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雑記帳2021-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2021-6-15
◆深大寺は武蔵野台地の標高50mラインのオアシス。

東京の西郊、調布市に在る深大寺は日本三大だるま市の一つとして知られ、多くの人々の信仰を集めてきました。

開山は奈良時代の733(天平5)年,開祖は満功上人。東京では浅草の浅草寺に次ぐ古刹です。境内の深沙堂は、上人の両親が恋の成就を祈願した深沙大王が祀られており、深大寺の名の由来になったといわれています。開山時は法相宗、平安時代に天台宗に改宗しました。深沙大王は水の神様です。
慶応年間の火災で堂宇の大半を焼失しましたが、山門は唯一火災を免れています。

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山門
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深沙堂

天台宗となった深大寺には中興の祖、慈恵大師(良源)が祀られています。良源は命日が正月三日であることから、元三大師(がんざんだいし)とよばれて親しまれています。
元三大師はまた、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集めるようになりました。角大師とも言われ、境内には角のはえた元三大師の石像が見られます。人気を繁栄してか、火災のあと一番先に再建されたのは本堂ではなく、大師堂でした。毎年3月に大師堂で行われる「厄除け元三大師大祭」、通称「だるま市」には10万人以上の参拝客が集まるそうです。コロナ禍の今年、密を避けてだるま市は中止になりました。
釈迦堂には、国宝の、都下最古の白鳳仏がありますが、コロナ禍で見ることはできませんでした。

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大師堂
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大師堂のだるま

明治以降、多くの文人墨客がおとずれたようで、高浜虚子や中西悟道の胸像、石田波郷の句碑なども見受けられました。中西悟道は日本野鳥の会の創始者です。

深大寺は湧水の多い国分寺崖線の崖面に抱かれるように立地し、現在でも境内にいくつもの湧水源を持っています。湧水を利用した「不動の滝」は「東京の名湧水57選」にも選定されているのです。 門前の側溝にも豊かな水量の水が流れています。湧水は大切に管理されて、カワニナを放つなどホタルの育つ環境がつくられていました。

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不動の滝は2つあり、もう一つのほうが東京の名湧水57選に選ばれている。
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湧水の流れの一つ

武蔵野台地は日本最大級の洪積台地です。
多摩川が造り出した扇状地上に、火山灰の関東ローム層がつもり、各所で湧き出す地下水はほぼ標高50mで連なっています。なかでも、井の頭池、前夫生地池、三宝字池は武蔵野三大湧水地として知られています。深大寺の湧水もこのラインにそっているのです。旧石器時代や縄文時代、武蔵野台地で人々が住んでいたところは、水が得やすく食べ物に困らない、池や川に近い日当たりのいい高台でした。
崖線から湧き出す豊富な水に、やがて、人びとは素朴な信仰を抱いたのではないでしょうか。深大寺によれば、水源地であるがゆえに霊場でもあったこの地が仏教の伝来以降あらためて注目され、“水神「深沙大王」”ゆかりの深大寺建立に至ったのではないかということです。

「深大寺そば」が名物として発達したのも水の恵みと無関係ではありません。蕎麦の栽培、そば打ち、釜茹で、晒しに湧水が利用されただけでなく、水車を利用してのそばの製粉も行われました。そば観音の像も在る深大寺には復元された水車がまわっています。

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復元された水車

寺を出て多門院坂をのぼると三鷹通りに面してたつのは青滑(あおい)神社です。
江戸名所図絵にも描かれている青滑神社は延喜式式内社に載る古社です、「あおなみさま」と呼ばれて地元の人々に親しまれてきました。此の地に青波をたてる大池があったことに由来しています。深大寺町の総社であり、神仏混合の江戸時代には、隣接する深大寺は青滑神社の別当寺でした。青滑神社は稲城や青梅にもあります。
御神木の大欅は樹齢600年を越え、調布市の天然記念物になっています。

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青渭神社
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青渭神社の大欅

三鷹通りを挟んで青滑神社の前に広がるのは東京都立農業高校神代農場です。
コロナのため、中に入ることはできませんが、谷戸地形と豊富な水を利用した広大な敷地内にはワサビ田もあるそうです。崖を下って行った農場裏にも湧水が流れ、地域の農地や水田を潤しています。

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都立農業高校神代農場正面

中央道の高架の下をくぐると深大寺自然広場、ここには調布市立野草園があります。4,000平方メートルの野草園には多摩地域に自生する野草を中心に、現在300種以上の野草が植えられているということです。咲いていたのはカンゾウでしょうか。

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野草園

農場や自然広場をぐるりとめぐって戻ってくると、深大寺小学校の下に広がっているのは水生植物園です。都立神代植物公園の分園として、昭和60年に開園しました。深大寺に隣接する神代植物公園は、都立で唯一の植物公園として広く知られ、特に薔薇の季節は大変な人気ですが、深大寺をはさんで後からできた水生植物園の方は訪れる人も少ない様子でした。6月の今は、ちょうどハナショウブの季節です。


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水生植物園の木道 右手の森の向うに深大寺城があった
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ナハショウブ

深大寺城跡はこの水生植物園の付属施設です。
深大寺城は、国分寺崖線と谷戸に囲まれた舌状台地に築かれた天然の要塞でした。築城時代は明らかではありませんが、戦国時代の1537(天文6)年、扇谷上杉氏が小田原の北条氏との決戦に備えて古い館を再興したものです。しかし北条氏は深大寺城を迂回して直接川越城を攻めたために、上杉氏は松山城に敗走しました。敗将の城は廃城にはなったものの、戦いが行われなかったことが幸いして、土塁と空堀をめぐらせた「ふるき廓」の貴重な遺構が残されることになったのです。2007年には国の史跡に指定されました。
ちなみに、廓(くるわ)とは城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称をいい、曲輪とも書きます。門や堀、櫓のほか、兵糧を備蓄する蔵も備え、戦時、それぞれの廓には守備を担当する兵たちが駐屯しました。

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城郭の柱のあともそのままに

深大寺に来て「深大寺そば」を食べない手はありません。コロナ下とはいえ、昼時ともなれば込み合います。弁天池のそばに立つ茶店でいただいた二八そばは、思いの外量もたっぷりで、満足、満足。
小学校前や深大寺城跡の一角にはそば畑があり、どれほどの収穫が期待できるかはおぼつかないものの、「深大寺そば」の伝統を伝えようとしていました。

深大寺そば のコピー.jpg
深大寺城そば畑 のコピー.jpg
深大寺城跡のそば畑

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