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雑記帳2021-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2021-10-1
◆府中に古代武蔵国の国府がおかれた理由は地形にあった!

かって国府のおかれた府中は政治だけでなく文化の中心地でもありました。中心となった理由の一つがその地形にあったというのです。
当時の多摩川は今より北を流れ、府中崖線の崖下からは豊富な水が湧き出していました。崖上の台地は誠司や文化の舞台としてふさわしい場所だったのでしょう。

大國魂神社はまさに府中崖線の上に達ち、神社に対面するように建つ国府跡は、眼下に多摩川を見下ろして、対岸の彼方に、多摩の横道と呼ばれた多摩丘陵を見晴るかす場所にありました。
京王線府中駅に降り立てば先ず目に入るのは「馬場大門のけやき並木」。ケヤキ並木としては国内唯一の国指定の天然記念物です。
起源は古く、1062年、源頼義・義家親子が東北遠征の祈願成就のお礼として1000本のケヤキの苗木を寄進したと伝えられています。 江戸時代にはここに馬場がたち、家康もケヤキを寄付しています。府中と馬の歴史は競馬場だけではなかったのです。
ケヤキ並木はまた、大國魂神社の参道になっています。

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馬場大門のケヤキ並木

鳥居をくぐり、拝殿に入る直前の隋身門の前を旧甲州街道が通っています。
旧甲州街道は東山道を経て京都まで繋がり、江戸時代は「京所道(きょうずみち)」とも呼ばれていました。門前の狛犬の台石には、江戸時代のこの地の宿場の名前(番場宿)や旅籠の名前(左右に箱屋、東屋)がきざまれています。

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石に番場宿、箱屋の名前が刻まれているのが見える。

大國魂神社は鎌倉海道を歩いたときにも登場しました。高天原に出雲の国を譲った大国主神を祭神として祀っています。大国主神は此の地の守り神として、人々に衣食住の道を教え、又医療法やまじないの術も授けました。境内には江戸名所図会にも載っている鶴石亀石や、水神社のさざれ石など、面白い石のほか、鼓楼は神仏集合の名残を残すものでした。

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拝殿(本殿はそのうしろにあり、通常は入れない)
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水神社のさざれ石

面白い社もいくつかあります。その一つ、宮之咩(め)神社は、安産の神様、天鈿女命(あめのうづめのみこと)をまつっています。絵馬の代わりにそこの空いた柄杓を奉納します。
もう一つは松尾神社。醸造の神様なので、小さい境内には多摩の酒屋さんの樽が積んでありました。

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                宮之咩神社に奉納された底の開いた柄杓
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松尾神社に奉納された東京の地酒の樽

大國魂神社に面して、武蔵国府跡国司館跡があります。古代武蔵国の国府に赴任した国司が居住した館です。府中崖線の段丘面が南に張り出した絶好の場所でした。
江戸時代には家康が鷹狩りをする際に宿泊・休憩した「府中御殿」が置かれていました。

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無左飛国校区府国司館跡

ここから坂を下っていく途中にある妙光院は、江戸時代には20を越える末寺を抱えていたと言われる古刹です。
周辺には地獄坂、天神坂と呼ばれる坂があり、いずれも由来ははっきりしないが、と石の案内板がたてられています。府中市内には他にもたくさんの坂があり、市は説明版や石段を整備しています。天神坂に隣接するのは日吉神社。大國魂神社の末者として古くから祀られていたようです。
府中市内には縦横に府中用水が流れていました。いま、多くは暗渠になっています。天神坂をくだりきっ平地に出ると、東京競馬場の前を走る道路に出ますが、この道路も用水の暗渠の上につくられています。

府中崖線の崖を背にして、妙顕神社、馬頭観音、馬霊塔が並んでたっていました。
馬霊塔は競走馬の供養の為に建てられた塔です。塔の両側には名馬の名前が刻まれた十数基の墓石がおかれています。脇の馬頭観音菩薩は、競馬の開催される期間中は各厩舎の紅白の幟が奉納されるそうです。

