの野菜や果物は結構たくさんあります。
たとえば、ブルーベリー。
ブルーベリーは、国内では1960年代に小平市で初めて商品作物として栽培された東京発祥の果物です。バイオの技術を利用して、品質に優れ、ブドウのように房ごと収穫できる品種を開発中です。

或いは「東京小町」の名を持つ分葱。
青ネギの仲間で、ネギ坊主が発生しにくい。肉厚で甘味のあるのが特徴です。
あるいは酸味の少ない黄色いキーウイの「東京ゴールド」、鑑賞用の品種に原種の芳香性を再現した「香りシクラメン」、伊豆大島特産の切り花「東京スター」などなど・・・

思い出せば、江戸時代、江戸の野菜は参勤交代を通じて、漬物用の大根など全国に広がった歴史もあったのです。東京発の野菜や果物も、今にはじまったことではないのかもしれません。

そして、現在の一推しは「東京おひさまベリー」です。
産地と消費地が重なる東京で、何がメリットかといえば、完熟するまで畑においておけることです。路地で完熟を待って収穫した「おひさまベリー」は、果肉が中まで赤く、甘くておいしいいちごでした。

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おひさまべりーを試食しました。

15ヘクタールの広大な圃場は立川崖線の下にひろがっています。
湧水もある崖線特融の景観を楽しみながら、圃場見学をさせてもらいました。

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立川崖線の下に広がる圃場。遠くに多摩川を越えた先の団地がみえる。
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崖線の上からみたハウスの並ぶ圃場

面白いのは、様々な品種の野菜や果物の畑にまじって、植木林があることでした。
立川に植木農家が以外に沢山あることは以前紹介しましたが、東京は実は街路樹の一大消費地なのです。大きくなりすぎた樹を切る切らないが論争の的になることもありました。街路樹にも時代の好みがあるようです。現在は街路樹としてはあまり大きな樹は好まれないので、大きくならない欅やイチョウの研究も対象なのだということです。

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摘み取り作業が楽に行えるイチゴのハウス
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ブルーベリーの畑ではぶどうのように房ごと収穫できる品種を開発中。
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植木たち
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東京オリンピックで活躍した動かせるベンチ

農総研は、東京という地価の高い、狭い農地で、どのように収益を上げて農地を保存し環境を豊かにするかを日々研究している施設です。圃場は研究のため立ち入り禁止になっている場所もありますが、それ以外は自由に散策できます。場内の、50種類を超える桜が10月から4月にかけて次々に開花し、近隣住民のひそかな楽しみにもなっています。圃場の近くに住む友人は毎朝ここを散歩するのが日課です。見学した5月の末はヤマボウシが満開でした。

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◆6月の、梅雨明前の薬用植物園の花たちです。

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シナノカンゾウ
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イブキジャコウソウ
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ハナビシソウ
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ベニバナ

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雑記帳2022-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-6-15
◆梅雨入り前の一日、群馬に、近代和風建築を訪ねました。

明治の文明開化は日本のあらゆる分野に西洋化をもたらしましたが、建築はその最たるもののひとつです。この時代、今に残る多くの西洋建築が建てられました。
その中で、和風建築は着実に発展を続け、それらが今見直されているといいます。
群馬県に点在する近代和風建築を訪ねました。

群馬県の県庁所在地は前橋市です。県庁が前橋に落ち着くまでに高崎と何度かいれかわったこともある面白い歴史をもっています。
前橋県庁の近くにあるのが臨江閣(りんこうかく)です。

臨江閣は、明治17年(1884)、当時の県令・楫取元彦の提言により、地元有志や企業の寄付で建てられた迎賓館です。

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威風堂々たる臨江閣
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臨江閣庭

そばに利根川が流れ、県を代表する妙義、浅間の山々を望む地に建てられた迎賓館は、まさに伝統的な和風建築。明治天皇の行幸の際の行在所になったのをはじめ、多くの皇族方に利用されました。特に、大正天皇は皇太子時代からこの建物を大層気に入ったようで、おとずれると、2週間は滞在したとか。利根川や山々の自然に癒される思いだったのかもしれません。

昭和20年から29年までは、仮の市庁舎として使われ、その後は平成19年まで公民館として利用されたといいますから、何とも贅沢な公民館だったのではないでしょうか。

敷地内には、迎賓館が地元有志の協力で建てられたことに心を動かされた楫取元彦が呼びかけて、県庁職員の募金によって建てた茶室があります。本館とならんで数寄屋造りの茶室は、京都の茶室大工、今井源兵衛の手になる140年前の技巧が随所にこめられているとききましたが、残念なことに現在は公開されていない様子でした。

明治43年(1910)、一府14県連合共進会が前橋で開催されました。県をあげてのビッグイベントに取り組むにあたり、貴賓館として別館が建てられました。
寺社建築と書院造、数寄屋造、江戸時代にはそれぞれ別個のものだった建築様式が、ここでは混在しているということです。格式ある書院造の内部に対し、縁側は数寄屋風の屋根、大屋根や階段の手すりは寺社の高楼、といった具合に。2階は180畳の大広間ときけば、その威風堂々ぶりが想像できるというものです。
別館は、共進会閉会後は前橋市に引き渡されて、本館と同様、一時期、大公民館として利用された時もあります。

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180畳の大広間

本館も別館も茶室も、これだけのものを建てるには莫大な費用が必要でしたが、その大部分は財界や市民の寄付でまかなわれました。それが可能だったのは群馬県が絹産業でうるおっていたからだといいます。江戸時代から養蚕、製糸、織物が栄えた群馬県は、明治になると輸出によってさらに豊かな富を蓄積していたのでした。

富岡市には誰もが知る、世界遺産の富岡製糸場があります。その製糸場を見下ろすような高台に富岡市社会教育館がたっています。高台は、群馬県の一之宮、貫前(ぬきさき)神社の境内です。
昭和9年(1934)に、群馬県で行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が行幸され、貫前神社に参拝されたのを機に、この地に精神修養の場として東國敬神道場が建設されました。竣工は昭和11年。現在の富岡市社会教育館の前身です。

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富岡社会教育館門

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富岡社会教育観玄関

設計は当時、近代和風建築の第一人者だった大江新太郎の率いる建築事務所「大江國風建築塾」。明治神宮や日光の社寺、高野山、住吉神社などの改修を手がけていました。
全て平屋の建物は、講堂棟や講師室棟、玄関・事務室棟、宿泊・食堂棟が配置され、廊下でつながっています。戦前は群馬県下の青年男女が宿泊しながら精神修養を行う施設でした。戦後は進駐軍に接収されて、講堂がダンスホールに利用された時代もありました。、県立施設としての広域性が薄れてきたことから、現在は富岡市に移管されて、市の社会教育館になっているのです。宿泊は現在は廃止されています。国の登録有形文化財。

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宿泊棟
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講堂と宿泊棟をつなぐ廊下

宿泊棟は現在つかわれていませんが、講堂に比べると質素な造りながら、テーブルに椅子式の食堂や炊事場など、当時としてはハイカラだった設備を見学することができます。

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当時としてはモダンな食堂

県下から集まった青年男女が研修を受ける講堂には立派な神殿があり、神殿をを礼拝するのが日課でした。今は勿論神殿はありませんが、幕のうしろに形だけ残しています。

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講堂

ナショナリズムの高まりの中で造られた建物が、ダンスホールにつかわれたり、今は社会教育の場になったりしているのをみると、時代の変化を感じますね。

(ちなみに、貫前神社は宮崎の鵜戸神宮、大分の宇佐神宮とならんで、日本の「三大下り宮としてもしられています。「下り宮」というのは、鳥居(門)からの参道が下り坂になっているお宮のこと。地形や成り立ちには面白い特徴があるようですが、今回は貫前神社は訪ねませんでした。)

中島飛行機の創業者、中島知久平が両親のために建てた豪邸が太田市にあります。中島知久平は鉄道大臣や政党総裁も務めた実業家でした。邸は昭和初期に建てられました。
1万㎡に及ぶ広大な敷地には、玄関、客間、居間、食堂の4つの棟が中庭を囲むように建っています。それぞれが違う大工が建てたという面白い造りです。

4つの棟のうち、入館できるのは玄関棟だけです。
先ず、客は車寄せの驚くほど巨大な唐破風に圧倒されます。玄関先の階段は一枚物の白御影石。石にしろ、木材にしろ、使われた材料はすべて国中から選ばれた一級品です。応接間は洋式で、ステンドグラスやシャンデリアが目をひきました。

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圧倒される立派な車寄せ
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車寄せの屋根のを支える木材も贅沢に
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応接間
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客室棟とプライベートな居間棟は中にははいれませんが、外から見学できます。客室はシャンデリアを除けばすべて和風の書院造。長く使われていなかったためにすっかり荒れてしまった客室も、まだ修復されてはいないものの、襖や壁の装飾の豪華さを偲ぶに難くありません。

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客間

日清・日露戦争を経た日本では、ナショナリズムの高まりとともに、建築でも和を追求する機運が高まっていました。江戸時代に培われた職人の高度な技術が、おしみない財力を注がれて、最も自由に発揮されたのが、実は昭和初期であったというのです。贅を尽くした建物を巡ればそれぞれに職人の心意気がしのばれるというものでした。

平成になって住む人もいなくなり、空き家になったのを契機に、太田市が土地を買収、建物は寄付されて市の所有となり、「太田市中島知久平邸地域交流センター」としてオープンしました。平成25年、国の重要文化財に指定されましたが、管理するのは自治体です。客室を修理するのにいったいどれくらいかかるのか、中島知久平が惜しみなく財力を注いだエネルギーは今の日本にはもはやない。それでも、地域の交流センターに生まれ変わって、住民が集える場所になったのは決して悪いことではありません。

群馬といえばこんにゃくです。
お昼にこんにゃくの会席料理を頂いた「ときわ荘」は、前述の大江新太郎の建築塾の設計でした。こちらも国の登録有形文化財になっています。

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こんにゃく御膳
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ときわ荘外観
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ときわ荘庭



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雑記帳2022-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

記帳2022-6-1
◆『知の木々舎』の後見人、鈴木茂夫さんは現在91歳。お住まいの住居の両翼に2人のお嬢さんの家族が住んでいるとはいえ、基本的に一人暮らしです。

男性でも女性でも、高齢者が一人暮らしをするようになると、先ず気になるのが食事です。自炊できるに超したことはありませんが、誰もができるわけではない。幸い、今は宅配や冷凍食品が充実しているので、困ることはありません。チンすればいつだって暖かいご飯が食べられる、そんな中で、宅配弁当の来ない週末の昼に何を食べるか、スマホを駆使して探すのが、現在の鈴木さんの楽しみの一つです。

昨今の高齢者の運転事情もあって、手足のようだった車を手放し、今は自転車だという鈴木さん。昔とった杵柄で1時間や2時間乗るのはなんでもない、ただ、バランス感覚が昔より鈍ってきたという自覚はある、週3回のジム通いのおかげでまだ電車には乗れる・・・。加齢と共に制約が増えていく中で、自分の身体と相談しながら楽しみを見つけることは、人生100年時代に、誰もに求められることでしょう。
かく言う私は脊柱管狭窄症だと医師に言われています。医者の無慈悲な宣告にたいして、知り合いの、狭窄症はなおるよという言葉に一縷の望みをかけてはいますが、ふらふら街歩きも今にできなくなるのかも・・・。

値段がリーズナブルであることと並んで、鈴木さんが店を探す手がかりの一つが過去の記憶につながるものです。半世紀以上前の自身の記憶と、まだ店が続いていればその歴史を思えば、一つひとつに物語があるではありませんか。いくつかを紹介してもらいました。

国立駅南口にあるカフェ「ロージナ」は、店の初代のオーナーが昭和30年代に鈴木さんとアマチュア無線仲間だったというのです。小平にある津田塾大学のチャペルに、夜、毎月の例会に通って、顔をあわせていたそうです。当時の津田の事務長さんが同じく無線仲間だったからというわけですが、神聖なチャペルがそんな会合に使われていたとは、在学生でも知らなかったのではないでしょうか。鈴木さんは、店には行ったことはないそうですが、最近になって、その店がまだあることを発見して行ってみたくなったのでした。

ロージナは、すっかり忘れていましたが、実は私が学生時代にサークルのついでに1、2度立ち寄ったことがありました。今もむかしのままの、小さな路地の一角にあります。

私が学生だった昭和40年代初め、ロージナは一橋生のたまり場のようでした。60-年安保に遅れてやってきた安後派の青年たち(70年安保との狭間だったので安中派だったのかも知れません。)が、未熟ながら熱く政治を語り合っていた時代もあったのです。
いかにもロシアっぽいその名前は、戦前のソビエトで生まれ戦後世界中で流行していた「祖国の歌」の中に出てくるのだそうですが、店名の由来になったかどうかは今となっては定かではありません。
あとで知ったところでは、創業当時からロージナは芸術家や作家たちのサロンだったということです。

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ロージナのある狭い路地は1954年の開業当時のまま
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学園都市・国立の最初の構想は、1925年、一橋大学を誘致して西武(当時、箱根鉄道)が開発するというものでした。堤さんには東急に対抗して、東の田園調布に倣った街を造りたいとの思いがあったようです。それから30年、戦後の1954年に、旧駅舎の開業とともに新しい街が誕生したのでした。
今はおしゃれな大学通りも、私が学生だったころは、まだ道路も舗装されていませんでした。しかも一帯は周辺から見るとちょっと低い地形なので、雨が降るとぬかるんで大変でした。新調したばかりのレインコートがバスのはねあげる泥水を被って恨めしい思いをしたこともあります。

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国立のシンボルだった赤い三角屋根の旧駅舎 IR中央線が高架になった今は駅舎の役割を終え、コミュニティスぺースとして利用されている

さて、ロージナは、オーーナーの代が変わっても、70年前の味をそのまま受け継いでいるという店です。メニューも昔のままだというので、名物のザイカレーをいただくことにしました。ザイの意味は諸説あって不明とのこと。2階のテーブルには70年前の学生らしきグループも見受けられました。

やはりザイカレーは一番人気のようですが、量と辛さが半端じゃない。さすがに食べのこして「60年前なら食べられたのだけど、ごめんんさい。持ち帰ってもいい?」
そんな客は他にもいるらしく、すぐに持ち帰り用のケースとポリ袋を持ってきてくれました。隣に座ったカップルは若いだけあって、完食でした。

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980円のザイカレー

ロージナが創業した1954年、ビキニ環礁で被曝した第五福竜丸を、鈴木さんはTV記者として取材していました。焼津にあった久保山愛吉さんの病室をたずね、外からはわからない、治療法とてない被爆者の症状をどう伝えたらいいのか。無言で横たわる久保山さんの、呼吸器の音だけを拾ったという話を聞いたことがあります。当時、小学生だった私の田舎の町にも「原爆許すまじ」の歌が流れていたことを憶えています。戦後10年も経っていない、まだ広島、長崎の記憶が日本中に生々しく残っていた時代でした。

「原水爆反対」の署名活動も各地で活発におこなわれていました。荻窪駅におりたつと、割烹着を来た主婦たちが道行く人に署名を呼びかけていた姿を、鈴木さんは春木屋のラーメンと一緒に思いだすのだそうです。
荻窪駅前のラーメン街に、その春木屋は今もあります。

1949年(昭和24年)開業の春木屋も、また、創業以来の味を守っているのが売りです。昔の春木屋を知らない人たちにも人気で、開店と同時に行列ができるとか。和風のスープの味はシンプルで、値段も手ごろでした。店に外国籍の従業員もいる時代になりました。

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開店前からっ客の行列ができる
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ゆで卵1個のせても1000円でおつりがくる
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ラーメン屋さんが多く店を出していた路地 コロナで閉めた店も多い。

鈴木さんは昭和24年に早稲田大大学に入学のため上京しました。新宿はいわば早大生の縄張りです。
終戦後間もない新宿の、東口は整備が進んでいましたが、西口はまだわずかに浄水場の目立つ程度のさびれた土地だったと言います。淀橋浄水場はその後、都庁になるのです。

西口にある思い出横丁のルーツは空襲の跡も生々しい地域に出来た闇市です。戸板一枚でしきった店が並び、暴力団がしきっていた時代です。飲み屋、もつ焼き屋に混じってシチューを出す店が鈴木さんのお目当てでした。進駐軍の接収した新橋のホテルから出た残りもののシチューを、薄めて出していたのが1杯10円、薄めずに出してくれたのが30円。おなかをすかしていた若者にとって、コンビーフのはいったその味は忘れられないものになりました。

暴力団がしきっていた横丁も、その後、再開発が進みました。現在、最盛期の300店舗はなくとも、戸板1枚で区切った当時の造りを今に残して、昭和の味と人情で多くの客を呼んでいます。鈴木さんの通ったシチューの店はありませんが、1軒の蕎麦屋をのぞいてみました。
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横丁のいりぐちに店の名前がずらり
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壁1枚で店のつながる狭い路地が何本もある
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路地を抜ければおなじみの新宿の街並み

カウンターだけの小さな店は常連客も多いらしく、隣にすわった女性がが慣れた様子でコップに水をくんでくれました。もう一人の隣人(これも女性)が「ネギダクでお願いね」なんぞと注文するのもそれっぽい。なにしろかき揚げダブルにゆで卵1個のせて580円です。常連客はここでお昼を食べて午後の職場に戻るのですね。後期高齢の私はといえば、さすがにダブルのかき揚げは重すぎました。完食した鈴木さんは立派です。


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かき揚げダブルにゆで卵ののった蕎麦 580円!

