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雑記帳2021-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-5-1
◆江戸城外堀歩きは4回目。漸く古地図が読めるようになりました。今回はJR四谷駅から水道橋駅までを歩きます。

前回、JR中央線の四ツ谷駅の麹町口で四谷門の石垣を見たところからの出発です。
四谷門は江戸城外堀の門のなかでも大きい門でした。現在の新四谷見附橋の場所に橋がかかっており、その東粟にありました。今も城門の一部が残っています。

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四ツ谷駅
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四谷見附橋からJR中央線を見下ろす

江戸時代、五街道の一つ、甲州街道は江戸から甲府を経て下諏訪まで続いていました。四谷門をう回して道は直線ではなかったのですが、大正2年(1913)に四谷門跡の道の敷き直しが行われ、それまでの屈折した道から一直線になったのでした。
甲州街道の敷き直しにともなって、四谷見附橋が外堀に架けられました。

橋をわたった四谷駅の北側の外堀は埋め立てられて鉄道用地と外堀公園になっています。
外濠公園は、江戸城外濠の土手や濠の跡を利用して作られており、堀に沿ってJR中央線四谷駅北側から飯田橋駅付近までの約2kmにわたって細長く続いています。

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外堀公園入口

公園入口に立って道路向かい側に一番に目にはいるのが、ひときわ高いCOMORE YOTSUYAです。
約2.4ヘクタールの土地にオフィスやマンション、商業、教育などのはいる複合施設です。災害時には帰宅困難者の一時滞在場所や地域住民の一時集合場所にもなります。名前は「木漏れ日」と「common 」をかけた造語だそうです。元四谷第三小学校跡に建ち、工事中に江戸時代の町や糀室が出土しましたが、埋め戻されています。

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COMORE YOTSUYA

入口を入ってほどなく土木学会の建物が見えてきました。
土木事業の発展と技術者の育成目的とする土木学会は、全国の橋梁の状態を定期的に調査し、必要があれば整備の要請もするという所です。その土木学会の本部がこの外堀公園にあるというのも縁を感じますね。

外堀は四谷門のあった場所が最高地点で、そこから南北に水が流れ下っていました。従って、外堀沿いの道も下り坂になっています。現在メグミルクの本社がある所に旗本高力家の屋敷があったことから高力坂と呼ばれていました。長い、緩やかな坂です。

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高力坂

まもなくJR市ヶ谷駅。駅は市ヶ谷門の跡地にたっているのです。地下鉄南北線市ヶ谷駅構内には江戸歴史散歩コーナーがあり、南北線建設工事の時に発掘された江戸城の石垣が復元、展示されています。

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堀のむこうに見えるのがJR市ヶ谷駅

亀岡八幡宮は全国に数多くありますが、市ヶ谷の亀岡八幡宮は太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請して建てたと伝えられています。令和の今も地域住民の信仰を集めているほか、新宿区に残る江戸時代唯一の銅の鳥居や狛犬、境内の力石、几号水準点(水鉢台座)など、見るものはたくさんあります。(ちなみに都内には37か所の几号水準点が現存しています。)周辺は尾張徳川家の屋敷跡、辿っていけば佐内坂です。

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亀岡八幡宮

外堀側から見れば、この辺りから東に向かって神楽坂まで、台地がせり出しているのがよくわかります。それに伴って幾筋もの坂が見えます。いわく、左内坂、浄瑠璃坂、逢坂、庚嶺坂(ゆれいざか)、神楽坂の中にも坂は何本もあります。そして、それぞれに係わった人や事件が伝わっているのです。
奈良時代の武蔵守と少女の悲恋が伝わる逢坂。近くには平将門伝説の残る築土神社。中国の梅の名所に因んだ庚嶺坂。浄瑠璃坂の仇討は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入る30年前のことでした。この事件では仇討に成功した主人公を召しかかえた藩主がいましたが、忠臣蔵ではそうはいきませんでした。
庚嶺坂の上にある若宮八幡宮は、この神社の御神楽の音が坂まで聞こえたからだという、神楽坂の由来にもなっています。

神楽坂はかって花街として栄えました。今もお洒落な店や飲食店が立ち並び、若者でにぎわっています。
坂の上にある善国寺は商売や技芸の神様、毘沙門天として知られ、江戸時代から参拝客がたえません。毘沙門天は寅年のとらの刻生まれということから門前にいるのは狛犬ならぬ狛虎です。

