SSブログ

雑記帳2021-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-3-1
◆今年は近場で雛祭り。

立川には市指定文化財の古民家があります。川越道に接する緑地にある古民家園には、江戸時代に組頭を務めた小林家の住宅と須崎家の内蔵が移築復元されています。
麦刈や脱穀など昔の農作業の体験学習や、毎月のお茶会などの市民参加の年中行事も、コロナの昨年からはすべてとりやめになっていましたが、令和3年の今年は桃の節句が公開されました。

古民家6.jpg
ナカノマに飾られていた八段飾り(上部は神棚)
古民家2.jpg
オカッテに飾られていた内裏雛

小林家は江戸時代、砂川九番組の組頭を務めていました。住宅の母屋は、六間型(むつまがた)と呼ばれ、台所をのぞいて6部屋(ザシキ・ナカノマ・トバノオク・ナンド゙・オカッテ)で構成されています。母屋北西の「オク」と呼ばれる座敷は、床の間・違い棚・付書院が配置され、当時の武家屋敷に匹敵するほどの高い格式をもっていました。

古民家オク のコピー.jpg

建築されたのは嘉永5年(1849)とのことですが、この年は徳川幕府12代将軍徳川家慶の時代で、ペリーが浦和に来航する1年前にあたります。江戸後期の優れた建築技術と材料が使われています。
平屋に見える住宅は実は3階建てで、2階はここで働いていた男衆と女衆の部屋、3回は物置で、江戸末期の富裕な上層農家の生活様式を今に伝えています。

古民家小林家 のコピー.jpg

砂川八番組の組頭を務めた須崎家の内蔵は、江戸時代末期から明治時代初期頃に建てられた、数少ない木造3階建ての土蔵です。須崎家はかっては質屋を営み、蔵は質蔵として利用されていたものです。
この時代、砂川村は、養蚕業、とりわけ桑苗の特産地として栄えました。以前にも雑記帳で紹介しましたが、砂川の桑苗は全国の養蚕農家から取引されていた時期もありました。蔵はその時代の盛んな商業活動を象徴する建物です。もとは内蔵でしたが、移築復元の際に、外蔵になりました。

古民家内蔵2 のコピー.jpg
竹林の向うに見える蔵

古民家園に収納されているもう一つは砂川十番組の大幟(のぼり)です。
幟は神社の祭礼時に参道や氏子区域にたてられました。今から170年前に制作された幟は長さ14.6メートル、幅2.2m。近隣のものに比べて大変大きなものだったようです。今なら機械の力を借りなければたてられないほどの大きな棹と幟を、どうやって作り、たてたのか、昔の人の智恵と心意気をおしはかるだけですが、当時の地域共同体の社会経済活動を知る貴重な資料です。
現在、立てた幟はめったに見ることはできませんが、昭和記念公園のこもれびの里では砂川5番組の幟のレプリカを毎年春と秋に1種間ずつ掲揚しているそうです。

古民家幟 のコピー.jpg
幟が収納されている

◆歴史民俗資料館でも雛祭り。
この時期、古民家園の本館にあたる歴史民族資料館でもロビーで市民から寄付された雛飾りを公開しています。
こちらも大正時代以降のもの。御殿びなは昭和30年代に流行したそうです。

歴民1 のコピー.jpg
立川市歴史民俗資料館
歴民2 のコピー.jpg
御殿びな
歴民3 のコピー.jpg

2月の市の広報で羽衣町の向郷(むかいごう)遺跡が紹介されました。
JR南武線西国立駅周辺に広がる26,000㎡もの大遺跡で、多摩川に面する段丘の上にありました。南には湧水を集めた矢川が流れており、日当たりの良い段丘は古代人にとっても快適な住宅地だったようです。
歴史民族資料館では小規模ながら、遺跡の出土品を常設展示しています。市内には他にも二十か所に及ぶ古代・縄文時代や奈良平安時代の遺跡のあることがわかりました。

歴民13.jpg

向郷遺跡の墓穴からは縄文土器や石器の他に、コハク製の垂飾りが出土しています。コハクは千葉県の銚子や岩手県の久慈が主な産出地でしたから、縄文時代の人々の往来を思い起こさせて興味をひきます。
そのほか、縄文の住居跡だけでなく、奈良・平安時代の住居跡もみつかった遺跡もある一方、下大和田遺跡の掘建柱建物は小古代の役所跡と推測されています。

◆日野宿本陣の雛祭り。
古民家と歴史民俗資料館をまわって、隣の日野市まで足を延ばしました。日野宿本陣でも恒例の雛が飾られているのです。

日野本陣13 のコピー.jpg

床の間に飾られているのは、日野市の旧家、有山家の古今雛です。明治時代のものだということです。カラフルな装束をまとい、歌舞伎役者のような顔立ちの、江戸生まれの古今雛は、上方の雛より人気があり、今のお雛さまの原型になりました。
雛段の前には雛祭りのルーツである流し雛が再現されていました。                    
会場には手作りのつるし雛も随所に飾られています。大根は毒消し、兎は神様のつかい、柿は長寿、ヒョウタンは無病息災など、つるし飾りもそれぞれ意味があるそうですが、建物全体を使っての雛飾りはなかなか見ごたえのあるものでした。

日野6 のコピー.jpg
明治の古今雛
日野5 のコピー.jpg
米粒で流しびなを再現
日野本陣8 のコピー.jpg
各地の土雛もそろっています

日野宿は江戸時代、規模の大きい宿場ではなかったものの、多摩川の渡し場を管理する、甲州街道の重要拠点でした。そのため、幕府の支配は緩やかで、2人の名主と配下の組頭による農民自治の伝統が長くつづきました。本陣には江戸末期、名主の佐藤彦五郎の開いた佐藤道場があり、新選組の隊士たちが稽古に励んだ事は広く知られています。

彦五郎の日記によると、既に京都で活動していた土方俊三や近藤勇がこの建物を訪れたことが記録されています。京都から所用で江戸へ戻る土方は何度か日野宿に足を運んで義兄と語り合いました。鳥羽伏見で敗れて江戸にもどった近藤勇や土方俊三が、甲陽鎮部隊として甲州へ向かう途中でこの本陣で休憩したという建物を見ようと、訪れる新選組ファンの若者は多いようです。

現存する本陣は、嘉永2年の火災で焼失した後に再建されたもので、築150年余。都内に残る、唯一の木造本陣として、市指定の有形文化財になっています。
有山家は先の日野宿の名主佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先です。明治36年の大火で焼失したため、本陣の母屋の一部が有山家に曳屋されて、今に至っているということです。

日野宿本陣5 のコピー.jpg


◆2月21日、関千枝子さんが亡くなりました。
『核なき世界をめざして』に連載中だった関千枝子さんが亡くなりました。広島で被爆し亡くなった女学校の同級生を訪ねて書き残すことが自分の使命だと、生涯、核のない世界を呼びかけました。『知の木々舎』には、『県立広島第二高女二年西組』以来、絶えることなく原稿を届けてくださいました。同じ被爆者だった作家、中山士朗さんとの往復書簡はまとまると本になり、西田書店から出版されました。その落穂ひろいのような『はるかなる呼び声』が2月15日号で最後になりました。『知の木々舎』にとっても、創刊以来大切にしてきたこのコーナーを守りたいと思っているのですが・・・。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。