新宿は多分、今も昔も若者の街なのでしょう。
鈴木さんより10年以上遅れて、昭和38年に上京した私にとって、新宿といえば、紀伊国屋や中村屋のあるた東口でした。その頃通ったアートシアターは今はなく、半世紀後の今浦島の気分です。

そういえば、新宿と並ぶ若者の街、渋谷でも、喫茶店ジローで、初めて閉店後の深夜(といっても21時ですよ)芝居をやったら風俗営業の取り締まりにあった、そんな時代でした。
僅か2週間であえなく中止に追い込まれたそのときの出し物を今も覚えています。当時の俳優小劇場がギリシャ悲劇の「オイデプース」を演ったのでした。小山田宗徳がオイデプース、後に仲代達矢の奥さんになった宮崎恭子がイヨカステだった。2人ともとうに亡くなりました。

◆立川の一番新しい街、GREEN SPRINGSに夏がきました。

ビルの2階部分に空中に浮かぶようにできた街は、コロナ下でも若い人たちでにぎわっていました。そのGREEN SPRINGSもすっかり夏の装いです。

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空中のビオトープ
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ビオトープに咲く花も夏の花 アサザ
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ショップやレストラン以外にも木陰で自由に休める場所がたくさんあって、お茶飲んだり読書したり


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雑記帳2022-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-5-15
◆立川に「けやき座」という名の大衆演劇場がオープンしてまもなく7年になります。

大衆演劇は、日本の演劇におけるジャンルの一つ。一般大衆を主な観客とする娯楽性を重視した演劇のことで、剣劇、軽演劇、レビュー、ミュージカル、ストリップなどが当てはまります。今では伝統芸能とされる歌舞伎や人形浄瑠璃も、実は、その成立まで遡れば大衆演劇と言えるでしょう。昭和20年代に当時「寄席芝居」や「旅芝居」と呼ばれていた劇団が、自らの劇を「大衆演劇」と読んだことから言葉が定着しました。

大衆演劇の黄金時代は、昭和10年(1935)から昭和16年(1941)、そして第二次世界大戦後の昭和20年(1945)から昭和28年(1953)頃まで続いたと言われています。最盛期には日本全国に600を越える劇場がありました。

 昭和28年(1953)はテレビ放送の始まった年です。テレビの普及にともなって、大衆演劇の人気は低迷します。例えば関西では1960年には55館あった常打ちの劇場が、1965年には20館、1973年には5館にまで減ったそうです。これに危機感を覚えた団体の努力で、九州、関西、東京に新しい大衆演劇の常設小屋が復活しました。

東京に常設の小屋は数えるほどしかありません。そのうちの一つが、なんと立川にあるのです。浅草の木馬館、北区十条の篠原演芸場とならんで、立川にあるのがけやき座です。東京都の大衆演劇場では38年ぶりとなる2015年8月にオープンしました。月替わりに人気劇団を招致して、ほぼ毎日、公演を行っています。

5月は長谷川劇団。総座長は愛京花という名の女性です。座員は子役も入れて15名。昼と夜、3時間の公演をほぼ毎日打っています。出し物も日替わりで、日によっては劇団同志のゲストの出演もあるようです。芝居の演目は昼と夜でも変わります。連休の一日、昼の部をのぞいてみました。

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江戸時代を思わせるような外観
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のぼりや花が飾られた華やかなエントランスは雰囲気も抜群です。

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場内
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客席と舞台の距離感も近く、しっかりした花道も設けられていて、役者の舞台を目前で楽しむことができます。

開園前、椅子席でお弁当を広げる人もいます。お目当ての俳優さんがいるのか、被り付きの桟敷に陣取る人も。定員170名という会場は、結構、自由な雰囲気です。

休憩をはさみながらの3時間の構成は、芝居と歌謡・舞踊ショーです。芝居の、この日の演目は古典落語の「紺屋高尾」でした。
神田紺屋町の染物屋の奉公人、久蔵の一途な愛に、吉原一の太夫、高尾が応えるハッピイエンドのお話です。主役2人を演じるのは一座の花形、長谷川一馬と京未来です。一馬君は高橋一生風のハンサム男子。可愛い未来ちゃんは、他の旦那に目もくれず職人の久蔵といっしょになる花魁の心意気を上手に演じていました。

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「紺屋高尾」の舞台から

開園直前に、若い女の子が二人かけこんできました。
となりの席にすわったのを幸い、幕間にちょっとおしゃべりをしました。

「若いけど(あっ、こんな言い方はハラスメントかも。ごめんなさい)、よく来るの? 誰か贔屓の役者さんでもいるの?」
「はい、よく来てます。押しは一馬君。俳優さんみたいにきれい。」
「やっぱりね。(私みたいな)おばさんだって美男子見るのは気分いいものね。」
「初めてなんですか?」
「そうなの。大衆演劇ってどんなのか、一度見てみたいと思って。昔、競輪場の近くの路地に、大衆劇場の看板を出してる小屋があったのよ。だけど、いつのまにかなくなってしまって。そしたらここにけやき座というのがあるよと教えてくれた人がいてね。」
「立川の人なんですね。おうちは近いんですか。」
「自転車で15分もかからないくらいよ。」
「それじゃあ、これからも是非来てあげてください。夜は特にお客も少ないみたいだし。私、(隣に座る友人らしき女性を差して)今日はこの人を連れてきたんです!」
(その友人)「連れてきてもらいました!」
「どう?」
「ちょっとドキドキしてます。一馬くん、ハンサムですねえ。」
若いのに(また言ってしまった)好きな役者のために宣伝もするなんて、しっかりしてる。仮にYさんと呼びましょうか。

芝居のあとの花形役者のショーにつづいて、最後は一座の座員全員の繰り広げる賑やかな舞台です。歌に踊りにコントに、役者は花道や舞台から下りて観客のそばを歩いてもくれる、サービス溢れる時間です。

ここで、Yさんはすばやく、一馬君の着物のの襟に1万円札をクリップでとめました。そのしぐさがいかにも自然で、あっという間だっだのです。このために彼女は花道のすぐそばの席を予約していたのでした。気がつくと客席の後ろからも、レイをもったおじさん、おばさんたちが次々に花道へ寄って来る。おひねりはYさんのように裸のばあいもあれば、のし袋にいれて役者の懐に差し入れる人もいる。ちなみに裸の1万円は新札でした!

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華やかな舞台の役者たち 一番下の写真が一馬君

役者はみんな芸達者。おひねり貰った役者さんは、舞台がはねて帰る客の所にやってきてお礼を言ってくれます。ハンサムな一馬君に流し目されたらYさんもきっとドキドキするでしょう。そんな客と役者の交流を見ているのがこれまたおもしろい。
1800円の入場料を払っただけの私は、流儀を知らない新参者だと、肩身の狭い思いをしたものでした。今度行くときはおひねり用意しなきゃ、ね。

友人に宝塚の大ファンがいます。
コロナで中止になった公演も多かったようですが、ようやく復活したようです。
贔屓の組の舞台は出待ち、入り待ちは勿論、ファンクラブの集いに参加するのが生きがいなのだそうです。そこでは、スターがファンを徹底的に大事にしてくれる。一人一人をおぼえてくれて、ファーストネームで呼びかけてくれる、おばさんでさえ、自分が大切にされていると感じられる場所は大事なのだと思います。

◆まもなく梅雨の季節です。今年は例年より早いそうです。久々に一茶の句をひろいました。

  塀合に卯の花降し流けり            寛政句帖   寛5
  里の女や麦にやつれしうしろ帯      享和句帖   享3
    入梅晴や二軒並んで煤はらひ        八番日記   政2    
    五月雨や二階住居の草の花          享和句帖   享3
    草刈のざくり ~ や五月雨          七番日記   化11

◆梅雨入り前の国営昭和記念公園の花たちです。

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イチハツ(日本庭園)

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トチノキ(花木園)

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ベニトチノキ(花木園)

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スイレン(花木園)

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シャクナゲ(日本庭園)

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エゴノキ(花木園)

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雑記帳2022-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-5-1
◆金沢は「空から謡が降ってくる」城下町です。そこには前田家の戦略があったのです。

2月に茶の湯文化を訪ねて北陸へ行ったところ、雪まみれの冬の北陸にすっかり魅了されました。今回は桜花爛漫の金沢に、百万石の藩主が愛した能の世界をたずねました。

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能の鼓をイメージした金沢駅の鼓門(つづみもん)

能の起源は古く、奈良時代にさかのぼります。6世紀、中国から「雅楽」とともにもたらされた民間芸能が「散楽」とよばれていました。それが日本古来の芸能とまざりあって、「猿楽」として流行したのが起源とされています。
鎌倉時代には、農耕儀礼から生まれた「田楽」や、僧侶たちの寺院芸能である「延年」が流行しました。こうした芸能に、歌曲や舞が加わって、ストーリー性のあるものが構成されていきます。
そして、室町時代、観阿弥・世阿弥父子の登場によって、王朝文芸とまざりあった、洗練された高度な舞台芸能へと大成されていきました。
こうした歴史を持つことで、「能楽」はユネスコによって日本で最初の無形文化財に登録されたのでした。

能楽はシリアスは歌舞劇である能と、写実的な演技によって滑稽な人間の姿を描く狂言とで構成されています。能は仮面劇でもあり、題材は神話や伝説、或いは伊勢物語や源氏物語、平家物語などからとられています。

能には観世流を初めとして、宝生、金春、金剛、喜多の5流があることがしられています。
金沢は加賀宝生の名で有名ですが、これにも歴史があるのです。
桃山時代、能は武将の重要な社交の手段でした。秀吉が金春流を贔屓にしていたため、、前田家の初代利家は金春流でした。江戸時代には武家の必須教養となり、前田家では権力者の好みを反映させながら、能楽を保護育成していきます。その結果、藩主お抱えの専業役者「御手役者」だけでなく、町人専業の「町役者」が活躍するようになりました。こうして、植木職人や左官にいたるまで、能を謡い舞う風土がつくられたのでした。
そして、5代綱紀が将軍綱吉お気に入りの宝生9世に入門して御手役者も町役者も宝生流に転流させたのが加賀宝生のはじまりでした。以来、金沢では宝生の伝統を今もうけついでいるのだということでした。

おもてと呼ばれる能面は無表情に見えますが、じつは僅かな角度の変化や動きで様々な表情が感じられる工夫がされています。豪華な装束もまた、舞台を読み解く重要なカギです。
金沢能楽美術館は加賀宝生に伝わる能面や能装束を収蔵展示する施設として建てられた市立の美術館です。金沢能楽堂の復元模型も展示されているほか、1階展示室の壁にはおなじみの世阿弥の言葉の数々も紹介されています。曰く「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」曰く「命には終わりあり、能には果てあるべからず」・・・

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市立能楽美術館
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翁と媼の能面
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装束と面をつけてもらってちょっぴり能の世界を体験

百万石の加賀藩はその財力で幕府から一目置かれると同時に危険視もされたはずです。前田家が茶の湯や能などの文化・芸術に力を注いだ(それも権力者の好みを反映させながら)のは加賀藩の保身の策だったのでは、と、この日の講師、宝生流能楽師の渡辺茂人さんの言葉にもありました。

金沢には能楽の拠点として、もう一つ、県立能楽堂があります。建物の中にある能舞台は、上記の金沢能楽堂を県が譲り受けて移築したものです。舞台の各部分の名称には子供用の解説書もあって、なるほど、当地では子どもころから能に親しんでいるのだと納得しました。年間を通して子供向けの狂言や謡、仕舞の教室も用意されているようでした。面白いと思ったのは、役者が橋がかりに入る揚げ幕が普通5色であるのに、宝生流では4色、白がないのです。徳川に遠慮してのことだという話でした。
能舞台に屋根が有るのは、能がかって野外で演じられていた名残です。

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県立能楽堂
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能楽堂内にある能舞台

昔、松山にある母の実家に遊びに行くと、リタイアした祖父がなにか唸っていたのを思い出します。子ども心には退屈この上ないものでしたが、後に、祖父が喜多流をたしなんでいたことを知りました。女系家族の中で引退すれば居場所もなく、所在無げだった祖父の唯一の楽しみだったのだと思うと、ほろ苦く、おじいちゃんにもっと優しくしてあげれば良かったと後悔したものです。
或いは小学校高学年だったころ、学校の講堂で狂言を見たことがありました。その時の記憶は強烈で、役者は舞台で三角に動くという話だの、太郎冠者を追う長者の声が今でも耳に残っています。今回の旅で、戦後衰頽した能楽をささえるために、能楽師達が手分けして全国の小中学校を巡っていた時代があったことを知りました。
祖父の記憶と言い、初めてみた狂言の記憶と言い、無縁だと思っていた能楽の世界とも、実は意外な処で接点はあったのですね。

能楽堂で、講師の渡辺さんの仕舞をたのしみ、謡曲「高砂」の譜面を読んだ後のお楽しみは加賀料理です。加賀料理と言えば治部煮。金沢名物のすだれ麩と共に味わいました。

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先付(桜胡麻豆腐)
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八寸(上・海老うま煮、花見団子、左・五郎島金時カステラ)
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椀物(海老新丈、菜の花)
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向付(鮪、替、カンパチ、あしらいに蓮の茎)
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治部煮(鴨、すだれ麩、生麩)
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焼き物(鰆の幽庵焼き、しらがねぎ、はじかみ、わらび)

金沢のシンボル、金沢城は、復旧なった石垣が見事です。金沢城公園は天守も御殿もないけれど、無料で市民に公開されているのが自慢だとは、案内してくれたガイドさんの言葉でした。訪れた日は4月の中旬で、東京では桜はおわっていましたが、金沢はちょうど満開を迎えたところでした。しかも、「弁当忘れても傘を忘れるな」と言われる金沢で、なんとこの日の天気は日本晴れ。随所で桜を楽しむことができました。

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石川門方面を望む桜並木

国内3名園に数えられている兼六園は観光客も多く、誰もの知る所ですが、隣接する「成巽閣(せいそんかく)」を訪れる人はあまり多くはないようです。

文久3年(1863年)に加賀藩13代藩主・前田斉泰が母・真龍院(12代斉広夫人)の隠居所として建てた歴史的建造物で、前田家の奥方御殿として国の重要文化財に指定されています。時節柄か前田家伝来の雛人形道具特別展がひらかれていました。残念ながら内部の写真撮影は禁止されていますが、縦横文化財の建物は一見の価値ありです。

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成巽閣
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成巽閣庭

石川門の反対側、金沢城公園の鼠多門側にあるのは「玉泉院丸庭園」です。前田家3代の利常の時代に作庭がはじまり、幕末まで歴代藩主が愛した庭園ということで、小さいながら兼六園よりも古いのです。
庭園を巡ればいくつもの石垣、中でも有名なのが色紙短冊積石垣です。石垣の上部に滝を組み込んだ特別な石垣で、石樋からの落水の背後に色紙形の石を段違いに配して、城郭石垣の技術と庭園としての意匠とが見事に融合した金沢城ならではの傑作とされています。TV番組「プララモリ」で、この石垣を見上げたタモリさんが、「加賀の殿様、石で遊んでいますね」と言ったのはまだ記憶に新しいところです。

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玉泉院丸庭園
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色紙短冊形石垣

金沢では「弁当忘れても傘忘れるな」は本当です。庭園を巡った日は「運よく」以外のなにものでもありませんでした。前日は昼間晴れていたのに、夕方になると急に空がくもり、雨が降り始めたのです。天気がいいに超したことはないけれど、雨が降ればそれなりにまた別の風情があるものです。人(ひと)気のないひがし茶屋街で雨宿りして抹茶を頂いたのも思い出です。


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加賀棒茶をたのんだらこんなかわいいお菓子がついてきました


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雑記帳2022-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-4-15
◆昨年から琳派にはじまって、広重、菱川師宣ら浮世絵の画家たちを学んできましたが、残るは喜多川歌麿になりました。歌麿はちょうど今、この『知の木々舎』に、斎藤陽一さんが『西洋美術研究者が語る日本美術は面白い!』に連載中です。

