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雑記帳2021-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-4-15
◆妙義神社の円空仏と名水が流れる織田家ゆかりの城下町甘楽を歩く

1682年岐阜羽島に生まれた円空は、幼くして長良川の洪水で母を亡くし、天涯孤独になります。僧を志して白山に修行に入り、修行の一つとして仏像を彫り始めました。
貧困や病気に苦しむ人々のよすがに仏像を分け与えることにしたのです。
36歳の時、12万体の仏像を発願、最後の1体は飛騨・高山の神社にあるそうです。
ナタでわり、ノミのあとも残る素朴な仏像は、琵琶湖一帯から北海道まで、広く残っていますが、現在発見されているのは約5300体。寺の秘仏ではなく、手にとって撫でて、一緒に風呂に入って、子どもにすれば友だちのような円空仏は使い古されて薪になったり、行方が分からなくなったりするのは当然かもしれません。その円空仏が今、見直されているというのです。

全国いたるところ、法隆寺にさえあるという円空仏も、琵琶湖より西にはないということから、四国出身の私には馴染みはありませんでした。亡くなった夫は美濃の人だったので円空は身近な存在だったようです。
個人では見られない円空の不動明王が妙義神社にあるときいて出かけました。

富岡市にある妙義神社の主祭神は日本武尊、豊受大神、菅原道真、桑蚕の神様でもあります。
妙義山の主峰白雲山の東山麓に位置し、創建は約1500年前とわれています。元の名「波己曽(はこそ)神社」は「イハコソ神社」に通じ、御神体は妙義の岩山だった事がわかります。初期の神祇信仰の対象が岩であることはよく知られるようになりました。
本社は全国的にも珍しい黒漆権現造り。唐門、総門と並んで国の重要文化財になっています。関東一と称される総門の高さは12m。1683年建。上州の東照宮と言われるのもむべなるかなです。

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関東一の高さを誇る総門
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波己曽社
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黒漆塗の本殿

神仏習合の時代、神社の境内に僧房がおかれ、別当寺と呼ばれました。妙義神社の別当、石塔寺は寛永寺の末寺でした。寛永寺の住職は代々天皇家に縁の宮様が務めており、戊辰戦争では江戸を逃れた輪王寺宮の隠居所となりました。現在の宝物殿は宮様御殿と呼ばれ、御座所の配置や城のような石垣、借景庭園など見どころは沢山あります。金具類にはすべて菊の御紋がはいっていて、格式の高さを誇っています。そこに円空の不動明王はありました。

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宝物殿(宮様御殿)
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意外に小さかった円空の不動明王

富岡市にほど近い甘楽町は織田家ゆかりの城下町です。
鎌倉時代からこの地を治めた小幡氏は、南北朝時代には上杉氏の重鎮として活躍しました。
秀吉の小田原攻めで北条氏が滅ぶと甘楽を家康に明け渡して信州にのがれました。
その後の小幡城にはいったのが、信長の次男、信雄でした。城は当時、陣屋と呼ばれていました。

信雄は、本能寺で信長と長男信忠が討たれるも山崎合戦には参戦しませんでした。このため、信長のあとに秀吉がかついだ信忠の嫡男・三坊師の後見人にとどまります。
賤ケ岳の合戦で三男信孝が柴田側に付いたのに対し、信雄は秀吉側につきます。
その後も小田原攻め、関ヶ原、大阪の陣など戦のたびに、家康についたり西軍についたり、はたまた東軍についたりと、のらりくらり。結局、大和宇陀郡と上野甘楽郡の、合わせて5万石の領主となり、4男信良に甘楽を譲って宇陀に隠居、1630年に73歳で没しています。あまり知られていませんが、長女の小姫(おとめ)は幼少の秀忠の正室でした。死別だったかどうかは定かではなく、成人した秀忠の正室はご存知、豪姫です。
のらりくらりは日和見のせいか、言われるように無能だったのか。織田氏が明治になるまで生きのびたのは無能ではなく、失敗から先を見る智恵があったのかもしれません。

