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雑記帳2021-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-10-15
◆奇想の画家「伊藤若冲」の絵画とゆかりの地を訪ねました。

この夏、皇室私有の財産だった美術品のいくつかが国宝になったことがニュースになりました。その中に、狩野永徳の『唐獅子図』や小野道風の書に混じって、伊藤若冲の『動物彩絵』がありました。
コロナ第5波の緊急運事態宣言が解除された10月はじめ、京都に伊藤若冲ゆかりの寺を訪ねました。

最初に訪れたのは大津市膳所(ぜぜ)にある義仲寺(ぎちゅうじ)です。
その名の通り、平家討伐の兵を挙げて都に入ったものの、頼朝軍におわれて粟津の地で壮絶な最期を遂げた木曽義仲を葬った寺です。
江戸時代までは小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉がたびたび訪れ、後に芭蕉が大阪で亡くなったときは、遺言によってここに墓が立てられました。
境内には芭蕉の辞世の句である「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句碑のほか、本堂の朝日堂、翁堂、無名庵、文庫等が立ち、境内全域が国の史跡に指定されています。
そして、この寺の翁堂に、若冲の15枚の天井絵があるのです。

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     旧東海道に面する義仲寺 昔は門の辺りまで琵琶湖だった
      室町時代の創建、現在は住職も檀家も無い寺だが、市が大切に守っている。

翁堂には壁一面に芭蕉の多くの弟子たちの肖像がかざられています。
ここに、もともとは京都伏見の石峰寺のために若冲が描いた130枚の内の15枚の天井絵がありました。現在、堂にあるのはレプリカ、実物は大津氏の歴史博物館に所蔵されています。残りは京都信行寺にあるということですが、公開されていません。

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翁堂の天井絵

若冲最晩年の作と言われる天井絵がなぜここにあるのか、長い間、明治の廃仏棄釈の結果だと思われていました。それが、最近の研究によって、若冲の母の実家が滋賀にあったことから、江戸末期の安政期に大津の商人が買って、寺に寄進したことが分かりました。
古美術の世界では、これはワクワクするような大発見なのだそうです。
また、若冲の絵が1.2cmの方眼紙の上に描かれているのは、親戚に友禅織を営む家があり、小さいころから親しんでいたことと無関係ではないだろうという話を聞きました。
もちろん若冲自身が方眼をひいたわけではない、工房には大勢の弟子たちがいたはずだから。

若冲は、絵を生活の糧にする画家ではありませんでした。
絵の具や紙、絹布など、当時の最高の画材を全て自分のお金で購入し、全て無償で寺に寄贈しています。こんな事ができた絵描きはいない、世界を見渡しても宋の徽宗皇帝がいるのみだということです。

京都の青物問屋桝屋の長男として生まれた若冲は、40歳で弟に家督を譲り、絵に専念することになります。当時、青物問屋というのは株をもち、相当の財力を誇っていたようです。家業が裕福な商人であったことで、コストを考えることなく好きな絵を描くことができた、幸せな人だったと言えるでしょう。

京都御所の近く、同志社大学の隣に建つ相国寺(しょうこくじ)には若冲の「釈迦三尊像」があります。絵の描かれた絹は一枚絹です。当時、国内にはこれだけの幅のある絹織物は作られていませんでした。当然、2枚か3枚の布を継ぎ合わせなければなりません。それでは描きにくいということで、若冲は身銭を切って中国から取り寄せたのでした。
若冲と住職。大典善治との親交は深く、相国寺には「釈迦三尊像」」と同時に24幅の「動植綵絵」も寄進しています。

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狩野永徳の天井衛がある相国寺法殿、建物自体も国の重要文化財
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動植彩絵の1枚(全部で30幅ある)
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釈迦三尊像の1枚 絹も絵の具も最高のものを使った

金閣寺、銀閣寺を山外塔頭に持つほどの相国寺も、実は明治時代、廃仏毀釈によって寺の存続がおびやかされるほどに困窮しました。それを救ったのが「動植綵絵」でした。
この絵を皇室が1万円で買い上げてくれたことで、相国寺は生き延びることができたということです。その「動植綵絵」がこの度、皇室の手を離れて国宝になったというのも面白いで巡り合わせのような気がします。
金閣寺にも若冲の50面の障壁画が残されています。

◆閑話休題
この日の宿は、今京都で一番新しいと言われるJR西日本直営の「梅小路ポテル」でした。インバウンドめあてに、ホテルながら日本の旅館の気分も味わえるように、ホテル本体の外に居酒屋や町の風呂屋を併設、セパレートの部屋義で移動可能という、カジュアルな創りでした。夕食もフレンチではなく、イタリアンです。