美人画。それも、胸から上をクロ-ズアップした構図の大首絵で有名な歌麿は、実は生年も出身地も不明です。
江戸中期の明和7年(1770)、17才で狩野派に学び、5年後、本格的に画工の仲間入りをします。曲折を経て、喜多川歌麿を名乗ったのは天明4年(1784)31才のときでした。
天明6年(1786)、初の狂歌絵本を発表したのを皮切りに、稀代のプロデューサー蔦屋重三郎とタッグを組んで、豪華な体裁の「画本虫撰」など多くの狂歌絵本を手がけました。滑稽を盛り込んだ短歌を挿絵入りでまとめた狂歌絵本は、自費出版の場合、豪華なつくりにできるので、卯頭路も力をいれたようです。極彩色の、精密で写実的な描写は高く評価されました。美人画とは全く趣の異なる植物や虫の絵に、歌麿の優れたデッサン力を見ることができます。
その後、天明8年から寛政5年(1793)にかけて、美人画大首絵を次々に発表して人気を博するも、寛政・享保の相次ぐ改革で浮世絵に規制がはいります。
幕府をはばかって春画を描いたり、画題を教訓的にしたりしたものの、ついに捕縛され手鎖50日の処分を受けて、解放されたのち、文化3年(1807)に死去しました。54才でした。

歌麿の大首絵は、役者似顔絵に使われていた構図です。それまでの美人画は呉服屋の広告媒体となることが多く、全身像が基本でしたから、人々っはその斬新さに夢中になりました。。

また、余白部分は一色にして人物に意識を集中させたり、雲母(きら)摺りで仕上がりを豪華にしたり、輪郭線を用いずに色の実で形を表現する無線摺りや髪の毛1本1本の生え込みまで表現する毛摺りや、色を使わず版木に強く押し当てて紙に凹凸をつくるきめ出しなどの摺りの技術を駆使する工夫がこらされています。歌麿の美人画は、彫師、摺師の技術とい一体になった浮世絵そのものでした。

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「婦女人相学十体 ポッピンを吹く女」
背景をはぶき、余白を一色で摺る地つぶしで、人物に意識を集中させている。
雲母摺りを用いて、パール効果を狙い、豪華な仕上がり。

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「虫籠」
髪の毛1本1本、生え際まで表現する毛摺りの技術で表情が自然に見え、美人に見える。

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「当世三美人」のモデルは左から煎餅やの娘お久、売れっ子芸者豊雛、茶屋の娘おきた

歌麿はまた、「青楼の絵師」とも呼ばれました。
青楼は遊郭のことです。描いた作品の3割を占めるほど、多くの遊女を描きました。
歌麿の遊女たちは皆、澄んだ目を見開き口をわずかにひらいて、艶治な表情をしています。
そして、売れっ子の芸者や茶屋の看板娘など、実在のモデルがいたことから、客はモデルに会いに茶屋や茶店に通う、相乗効果もあったのです。

「蔵の町」栃木は、歌麿ゆかりの地です。
栃木は江戸時代に皆川氏の居城のあった土地です。日光東照宮への奉幣使が通る例幣使街道(れいへいしかいどう)の宿場町として、また、江戸へ通じる巴波川(うずまがわ)の舟運の要所として栄え、とちぎ商人は大隆盛をほこりました。
江戸と交流のあった栃木は文化の面でも影響を受け、狂歌文かが花ひらきました。喜多川歌麿は、当時流行の狂歌を通じて栃木の豪商と親交があったのです。

歌麿は生涯に30点の肉筆画を描いていますが、そのうち3点は栃木の豪商、善野家の依頼を受けて製作したものでした。「雪月花」と呼ばれるシリーズは、深川、品川、吉原という江戸の遊所に取材した、何れも箪笥2棹分の大きさのある大作です。うち、「深川の雪」は2012年に日本にもどってきてきましたが、「品川の月」、「吉原の花」は海外に渡ったままだということです。
その他、近年、市内の民家・ゆかりの旧家から肉筆画「女達磨図」「鍾馗図」「三福神の相撲図」が見つかり、とちぎ蔵の町美術館に所蔵されています。

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蔵の街美術館にある「女達磨図」

蔵に残された所蔵品を公開している「あだち好古館」では、歌麿の『山姥と金太郎』が展示されています。「あだち好古館」は、江戸時代末期より呉服類を手広く扱う卸問屋に生まれた初代足立幸七が集めた浮世絵や書簡、彫刻、古美術品など、蔵に眠っていた古民具も含めて展示公開しています。展示室は7つ、一番古い約160年前のをはじめ、全室100年以上の土蔵倉庫でした。古い蔵の中に、無造作に壁いっぱいに飾られた広重の「東海道五十三次」(なじみのある保永版)や狩野常信の「王親子虎狩りの図」など、、公的な美術館のように撮影禁止など言わないおおらかさに、江戸時代の豪商の名残をみるようでした。

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あだち好古館 左に「日光例幣使町」の字が見える
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広重の「東海道五十三次」(保永版)が一堂に

例幣使街道沿いにある「とちぎ歌麿館」は、街道に遺る最古の建物です。弘化2年(1845)築。歌麿の狂歌絵本や復刻版浮世絵を展示しています。

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とちぎ歌麿館
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復刻版の「吉原の花」
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箪笥の前に歌麿の肉筆画復刻版がおかれているが、実際の1枚の大きさは箪笥2棹分もある愛作だった。
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狂歌絵本の1枚

この日、訪ねたもう1つの美術館は、那賀川町立馬頭広重美術館です。
栃木県の北部にある町立の小さな美術館です。街に寄贈された青木コレクションの公開と、地域文化活動の活性化を目的として平成12年にオープン、浮世絵を中心に企画展も開催されます。

小さな町に美術館を持つとは何たる贅沢かと思いきや、町は、実はその昔、金がとれたというのです。奈良時代、聖武天皇が東大寺大仏を造営するにあたり、日本中から金をさがしたところ、一番に産出の報告があったのが下野国のこの地でした。戦国時代には武茂(むも)郷を納めていた佐竹氏も、領内の金山開発を積極的に行ったということです。現在でも、当時の金山の跡がのこっているそうです。佐竹氏はのちに秋田に転封となり、つかえていた武茂の城主も同行したため、武茂城は廃城となり、武茂の名を知る人もいなくなりました。

竹の茂る裏山を背景に、この美術館を設計したのは建築家の隈研吾氏です。展示品はご多聞に漏れず撮影することはできませんでしたが、町はむしろこの建物を自慢したい様子で、積極的にインスタに挙げてほしいということでした。建材はこの地に産する八溝杉(やみぞすぎ)、特徴のある杉の木材は各所に使われていて、町の誇る美術館になっているようでした。
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隈研吾氏の設計による那賀川町立馬頭広重美術館
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ルーパーの造り出す影も見ものだとか。

青木コレクションは、さくら市を郷里とする肥料商、青木藤作が大正から昭和初期にかけて収集したコレクションで、広重の浮世絵と共に肉筆画も多数おさめられています。ちょうど、企画展として『河鍋暁斎(かわなべきょうさい)』展がひらかれていました。

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「餓鬼 河鍋暁斎」のポスター

自らを「画鬼」と称した河鍋暁斎は、広重や歌麿よりちょっと遅れて幕末から明治に活躍した画家として知られています。幼いころから画才を発揮して、歌川国広に師事、狩野派にも学んで、日本古来の画流を広くおさめて、浮世絵にとどまらず、多彩なジャンルの作品を残しました。
水墨技術の粋を尽くした「鵜図」や、迫力に満ちた「鍾馗図」には圧倒されます。かと思えば隣には、頬杖をついて休息するユーモラスな鍾馗の図もありました。諧謔に満ちた動物や妖怪たちは「鳥獣戯画」の世界そのままでした。

私は暁斎をずっと「ぎょうさい」と読んできましたが、本当は「きょうさい」が正しいらしい。43歳のとき、ウイーン万博・内国勧業博覧会に出品して、西洋の画家や収集家からも注目されるようになりました。暁斎を頼って弟子入りしたのが有名なジョサイヤ・コンドルです。コンドルはご存知。明治政府のお抱え建築家、辰野金吾らの弟子を育てる一方で、鹿鳴館やニコライ堂、数々の要人の邸宅など時代を代表する建築をいくつも残していますが、彼が暁斎の弟子だったというのも面白いではありませんか。
晩年には狩野派を託され、59才で亡くなる時にはコンドルが看取ったということです。


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雑記帳2022-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-4-1
◆3月中旬、シニアのための京都の料亭を巡るツアーがありました。今回は食レポをお届けします。

食べるのが目的とはいえ、折角京都まで来たのだからと、立ち寄った先は、観光地としてはさほど知られていない、宇治田原町です。名前からも判るように、周辺一帯は宇治茶の産地です。

京都市内を出て、車窓に茶畑が点在するのを眺めながら、瀬田川に沿って山道をたどること約1時間の所に宇治田原町はあります。山の斜面に小規模の茶畑が点在する風景は、郷里、四国中央市の新宮村(昨年ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんの出身地です!)によく似ていました。谷を流れる川からは朝夕霧が立ち、その霧がおいしいお茶を生むと言われて、実は新宮茶はその味で全国一になったこともあるのです。

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お茶畑

その宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が青製(あおせい)煎茶製法を開発したことで知られ、町は「日本緑茶発祥の地」とよんでいます。

日本にもたらされ栽培されるようになった茶は、春に摘み取った新芽を蒸すか、ゆでるかした後乾燥させたもので、茶葉の色は黒っぽいものでした。

青製茶葉製法は、乾燥させる前に「揉む」工程を入れることで、茶葉が緑色にしあがるのです。それまでのものを「黒製」と呼んだのに対して「青製」と呼ばれて、庶民の間でお茶が広くのまれるようになった江戸時代に、品質向上に大いに貢献したのでした。彼一人の発明によるというより、当時民間で流行り始めていた製法を確立して宇治茶の販路を広げたというのが実情でしょうか。
ちなみにお茶漬け海苔の永谷園の創業者は宗円の10代目の子孫にあたります。

宇治田原町にある正寿院(しょうじゅいん)は、駐車場でバスを下りてさらに、狭い坂道を1キロほどのぼった所にある、真言宗の寺院です。800年前、鎌倉時代に建立されました。猪目窓(いのめまど)と言われるハート型の窓や天井画が知られています。

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正寿院のハート型の窓

ハート形の窓など何が面白いのかと思っていたのでしたが、実はハート形の猪の目文様は仏教では重要な要素、1400年前の仏教伝来と同時にもたらされたものでした。厄除けとして様々な所に用いられ、鴨居の釘隠しにも猪の目を見つけることができます。

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釘隠し 猪の目文様が分かりますか?

重要文化財になっている、快慶作と言われる不動明王座像は、寺の所有であるにも拘らず、奈良国立博物館に寄託されています。小さな寺では文化財に指定した国の基準を満たせず、寺内に保管することができないのだということでした。

正寿院に通じる坂は狭いながらも歴史街道、名にしおう「家康伊賀越えの道」でした。本能寺の変を逃れた家康が命からがらこの道を駆けて堺までたどりついたのでした。
道筋に若い夫婦が看板を出している「茶園散歩」の店を見つけました。客は入場料として一杯500円のお茶を買って、飲みながら茶畑を巡る事ができます。若い感性を活かした、京都ならでは、宇治ならではの趣向だと思いました。

さて、夜はお目当ての「下鴨茶寮」の京懐石です。
弥生の献立には早春の食材が数多くちりばめられています。数えてみるのも一興かと。

●先付  蛤、独活、蕗、若布
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●向付    鯛、鴟尾(しび 西では鮪のことをいう)、縞鰺(しまあじ)
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●椀物  玉子豆腐、車海老、こごみ、碓氷豆腐摺り流し
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●八寸   細魚(さより)小袖寿司、赤貝ぬた和え、蕗の薹(とう)厚焼き、飯蛸、
      葉牛蒡、 鶏松風、蓬(よもぎ)麩田楽、白魚香煎
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●鉢物  信田巻き、鯛子、竹の子、天豆
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●焼物    鰆味噌漬け、独活のきんぴら、タラの芽のてんぷら
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●強肴  黒毛和牛、花山葵(わさび)、黄身卸し
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●食事  桜海老釜炊きご飯、留椀、香物 (京丹後産コシヒカリ使用)
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●水物  苺、甘酒ブラマンジェ
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●甘味  蕨餅

食後、むかえのバスを待つ間に、邸内の飾り物を見せてもらいました。
ちょうど雛飾りの季節、そういえば、今年は雛を見にどこにも行かなかったと思いながら、大正時代のお雛様を鑑賞しました。江戸と違って京雛は内裏の夫婦の位置が反対です。
薄暗い廊下に無造作に置かれた(勿論ガラスのショーケースには入っていましたが)茶碗や皿や壺には、マイセンあり、ピカソあり、浜田庄司あり、河井寛次郎あり…。しっかり目の保養でした。

翌日の昼は「美濃吉」本店、竹茂楼です。 こちらも春のお献立。

●先付  櫻寿し、小鮎山椒煮、一寸豆、押し玉子、川海老、花弁百合根、竹の子木の芽和
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●椀   白味噌仕立て(春大根、油目、花弁人参、春菊)
       大根には隠し包丁、油目は山菜(タラの芽が山菜の王様なら油目は山菜の女王)
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●向付    桜鯛、鯉の洗い、あしらい、土佐醤油、酢味噌でいただく
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●焼物    信州サーモン蕗の唐みそ焼、タラの芽、蕗の唐
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●鉢   若筍蒸し、鯛真子、木の芽あえ
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●ご飯  ちらし寿司、赤だし(しじみ)
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●香物    三種盛り
●水物  苺、オレンジ、キウイ、黄な粉アイスのアフォガード

竹茂楼は鴨川のちょっと北よりのところにあります。入口の暖簾には「生州」の文字。その意味があとでわかりました。享保年間に出た絵草紙によると、高瀬川筋三条の北にあった美濃吉は川辺に生州をしつらえて、魚や鳥料理でもてなしたとあります。調理に取り掛かる寸前まで、目の前に生きていた新鮮な魚を賞味するのにこれほどの妙案はない。珍しさもまたご馳走のうちと心得た料理屋があったらしく、座敷の中にまで生州を設けていたという話もつたわっています。また、生州は、料理屋にはお決まりの芸者や琴三味線も必要とせず、ひたすら料理を味わうことを楽しみにやってくる客を相手にしていたのでした。鯉こくや鰻の川魚料理なら、私たちが思う京風ではなく、江戸風の濃い味が好まれたかもしれません。椀の白みそ仕立ては思いの他濃い味でしたから。当時、京都所司代の認可を受けて川魚生州を出す料理屋は8軒あったということです。

昼食前に立ち寄った先は大原です。
三千院や寂光院などに多くの観光客を集める大原は京都の北部にある山里です。京の漬物にかかせない、ここは全国一のしその産地です。大原の土地がしその栽培に適していただけでなく、外来種との交配をさけるための努力は欠かせません。畑に建てられた小さな看板に、固定種が大切に守られていることがわかりました。この度改定された種苗法では、開発された新品種の国外流出防止に力点がおかれ、在来の固定種の保護には配慮はありません。消費者としては食べて応援するしかありません。以来、京土産のしば漬も味わって食べようという気持ちになりました。



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雑記帳2022-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-3-15
◆千葉市美術館ではこの冬、「Japonizme 世界を魅了した浮世絵」展が開かれていました。館の所蔵する膨大な浮世絵コレクションとともに、19世紀以降、浮世絵に影響を受けた西洋文化をながめた、興味深い企画でした。

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「Japonisme 世界を魅了した浮世絵」のポスター

幕末、世界に国を開いた日本からは多くの美術工芸品が西洋にわたり、西洋は初めて目にする日本の美に熱狂しました。それは、生活の様々な分野に変化をもたらして、その動きはジャポニズムとよばれました。
中でも、浮世絵版画に影響を受けた画家は想像していた以上に多かったのです。

千葉市美術館は8階建ての旧川崎銀行千葉支店ビルを保存、修復して利用しています。
浮世絵を8つのテーマにわけた会場を巡れば、浮世絵が世界を席巻した時代の状況と同時に、浮世絵自身の全貌も眺められるようになっていました。

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千葉市美術館 旧銀行のビルを修理して使っている

例えば第1章「大浪のインパクト」で、まず目に入るのは、誰もが知る北斎の代表作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」です。
ダイナミックに立ち上がる波と飛沫のはるか向こうに小さく富士山が描かれた大胆な構図は、西洋の画家たちの度肝をぬくものでした。 
北斎のこの絵に触発されたのはゴッホやゴーギャンだけではありません。何人もの画家がその手法をまねた絵を残しています。北斎のあとにつづく浮世絵画家たちにも影響を与え、波は浮世絵の重要なテーマになったのです。

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北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」
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ヴァデイム・ドミトリヴィッチ「カプリ島」

