SSブログ

雑記帳2021-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-1-15
◆豊泉喜一さんの「こもれび講話」を聞きました。

国営昭和記念公園の一角にあるこもれびの里は武蔵野の農の風景を保存しています。

長屋門のある大きな古民家を中心に、ボランテイアさんが伝統的な農作業をしながら、希望者は古民家での年中行事を体験することができます。そこでは月に一度、定期的にボランテイアを束ねる豊泉喜一さんによる「こもれび講話」が実施されていています。コロナ禍で年末から昭和記念公園も臨時休園になっていますが、休園になる直前、2020年最後の「こもれび講話」に運よく参加することができました。

こもれび講和 のコピー.jpg
こもれびの里小屋で講話をする豊泉喜一さん

今回参加したのは「立川深層」と題する立川の歴史第11回目。「所沢海道八店」でした。八店は「はちてん」、店の名前です。

立川には明治時代の立川の風景を描いた「立川村十二景」が市の有形文化財になっています。そのうちの一つが明治38年の様子を描いた「所沢街道八店」です。
場所はJR立川駅から直線で300m、立川通りと南北通りの分岐点。姿は変わっているものの、店は今もこの地に残っています。
画面中央に今をさかりと咲きほこっているのは、武蔵野の雑木林の中でまっ先に咲くといわれる「こぶし」の花で、こぶしは現在、市の花に指定されています。
ちなみに、駅から八店までの現在のメインストリートの街路樹はこぶしに代わり、欅です。

立川十二景1.jpg
立川市指定有形文化財 馬場吉蔵画「立川村十二景 所沢街道八店 明治三十八年時代」

絵が描かれたのは、明治22年(1889)に甲武鉄道(言中央線)が開通して17年後。駅からわずか300m離れたこの八店は、砂川、小平、所沢方面への分岐点でした。立川へ出入りする人や荷馬車の馬方の休憩場所であり、往来する人々の休憩場所としてにぎわいました。

IMG_0495.jpg
八店のあった現在の場所。右が高松通を抜けて所沢方面へ、左は砂川方面へむかう。(基地時代はフィンカム通りとよばれていた。)

絵の左下に白く描かれている流れは、玉川上水から引いた芋窪新田用水の分水です。分水は現在の立川駅の西地下道付近まで流れ、左折していました。この水を線路際にあったタンクにくみ上げて甲武鉄道の蒸気機関車に供給するために掘られた分水でした。一説によれば、この分水によって立川駅の北口が開設されたのだそうです。駅の南側には柴崎分水がありましたが、蒸気機関車の為に貴重な農業用水を分けるのを嫌がったのだと言われています。

大正11年(1922)には立川飛行場が誕生しました。
八店のあるこの分岐点西側に立川飛行場正門ができて、この付近は大変賑やかな場所になりました。飛行場出入りの関係者や軍人たちのための土産物屋、記念写真を撮る写真館や飛行場郵便局もできました。

戦後飛行場はアメリカ軍に接収され、極東地区の補給基地になり、この付近には米兵相手の横文字の店が立ち並び、景観は一変します。
昭和52年に全面変換されるまで、立川は基地の町として全国に名をはせましたが、返還後は跡地利用が進んで、業務地区としての整備が進みました。
おりしも日本はバブル崩壊前、基地跡の整備と共に駅前の再開発も進んでいました。

基地跡地で整備された地区は図書館や女性センター、ホテルや百貨店などさまざまな機関が林立し、立川のビジネス街になっています。恵比寿ガーデンプレイスと同じ頃にオープンしたこの街区はその名も「ファーレ立川」。FARETファーレはイタリア語の「FARE(創造する)」に立川のTをくわえて名づけられました。完成して20数年になりました。

平成3年、飛行場の正面だった場所に、市政50周年を記念して憩いの広場が作られました。公園には噴水が設置されましたが、周辺のビルに噴水のしぶきがかかるということで、あまり使われることなく廃止されました。噴水の後は埋めたてられて芝生になっています。その奥に、先に紹介した「立川村十二景」が陶板で展示されています。残念ながらそれに気付く人は少ないようですが・・・。