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ホテルの横に路地を作って左右に居酒屋やまちのお風呂屋さん
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各部屋のベランダからは、早朝の公園を散歩する京都人のくらしがかいま見える
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夕食の前菜 季節魚(今日はタイ)のカルパッチョ
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メイン(子牛の炭焼きボルチーニ茸ソース)
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朝食はバイキング。つけものをはじめ京野菜がたっぷり。

◆2日目は伊藤家の菩提寺、宝蔵寺へ。
伊藤家の菩提寺ではありますが、若冲本人の墓はありません。江戸時代、厳しい檀家制度のもとでは、途中で家督を譲って隠居したり、改宗したりした若冲は、菩提寺に墓を立てることが許されなかったのです。とはいえ、弟の白斎は若冲の絵の弟子として若冲派に名を連ねており、兄弟の仲は決して悪くはありませんでした。

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宝蔵寺
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伊藤家の墓 ここに若冲の墓はない

ここには拓本画の「即路図」と「竹に雄鶏図」が残されています。
「竹に雄鶏図」は若冲初期の作品。長い間本人の作品とは見なされていませんでした。
「若冲の絵は眼光を見よ」という言葉があるそうです。普通、鳥を正面から描くことはないが、この絵の雄鶏は正面を向いています。そのため、若冲の他の作品に比べて一見元気が無いようにみえました。しかし、正面を向いた鶏の眼には力があると、2016年の没後200年の「若冲展」で本物と判明しました。当時のどの画壇にも属さずに、型にとらわれず、自由奔放に描いた若冲の面目躍如ではありませんか。

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眼光鋭い雄鳥の図

若冲は江戸時代を通じて人気の画家でした。それが明治以降、専門家以外には殆ど人眼に触れることなく忘れられていました。2000年、京都国立博物館で生誕300年の若冲展が開かれたことが今の若冲ブームにつながりました。
今回の旅の講師、狩野博之さんは、大学の教員だった40年ほど前に請われて学芸員として国博に赴任し、若冲を世に出してブームに火をつけた仕掛け人です。一人のスターを生み出したことは何ものにも代えがたい勲章だと感慨深げでした。

嵐山ではちょうど、福田美術館と嵯峨嵐山文華館が共同で「京(みやこ)のファンタジスタ~若冲と同時代の画家たち」を開催中です。いずれの美術館も渡月橋に近く、桂川を望む景勝の地にあります。

福田美術館は金融会社アイフルの社長が作った美術館。相当数の若冲を所蔵しているようでした。
若冲と同じ年に生まれた与謝蕪村、同時代を生きた円山応挙や池大雅の作品が展示されています。
嵐山文華館では若冲・応挙・芦雪・呉春など、18世紀から19世紀にかけて活躍した画家たちの絵と共に、宝蔵寺所蔵の先出の「竹に雄鶏図」や若冲派の絵が貸し出されていました。

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福田美術館
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嵐山文華館
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若冲の屏風絵の展示も

若冲の晩年、中国の僧、隠元が京都の宇治に黄檗宗万福寺を開きました。
衰退しかかっていた禅の復興のために、幕府の認可を受けての事でした。新しい風は江戸でも流行しました。徳川が終わると同時に衰退するのですが、若冲は黄檗宗の粋に魅かれて得度、伏見にある海宝寺、石峰寺で晩年を過ごしました。

隠元と共に来日したのが普茶料理です。
もともとは法事の後に皆で食べる、中国の会席料理でした。普茶料理はダイニングテーブルで大皿からとりわけながら食事をする文化をもたらしました。
お昼に海宝寺の「若冲筆投げの間」で普茶料理をいただきました。
海宝寺には若冲の襖絵があったことで知られています。

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海宝寺
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      コロナのため、大皿から取り分けるスタイルではなく、

石峰寺は黄檗宗の禅道場として建立された寺です。寛政年間、若冲は石峰寺の門前に庵をむすび、五百羅漢を作成しました。当時は千体あったといわれますが、現在は四百数十体が裏山に残されています。明治の廃仏毀釈にあい、無住になったために、盗まれた羅漢は数知れません。現在は再興されています。
義仲寺で見た天井絵は石峰寺の薬師堂にあったものです。

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石峰寺の山門 黄檗宗独特の門の形をしている
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石峰寺の裏山をおおいつくすように五百羅漢が

伏見といえば、当時も今も京都では片田舎。明暦の大火で家を失った若冲は相国寺を離れて、石峰寺門前の庵で妹と二人で晩年を過ごし、この地で亡くなりました。享年85歳。石峰寺の墓地には、生涯描き続けた若冲を象徴するように筆の形をした墓石が並んで立っています。

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石峰寺の若冲の墓


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