新興都市江戸は様々なインフラ整備をすすめ、次第に上方を凌ぐ文化を形成していきます。その文化の担い手は、これまでの貴族や武士ではなく、町人でした。浮世絵はまさに町人文化の象徴でした。描かれる舞台も物語のそれではなく、現実のくらしです。
水の都、江戸では、隅田川は恰好の材料でした。川にかかる橋、橋に群がる人々、つながれた小舟、或いは橋脚そのものまでが数多く描かれ、同じような構図の西洋画も数多く紹介されていました。

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広重「名所江戸百景 京橋竹がし」
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ドミトリヴィッチ「高い橋」

西洋の絵画が視点を固定して写実的に描かれているのにたいして、日本絵画の美意識では、写実的に描くことに執着せず、自在に視点の高さを変えています。
北斎におくれること20年余、おなじみの広重の「名所江戸百景 深川須崎十万坪」は、上部に大きく飛ぶ鳥を配し、隅田川から深川方面に広がる雪景色を描いています。
平安時代の絵巻からつながる「俯瞰の構図」はジャポニズムの特徴と捉えられ、模倣もされましたが、これほど大胆な構図は見当たりません。西洋の画家たちの眼には広重はまさに「空飛ぶ浮世絵師」だったのではないでしょうか。

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広重「名所江戸百景 深川州崎十万坪」

ジャポニズムの特徴は空間だけでなく、形や色彩にもあらわれています。

面白いと思ったのは、立体感を重んじる油絵の西洋絵画では、黒は色としてではなく、影に利用されていただけなのに対し、墨が基調の日本絵画にとって黒は重要な色だったことです。
平面性を重要視する日本絵画では、黒は形を明確にする輪郭線であり、彩色される色です。色数が限られ、平面的な構成によって成立する浮世絵版画に於いては一番重要な効き色だったようです。鈴木晴信の「夜の梅」は、画面の2/3を黒が占めています。役者絵の背景の広い面に黒が使われていたり、人物の着物の色に黒を効果的に使っている作品が沢山ありました。この黒の使い方にもゴッホは強い衝撃をうけたようです。有名なロートレックのポスター「デイヴァン・ジャポネ」は黒いドレスの女性が印象的です。

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鈴木晴信「夜の梅」

広重の「名所江戸百景シリーズ」は、縦長の狭い画面に風景を切り取った印象的な構図です。手前に大きく木や花を描き、遠景に小さな風景を入れて遠近感を出す手法も西洋にはなかったものでした。モネの「睡蓮の池」は広重の「亀戸天神境内」の構図にそっくりです。構図だけではなく、花鳥風月を愛でる日本人には馴染みの、蜻蛉や蝶のような身近な小動物や植物のモチーフは新鮮な驚きを西洋にもたらしました。

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広重「亀戸天神境内」
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モネ「睡蓮の池」

日本人にとって四季は常に身近で、それは絵画にも反映されています。花や月だけでなく、雨や雪も重要なモチーフになりました。広重の「東海道五十三次」にも雨や雪の中を行く旅人が頻繁に描かれた他、歌麿や晴信の美人画にも傘をさす主人公が登場します。西洋には、背景の景色としては描かれても、雨や雪の降る様を描くことはありませんでした。触発されて雨の風景画を描いた画家の中にはロシアやスエーデン生まれの画家たちもいて、まさにジャポニズムが世界中を魅了したことがうかがえました。

浮世絵は風景画や美人画だけではありません。
日常の庶民の暮らしがいきいきと写された絵を、人々は競って購入しました。中でも人気があったのは「母と子」でした。第8章のテーマは「母と子の日常」でした。
ジャポニズム以前の西洋絵画に登場する母子といえばマリアと幼子イエスにかぎられていたことを思うと、当時の日本社会の、想像していた以上に自由な空気を感じるではありませんか。

母と子の日常が浮世絵に登場するのは、江戸も開幕から150年経ち、インフラもすすんで都市の機能も充実してきたころです。人々は平和に馴れ、恵まれた都市の環境の中で、子育てにも余裕がうまれたのでしょう。子供が大切にされていたことがうかがえます。
子供に行水をさせる図は、歌麿や国貞も描いています。それをまねて、明治時代に来日したアメリカ生まれのメアリー・カサットが「湯あみ」を出したほか、幸福な母子像に影響を受けた西洋の画家は少なくありませんでした。

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歌麿「風俗美人時計子の刻」
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ヘレン・ハイド「かたこと」

こうしてみると、改めて、浮世絵は平和な時代の産物だったことがわかります。(上記写真はいずれも会場内で撮影許可された作品)
この浮世絵の祖と呼ばれているのが「見返り美人図」の作者、菱川師宣です。

4代将軍家綱の時代、まだ木版画が発生する前は肉筆の浮世絵の時代でした。このころに活躍した岩佐又兵衛をもう一人の浮世絵の祖と呼ぶ人もいます。
明暦の末に初めて木版の墨摺絵が生まれ、出版文化の到来とともに、挿絵から独立した風俗画・役者絵がはじまりました。墨摺絵はその後多色刷りの錦絵に発展します。
師宣はこの時代に生まれました。

平安の末法思想は江戸に入ると、つかの間の仮の世であればこそ「うきうきくらそう」という享楽的な考えに変化しました。その「享楽的な現代の様」、つまり、今様・当世風をえがいた絵画が浮世絵とよばれたのです。

長い間経済や文化の中心だった大坂・京都から中心が江戸に移った時期、美人画では江戸風の美女がもてはやされ、役者絵も荒事が好まれました。

師宣は安房の国保田(ほた)にうまれました。家業の刺繡の下絵を描く手伝いをしながら絵を学び、1657年、明暦の大火後江戸に出ます。
1671年(寛文11年)に初作「私可多咄」刊行、翌年「武家百人一首」で挿絵画家としてデビューしました。多くの草紙本の挿絵を描くうち、添え物だった挿絵が一枚絵として独立する時代になります。師宣は絵入り本の挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に耐えうる一枚の絵画作品に高めるという、絵画史に重要な役割を果たしました。

若々しくのびのびとして翳りのない画風は、明暦の大火後の復興に沸く市民の気風にマッチし、健康的であけっぴろげな図柄も時代を反映するものでした。
描いたのは二大悪所と言われた歌舞伎と遊里、隅田川や花火の名所に集う遊女です。粋な江戸風の美人画は大いにもてはやされました。
「見返り美人図」に表現されている、おおらかで優美な作風は同時代に活躍した俳諧人宝井其角から「菱川やうの吾妻俤」と評されました。女性の髪形や着物、帯等、結び方に至るまですべて当時(享保年間)流行していたもの、いわばファッションリーダーでもあったのです。

その師宣記念館が師宣の生地、鋸南町にあります。ちょうど、「おいしい浮世絵展」を同時開催中。当時の売れっ子浮世絵師たちの描いた江戸の庶民の食事風景には、屋台あり料亭あり、ファストフードあり宴席料理あり、豆腐百珍あり倹約料理取り組み表あり、江戸の食文化はまさに百花繚乱。浮世絵はそんな暮らしも伝えているのですね。記念館では師宣を「大江戸のあけぼのを描いた男」と紹介していました。

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菱川師宣記念館
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師宣の代表作「見返り美人」
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おいしい浮世絵展ポスター


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雑記帳2022-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-3-1
◆今年のNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、政治が貴族から武士の手に移り、中世を築いていく歴史の転換点を描いています。

主役の坂東武者を生んだのは栃木県です。
昔、栃木県と群馬県を一つにした広大な地域は「野(け)の国」と呼ばれていました。平安時代、国は下野(しもつけ)と上野(こうづけ)の二つの国に別れ、下野になったのが栃木県です。そして、平安末期、下野守となってこの地に赴任したのが、名高い武士の棟梁、八幡太郎源義家でした。

義家は征夷大将軍として、保元・平治の乱で奥州鎮圧の功をあげました。以来、将軍といえば、義家の血をひく源氏でなければならず、秀吉が何とかして足利義昭と繋がりを作ろうとしたけれぼ遂に将軍になれなかったのはよく知られた話です。その義家の系譜が鎌倉と室町、二つの幕府へつながっていきます。

次男・義親の系統が鎌倉幕府へつながったのに対し、三男・義国の系統は足利氏となって、室町幕府を生みました。鎌倉がわずか3代で消滅したあと、北条氏の天下の下で、足利氏は深謀遠慮の150年を耐えて8代の尊氏へつないだのでした。

義家の荘園のあった足利にちなみ、足利氏を名乗ったのは、義国の子、義康です。その子、義兼は、北条政子の妹、時子と結婚したことによって頼朝と義兄弟になりました。鎌倉殿の13人とまではいかなくても、義兼は大いに頼朝を支え、頼朝亡き後も足利氏は鎌倉幕府の中で重要な地位を占めるのですが、近づいたり離れたり、権力の中枢とは微妙な距離を保ちつつ生き残ります。問答無用の武力の下では生き残ることこそが勝者なのでした。名門といえども、北条と縁戚関係を持ちながら近づきすぎたために滅ぼされた三浦氏の例もあるのです。

宇都宮にある県立博物館では、1月から2月中旬まで、「鎌倉殿源頼朝と義兄弟 足利氏の軌跡」展がひらかれていました。後三年合戦絵巻から始まって、頼朝を支えた足利の嫡流から室町初代将軍の尊氏までの軌跡をたどるものでした。

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栃木県立博物館
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「足利氏の軌跡」展ポスター
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後三年の合戦絵巻

博物館で義家から尊氏につながる足利氏の軌跡をみたあと、市内の足利ゆかりの地を巡りました。
まずは、足利氏の祖、義兼の入定の地、樺崎(かばさき)八幡宮へ。
曾祖父、義家が創立したと言われる八幡宮に、義兼が頼朝の奥州征伐の戦勝祈願のために樺崎寺を造り、以来、足利家の菩提寺となっていました。

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樺崎町八幡宮

義兼はなかなかの知恵者で、頼朝を支えながらも、血筋からいえば頼朝に代わる将軍としてかつがれるのを避けて、呆けたふりをした時期もあったとか。
また、義経追悼のため出向いた奥州で、毛越寺や中尊寺の影響を受け、妻・時子の為に浄土庭園を造りました。その庭が復元されて八幡山の下にひろがっています。

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復元された池 義兼が妻時子のために創った

武勇にすぐれていたとはいえ、幾多の戦いで人を殺した悔いの念は強く、晩年は僧となって念仏三昧の日々をおくり、最後は生き仏として入定したと伝えられています。48歳でした。父親が入定したその地に3代義氏が堂を建てて霊をとむらいました。義兼の遺体は今も八幡宮本殿の床下に眠っています。

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今も義兼の遺体が床下にあるという八幡宮本殿

八幡山からはのどかな里山の風景が見張らせます。
宮司のいない八幡宮は氏子の手で代々大切に守られてきましたが、その氏子も、過疎化のため、いまは200人に減ったとか。寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となったあと、近年の発掘調査によって、ようやく復元されたのは庭だけで、その他は跡を示す板が立つのみ。重要文化財に指定はしたものの、足利市の財政にゆとりがないことを、案内してくれた氏子総代の斎藤さんは残念がっていました。足利市に限らず、これはどこの自治体でも同じかもしれません。
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八幡山から里を見下ろす。
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樺崎寺 多宝塔の跡

足利といえば足利学校。日本史上、最古の学校です。一説には義兼が創建したともいわれ、室町時代、上杉憲実によって再興されたとつたわっています。安土桃山の時代にはフランシスコ・ザビエルによって「もっとも有名な坂東の学校」として世界に紹介されています。江戸時代には徳川の支援を受け、方丈には歴代将軍の位牌がまつられています。
最初は孔子の儒教を学ぶ場でしたが、人気は易学、漢籍へと移り、江戸時代には8割が僧籍だったということです。明治の初めに役割をおえましたが、生涯学習の原点として、学校の「自学自習」の精神は現代にもひきつがれています。
国指定の史跡として、世界遺産認定をめざしています。

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足利学校には3つの門がある。これは学校門
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孔子は2メートルを超す巨漢だったとか、構内にある孔子像も見上げる大きさ
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方丈と庫裏

足利学校のすぐ近くに、義兼が創建した鑁阿寺(ばんなじ)があります。元は足利氏の居城でした。その跡は、寺を取り巻く土塁に残されています。
本堂の大屋根を見上げると、黄金の三つの紋章がみえます。寺の紋章と足利家の家紋と共にある菊の紋章は天皇家との縁をあらわしています。経堂は京都知恩院に次ぐ大きさとか。
戦災にも会わず、寺史によれば、創建当時のままの姿をつたえていると言われています。

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鑁阿寺本堂
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居住跡を残す土塁

県立博物館で、絵巻や尊氏の文書に混じって、弟、直義(ただよし)の御教書(みきょうしょ)が展示されていました。室町幕府成立当初、尊氏と直義の二頭政治で軍事と行政をつかいわけていたという通説に反して、直義が一時期尊氏の専権事項をさえ握っていたという新発見は、毎日新聞栃木版にも紹介されて、今回、展示の目玉になっていました。
実は私はご多聞に漏れず判官びいきです。有能なのに早死にした直義に同情して、できる弟に嫉妬する兄像を尊氏に見ていたので、この新発見には思わず「直義君、やったね」という気分になりました。が、客観的にはそうばかりも言っておられず、夢想礎石に師事した尊氏が敷いた幕府の体制が15代240年続いた事は評価しないわけにはいきません。その間に、武家と公家、僧の融合した独特の室町文化は花開き、武家政治は戦国を経て徳川250年につながるのです。尊氏の定めた儀礼は、その後も、高(こう)家の手本として、江戸幕府にも受け継がれたのでした。
後醍醐天皇を吉野に押し込めて自らが京都に幕府をひらいたことで、長い間、逆賊のイメージが強かった尊氏像が、今、見直されているということです。

栃木県の現在の県庁所在地は宇都宮ですが、廃藩置県後の一時期、栃木市にありました。
江戸時代には巴波川の水運が江戸の物資や文化をはこび、朝廷から日光東照宮へと派遣された使者(例幣使)が通行した例幣使街道の宿場町として盛えました。蔵の街として知られ、水路を生かした街づくりで、栃木は川越などと並んで小江戸とよばれています。

その栃木市で今、町おこしに一役買っているのが「とちぎ江戸料理」です。
江戸時代の庶民や旅人が食べていた料理をそのままに、今の時代に復活させたのだそうです。市内の20余りの飲食店が栃木の食材を使って思い思いに提供するメニューはすべて「とちぎ江戸料理」になります。
海のない栃木で、旅人が満足するどんなご馳走ができるんだろう。瀬戸内なら魚さえ出せばご馳走になるのですが・・・。でも、すぐに、海はなくとも鯉や鰻がある、友人から郷土料理の「しもつかれ」を教わったことを思い出しました。
というわけで、この日のお昼はシティホテルの「とちぎ江戸料理」弁当でした。

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左 梔子(黄染)のおこわがおいしかった
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いかにも栃木らしい鯰や干瓢の天ぷら、鯉の甘露煮、鶉の卵などなど・・



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雑記帳2022-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-2-15
◆国営昭和記念公園では、年明けの1か月間、「新春!日本庭園セルフツアー」が開かれていました。

セルフツアーなので、ガイドはなし、入場者は入口におかれたマップを手に、庭内を巡るという手法です。何度も通って知っていると思っていた庭園でしたが、改めてセルフツアーを試みました。

平成9年9月、昭和記念公園に、公共では初めての、茶室を備えた本格的な日本庭園がオープンしました。池を中心として、滝や流れ、州浜、木橋、菖蒲田などを巡る、江戸時代の大名庭園に見られる池泉回遊式庭園」です。

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入口は東と南に2つありますが、通常東門は閉じられていて、南門から入ります。
門をくぐって振り返ると目に入る、木戸に施された彫り物は、庭内の草花を大切にというメッセージがこめられているということです。

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正月の南門
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門扉の裏に見える「草花を稚拙に」のメッセージ

順路に従って進みましょう。先ず左手奥に四阿。四阿の前には春を待つ牡丹の雪がこいが広がっています。

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庭園の中心の池には北と東から水が注ぎ、西から流れ出るようになっています。
西の流れを渡ると、「青池軒」の名の休憩所があります。池に突き出すように建てられているので、対岸からは池に浮かんでいるように見えます。ここからの眺める風景はまるで、額縁にはいった絵を見るようです。
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西の流れ
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青池軒
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青池軒からの眺めはどこを切り取っても額縁効果満点

「青池軒」と並ぶ「楓風亭」の前は、春はシャクナゲ、秋にはモミジが楽しめます。冬、この周辺の土には「松葉敷」が施されます。藁で囲った土俵の中に松葉を敷き詰めて、苔などを霜の害から守るのです。「松葉敷」とは造園技術で使われる用語です。一般的に、茶室の庭などに、枯(こ)の風情を楽しむために施されるということです。