競馬場の中に入ることはできませんでしたが、場内には16世紀末に府中を開拓した井田是政の墓があるそうです。是政の名は西武多摩川線の終点、是政駅に残っています。

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場霊の塔

東京競馬場からみあげる坂の上は京王線東京競馬場正門前駅。駅から一直線に競馬場に下りてくる坂の名前は普門寺坂です。
説明版によると、この坂名は,坂の西側にある真言宗普門寺の寺名に由来しています。別名を「薬師の坂」といい、これは普門寺にまつられている薬師如来からついた名のようです。この薬師様は「目の薬師様」として有名です。奉納された絵馬が「め」なのも面白いですね。
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普門寺に奉納された「め」の絵馬

普門寺から京司道(旧甲州街道)をたどれば、大國魂神社の東側にある武蔵国府国衙(こくが)地区に出ます。
「国府」とは、奈良時代の始めごろから平安次代の中頃にかけて、全国60か所におかれた役所です。その国の政治はいうに及ばず、行政、文化、経済の中心地でした。武蔵国の国府は府中に置かれました。

武蔵国は、現在の東京都、埼玉県のほぼ全域と神奈川県の川崎市・横浜市の大部分を含む広大な地域で、21の郡を管轄する大国でした。
「国府」の中心の役所である「国庁」では、国司が政治や儀式をおこなっていました。国庁の周辺には行政事務を行う建物群があり、それが「国衙」でした。
今から30年ほど前に発掘された国衙跡からは、大型の掘立柱や礎石の跡、武蔵国内の郡の名前が刻まれた瓦や煉瓦が発見されました。
ちなみに、都から赴任してきた国司が最初にする仕事は、地域の祭神に参拝することでした。武蔵国には一の宮から六の宮までが広い地域に散在していました。全部回るのはめんどうというわけで、1か所に合祀してお参りしたのが大國魂神社です。大國魂神社を六所宮といい、総社と呼ぶのはそのためです。

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武蔵国国府国衙跡 掘立柱が建つ

旧甲州街道を西へ進んで、街道が旧相州街道(現在の府中街道)と交わる地点にたつのは高札場跡です。 日本橋をはじめ、江戸幕府が法度や禁止令の通達を掲示した高札場は宿場や交通の要衝にたてられました。庶民でも読むことが出来るように、簡易なひらがな交じりで書かれた文章は、寺子屋の教科書がわりにもなって、意外にも、庶民の教育に一役買ったようです。明治になって廃止されましたが、高札場跡は多摩地域には府中の他にもう1か所、東大和市蔵敷にもあるそうです。

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高札場跡(街道交差する地点で高札は斜めを向いている)

高札場から府中街道を南に下っていくと、崖線の崖際に善明寺という寺があります。崖下にはJR南武線が通っています。小さな寺ですが、よく手入れされた庭がきれいでした。寺に安置されている鉄造の阿弥陀如来座像は、国分寺の「刀鍛冶・藤原助近の手になる日本最大級の鉄仏で、国の重要文化財に指定されています。

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善明治 山門の間から手入れのゆき届いた庭が見える

明治43年(1910)、多摩川の砂利採取と運搬を目的に、国分寺と下河原館に鉄道が敷かれました。東京砂利鉄道です。競馬場への支線も開設されましたが、昭和48年(1973)、武蔵野線の開業によって廃止されました。跡地は自転車と歩行者専用の緑道になっています。

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砂利鉄道跡

再び旧奥州街道にもどって西に向かうと、以前にも紹介したことのある高安寺です。

平将門を打ち取った藤原秀郷の居館であったことから、境内には秀郷稲荷が鎮座しているほか、崖下には義経と弁慶が般若心境を書き写すために井戸の水で墨を摺ったという伝説にちなんだ古井戸が残っています。崖上の高台にあって眺望がいいことから鎌倉時代から室町時代にかけてたびたび合戦の本陣になりました。足利尊氏が寺を再興して、護国禅寺としたと伝わっています。
本堂や山門、鐘楼は東京都の歴史的建造物に指定されています。
高安寺からJR南武線分倍河原駅まではすぐです。

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高安寺山門
高安寺弁慶硯の井戸 のコピー.jpg
弁慶の硯の井

府中から調布まで続く府中崖線は、国分寺崖線ほど高低差がなく、歩きやすい散策路だと言えます。コロナで自宅待機が長かっただけに、なまった体にはほどよい3時間でした。



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