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善国寺の狛虎(!)
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神楽坂に4軒残る料亭のひとつ「うを徳」

お昼は路地の「鳥茶屋」で親子御膳を。江戸風のしっかりした味付けは、関西風とは言っているものの、これはくだらない味かなあと思いました。

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鳥茶屋の親子御前

「くだらない」は決して差別用語ではありません。江戸時代、上方から荷揚げされる品々は下り物と呼ばれ、対する江戸産の品々はくだらない物でした。初期にはくだらない物はその名の通り、品質は劣っていましたが、江戸の人口がふえるにつれて made in Edoも腕を磨き、下らない物は次第に上方の下り物を凌駕していくことになったのです。

JR中央線の飯田橋駅は長かった改修工事を終え、すっかり明るくなっていました。
ここには牛込門がありました。牛込の名はかって牛の牧場があったことに由来しています。台地の名前も牛込台地。明治27年に御門跡に牛込駅ができ、関東大震災後に飯田橋駅になったのです。
駅に隣接する飯田橋セントラルプラザ(通称ラムラ)の1階には、千代田区と新宿区の境をしめすプレートが床に埋めこまれています。
そして、現在のJR中央線と総武線は外堀の土塁の上に敷かれているのです。

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ラムラのステンドグラスは今の若者には珍しいとあって人気らしい。
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新宿区と中央区の区境のプレート

水戸徳川家の上屋敷は外堀の北側にありました。明治時代にはそのほとんどが陸軍の兵器工場である東京砲兵工廠になりました。関東大震災で砲兵工廠は小倉に移転、その跡地は現在、東京ドームやホテルになっています。

その上屋敷の庭園が今の小石川後楽園です。東京ドームに隣接する、東京で最も歴史のある都立庭園です。上屋敷が兵器工場になるにあたり、工場建設に係わったフランス人ジョルジュ・ド・ボーンが時の宰相、山形有朋に保存を強く訴えたことにより、現在まで庭園が残ることになったのでした。この小石川後楽園の塀の石垣には江戸城外堀の石垣の石が使われています。

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小石川後楽園の塀には外堀の石が使われている。

水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させました。名前の由来は中国の「岳陽楼記」の「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられたといわれています。光圀の中国趣味は随所に現われています。コロナ禍で残念ながら休園していましたが、隣接する遊歩道を歩いて庭園を偲びました。

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小石川後楽園横の緑道公園

水戸徳川家の門の正面には小石川門がありました。そのあと地に架けられている鉄橋は1904年製のドイツ、ハーコート社のものです。
明治時代、鉄道建設が始まった日本では、土木技術を諸外国にたよっており、ハーコートは甲武鉄道にも採用されました。会社はなくなりましたが、技術は100年以上たった今でも現役です。旧甲武鉄道の昌平橋や万世橋に同じものがあるということです。
土木技術を頼られた当時のお雇い外国人技術者たちは、競って自国の技術を導入しました。面白いところでは私の郷里、愛媛県の別子銅山(今、マイイトピア別子)にもハーコート社の鉄橋が残っています。

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水道橋駅近くのハーコート社聖の鉄橋

この地点で、日本橋川と神田川が合流しています。先日の日本橋川クルーズでは川面から合流点を見ましたが、今度は橋の上から眺めることができました。橋の名前は三崎橋。おなじみのゴミ運搬船も橋の上から撮ったほうがきれいに撮れました。

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ゴミ運搬船と曳舟

ここまでくれば終点の水道橋駅はすぐそばです。
駅は明治37年に甲武鉄道がお茶の水まで延長したときに、江戸城外堀の土塁の上にできました。

今回の旅の終わりは水道橋駅そばの三崎稲荷神社。
2代将軍秀忠の時代、神田川の改修・整備を命じられたのは伊達藩でしたが、そのおり、藩主伊達綱村は工事の無事を三崎神社に祈願しました。無事完成したのちに綱村は新たに土地を寄進し社殿を新築しました。その場所が外堀の土塁の上にあったことから、明治37年の水道橋駅建設あたり、現在の場所に移転したのでした。旅の安全を祈ったり、無事の帰還を報告するにぴったりではありませんか。

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三崎稲荷神社

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