昭和記念公園に行くと必ず立ち寄る「楓風亭」で、池を眺めながら抹茶をいただきます。
お菓子は日によって変わり、この日は「梅」です。立春を過ぎて訪ねた時は「下萌え」でした。
いつもちょっとだけ季節を先取りする和菓子は、市内の菓子屋「伊勢屋」さんがつくっています。610円の値段は手頃なので、私の友人もこれを目当てに夫婦で公園の散歩を楽しんでいるのだと言っていました。

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下萌え(雪の下からかに緑が覗く)

建物は、京都北山の杉、吉野の錆、木曽の檜板等を随所に用い、檜皮葺きの屋根や柱と桁の仕口・継手など、今では数少なくなった数寄屋大工の職人の伝統的な技術をふんだんに取り入れています。現在の数寄屋に対応できる最高の技術だということでした。
伝統的な数寄屋の技法だけでなく、漆や左官など、細部にも、一般的な日本建築で殆どみられなくなった様々な技術を駆使しています。ちょうど楓風亭は春まで改修工事中。母屋はまだ使用できませんが、お茶をいただいた立礼席の、改装したばかりの腰張りは土佐和紙をつかっていました。
「青池軒」「楓風亭」以外にも数軒ある庭内の建物は。すべて数寄屋造りだということです。

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土佐和紙の腰張り

お茶を頂いた後は盆栽苑へ。
平成16年にオープンした我が国初の国営盆栽苑です。歴史と伝統ある国風盆栽クラスの盆栽を鑑賞できると、マニアの間で評判になっています。
残念ながらコロナ下で、鑑賞も制限されてしまいましたが、「讃樹亭」の床の間では季節ごとに見事な盆栽が飾られていました。今の時期、展示場で見られるのは、梅と並んで仏手柑(ぶっしゅかん)。ミカン科の仲間で香が強く、茶の湯や正月用の飾りに利用されます。読んで字のごとく佛の手を連想させる樹です。

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仏手柑の盆栽

盆栽苑を出ると、庭の北側に小さな滝もある山が造られています。東山を借景にして作庭した京都とは違って、ここはどこまでも平らな武蔵野の原。奥行を出すには、標高30メートルの人工の森を造らなくてはなりませんでした。落差7メートルの北の流れは滝を作りながら池に注ぎ、最初の滝のそばに、池を見下ろす「涼暮亭(滝見四阿)」が建っています。

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涼暮亭
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涼暮亭から池を見下ろす

「涼暮亭」を下って、池にかかる「大木橋」を渡りましょう。ここからは西に楓風亭の全容が眺められます。東側は、夏には菖蒲、秋は紅葉が湖面に浮かぶなど、西とは別の景色がひろがります。

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大木橋から見た楓風亭
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大木橋から東を見る。写真の白く見える木道沿いには初夏になると菖蒲が見られる。

橋を渡りきると休憩所。「昌陽」の名前がついた四阿です。
すぐ横には、ひっそりと隠れるるように船着き場があるのですが、殆ど人目にふれることがありません。なぜ、こんなところに船着き場があるのか。実はこのセルフツアーで私も始めて知ったのですが、ここから客は対岸の楓風亭まで船で渡るイメージを楽しんで、ということのようでした。京都の迎賓館と同じ趣向ですが、池はそれほど大きくはないので、こちらはイメージだけです。
船着き場の横にはアカマツの「雪吊り」が見られます。今年は『知の木々舎』でも新年号の表紙に使いました。

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船着き場につながれた小舟
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雪吊りの赤松

藤棚は園内で一番高いところにあります。規模は小さいながらここからは庭園全体を一望できることになっています。
藤棚を下りれば芝生広場を横切って、出口はすぐです。

庭園は、「緑の回復と人間性の向上」という国営昭和記念公園の基本理念に添って、日本人が育んできた自然観を、6ヘクタールの面積に凝縮させています。季節折々の樹木や草花の変化に、楽しみはつきません。

1月のセルフツアーの後、2週間後に訪れた公園は、春を待つ空気に包まれていました。

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     みんなの原っぱのシンボルのケヤキはまだ冬景色ですが・・・
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 こもれびの里のロウバイ
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古民家の雛飾り
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養生中の花の丘(春にはシャーレーポピーのお花畑になります。




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雑記帳2022-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-2-1

◆北陸には戦国時代から茶の湯が日常にある城下町がありました。今も市民の暮らしに根づく北陸の茶の湯文化を巡る旅を見つけました。

戦国大名朝倉氏の遺跡は、福井市街からさほど遠くない地に、四方を山に囲まれた谷間にあります。昭和40年代に発掘されてから近年のお城ブームと重なって、今、一乗谷は人気の観光地になっているようです。

朝倉氏について、かって私は、織田信長に滅ぼされた戦国大名の一人のイメージしかありませんでした。 実は、朝倉氏は、15世紀、一乗谷を拠点に越前を統治して、初代孝景から五代義景に至る100年間、町は大いに繁栄、京都からもたらされる高度な文化が花開いていたのです。

初代当主孝景が活躍し、信長に敗れた五代義景が自刃する(1573)までの100年間は、応仁の乱に始まり室町幕府が倒されるまでの戦国時代の100年間とぴったり重なり、まさに、戦国は朝倉に始まり朝倉におわるといってもいいかもしれません。
焼きつくされた町を逃げた人々は落ち着いた先で、城下町一乗谷の智恵を町づくりに生かしたとも聞いています。

田畑になっていた一乗谷遺跡の発掘は昭和42年に始まりました。174万点の出土品の中には多数の茶道具が含まれていました。当時大名の間で茶の湯が流行し、家臣もそれに習って茶の湯をたしなんでいた事が分かります。将軍をはじめとした権力者が中国や朝鮮からの輸入品を飾って権力を誇示したのに対し、中級、下級武士は高価な渡来物に手は出ず、出土した多くは瀬戸や美濃焼でした。千利休がわび茶を世に問う前の時代のことです。

一乗谷には上城戸から下城戸までの1.7キロの間に街並みが拡がり、当時8.000人から10.000人が暮らしていたと言います。城は典型的な山城です。

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雪中の唐門を望む この後ろに城があった

山中の、特別名勝となっている4つの庭園は、京都の金閣、銀閣寺、奈良の平城宮、広島の厳島とならんで全国でも6例しかありません。遺跡は特別史跡として、また、全体が国の重要文化財と、なんと、三重指定を受けて、福井市ではロータリークラブの協力を得て、遺跡の管理、保全に力を尽くしています。

おとずれたこの日は一面の雪。 名勝の庭園はビデオで鑑賞、降りしきる雪の中に遠く唐門を望んで、足元を気にしながら、僅かに、復原された街並みをあるきました。ガイドの久保さんは復元をあえて「復原」としたことを強調していました。

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復原街並みをボランテイアさんが雪かきをしていた
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商家の中
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下級武士の家

旅のテーマとは無関係ながら、福井に来たら寄らぬ手はない永平寺も雪の中です。めったにお目に掛かれない雪中の永平寺は美しく見ごたえがありました。

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福井の夜は芦原温泉。県内でも、一乗谷は北の荘でしたが、芦原温泉のある地域は若狭と呼ばれ、昔から京都の奥座敷と言われていました。冬の日本海の味、のどぐろの姿焼きが卓にのりました。

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のどぐろの姿焼き

金沢は言わずと知れた加賀100万石の城下町です。
この地に茶の湯文化をもたらしたのは千利休の曽孫、千仙叟(せんそう)でした。利休が前田家と縁が深かったことから、仙叟は茶道奉行として京都から金沢に招かれ、40年に渡って前田家につかえたのでした。仙叟は茶の湯を武家だけでなく町人にも広め、石川県は現在も茶道人口の割合、和菓子の消費額は全国一だそうです。

仙叟が京都からともなったのが、楽茶碗で知られる楽家の四代の高弟、長左衛門でした。長左衛門の開いた窯は金沢郊外の大樋(おおひ)村の土を用いた大樋焼として代々受け継がれ、現在11代目になりました。

お茶の世界では、一楽、二萩、三唐津の言葉があるように、楽茶椀は最も高く評価されています。大樋焼は、楽焼の伝統をひき、轆轤は使わず手捻りで成形し、ひとつひとつ箆で削りながら造り上げていきます。短期間に窯の温度を上げた後、引き出して急冷するという、温度差の急な焼成は楽焼と大樋焼だけに見られる手法です。初代長左衛門が京都より金沢に出向く際に楽家より与えられたという、独特の飴色は、雪国にふさわしい暖かい味わいだと言われています。

初代長左衛門は茶碗や水差し、香炉など、仙叟好みと呼ばれる器を多く残しています。
メインロードに面した大樋長左衛門窯ギャラリーの後ろに四階建ての大樋美術館が建っていて、初代長左衛門の作品を中心に歴代の器を見ることができます。残念ながら内部の写真は撮ることができないので、初代長左衛門の代表作を一つ紹介しましょう。今まさに飛び立とうとする鳥を象った香炉は、現代人には表現できない想像的な作品だと言われています。写真の、この大ぶりの香炉は、美術館のパンフレットにのっていたものです。
先代の、10代目長左衛門さんは90歳を越えてまだ現役、63歳の11代目をまだまだと言っているそうです。華道家の勅使河原宏氏と東京芸大の同期、2011年に文化勲章を受けています。

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大樋美術館
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初代長左衛門作の釉明烏香炉
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長左衛門窯ギャラリー

お茶にお菓子は欠かせません。長左衛門窯の道路を挟んだ正面には、前田家ゆかりの老舗菓子店、「森八」があります。寛永2年(1625)創業、前田利常が江戸に献上した落雁「長生澱」は、新潟県長岡の「腰の雪」、島根県松江の「山川」と並んで日本の三大銘菓の一つになっています。2階の金沢菓子木型美術館には、森八歴代の当主が刻んだ菓子木型が千数百点も展示されています。
俗にいう勝負菓子が東京なら虎屋の羊羹とするなら、金沢なら森八のお菓子なのだそうです。ガイドさんに紅白の求肥のまんじゅうがおいしいと勧められて、長正澱と一緒に四国の妹におくったところ、煎茶で食べるのはもったいなくて、久しぶりに抹茶を点てたと、後で電話がありました。森八は本店以外にもひがし茶屋街に店を出していました。

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森八本店
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落雁「長生澱」の命名、字は小堀遠州とか

ひがし茶屋街は金沢でも人気の観光スポット。石畳の通りに格子戸の古い建物が並ぶ街並みは重要伝統的建物群保存地区に指定されて、散策する若者が引きも切りません。
中でも特に目を引く建物があります。文政3年(1820)に創立され、典型的なお茶屋の造りをそのままのこしている、国指定の重要文化財「志摩」で、抹茶をいただきました。お菓子は「南天」でした。

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お茶屋は封建制度のもと、町方にわずかに許された娯楽と社交の場でした。上流町人や文人が集い、琴や三弦、舞に謡、茶の湯から俳諧までこなして、客は芸妓と遊んだのです。芸事はもちろん、芸妓の衣装や髪飾り、宴を彩る優美な道具なども一体となって茶屋文化は形成されました。そのぜいたくさは途方もなく、藩は何度となく禁止令を出しましたが、10年もたたないうちに復活したということです。

客が座敷に通される前に案内される前座敷の、ベンガラの壁や、床の間にかかる狩野元信の絵(正月には三幅の探幽だったそうです)、螺鈿の琴の胴を見るだけでもそのぜいたくさがわかるというものです。

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ひがし茶屋街の街並み
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前座敷床の間 掛け軸は狩野元信
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座敷への入退出を告げる触れ太鼓は散財太鼓と呼ばれた

北陸の茶の湯を巡る旅の最後に訪ねたのは富山県高岡市の金屋町です。
加賀百万石の二代藩主、前田利長は早くに引退して高岡に移り住み、高岡城を築いて城下町の町づくり、産業づくりに励みました。慶長16年(1611)河内の流れを組む鋳物師(いもじ)7人を呼び寄せて住まわせたのが金屋町です。400年を経た今も、当時の街並みのまま、千本格子の家並みが続く町は、金沢のひがし茶屋街と同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。重要伝統的建造物群保存地区は武家町、商家町、宿場町や山村集落などの指定が多く、モノづくりに係わる町は極めて少ないとされ、金屋町は唯一「鋳物師の町」として選定された個性的な町なのです。
そのうちの1軒、畠春斎さんの工房を見学させてもらいました。

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石畳も美しい金屋町の街並み

釜師3代目の畠さんは、茶瓶や茶釜を制作しています。
茶瓶は、重い上に、錆びるのが嫌われて、せっかく求めても手放す人が多いようです。それでも、鉄で沸かした湯で入れたお茶はまろやかだと知人に勧められて、私も数年前に南部鉄瓶を買いました。
茶道具から生まれた畠さんの鉄瓶は、普段使いが目的の南部鉄瓶に比べると値段はずっとはるようでしたが、表面に漆をやきつけるという話を聞き、手間のかかるすべての工程を一人でこなしている工房を見せてもらうと納得がいきました。そして、いつか、その鉄瓶を使ってみたいと、そんな気持ちになりました。
錆止めの効果はあるとはいえ、焼き付けた漆はなんども重ね塗りをする漆器と違って、長い間使っているうちにいつかは剥がれてきます。鉄瓶は湯を沸かすだけなのでごしごし洗う必要はないのです。やさしく扱ってくださいと、畠さんの言葉です。

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畠さんの工房
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畠さんの茶釜や茶瓶

この日のお昼は金沢城のそばのホテルで、フレンチのフルコースでした。

城の石垣をみながらの贅沢なお昼です。食材は特に加賀産にこだわってはいませんでしたが、色鮮やかなキッシュやくっきりした金沢らしい(?)味のメインの肉や魚に目も舌も満足でした。

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色鮮やかな色彩の前菜
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メインの魚と肉はひとつのプレートで

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雑記帳2022-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-1-15
◆からだほっこり 蒸し鶏の野菜あんかけはいかが?
野菜をたっぷり使った蒸し鶏とゆず大根のメニューです。柚子で色付けしたぎゅうひは電子レンジを使えば超簡単。12月に行った講座で大好評でした。

※蒸し鶏の野菜あん
◇材料(2人分)
[蒸し鶏】 鶏肉(むね肉)1枚(約250g、酒 大さじ2、ねぎ 適宜、生妻 適
[野菜あん】野菜(チンゲン菜・エノキ・にんじん・シイタケ・ねぎ等なんでも)適宜
      蒸し汁+水 200cc、みりん 大さじ1、醤油 小さじ2、塩 小さじ1/2 
      片栗粉 大さじ1
◇作り方
①鶏肉は皮を取り、厚い部分はそいで2枚にし、酒を振る。生姜は皮つきで薄切り、ねぎは4cmくらいのぶつ切りにし、鶏肉を囲むように器にのせて約10分位蒸す。蒸し汁は野菜あんの出汁として使う。
②蒸した鶏肉は、包丁で食べやすい大きさに切る。
③チンゲン菜は白く厚いとこうは縦に、葉のところは横に切る。にんじんは4cmの長さに千切り、エノキは根の部分を切り落とし2等分、根に近い部分はほぐしておく。ねぎは斜め細切り、椎茸は薄切りにする。
④片栗粉大さじ1を大さじ2の水で溶いておく。
⑤みりん・醤油・塩はあらかじめ合わせておく。
⑥(蒸し汁+水)200ccを煮立たせ、にんじん・しいたけ・チシゲン菜の白い部分を入れ、煮立ったらエノキ・ねぎ・調味料を加え、味を調えてひと煮立ちさせ、片栗粉の水溶きを少しずつ入れながらとろみをつける。
⑦器に盛った蒸し鶏に野葉あんをがけて出来上がり。

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※ゆず大根
◇材料(2人分)
 だいこん 200g、塩 小さじ1、ゆず 適宜
 砂糖 大さじ1.5、酢 大さじ1.5、赤唐辛子、ゆず果汁 適宜
◇作り方
①だいこんは厚さ2cmの輪切りにして皮をむき、2cm厚×1cmXI cm幅の拍子切りにする。塩をまんべんなくふりかけ、10分以上おいて水気を絞っておく。
②ゆずは皮の黄色い部分をむいて千切りにし、果肉は絞っておく。
③唐辛子は付け根の部分を切り取り、種を取り除き、好みでそのまま・二つに切る・輪切りにする。
④ボウルに調味料と②の皮③を入れ混ぜる。
⑤ポリ袋に①と④を入れ固くねじって結び、冶蔵庫で1時間冷やしたら完成。
※半日以上漬け込むと味がなじみ、より美味しくなる。