その小幡藩は信良が藩主となって、7代にわたり甘楽を治めましたが、内紛(明和事件)で改易にあい、織田氏が出羽高畠に移封した後には松平氏が入りました。そのころは陣屋は城になっていたということです。

富岡と甘楽を流れる雄川から取水した水路が、小幡城下に全長20キロにわたってめぐらされていました。雄川堰は、日本の名水百選にも選ばれています。
用水は藩政時代以前にすでに「古雄川堰」が存在していたと推考されています。現存する用水は1865年(慶応元年)、7か月と250人の労力で造られ、当時の高い土木技術をしめしています。
豊かな水は感慨用水や生活用水、防火用水に利用され、両脇の208戸の家に洗い場がもうけられていました。
水を生かしたまちづくりは今に続き、各戸につながる洗い場では生活用具だけでなく、養蚕器具の洗浄にも使われました。現在でも日常的な農作物の食材洗い場として利用されています。

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名水100選にも選ばれた雄川堰 幅2mもある
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雄川堰に沿って裕福な養蚕農家群の街並みが続く

養蚕最盛期を象徴する建物が歴史民族資料館です。
煉瓦造りの、元繭倉庫として使われた建物は、町の重要文化財になっています。
富岡製糸場の煉瓦は甘楽町で焼かれました。
資料館の2階に円空仏が3体ありました。

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かっては繭倉庫でもあった歴史民俗資料館

1Fには富岡製糸場絵馬や養蚕に使われていた道具類が展示されています。
2Fには織田家ゆかりの品々。小幡家の赤備具足の展示をみることができます。赤備といえば武勇のぢ名詞、彦根の井伊家、信州の真田家が有名ですが、北条氏が小幡家の武勇を認めていたことがうかがえました。

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小幡氏の赤備具足
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3体の円空仏

小幡の陣屋に入城した織田氏が造った庭園が「楽山園」です。
戦国時代から平和な時代に移る過渡期の大名庭園と思われます。雄川堰の水を引いて造られました。池泉回遊様式は京都の桂離宮と同じ特色だといわれています。
中央に広い池を堀り、48の大石を配して、築山に四阿を建て、周辺の山々の借景をとりいれて庭園美を盛り上げる造り方は当時の大名の趣向をよく表しています。

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楽山園
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築山の四阿

織田家は武勇の家柄だとばかり思われていますが、有楽斎に代表されるように、実は、茶の湯に通じた文化人の側面があることを思い出さなくてはなりません。
楽山園の名は「論語」の「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」からとったといわれています。複数の茶屋があることからも「織田氏と茶事」の関係がうかがえます。信良は大叔父の有楽斎に師事していました。

楽山園は明治以降、畑同然になっていたのを近年復元し、園内には拾九間長屋も復元されています。
近辺には今も人の住む武家屋敷が連なります。城下で上級武士と下級武士が出逢ったとき、顔をあわさなくてすむように作られた「食い違い廓」も残されていました。

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復元された拾九軒長屋
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大名屋敷の石垣

元和元年(1615年)から織田氏の所領となって以来152年、初代信雄から七代信富に至る7代の墓が崇福寺の旧境内にあります。風化を防ぐため墓石はそれぞれ屋根のある囲いに納まっていますが、かっては7基の五輪の塔が並ぶ姿が見られたそうです。
4代目信久の時に織田家の菩提寺になりました。

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遠景に7代の墓石が並ぶ
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信良の五輪の塔が中にある

織田家の最初の菩提寺は菩提寺です。
有楽斎に茶道を習った信良が寄進した茶釜を見せてもらいました。
200本の桜、1500株のアジサイ、300本の紅葉を有して、東国花の寺とよばれています。
鎌倉時代に天台宗の寺として創建され、室町時代からは曹洞宗になりました。建物は230年前のものです。

宝積寺.jpg
花の寺・宝積寺
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親良寄進(?)の茶釜

旅の最後は雄川堰取水口です。豊かな水量は今も絶えることがないようでした。

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雄川堰取水口





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