IMG_0520 のコピー.jpg
芝生になっても市章の五角形の形を残した公園
IMG_0517.jpg
立川十二景の陶板レリーフ
名称未設定 2 のコピー.jpg
陶板の一枚「多摩川雑炊渡船」
立川十二景4.jpg
「甲州街道多摩川渡し雪景」

この「ファーレ立川」のもうひとつの自慢は街角アートです。アートプランナーの北川フラム氏が選んだ世界36か国の著名なアーティストの作品が109点も展示されています。これもバブルのおかげでしょうか、今なら手の出ない作家たちの作品も少なくありません。
作品の見学ツアーにはボランテイアさんの解説に耳を傾ける子どもたちの姿が屡々見かけられます。

IMG_0521.jpg
高島屋の前に酋長が勢ぞろい
IMG_0523.jpg
これもアートです。

立川は飛行場があったために基地になり、発展が遅れていました。30年余り前に移り住んできた頃、「基地と競輪の町」のイメージは、お隣の「学園都市・国立」とは格段に差がありました。大手銀行の支店も八王子に行かなければならなかったくらいです。が、その後の様子を見ると、発展が遅れていたことが良かったのか悪かったのか、一概には言えないと、豊泉さんは言います。基地があったために細切れの開発を免れた手つかずの土地が残されていたのですから。

多摩都市モノレールの開設と合わせて(そのおかげで、今や立川は中央線では新宿に次いで2番目に乗降客の多い駅です!)、返還後の整備が順調に進んだことは時代の流れで幸運だったといえるでしょうか。

当時、政界を牛耳っていたのは金丸信さんでした。基地跡の一部を昭和記念公園にしたのは多分に金丸さんの功績だったといいます。立川にはその金丸信さんと親交のあった市議さん(故人)がいたのです。(何かと噂のあった人ですが。)昭和天皇記念館も立川に作られました。「政治家は私たち市民と違う目線で動く、2足す2を5にする力が政治にはあるのかなあ」と豊泉さんは感慨深げでした。

その豊泉さんは実は立川市議会の議長も務めた方ですが、自分の仕事は武蔵野の伝統的な農業を後世に伝えることだと、早々に引退したのでした。『知の木々舎』にも30回に渡って、『上農は草を見ずして草を取る~農に見る人生の極意』を連載しました。それを目にした大学生から論文に使いたいと問い合わせがあったのをおぼえています。勿論気持ちよく了承してくださいました。

豊泉さんが最後に紹介したのは、立川の文化人として知られた三田鶴吉さんの言葉です。「家廻り20種(の鳥)、路傍60種(の木や草花)」。
その気でいればたくさんのものが観察できる。 何気なく歩いていては何にも見えないし聞こえない。おぼろにではなくいつもそのつもりでいなさい。
それからもうひとつ、「道端の柿は旅人のもの、梢の柿は鳥たちのもの」も、三田さんから聞いたのだそうです。

◆ファーレのパブリックアートをいくつかご紹介しましょう。

コンセプトは「世界を映す街」「機能(ファンクション)を美術(フィクション)に」「驚きと発見の街」の三つです。広さ6haの街を森にに見立てて、森にいきづく妖精のように作品を置いたということです。

IMG_0499.jpg
タン・ダ・ウ(シンガポール) 「最後の買い物」(換気口)
素材はグラスファイバー。

名称未設定 1 のコピー.jpg
ニキ・ド・サンファル(フランス)  「会話」(ベンチ)
本当にベンチとして利用され、退色すると塗りなおしもしています。

IMG_0496.jpg
藤原吉志子(日本) 「ウサギとカメ」)(車止め)
  子どもがよじ登ったり大人が腰かけたりして、てっぺんピカピカがいいのだそうです。



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。