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※ぎゅうひ
◇材料(白&ゆず各4個分)
[白]白玉粉 25g 砂糖 25g 水 45c c
[ゆず】白玉粉 25g 砂糖 25g 水40cc ゆず果汁 約5cc ゆず皮すりおろして少々
 手粉洋に片栗粉10g
◇作り方
①耐熱容器に白玉粉・砂糖・水を入れ、ダマがなくなるまで良く混ぜる。
②ラップをかけて電子レンジで3分加熱する。
③木杓子で良く混ぜ、片栗粉を敷いたバットにとって四角くのばし、冷まして切る。切り口に片栗粉をまぶす。
④ゆずのぎゅうひは、白玉粉・砂糖・水を混ぜたあとに、果汁を加えて、同様に作る。
(色付けに皮少々すりおろして入れると、色、香りともに良い)

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琳派、安東広重に続いて江戸絵画の3回目は狩野派です。

狩野派と言えば私たちがイメージするのは絢爛豪華な安土桃山時代の狩野永徳です。
雄大なスケールの力強い作風は、「欅図屏風」や「唐獅子図」によくあらわれています。襖の枠をつきやぶらんばかりの巨木の表現は、群雄割拠する戦国武将の気風に合致し、権力者が次々と建てる城郭で腕を振るいました。

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永徳の襖絵
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永徳の「虎」

狩野派の最大の特徴は常に時の権力とむすびついていたということでした。
秀吉亡き後、永徳の孫、探幽は、徳川幕府御用絵師となり、江戸へ移ります。
探幽は大和絵や古画の研究や漢画の日本化などに優れた絵の才能を発揮しただけでなく、マネージメントにも優れ、一門はその後400年間、画壇の頂点に君臨しつづけるのでした。狩野家の下で学んだ絵師たちは、序列によって、奥絵師や表絵師として幕府の御用絵師、あるいは、諸藩の御用絵師になりました。序列下位の、民間で活動する絵師たちも、大規模な幕府御用の際には奥絵師や表絵師を支えました。
瀟洒淡麗なその画風は、江戸狩野派と呼ばれ、既に安定した権力となった徳川好みに合わせたものでした。枠からはみ出すような永徳とちがって、対象が枠内に安定して描かれ、余白をたっぷりとって、余白に抒情を盛り込もうとしました。「波濤水禽図屏風」に描かれる岩や波は漢画風、鵜は写実的で、探幽がその両方を融合しようとした跡が見られます。

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探幽の襖絵
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探幽の「虎」

探幽は粉本主義と言われる、師の手本を模写することを重視した教育法を建て、弟子たちはひたすら模写に励みました。伊藤若冲と同時期に活躍した円山応挙も京都の狩野派に学んでいます。が、応挙は狩野派の教育からはみ出して個性的。平明で親しみやすい画風から、三井家をはじめとする裕福な町人層に好まれ、「円山は」の祖となりました。

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応挙の「虎」

応挙は際立って写生を重視した画家です。暇さえああればスケッチに余念がなかったといいます。
客観的に描かれる空間は、写生の技術と「眼鏡絵」という独特の視点によって、画中の山や川などが見る者の現実空間と一体になるのです。

「淀川両岸図巻」は京都伏見~大阪天満橋の風景を描いた巻物です。川を下りなが両岸の風景がみられるようになっているこの絵は、川沿いに暮らす人々様子や、夕暮れ時、巣に帰る鳥たちも描かれています。現代の私たちがみれば違和感のない絵ですが、当時、これほど写実的に風景を描いた絵はなかったといいます。

応挙の特徴を最もよくあらわしている「淀川両岸絵巻」が群馬県の原美術館ARCに展示されていました。
同美術館には明治の実業家原六郎の850点に及ぶ東洋古美術コレクションが所蔵されています。 東京にあった原美術館が群馬の別館に統合されてリニューアルしたこの美術庵で、この秋冬季の企画展に、応挙の「淀川両岸図」や狩野派の「雲竜図」、「野馬図」が出展されました。残念なことに、館内は撮影禁止。「雲竜図」は余白を十分に生かした、まさに江戸狩野派の構図になっていました。

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応挙「淀川両岸図巻」一部

「雲竜図」は狩野派が好んで描いたテーマです。同じ群馬の水沢観音の仁王門に、狩野派の絵師が雲竜図を残しています。原美術館の雲竜図の代わりに、こちらの天井画を紹介しましょう。江戸後期、狩野探信に学んだ狩野探雲が、郷里に戻って85歳の時に描いたものといわれています。

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水沢観音仁王門天井画の「雲竜図」

もともと品川にあった原美術館は、現代アートの美術館です。統合されて群馬にうつっても、その伝統は消えず、奈良美智、森村泰昌、草間彌生等、内外の人気作家の作品が常設されています。牧場を併設する広い敷地には20点もの屋外アートがあって、こちらは撮影自由です。有名なアンディ・ウオーホルの「キャンベルズトマトスープ」は世界に3点しかないという貴重な作品です。

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アンデイー・ウオーホルの「キャンベルズトマトスープ」
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エントランス前にある、はーと型のこれも屋外アート



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雑記帳2022-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳20220101
◆明けましておめでとうございます。寅年のご挨拶をもうしあげます。

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お正月なので、ちょっと晴れ晴れしく、モダン建築を探して京都へ行った折に見学した京都迎賓館をご紹介しましょう。

京都迎賓館は、海外からの賓客をもてなすために、日本の歴史・文化を象徴する京都に、2005年(平成17年)4月にに開館しました。江戸時代に複数の公家の邸宅が建っていた京都御苑の敷地の一角にあります。

東京の迎賓館、赤坂離宮が洋風建築であるのに対し、京都迎賓館はひと言で言えば「和モダン」。数寄屋創りを中心とした「和」」の建築です、そして日本の「工の技」の集大成だと言われています。
壁や調度品、花生けにいたるまで、螺鈿、截金(きりかね)、美濃和紙、西陣織などなど、贅を尽くしたと言うより、粋を極めた部屋の飾り、小物の数々は全て「人間国宝」など第一級の作者の手になるものです。

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迎賓館玄関
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玄関軒下と入り口の一枚板の扉
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夕映えの間 壁面は織物
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藤の間  天井の照明を包むのは美濃和紙
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霧の間で賓客気分を味わって
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蒔絵の飾り台
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御所張りと呼ばれる美濃和紙の障子
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聚楽の間のコオロギの彫りもの

京都迎賓館のもう一つの特徴は、庭と建物が一体(庭屋一如・ていおくいちにょ)になっていることです。
建物を行き来する回廊で仕切られた庭はどの部屋からも眺められ、回廊からは遊泳する錦鯉が鑑賞できます。鯉は、日本一の呼び名の高い新潟県山越村から届けられました。また、古来から貴族に嗜まれてきた舟遊びも体験できるということで、舟遊びを体験した要人も何人かいたそうです。

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池を巡る和舟の船着き場

迎賓館とともに紹介したいのが京都府庁舎です。
ここは、江戸末期、京都守護職を務めた松平容保の屋敷のあった所です。明治の一時期、京都府中学校がたっていました。煉瓦作り2階建ての建物は、天然スレートぶきの屋根を持つ、ルネッサンス様式。中庭を持つロの字型で、正面に知事室などの主要室を配置、背面に議事堂が置かれています。庁舎と議事堂を一体化するロの字型平面は府県庁舎の完成形とされています。
明治37年に建てられた旧本館は当時としてはハイカラなセントラルヒーティング、建物は今も現役で使われています。見事な格天井を持つ議事堂は、流石に手狭になって、現在は議事堂の役目を終えましたが、市民に貸出されているそうです。



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京都府庁旧本館
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議事堂
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館内には今も様々な部署が同居している。昔懐かしい部屋の名札。
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円柱の形をした石は五条大橋の橋梁だったのを再利用。迎賓館の池にも同じ石がある。

迎賓館を訪ねた日、昼食をいただいたのは、京都人でも敷居が高いと言われる「長楽観」でした。こちらも京都のモダン建築の一つです。煙草王・村井吉兵衛の別邸として1909年(明治42年)に建築されました。

貧しい煙草商人の家に生まれた村井吉兵衛は、煙草の行商から身を起こし、やがて銀行も含めた村井財閥を築くに至ります。当時、澁澤栄一や岩崎弥太郎と肩を並べる実業家でした。
日本初の紙巻たばこ「サンライズ」がヒットしたのち、パリ万博に出品した両切り煙草「ヒーロー」が金賞を.受賞するなど、煙草王と呼ばれるようになったのです。

吉兵衛は円山に別荘を建てることが夢だったといいます。維新後、貴族たちが競ってここに別荘を構えていたからです。夢がかなってその一角に建てられた「長楽韓」の命名者は伊藤博文です。当時、長楽韓の立つ坂を少し北に上がったところに長楽寺という寺があったからだと言われていますが、ここはまさにゆったりとした時間を楽しむ上流階級の社交の場になりました。 設計はアメリカ人のJ..M.ガーデイナー。

現在、長楽韓はホテル機能を持つオーベルジュとして利用されています。
ランチは古典的なフレンチのフルコースですが、聖護院鏑のポタージュや魚は鰆、など、京都らしいこだわりの食材でした。

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長楽韓
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キッシュ・ロレーヌと聖護院蕪のポタージュ
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牛肉の赤ワイン煮込み

ちなみに、祇園祭で有名な八坂神社が建立されたのは平安遷都の約150年前の656(斉明天王2)年のことです。疫病退散の願いとともに、庶民から広く崇拝されるようになりました。「祇園社」や「祇園感神院(ぎおんかんじいん)」と称されていましたが、明治初期の神仏分離令のもとで、八坂神社に改称されました。祇園の名は消えましたが、京都人は今でも八坂神社のことを親しみを込めて“祇園さん”と呼んでいます。

八坂神社の在る円山の地には他にも多くの寺社がありますが、廃仏毀釈の一環として境内の一部を明治政府が没収、日本で最初の公園を整備するとともに、周辺が別荘地として開発された、そんな歴史もあるのです。円山公園はその後京都市に移管され、都市公園として池泉回遊式の今の形になったのは、大正になってからのことでした。

こちらは国営昭和記念公園のお正月です。(12月31日~1月1日は休園なので、2021年12月30日に撮影しました。)

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日本庭園入口の門松
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古民家の正月飾り
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「武蔵野の農ここにあり」にも注連縄
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門松は砂川口にもたてられています。


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雑記帳2021-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-12-15
◆新装なった京都市京セラ美術館で、開館1周年記念の「モダン建築の京都」展がひらかれています。会場には厳選された36の建物が写真や物語と共に紹介されています。

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モダン建築の京都展のポスターは、賀茂川を真中に京都の町を鳥瞰するデザイン

震災や戦災による被害が殆どなかった京都には、明治から、大正、昭和にかけて建てられた洋風建築や近代和風建築、モダニズム建築などのモダン建築がが今も数多く残っています。京都は、建物を巡りながら日本の近代化の過程を肌で案じることができる町だと言われているのです。

京セラ美術館の前身、京都市美術館も昭和のモダン建築です。昭和天皇即位を記念して建てられた京都市美術館は、国の威信をかけて建てられ、今のお金にして100億円の寄付が集まったそうです。ドイツ新古典主義の洋風建築に銅板瓦ぶきの屋根を載せた帝冠様式は、ライトの帝国ホテルの影響が見られ、上野の国立博物館本館も同じ様式です。

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京都市京セラ美術館外観
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建物内部も見どころいっぱい

周辺には平安神宮や府立図書館があり、それぞれ明治、大正時代の建物です。ここに立てば明治、大正、昭和が一度に体験できる場所になっているのです。平安神宮、府立図書館の設計者はいずれも伊東忠太。

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府立図書館

京都の町づくりに伊東忠太を忘れることはできません。
明治になって首都が東京に移り、衰退した京都の町の復興のために市が頼ったのが、帝国大学を卒業したばかりの伊東忠太でした。彼の平安神宮は、同じころ造られた琵琶湖疎水とともに、近代化をすすめる京都の、今の形を作る基になりました。
辰野金吾に学んだ伊東は、当時「造家」と呼んでいたarchikectureを「建築」と改めたり、誰もが知る築地本願時や東京都慰霊堂などをはじめ、明治から昭和初期にかけて数多くの作品を残しています。

師の辰野金吾ら、ジョサイア・コンドル門下の建築家たちは、西洋の建築を学んだ第一期生として、国威としての建築を造りました。対して、それから4代目に当たる伊東忠太は日本独自の建築をあみだそうとしました。忠太の卒論は、法隆寺のの柱はパルテノン神殿のエンタシスの柱がシルクロードを経て日本にたどり着いたのだというものでした。それは、地理的な面からも、日本がすべての文化が落ちる所という信念に基づくものでした。面白いことに、パルテノン神殿の柱はもとは木造だったのだそうです。忠太の説は学会では長く無視されていましたが、和辻哲郎の「古寺巡礼」は彼の説を引くものでした。
「建築は進化する」というのも彼の信条でした。

その伊東忠太の作品の一つ、「大雲院祇園閣」を見学することができました。

祇園閣 のコピー.jpg大雲院は京都府京都市東山区に、織田信長、織田信忠父子の供養のために創建された寺です。そこに、昭和3年、ホテルオークラの創始者、大倉喜八郎の建てた別邸の一部が祇園閣です。緑色の屋根が目をひく塔は、祇園祭の山鉾を模して建てた3階建ての建物で、国の登録有形文化財に指定されています。内部壁面には敦煌の壁画の模写が奉納されていましたが、撮影禁止。閣上から一望できる東山一帯の風景も、残念ながら撮影することができませんでした。

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屋根に祇園祭の山鉾を載せた祇園閣(右上の写真はその頭頂部)

祇園閣の正面の左右に坐る狛犬は、曲線も愛らしく、西洋の獅子像やスフィンクスの姿もかさねあわされています。玉を抱える照明器具の妖怪は、案内人の京セラ美術館学芸員の前田さんによると、江戸時代の寺社彫刻のようでもあり、ゴシック建築のゴーガイルのようでもあるとか。階段を上りきったところにある天井装飾は、ロマネスク建築やインド建築に見られる、生命力にあふれた彫刻をほうふつとさせました。忠太の世界各地の見聞を交えて、京の遊び心に近代的な贅沢を加えたのだということです。ちなみに前田さんは今回の「モダン建築の京都」を企画推進したおひとりです。

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愛くるしい狛犬

鴨川に架かる四条大橋東詰めに日本最古の劇場である南座が建っています。
桃山風デザインの建物は大正時代の建築。このほど改修工事を終えました。

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南座

対岸にあるのがちょうど同じころに建てられた「東華菜館」です。建てられた当初は「矢尾政」というビア・レストランでした。戦時中、洋食レストランの存続が許されなくなった時に、店は中国人に託され、今は北京料理のレストランになっています。日本最古のエレベーターのある「東華菜館」でお昼をいただきました。

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前菜
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鶏肉の紹興酒の香付け揚げ
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水餃子

「東華菜館」は外壁にテラコッタを用いたスパニッシュ・バロックの様式で建てられています。設計したのはウイリアム・ヴォ―リス。
ヴォ―リスは宣教師として来日しましたが、建築師、実業家としても広く活躍しました。日本に帰化して、ウイリアム・メレル・ヴォ―リスのメレルを米来留にあてるなど、しゃれっ気もある人でした。
ヴォーリスの起こした近江兄弟社のメンソレータムは日本中で愛されたほか、建築士としては、日本各地に学校や教会、百貨店など数多く手がけました。中でも岡山駅舎や富郷小学校はよく知られています。

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四条大橋から見た東華菜館

昼食後訪れたのは山科にある「栗原邸」です。緑豊かな敷地のすぐ裏には琵琶湖疎水が流れています。
本野清吾の設計による昭和初期の建物は、当初は「鶴巻邸」と呼ばれていました。施主の鶴巻鶴一は、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の校長を務めた染色の専門家でした。平安時代に途絶えていた「ろうけつ染め」を復活させた人です。家具調度類や食器もデザインし、客間と食堂を仕切る建具には自身の手で獅子と桜を描いています。

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栗原邸(3階の雨戸にはペンキのあともなまなましい)

邸はコンクリートブロックを採用した鉄筋コンクリート造りで、左右対称を貴重とした外観は落ち着いた雰囲気を漂わせています。南側の中央にある玄関ポーチには2本の丸柱が建っていて、西洋構造建築のような壁面と合わせて、古典的なデザインを強調しています。戦後の一時期、進駐軍に接収されて、内部はかなり米軍好みに塗り替えられたこともありました。今は無人の空き家状態になっているので荒れた感じはありますが、案内してくれた京都工繊大の助教、笠原さんは、なんとしてもこの家を保存したいと、時間を見つけては仲間と手入れにはげんでいます。今は手の回らない庭も、手を入れれば見違えるようになるだろうと言い、この家に住んでほしいと、現在買い手を募集中とのことでした。ちなみに疎水の流れる裏山も含めて売り値は2億円だそうです。

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玄関ポーチ
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お洒落なガラス窓の居間
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ろうけつ染めを復活させた鶴巻は家具や食器もデザインした。

夕方、新幹線の出発時間を気にしながら、小さな商店街を抜けて30分ほど歩きました。
通り沿いには今も現役の郵便局や銀行があります。京都では市役所や府庁舎もも建築当時のものが使われているのです。持ち主が変わってショップやホテルに利用されているモダン建築をたくさん見つけました。日本銀行京都支店は、京都文化博物館になっていました。おなじみの辰野金吾の作品が、今、市民の作品の展示なども出来る、コミュニテイセンターのような機能を持つ場所にもなっているのです。

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京都市役所
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京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)
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銀行の窓口もそのまま残っている。

建物の保存は、それ自身の持つ空間と、そこに住んだ人が紡いできた時間の、両方を保存することだと前田さんは言います。京都はまさに生きた建築博物館。古い建物が名前を変えたりカフェやホテルに変わりながら、住み継がれて行く京都の奥深さを感じさせる旅でした。


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雑記帳2021-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2021-12-1
◆静岡市由比の地に広重美術館があります。11月は十返舎一九の弥次喜多道中に合わせた広重の「東海道五十三次」展が開催されていました。

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東海道五十三次展のポスター

『知の木々舎』の『西洋美術研究家が語る「日本美術は面白い!」』は日本固有のの伝統的な文化だと思われている琳派や浮世絵の画家たちの作品を西洋美術の視点から眺める、ユニークな展開が好評です。
今、安東広重の『東海道五十三次』を終え、同じ画家の『江戸名所百景』を連載中です。

広重は寛政9年(1797)常火消同心の家に生まれました。13歳で両親を相次いで亡くし、家督を次いで、火消同心となりました。
幼い頃から絵が得意で、狩野派の絵師との交流もありました。当時、微禄の御家人は副業をもたざるを得ず、広重も家計の補助として絵の道をさぐっていたようです。16歳で画壇デビュー、27歳で年下の叔父に家督を譲って、画業に専念することになります。師匠は歌川豊広、

19世紀にはいると、江戸は空前の旅ブーム。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がベストセラーになりました。同時に出版技術が向上した時代でもありました。
版元の保永堂から東海道に取材した風景版画を依頼された広重は、天保4年(1833)、「東海道五十三次」を発表して大人気となりました。18世紀前半に遠近法が伝わってから100年が経ち、2年前には葛飾北斎が「富嶽三十六景」を発表して、深みのあるベロ藍がふんだんに使われるようになっていました。

その後、街道ものの他名所図絵師の第一人者として、多くの作品をてがけました。安政3年(1856)60歳で剃髪して法体となるも健筆を振るい続けて、安政5年(1868)コレラで亡くなりました。まだ62歳の若さでした。コロナ禍の現在、なんだか身につまされますね。

広重の風景画には真実味があり、もっともらしさが人々に受けたと言われます。彼には「写真(しょううつし)」という言葉通り、写生したように表現できる自負がありました。更に、写生画に取捨選択するという演出を加え、理想の心象風景にしあげたのです。その、温雅で文学的な情趣は破綻がなく、日本人の感性に通ったのでしょう。広重は死ぬまで売れっ子でした。

保永堂版の五十三次から15年後に再び注文を受けて制作したのが、今回企画された五十三次でした。
保永堂版ではなく隷書(れいしょ)版と言われるこのシリーズは、日本橋を横からではなく正面から描く構図や、鞠子のとろろ汁の茶店、山中で突然の驟雨に慌てる旅人などの、ドラマチックな仕立てで私たちになじみの広重はありません。まるで今の観光地の絵ハガキを見るように描かれています。
保永堂販を見慣れた私たちにすれば、堅苦しくて面白みに欠け、色も全体に薄く、地味な印象です。また、色を載せずに凹凸感だけで煙を表すからくり技法と呼ばれる技法は、摺り師といったいになって工夫を凝らしたものでしたが、そのような画面は見当たりません。
それでも当時、弥次さん喜多さんと一緒に旅する気分はそれなりにうけたという事でした。

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保永堂版の日本橋
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ポスターにも使われている隷書版の日本橋

東海道は慶長9年(1604)、日本橋が起点となって宿駅の整備がはじまりました。
寛永元年(1624)に完成、様々な人物が東海道を旅しました。
由比宿は江戸から36里、旅籠は32軒ありました。「さざえの坪焼」が名物でした。今、この辺りの特産物は桜エビ。季節にはゆでたエビを干して浜が真っ赤にそまるそうです。

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お昼に食べた桜エビ御膳(箱の右上が桜エビのかき揚げ)

東海道五十三次の16番目に、由比宿の薩埵峠(さったとうげ)が登場します。
保永版では、峠道はただの断崖絶壁で、画面の左上にいる三人の人物が、眼のくらむような斜面から今にも転落しそうに描かれていて、ここがいかに難所だったか、広重は緊張感あふれる大胆な構図で表現しています。

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保永堂版の由比宿

現在、由比宿の本陣跡は整備されて由比本陣公園になり、広重美術館は交流館と並んで、園内にあります。

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本陣公園正面
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交流館
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広重美術館

由比の本陣は街道に家屋を直面せず、石垣と木塀が作られています。敷地は1300坪、物見やぐら・本陣井戸がのこっています。石垣にそった水路は馬の水飲み場でした。

本陣当主は、1560年に今川義元とともに桶狭間の戦いで討ち死にした由比助四郎光教の子が帰農してからと言われ、代々継承されています。

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本陣水飲み場跡 のコピー.jpg
かっての馬の水飲み場ではいま、亀が甲羅干し
本陣を中心に、かっての由比宿を歩いてみました。宿場の入口は、街道をカギの手に曲げて桝形にして万一の攻撃に備え、更に木戸や土塁を作って宿場の印になっていました。桝形は西の出口にもありました。

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桝形の跡(写真の道の真中へんにかすかにカギに曲がっている跡がある)

西国の大名の中には、江戸の屋敷と領国の居城との連絡に直属の通信機関(七里飛脚)をつかっている大名もありました。お七屋飛脚の役所跡は紀州徳川家のもので、当時、江戸~和歌山間584kmに七里(28km)毎に中継ぎ役所を置き、主役(お七里役)と飛脚5人を配置していました。毎月3回、江戸は5の日、和歌山は10の日に出発し、普通便なら8日間、徒急便なら4日間で到着したそうです。
飛脚は剣道・弁節に優れた者で、昇り下り龍の伊達半纏をまとい、「七里飛脚」の看板を持ち、刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来したそうです。

今、年配者以外知る人も少なくなりましたが、名前の通り、由比正雪はこの地の生まれです。江戸時代から400年続く正雪紺屋は正雪の生家とされ、藍甕や染物道具、藍染明王の神棚などが残っています。
正雪の乱そのものは未然に発覚して自刃しましたが、4代将軍家綱の時代、それまでの大名取り潰しによって全国に溢れていた浪人の増加が社会不安にむすびついていることが事件の背景にあるとして、幕府はその後、武断政治から文治政治に舵を切ることになります。

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正雪紺屋
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現在は使われていないが、店内に藍甕が残されている。

本陣は参勤交代の大名や幕府役人が宿泊する施設、多くは名主の居宅が指定されました。宿の主人には名字帯刀の特権があたえられましたが、宿泊者からは謝礼のみで、これは支払う側にも接待する側にも大層な負担だったようです。中には本陣を辞退するという申し出もあったとか。そんな中で由比には脇本陣が3軒もあったことから、町が豊かだったことを伺わせます。江戸後期から脇本陣を務めた温鈍屋(うんどんや)が残っています。
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脇本陣の温鈍屋

明治4年、日本に郵便制度が創設されました。江戸時代の飛脚屋は「由比郵便取扱所」になり、明治6年「由比郵便局」になりました。明治39年、当時の郵便局長が自宅を洋風の局舎に新築して郵便局を移転、建物は昭和2年まで郵便局として使われていました。現在は私宅となっています。

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私宅なので塀越しにしか見られないが、なかなか立派な元郵便局

西の桝形を過ぎれば由比川です。川には仮設の板橋が架けられて旅人はそれをわたっていました。雨で水量が増すと橋は取り外されました。徒歩で渡る川は徒歩(かち)渡りと呼ばれました。由比川で溺れた水難者を供養する入上(いりがみ)地蔵がまつられています。

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由比川


このほか、1キロたらずの街道沿いには、先のお七里飛脚役所跡や正雪紺屋、郵便局をはじめ各所に説明版があり、今も旅人には親切な街でした。

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宿場のはずれに、ガイドさんおすすめの菓子屋「春埜製菓」があります。道中弥次さん喜多さんも食べたというたまご餅を、おばあさんが今も一つ一つ手作りでつくっています。大正15年の創業だということでした。

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浮世絵は、どのように絵を描くかを決める版元と、構図や絵を描く絵師、色を付ける摺り師の共同作業です。これは現在のアニメ制作と似ていると言われます。北斎漫画のような、個人の連作そのものも勿論、アニメだと思わせますが、日本にはそれぞれの分野のスペシャリストが協力しあってより素晴らしいものを作り上げる伝統があることをしみじみ感じさせます。それこそが日本の文化なのでしょうか。


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雑記帳2021-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2021-11-15
◆北鎌倉の古刹。浄智寺と円覚寺を訪ねました。

鎌倉時代、幕府が鎌倉に招へいした臨済宗の寺は建長寺を初め五山があります。そのうち、第2、第4にあたる円覚寺と浄智寺を巡りました。
円覚寺は日本で最初の禅寺、浄智寺には鎌倉以外では見られない仏像があることで知られています。

JR横須賀線の北鎌倉駅に降り立てば、その前を通るのは鎌倉街道。浄智寺はすぐ近くです。
浄智寺は鎌倉幕府第5代執権北条時頼の三男で、執権になることもなく亡くなった北条宗政の菩提を弔うために、弘安6年(1283)に創建されました。最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も18寺院に達するなどの隆盛を見せました。現在は創建当時の建物は残っていませんが、山間の古刹らしい佇まいは鎌倉後山4位の寺格だったことを偲ばせます。

参道入口には鎌倉10井の一つ、「甘露の池」があります。池に渡す太鼓橋は苔を守るため通行禁止になっています。

池のすぐ奥にある総門は、質素な棟門形式の、16世紀の城郭建築です。円覚寺開山の無学祖元の手になる「寶所在近(ほうしょざいきん)」の額がかかっています。寶所在近とは「大切なものは遠くではなく近くにある」という意味で、転じて「仏を信じ修行を積めば、心の平穏が得られる」という仏の教えにつながっているそうです。

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「寶所在近」の額のかかる総門

鐘楼門は江戸時代末期の門の様式を踏襲して平成19年(2007)に再建されたものです。建築様式は和洋、唐様、大仏様が混在していますが、全体の雰囲気は建築当時の様式を残しています。

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鐘楼門

浄智寺の本堂、曇華殿(どんげでん)は、3000年に一度花を咲かせるという珍しい「優曇華(うどんげ)」の花に由来した名前は、極めて珍しい仏に巡り合える建物の意味で名づけられたとか。本尊の室町末期の木像3世仏は神奈川県の重要文化財になっています。阿弥陀、釈迦、弥勒の3体の各如来はそれぞれ、過去、現在、未来を司る仏とされています。

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優曇華

衣の裾を台座に長くたらした姿は「法衣垂下」様式と呼ばれ、鎌倉仏だけにみられる特徴です。奈良・平安の仏教と違って、鎌倉仏教は東日本、武士を中心としたものであり、様式も関東だけに見られるものなのです。

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「法衣垂下」様式の阿弥陀、釈迦、弥勒3体の如来像

殆どの建物が建築当初の様式を残しながらも最近になって建てかええられた中で、大正13年建築という茅葺の書院は、浄智寺のなかでは一番古い建物です。

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写真では茅葺の趣が十分に撮れず残念。
浄智寺境内にはヤグラと呼ばれる、鎌倉独特の墓所がいくつも見られます。
ヤグラは、鎌倉の周辺で、鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られた横穴式の納骨窟または供養堂で、市内では今も3000基以上が確認されているそうです。風化して苔むし、ただの洞穴のように見えるヤグラも、建立当時は内装も豪華で、火葬骨のほか多くの副葬品が収められていました。。

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穴の奥に観音像が見えるヤグラ

鎌倉と聞けば「いざ鎌倉」を思い出すのは謡曲「鉢の木」のせいです。その名にちなんだ「鉢の木」でお昼を頂きました。

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円覚寺は正式には端鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)。臨済宗円覚寺派の大本山です。
弘安5年(1282)、時の執権・北条時宗が、宋から招いた無学祖元を開祖として開かれた古刹です。開基である時宗は18歳で執権職につき、無学祖元の説く禅宗に深く帰依していました。その時宗が国家の鎮護を祈り、蒙古襲来の文永・弘安の疫の殉死者を弔うために発眼したと言われます。

北鎌倉駅のホームはそのまま円覚寺、境内の中を横須賀線が走っています。
又、駅前を通る鎌倉街道をほんの少し南に入って今も残る旧鎌倉街道には、円覚寺の石垣が残されています。円覚寺は創建時、広大な敷地に18の塔頭を持つ、鎌倉屈指の大寺院でした。総門、山門、仏殿、方丈と、伽藍が一直線に配置されている伽藍配置は、宋様式独特のもので、境内全体が国の史跡に指定されています。

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境内を横須賀線の電車が走る
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旧鎌倉街道沿いに遺る円覚寺の石垣

ちなみに塔頭とは、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院のことです。

総門の手前にある横須賀線の踏切の南側の左右一対の池は白鷺池と呼ばれ、創建当時から残る数少ない遺構です。池の石垣そのものが天然記念物です。

総門は大寺とは思えないような簡素な門ですが、山門は二重門形式の壮大な門でした。
浄智寺の高麗門が和洋、唐様、大仏の折衷建築であったのに対し、ここは上層の長押など一部の和様を覗いて、徹底的に唐様で建てられています。

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山門

ちなみに山は寺を意味し、山門はこの世とあの世の境界です。
山門はは三門とも書き、三門は三解脱門とも呼ばれて、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒からの解脱を意味するのです。

一直線に並ぶ伽藍をちょっと外れて険しい石段を上って行くと、弁財天を祀る弁天堂があります。その横にある「洪鐘(おおがね)」は国宝。一見の価値があるといわれています。北条時宗の息子、鎌倉幕府第9代執権の北条貞時が寄進したもので、関東では最古級、高さは259m、重さは5トンもあるという、大鐘です。「おおがね」に「洪鐘」の字をあてるのはここだけだそうです。

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国宝の洪鐘

円覚寺の本尊が祀られている仏殿は関東大震災で倒壊した後、昭和39年(1964)に再建されました。外壁に立湧欄間(たてわきらんま)という、格式の高い、縁起の良い文様がほどこされています。
本尊は宝冠釈迦如来。釈迦如来は本来解脱した存在なので、宝冠のような装飾品はつけていないのですが、そうした通形の釈迦如来像とは異なり、髪も螺髪ではなく頭上で大きく結び、宝冠や髪飾りをつけています。
釈迦が冠や飾りを身に着けているのはまだ解脱していない姿です。解脱しようと精進修行する釈迦にみずからを重ねる禅宗の考え方は、700年前の中国で最先端の仏教でした。そして、鎌倉幕府が招へいした無学祖元ら宋の高僧は直接鎌倉に来たために、鎌倉仏教は京都や奈良へ伝わることはなかったのです。

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仏殿
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立涌欄間
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本尊は近づけば圧倒されるほどの大きさの仏さま

唐門は天保10年(1893)に再建されました。江戸時代、大名や幕府の要人を接待するために再建された格式の高い建造物です。

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唐門

唐門をくぐった先にある大方丈では国の辞意用文化財「五百羅漢図」が公開中でした。
大方丈は儀式や行事に用いられ、北側には心字池のある美しい庭園があります。

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大方丈の庭園

妙香池は創建当初からある放生池。江戸時代初期の絵図に基づいて、平成12年(2000)に復元されました。

更に奥に進むと、円覚寺の塔頭の一つである正続院の中に、神奈川県唯一の国宝建造物、舎利殿があります。正続院は無学祖元を祀る重要な塔頭。入母屋造、柿(こけら)葺きの舎利殿は、15世紀、室町時代の代表的な禅宗様建築です。立湧欄間はここにも見られました。通常は非公開。

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一見2階建てに見えるが一重裳階(もこし)付きの舎利殿

一番奥にあるのが、円覚寺の開基である北条時宗を祀る仏日庵です。時宗はこの場所で小さな庵を結び、禅の修行をしたと伝わっています。時宗の死後、弘安7年に、開基廟として創建されました。幾度もの戦火を潜り抜け、幕府をまとめあげた時宗は、学問の神、開運の神としてもあがめられたということです。

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仏日澱

円覚寺はじっくり回ればゆうに3時間はかかる大寺です。
見残した塔頭もあり、鎌倉仏教の特徴を示す数々の仏像なども、もう一度見たいと思わせます。鎌倉の紅葉は12月といいますから、観光客が増えるのはこれからかもしれませんね。



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雑記帳2021-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-11-1
◆熱海のMOA美術館では10月中、「琳派」展が開かれていました。

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本阿弥光悦、俵屋宗達に始まる様式が琳派と呼ばれるようになったのは、実は1960年以降のことです。それまでは尾形流、光悦流等と呼ばれていました。欧米で琳派愛高熱が高まり、彼らにとって発音しやすい「琳派」が定着して、日本に逆輸入されたのです。
その特徴は、平安以来の大和絵の彩色・技法の伝統を受け継ぎながら再生した独創性にあると言われます。

俵屋宗達が活躍したのは17世紀前半、徳川幕府草創期の京都です。政治的、経済的に圧倒的に優位に立つ江戸にたいして、京では伝統的な貴族文化が見直されていました。
宗達は「俵屋」という絵画工房を率いて、料紙装飾や扇絵に力を揮い、京の町衆に支持されました。宗達の描いた風神雷神はその後も琳派を代表するテーマになりました。
一方、光悦は、家康から土地を拝領して芸術村「光悦村」を築き、陶芸、漆、出版、茶の湯にも係わるマルチアーティストでした。

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琳派のテーマになった宗達の風鈴雷神図

大和絵の伝統を尊重した宗達にとって絵物語は重要な画題でした。宗達はそれを、大胆に省略したり敢えて主要人物を描かないなど意匠的な形態の作品にし、古典を新演出しました。また、彼の描く生き物は単純化され、親しみやすさや諧謔性があります。唐獅子は権力の誇示ではなくおどけていて、重量感のある白像は諧謔性と同時に目の鋭さが特徴です。墨の拡がりや滲みで描き出すたらし込みの技法は琳派のトレードマークになりました。

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宗達龍虎図
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宗達・源氏物語末摘花手習図
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宗達・軍系図

光悦は寛永の三筆と呼ばれる書家でした。その流麗な書は蒔絵に多く残されています。特徴はデフォルメと立体デザインにあるといわれています。蒔絵に大きく盛り上がった大胆な器形を用いたり、蓋と蓋裏の図柄がつながる、三次元的なしかけを作ったりしています。
下の「樵夫蒔絵硯箱」の、きこりが歩いている土橋はふたを開けると内側にも橋が続くように描かれています。きこりの脚には螺鈿が施され、誠に芸が細かいのにおどろかされます。

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光悦・樵夫蒔絵硯箱

宗達の誕生(1579年)からおよそ90年後に生まれたのが尾形光琳です。江戸では。室町時代の水墨画や狩野派が流行していたころのことです。華やかな意匠と奇抜な構成は宗達光悦に私淑したものと言われています。5歳年下の弟の乾山と共に、一つの時代を築きました。このころ、京ではパトロンが消失、兄弟は活動の場を江戸に移します。琳派は社会的、文化的な基盤を離れ、一つの伝統としてうけとめられていくのです。

光琳・乾山の生家は呉服商でした。没落後、光琳は本格的に絵師となり、乾山は窯を開いて陶器の制作を始めました。
光琳は、絵画では宗達風画風に魅かれ、蒔絵では光悦風を慕う気持ちが強いようです。模倣を通して光琳独自の明るい蒔絵の世界がうみだされました。
光琳風のデザイン「光琳模様」は18世紀前半、上方で大流行、5弁の花びらをひとまとまりに描いた「光琳梅」は多くの絵師に採り入れられました。

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伝光琳・秋草模様描絵小袖
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光琳・寿老人団扇
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光琳の蒔絵は印籠にもなった。

光琳が造形性を重視したのに対して、弟の乾山は絵と書が一体となった素朴な世界が特徴です。絵は技巧を否定、書は独学で無造作な書風です。
乾山焼きは懐石用の食器で人気があり、斬新で機知にとんでいました。和歌や漢詩の文学的要素を焼き物に展開しているのです。

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     乾山・色絵皿
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乾山・蒔絵染付梅花蓋物
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乾山・色絵十二か月歌絵皿
 

同時代に活躍した野々村仁清を忘れることはできません。
仁清は実用の器である茶碗を、具体的な文様で色鮮やかに飾り、鑑賞性を重視した作品を創りました。
伝統と先進性を兼ね備えた仁清焼きは、京文化にあこがれる大名に人気がありました。

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仁斎・色絵藤花文茶壷
     
18世紀半ばの京都では、円山応挙や伊藤若冲ら個性的な画家が活躍していました。
その後、18世紀末から19世紀初の江戸では、新たな琳派様式の流行が始まりました。代表的な画家は酒井抱一や弟子の鈴木其一がいます。
酒井抱一は、琳派画風の継承と新たな展開を打ち出して琳派を再興しました。奇しくも光琳から100年後にあたります。
抱一の、琳派の伝統的を意識しながら情趣や写実的な視点を採り入れた様式は江戸琳派と呼ばれます。一時は途絶えたかに見えた光琳様式は江戸の地で新たな息吹を得たのでした。

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抱一・藤蓮楓図図
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抱一・伊勢物語図
      
琳派は、権力とむすびついた儀礼や様式とは関係なく、趣味の世界に近いと言われます。諧謔性や意匠的な構成などの遊び心は、権力から遠い位置にいたために、形式や伝統に縛られず、革新的な仕事ができたからでした。
装飾性を追求した作家たちの作品はモダンで、正に現代のデザイナーのようでした。

MOA美術館は昭和57年の会館。創立者は、宗教家・画家・書家・建築家の岡田茂吉。
国宝の尾形光琳『紅白梅図屏風』や野々村仁清の「色絵藤花茶壷』など重要文化財67点を含め所蔵は約3000点。
黄金の茶室や能楽堂のほか、復元された光琳屋敷も見どころです。光琳が晩年、京都に住んだ邸でした。併設された「茶の庭」は入口の唐門や「樵亭」と名付けられた茶室等、趣のある庭になっています。

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館内から眼下に太平洋が見下ろせる
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黄金の茶室
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茶の庭への門
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茶の庭の一白庵でお茶を一服。

締めは『琳派御前」で。肴の皿は乾山好みでした。

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 琳派御膳

◆『バルタンの呟き』を連載中だった飯島敏宏さんが亡くなりました。。
 
映画『ウルトラマン』の監督、飯島敏宏さんに初めてお会いしたのは、、映画「ホームカミング」の試写会でした。『知の木々舎』の顧問、鈴木茂夫さんがテレビ草創期に、TBSでご一緒だったのがご縁でした。TVドラマ「金曜日の妻たち」で一大ブームをまきおこしたあと、この映画も舞台は同じ東京の郊外。高度成長期の開発頭初、ちょっとお洒落で、若い家族の賑やかな声にあふれていた町が、30年の時を経て、高齢者ばかりが目立つようになった、(それは日本の縮図でもありました。)自身の住む町の変わり様を愛情をこめて見つめた作品たちでした。

原稿をいただくようになって、ウルトラマンの生まれた光の国が実は沖縄であったことを知りました。バルタン星人はそのウルトラマンの敵役ですが、飯島さんはそのバルタン星人を悲哀のある、どこか憎めない存在ととらえていました。『ウルトラマン50年』のあとを受けて連載した『バルタンの呟き』は100回を越える連載になりました。どれもが日常の些細な事柄を追いながら平和への思いにあふれていました。戦争を体験した世代が次々に亡くなって行く中で、命ある限り平和の大切さを伝えることを使命としておられたようでした。ご冥福をお祈りします。合掌。



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雑記帳2021-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-10-15
◆奇想の画家「伊藤若冲」の絵画とゆかりの地を訪ねました。

この夏、皇室私有の財産だった美術品のいくつかが国宝になったことがニュースになりました。その中に、狩野永徳の『唐獅子図』や小野道風の書に混じって、伊藤若冲の『動物彩絵』がありました。
コロナ第5波の緊急運事態宣言が解除された10月はじめ、京都に伊藤若冲ゆかりの寺を訪ねました。

最初に訪れたのは大津市膳所(ぜぜ)にある義仲寺(ぎちゅうじ)です。
その名の通り、平家討伐の兵を挙げて都に入ったものの、頼朝軍におわれて粟津の地で壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬った寺です。
江戸時代までは小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉がたびたび訪れ、後に芭蕉が大阪で亡くなったときは、遺言によってここに墓が立てられました。
境内には芭蕉の辞世の句である「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句碑のほか、本堂の朝日堂、翁堂、無名庵、文庫等が立ち、境内全域が国の史跡に指定されています。
そして、この寺の翁堂に、若冲の15枚の天井絵があるのです。

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     旧東海道に面する義仲寺 昔は門の辺りまで琵琶湖だった
      室町時代の創建、現在は住職も檀家も無い寺だが、市が大切に守っている。

翁堂には壁一面に芭蕉の多くの弟子たちの肖像がかざられています。
ここに、もともとは京都伏見の石峰寺のために若冲が描いた130枚の内の15枚の天井絵がありました。現在、堂にあるのはレプリカ、実物は大津氏の歴史博物館に所蔵されています。残りは京都信行寺にあるということですが、公開されていません。

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翁堂の天井絵

若冲最晩年の作と言われる天井絵がなぜここにあるのか、長い間、明治の廃仏棄釈の結果だと思われていました。それが、最近の研究によって、若冲の母の実家が滋賀にあったことから、江戸末期の安政期に大津の商人が買って、寺に寄進したことが分かりました。
古美術の世界では、これはワクワクするような大発見なのだそうです。
また、若冲の絵が1.2cmの方眼紙の上に描かれているのは、親戚に友禅織を営む家があり、小さいころから親しんでいたことと無関係ではないだろうという話を聞きました。
もちろん若冲自身が方眼をひいたわけではない、工房には大勢の弟子たちがいたはずだから。

若冲は、絵を生活の糧にする画家ではありませんでした。
絵の具や紙、絹布など、当時の最高の画材を全て自分のお金で購入し、全て無償で寺に寄贈しています。こんな事ができた絵描きはいない、世界を見渡しても宋の徽宗皇帝がいるのみだということです。

京都の青物問屋桝屋の長男として生まれた若冲は、40歳で弟に家督を譲り、絵に専念することになります。当時、青物問屋というのは株をもち、相当の財力を誇っていたようです。家業が裕福な商人であったことで、コストを考えることなく好きな絵を描くことができた、幸せな人だったと言えるでしょう。

京都御所の近く、同志社大学の隣に建つ相国寺(しょうこくじ)には若冲の「釈迦三尊像」があります。絵の描かれた絹は一枚絹です。当時、国内にはこれだけの幅のある絹織物は作られていませんでした。当然、2枚か3枚の布を継ぎ合わせなければなりません。それでは描きにくいということで、若冲は身銭を切って中国から取り寄せたのでした。
若冲と住職。大典善治との親交は深く、相国寺には「釈迦三尊像」」と同時に24幅の「動植綵絵」も寄進しています。

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狩野永徳の天井衛がある相国寺法殿、建物自体も国の重要文化財
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動植彩絵の1枚(全部で30幅ある)
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釈迦三尊像の1枚 絹も絵の具も最高のものを使った

金閣寺、銀閣寺を山外塔頭に持つほどの相国寺も、実は明治時代、廃仏毀釈によって寺の存続がおびやかされるほどに困窮しました。それを救ったのが「動植綵絵」でした。
この絵を皇室が1万円で買い上げてくれたことで、相国寺は生き延びることができたということです。その「動植綵絵」がこの度、皇室の手を離れて国宝になったというのも面白いで巡り合わせのような気がします。
金閣寺にも若冲の50面の障壁画が残されています。

◆閑話休題
この日の宿は、今京都で一番新しいと言われるJR西日本直営の「梅小路ポテル」でした。インバウンドめあてに、ホテルながら日本の旅館の気分も味わえるように、ホテル本体の外に居酒屋や町の風呂屋を併設、セパレートの部屋義で移動可能という、カジュアルな創りでした。夕食もフレンチではなく、イタリアンです。

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ホテルの横に路地を作って左右に居酒屋やまちのお風呂屋さん
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各部屋のベランダからは、早朝の公園を散歩する京都人のくらしがかいま見える
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夕食の前菜 季節魚(今日はタイ)のカルパッチョ
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メイン(子牛の炭焼きボルチーニ茸ソース)
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朝食はバイキング。つけものをはじめ京野菜がたっぷり。

◆2日目は伊藤家の菩提寺、宝蔵寺へ。
伊藤家の菩提寺ではありますが、若冲本人の墓はありません。江戸時代、厳しい檀家制度のもとでは、途中で家督を譲って隠居したり、改宗したりした若冲は、菩提寺に墓を立てることが許されなかったのです。とはいえ、弟の白斎は若冲の絵の弟子として若冲派に名を連ねており、兄弟の仲は決して悪くはありませんでした。

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宝蔵寺
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伊藤家の墓 ここに若冲の墓はない

ここには拓本画の「即路図」と「竹に雄鶏図」が残されています。
「竹に雄鶏図」は若冲初期の作品。長い間本人の作品とは見なされていませんでした。
「若冲の絵は眼光を見よ」という言葉があるそうです。普通、鳥を正面から描くことはないが、この絵の雄鶏は正面を向いています。そのため、若冲の他の作品に比べて一見元気が無いようにみえました。しかし、正面を向いた鶏の眼には力があると、2016年の没後200年の「若冲展」で本物と判明しました。当時のどの画壇にも属さずに、型にとらわれず、自由奔放に描いた若冲の面目躍如ではありませんか。

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眼光鋭い雄鳥の図

若冲は江戸時代を通じて人気の画家でした。それが明治以降、専門家以外には殆ど人眼に触れることなく忘れられていました。2000年、京都国立博物館で生誕300年の若冲展が開かれたことが今の若冲ブームにつながりました。
今回の旅の講師、狩野博之さんは、大学の教員だった40年ほど前に請われて学芸員として国博に赴任し、若冲を世に出してブームに火をつけた仕掛け人です。一人のスターを生み出したことは何ものにも代えがたい勲章だと感慨深げでした。

嵐山ではちょうど、福田美術館と嵯峨嵐山文華館が共同で「京(みやこ)のファンタジスタ~若冲と同時代の画家たち」を開催中です。いずれの美術館も渡月橋に近く、桂川を望む景勝の地にあります。

福田美術館は金融会社アイフルの社長が作った美術館。相当数の若冲を所蔵しているようでした。
若冲と同じ年に生まれた与謝蕪村、同時代を生きた円山応挙や池大雅の作品が展示されています。
嵐山文華館では若冲・応挙・芦雪・呉春など、18世紀から19世紀にかけて活躍した画家たちの絵と共に、宝蔵寺所蔵の先出の「竹に雄鶏図」や若冲派の絵が貸し出されていました。

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福田美術館
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嵐山文華館
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若冲の屏風絵の展示も

若冲の晩年、中国の僧、隠元が京都の宇治に黄檗宗万福寺を開きました。
衰退しかかっていた禅の復興のために、幕府の認可を受けての事でした。新しい風は江戸でも流行しました。徳川が終わると同時に衰退するのですが、若冲は黄檗宗の粋に魅かれて得度、伏見にある海宝寺、石峰寺で晩年を過ごしました。

隠元と共に来日したのが普茶料理です。
もともとは法事の後に皆で食べる、中国の会席料理でした。普茶料理はダイニングテーブルで大皿からとりわけながら食事をする文化をもたらしました。
お昼に海宝寺の「若冲筆投げの間」で普茶料理をいただきました。
海宝寺には若冲の襖絵があったことで知られています。

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海宝寺
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      コロナのため、大皿から取り分けるスタイルではなく、

石峰寺は黄檗宗の禅道場として建立された寺です。寛政年間、若冲は石峰寺の門前に庵をむすび、五百羅漢を作成しました。当時は千体あったといわれますが、現在は四百数十体が裏山に残されています。明治の廃仏毀釈にあい、無住になったために、盗まれた羅漢は数知れません。現在は再興されています。
義仲寺で見た天井絵は石峰寺の薬師堂にあったものです。

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石峰寺の山門 黄檗宗独特の門の形をしている
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石峰寺の裏山をおおいつくすように五百羅漢が

伏見といえば、当時も今も京都では片田舎。明暦の大火で家を失った若冲は相国寺を離れて、石峰寺門前の庵で妹と二人で晩年を過ごし、この地で亡くなりました。享年85歳。石峰寺の墓地には、生涯描き続けた若冲を象徴するように筆の形をした墓石が並んで立っています。

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石峰寺の若冲の墓


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